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第二章 ③ 崩れゆく世界
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気が付けば、人通りなんてほとんどない静寂に包まれていた。
少し離れたところでランニングをする規則的な足跡が突然止まって、ギクリと体を強張らせた私は泣き腫らした瞳でその先に立つ人影を見つめた。
さすがに夜の公園に女一人で不用心だったかと内心不安で顔を曇らせる。
だけど、そんな私に突然思わぬ声がかけられた。
「………先輩?陽愛、先輩??ですよね?」
「あっ………」
---あぁ、もう、本当に今日は厄日に違いない!
まさか、こんな情けない姿を会社の後輩に見られるなんて。
聞き覚えのあるその声の主は、会社の後輩である桐谷くんだった。後輩と言っても某有名大学のデザイン建築学科の大学院を卒業して、入社してまだ数年の桐谷くん。
彼は我が社きっての期待の新人と言われていて、学生限定のコンペでも最優秀賞を獲得したこともあるという逸材だ。対して私はそんな技術者たちの図面の作成を補助する一般職のアシスタントに過ぎない。先輩だなんて言われても名ばかりの補佐役なのである。
「陽愛先輩!?」
何事かと駆け寄る桐谷くんに、私は手にしたハンカチで懸命に涙を拭って取り繕うように情けない笑みを浮かべた。
「一体、何があったんですか?こんな夜中に、まさか誰かに………」
そう言って険しい顔で私を見つめて、鋭い目付きで辺りを見回す桐谷くん。
そんな彼に誤解を察した私は焦って懸命に首を振った。
だけど既に化粧は崩れに崩れていて、涙と鼻水で人前に晒せるはずもない酷い顔をしているに違いない。
(待って、だめ、これは絶対事件性を疑われている!)
思えば顔以外にも酷い様相を晒していた。
海晴の家で必死にエプロンを脱ぎ捨てたときにブラウスの第一ボタンは動揺により跳ばされているし、パンプスは片方折れていて、ストッキングは所々破れている。
そんなこんなで酷い自分の姿を桐谷くんの険しい視線によって改めて気付かされて私は情けなさと恥ずかしさで顔を歪めた。
---何だってこんなときに、知り合いになんか会っちゃうかな?
「ちちちち、違うの!誤解しないで!?」
おそらく強姦事件を疑っているのだろう。
まるで般若のように険しい顔で固まっている桐谷くんに私は懸命に首を振りながら迷いながらも観念して口を開く。
「あぁぁ、その、ね、………」
そう言って俯く私に、桐谷くんは、何かを察したようにしゃがみ込んで、私の手を握った。
「えっ、ちょっ……」
突然の出来事に私は掠れた声を絞り出す。
「………陽愛先輩?もし、今俺に言うのが辛いことだったら無理しないでください、でももしあれだったら、一緒に警察か病院に行きましょう。そしたら気の利いた女性の職員だっているだろうし、他に考えないといけないことだって…」
(いや、ちょっと待って、確かに言うのは辛い事だけど、そうじゃなくてね………)
怖い顔をしたまま返事を待つ、私に桐谷くんは苦渋の表情で声をかける。
「陽愛先輩………」
桐谷くんの顔が重々しく歪み、拳が震えるのが見える。
「あ、あのっ、心配、かけて、ごめんなさい…」
「止めてください、先輩、こんなときにまで俺になんか気を遣わなくたって……」
「いやっ、だから、その、ね………」
私は眉間に皺を寄せて心の中で唸り声をあげた。
(やだなぁ、この状況……)
「………違う、から、大丈夫…、です」
「でも、こんな時間にそんな恰好で……」
居たたまれなくなった私はようやく、伝わるかどうかのか細い声で真相を告げた。
「………振られちゃった、だけ、…で、す」
その瞬間、その場は凍りついたように固まった。
「え?………えぇぇ!?ええ!!!」
思った以上の桐谷くんの反応に、若干驚きながらも不甲斐なさが増した私は俯いたまま縮こまるしかなかった。
(そうだよね、こんなに心配かけて、原因が失恋なんて)
厄日というなら、桐谷くんの方がずっとそうだ。
プライベートな時間に、他人のこんな面倒な場面に遭遇してしまうなんて………
「もう、やだな、こんなところ、私ってば格好悪い……、だから、もう行ってくれて大丈夫だよ、ね?」
そう言って、私はこの場を取り繕うように微笑んで、このまま不運な桐谷君を解放しようとした。だけど、その言葉は、最後まで言い終わる前に掻き消された。
「………ないです」
ボソッとそう聞こえた低音の声に顔を上げた。
いつもは人好きのする逞しくて大きな体がそこにある。
だけど今は薄暗い何かを纏っているようで、私は眉を寄せた。
「へ?」
桐谷くんのいつになく深刻な視線が突き刺ささる。
それはまるで怒っているのではないかと勘違いしそうになるほど真っ直ぐな漆黒の瞳だった。
「カッコ悪いってなんですか?」
「……え?」
詰問されるようにそう言われ呆気に取られた。
「そんなことないです。陽愛先輩は、全然格好悪くなんかないです!」
「き、桐谷くん?」
今度はそう放たれた言葉の意味にただ戸惑う。
「さっきの俺の反応、もし不快な思いをさせてたらすみません、ただ、陽愛先輩を振る奴なんてこの世にいるのかとビックリしただけで………」
「………?」
「それに……」
「ん?」
「すごく……」
苦虫を噛み締めたような桐谷くんの言葉の続きを待つ。
(すごく、何………?)
「長かったんですよね………?」
そう言われた瞬間私は、うっと顔を歪めて固まった。
(痛い……、その言葉は今の私には凶器だよ、桐谷くん……)
「あぁ、う、うん、そだね………」
(ダメだ、辛い、また泣いちゃうよ?)
「そういうの、凄いと思うから……」
だけど、次の瞬間、静かにはっきりとそう紡がれた言葉に再び戸惑う。
「ふぇ?すごい?……私が???」
そんな私に桐谷くんははっきりと頷いた。
「はい、凄いです、オフィスで、女性達と話してましたよね、その人しか好きになった事ないって……」
「っ………」
(え、っていうか、何で君がそんなことを知ってるんだよ?………ちょっと待って恥ずかしい、それに凄いって何?どういうこと?キモイとかシツコイじゃなくて??)
否定されてしまえば、長年、海晴に対しての愛だと思っていた執着や束縛。
そんなものの多くがひどく我が儘で独りよがりなものに思えてくるから不思議だ。
「だって、好きになった初めから、最後まで、陽愛先輩はその人の事を裏切らずに、今でもそんなに泣くくらい、好きでいる事ができたんでしょう?」
「………そうだけど、でも?」
「仕事にもそんな一途な姿勢がいつも滲み出てて、俺すげえって、ずっと尊敬してました」
「ん?」
(仕事って??)
その時、大きな手がベンチに座ったままの私の両肩に置かれた。それと同時に冷えた肩に暖かさが広がった。桐谷くんの真剣な瞳が上から私を真っ直ぐに捕らえる。
「それって、誰にでもできる事じゃないと思います。陽愛先輩は誇っていい」
「………」
(ほこっ??……何これ、どういう状況?)
「そんな風に人を想える人はきっとまた、何度だって誰かを愛せると、少なくても俺はそう思います!好きの大往生だと俺は思います!!!」
(ちょっと待って、なんでそんな清々しい気持ちになってくるような笑顔で見つめてるの?)
「き、桐谷くん………?」
(ダメだよ、そんなに優しいこと言われちゃうと折角止まりそうだった涙がまた出てきちゃうから、ついでに鼻水も、でも、好きの大往生って、結局、死んでるじゃん私………)
「はい、どうぞ、陽愛先輩?いつも飲んでるやつ、偶々あってよかったです!」
そう言って差し出されたミルクティを手に取る。
「うっ、ありがとう…」
そうして案の定、その後、飲み物を差し出してくれた桐谷君の隣で私は、涙と鼻水を止めどなく流した。
「ご、ごめんね、なんか、汚くてみっともなくて……」
「だから、汚くもみっともなくもないですって!」
そう言って桐谷君は心底困ったように笑った。
さっきまで、一人になりたくて仕方がなかった。
そのくせ、一人でいるのが凄く心細かった。そのことに、今隣にいる桐谷くんが気付かせてくれたようだった。
喉に留まる重苦しい涙は、少しずつ私を浄化させてくれる涙に変わっていくようだった。
「ごめんね、ごめん、わたし、こんな時間に、すっごい迷惑をかけてるよね?」
そう言って詫びる私に桐谷くんは、私の隣にどっしり構えたまま首を横に振ってくれる。
「だ、か、ら、俺の事なんて気にしないでくださいって言ってるでしょう?それより、涙は我慢するより、ちゃんと流した方が次に進めるっていいますから、今、こうして泣けるときにはしっかり泣いてください」
「でも、もうこんな時間、桐谷くん、本当にもういいから………」
「ダメです!こんな時間にこんな場所で、泣いてる美人の先輩なんて絶対置いて帰れる訳ないでしょう!!職場の人間に知られたら俺が干されます!!」
「ふはっ……」
そんな冗談に私は涙を流しながら吹き出した。
「もう、なんだよ、それ!保身、保身だよね?第一、私、美人じゃないから対象外だよ!?」
「……何、言ってるんですか?陽愛先輩は美人っす!」
その言葉に私はさすがに嘘でしょと疑いの眉をひそめた。平均・普通・凡庸、それは私のトレードマークだ。
だけど、真剣な横顔は、そのまま次の言葉を紡いだ。
「…………そりゃ、確かにすっげえ美人ってのとは違うかもしれないけど、凄く綺麗な人っす、皆そう思ってる、だから」
その瞬間、ストンと桐谷君の言葉が府に落ちた。
「あっ、そうか、そうだよね、うん、ありがとうね、桐谷くん」
私はそう言って少しだけ微笑んだ。なんだか拍子抜けしたというか、申し訳なくなったというか、とにかく桐谷くんが必死に私を慰めようとしてくれているのが可笑しくて有り難くて、心が少しだけ暖かくなった気がした。
「あっ!?陽愛先輩、なんですか?その言い方!俺、今、本気で言ったのに全然信じてくれてないでしょう!?」
「はははっ、ありがとう!!桐谷くんの気持ちはちゃんと伝わってますよ!?」
「………いや、絶対伝わってないと思います」
そう言って泣きながら笑う私に桐谷くんは不満そうに頬を膨らませた。
ガッチリした長身に会社ではキチンとセットされている綺麗な黒い髪が今は額を覆っている。どこか中性的な海晴とは対照的な精悍な整った顔立ちの桐谷くん。
普段から、人当たりのいい彼は、仕事のセンスはもちろん、何事にもストイックで努力を怠らない。
最近では社会人としても非の打ち所がないほどの成長を見せているのに、時折こんな子供みたいな顔もするし、くだらない冗談で場を和ませてくれる事も多い。
裏表のない真っ直ぐな性格をしていて、どこか羨ましいなとも感じる。
「………まぁ、さすがに今日はそれでもいいっすけど」
少し拗ねたような諦めたような彼の横顔は、こんなに迷惑をかけているというのに不機嫌さなど微塵もなかった。
この日、私の絶望の涙を、さようならの涙に変えてくれたのは、その夜の桐谷くんのたった一つの言葉だったのかもしれない。
(好きの、大往生か……、ものは言い様だね)
いつか私も、過去の自分にそう報告ができる日が来るだろうか。
小学生の自分に、高校生の自分に、少し前の海晴を信じきっていた愚直な自分に……
その恋は、大往生を迎えるよって、いつか言える日がきたらいいなと思う。
だけど実際の問題として、まだまだこれから先の事なんて到底考えられる心境ではなかった。
そうなのだけれども、自分を責める事しか出来なかった私の恋が、間違ってはいなかったと、そう言ってくれる人がその日、傍にいてくれた。それが少なからず、その夜の私の救いになってくれたのかもしれない。
「もう、本当に大丈夫だから……」
「ダメです、色んな意味で心配だからおいてはいけません」
既にひとしきり泣いていた私は、彼の登場で静かに涙がひくのを待っていた。
どれほど、時が経過していたのだろうか。桐谷くんは静かに手を差し出した。
「送ります、陽愛先輩、さすがに夜風が冷たくなってきました、そんな薄着じゃ風邪をひいてしまいます」
「えつ、い、いいよ?悪いし……」
その言葉に戸惑って首を振る私に桐谷くんもまた譲らなかった。
「こんな夜中に泣き腫らした顔の女性を一人で返せません、今晩だけは頼りない俺を立てると思って言うことを聞いてください」
「で、でも………」
「俺の家、ここからそんなに遠くないんです、アパートの駐車場に車停めてあるんで、歩けそうならそこまで一緒に歩いてください、あっ、何ならおんぶでもいいですよ?」
その言葉に面食らった私は、必死に首を振った。
「おっ…!?い、いいよ、そんなの歩けるし……」
だけど、桐谷くんは、私の足元に座り込んで困ったように笑った。
「だけど、その靴じゃ、辛そうだと思って………」
「あっ………」
ヒールが折れて、留め具も壊れてたサンダルに私は絶句する。よくこんな姿でここまで来たものだと思う。そして、その一部分が肌に食い込んで、赤く靴擦れをおこしていた。
それを見た桐谷くんは背中を差し出して再び言った。
「さぁ、遠慮しないでください、言っときますけど、長いやりとりは余計に俺も恥ずかしいんで…」
「で、でも……」
「いいから、このままじゃ、明日になっちゃいますよ?」
呆れたような優しい笑顔でそう言われた私は、不甲斐なく俯いた。
桐谷くんは、職業柄頑固なところもあって、譲らないときは絶対譲らない事も知っている。
「い、いいのかな… 甘えちゃって…」
「いいですよ?問題があるとしたら俺の下心だけですから!」
少し意地の悪い笑みでドキッとすることを言って私をからかう桐谷くん。それにムッとした私は、屈んでくれている彼の背中を見下ろしながら言い返す。
「もう、その気もないのに先輩揶揄うような事言わない!!」
「ははっ、冗談です!さすがにここまで傷心の女性に漬け込む事はしませんから、安心してくださいよ」
そう言って笑う桐谷くん。
きっと、こうして彼なりに場を和ませてくれているのだろう。
「もう!!でも、じゃあ、ごめんね、お言葉に甘えて」
「はい、甘えてください!!喜んで!!」
そう言って私は桐谷くんの背中に身を預けた。
「…ふふっ、お寿司屋さんみたい、ほんと桐谷くんは誰にでも優しいよね?人たらしだ」
恥ずかしさを紛らわせる為にそんなふうに茶化してみるが、桐谷君は職場の人気者で、なんていうか、とても暖かい人だと思う。こうしていてもまるでクマの背中に乗せてもらっているみたいな安心感がある。
「ははっ、別に、誰にでもってことはないですよ?」
そう言って笑う桐谷くん。だけど、私が知る限り、誰にでも親切なのは間違いない。
職場でも桐谷くんの仕事をアシストしたがる同僚は多い。
(ほんとうに、迷惑かけちゃったな………)
そう思うのに、心と体が限界を超えたのか私はそのまま桐谷くんの背中で意識を手放してしまったのだ。
少し離れたところでランニングをする規則的な足跡が突然止まって、ギクリと体を強張らせた私は泣き腫らした瞳でその先に立つ人影を見つめた。
さすがに夜の公園に女一人で不用心だったかと内心不安で顔を曇らせる。
だけど、そんな私に突然思わぬ声がかけられた。
「………先輩?陽愛、先輩??ですよね?」
「あっ………」
---あぁ、もう、本当に今日は厄日に違いない!
まさか、こんな情けない姿を会社の後輩に見られるなんて。
聞き覚えのあるその声の主は、会社の後輩である桐谷くんだった。後輩と言っても某有名大学のデザイン建築学科の大学院を卒業して、入社してまだ数年の桐谷くん。
彼は我が社きっての期待の新人と言われていて、学生限定のコンペでも最優秀賞を獲得したこともあるという逸材だ。対して私はそんな技術者たちの図面の作成を補助する一般職のアシスタントに過ぎない。先輩だなんて言われても名ばかりの補佐役なのである。
「陽愛先輩!?」
何事かと駆け寄る桐谷くんに、私は手にしたハンカチで懸命に涙を拭って取り繕うように情けない笑みを浮かべた。
「一体、何があったんですか?こんな夜中に、まさか誰かに………」
そう言って険しい顔で私を見つめて、鋭い目付きで辺りを見回す桐谷くん。
そんな彼に誤解を察した私は焦って懸命に首を振った。
だけど既に化粧は崩れに崩れていて、涙と鼻水で人前に晒せるはずもない酷い顔をしているに違いない。
(待って、だめ、これは絶対事件性を疑われている!)
思えば顔以外にも酷い様相を晒していた。
海晴の家で必死にエプロンを脱ぎ捨てたときにブラウスの第一ボタンは動揺により跳ばされているし、パンプスは片方折れていて、ストッキングは所々破れている。
そんなこんなで酷い自分の姿を桐谷くんの険しい視線によって改めて気付かされて私は情けなさと恥ずかしさで顔を歪めた。
---何だってこんなときに、知り合いになんか会っちゃうかな?
「ちちちち、違うの!誤解しないで!?」
おそらく強姦事件を疑っているのだろう。
まるで般若のように険しい顔で固まっている桐谷くんに私は懸命に首を振りながら迷いながらも観念して口を開く。
「あぁぁ、その、ね、………」
そう言って俯く私に、桐谷くんは、何かを察したようにしゃがみ込んで、私の手を握った。
「えっ、ちょっ……」
突然の出来事に私は掠れた声を絞り出す。
「………陽愛先輩?もし、今俺に言うのが辛いことだったら無理しないでください、でももしあれだったら、一緒に警察か病院に行きましょう。そしたら気の利いた女性の職員だっているだろうし、他に考えないといけないことだって…」
(いや、ちょっと待って、確かに言うのは辛い事だけど、そうじゃなくてね………)
怖い顔をしたまま返事を待つ、私に桐谷くんは苦渋の表情で声をかける。
「陽愛先輩………」
桐谷くんの顔が重々しく歪み、拳が震えるのが見える。
「あ、あのっ、心配、かけて、ごめんなさい…」
「止めてください、先輩、こんなときにまで俺になんか気を遣わなくたって……」
「いやっ、だから、その、ね………」
私は眉間に皺を寄せて心の中で唸り声をあげた。
(やだなぁ、この状況……)
「………違う、から、大丈夫…、です」
「でも、こんな時間にそんな恰好で……」
居たたまれなくなった私はようやく、伝わるかどうかのか細い声で真相を告げた。
「………振られちゃった、だけ、…で、す」
その瞬間、その場は凍りついたように固まった。
「え?………えぇぇ!?ええ!!!」
思った以上の桐谷くんの反応に、若干驚きながらも不甲斐なさが増した私は俯いたまま縮こまるしかなかった。
(そうだよね、こんなに心配かけて、原因が失恋なんて)
厄日というなら、桐谷くんの方がずっとそうだ。
プライベートな時間に、他人のこんな面倒な場面に遭遇してしまうなんて………
「もう、やだな、こんなところ、私ってば格好悪い……、だから、もう行ってくれて大丈夫だよ、ね?」
そう言って、私はこの場を取り繕うように微笑んで、このまま不運な桐谷君を解放しようとした。だけど、その言葉は、最後まで言い終わる前に掻き消された。
「………ないです」
ボソッとそう聞こえた低音の声に顔を上げた。
いつもは人好きのする逞しくて大きな体がそこにある。
だけど今は薄暗い何かを纏っているようで、私は眉を寄せた。
「へ?」
桐谷くんのいつになく深刻な視線が突き刺ささる。
それはまるで怒っているのではないかと勘違いしそうになるほど真っ直ぐな漆黒の瞳だった。
「カッコ悪いってなんですか?」
「……え?」
詰問されるようにそう言われ呆気に取られた。
「そんなことないです。陽愛先輩は、全然格好悪くなんかないです!」
「き、桐谷くん?」
今度はそう放たれた言葉の意味にただ戸惑う。
「さっきの俺の反応、もし不快な思いをさせてたらすみません、ただ、陽愛先輩を振る奴なんてこの世にいるのかとビックリしただけで………」
「………?」
「それに……」
「ん?」
「すごく……」
苦虫を噛み締めたような桐谷くんの言葉の続きを待つ。
(すごく、何………?)
「長かったんですよね………?」
そう言われた瞬間私は、うっと顔を歪めて固まった。
(痛い……、その言葉は今の私には凶器だよ、桐谷くん……)
「あぁ、う、うん、そだね………」
(ダメだ、辛い、また泣いちゃうよ?)
「そういうの、凄いと思うから……」
だけど、次の瞬間、静かにはっきりとそう紡がれた言葉に再び戸惑う。
「ふぇ?すごい?……私が???」
そんな私に桐谷くんははっきりと頷いた。
「はい、凄いです、オフィスで、女性達と話してましたよね、その人しか好きになった事ないって……」
「っ………」
(え、っていうか、何で君がそんなことを知ってるんだよ?………ちょっと待って恥ずかしい、それに凄いって何?どういうこと?キモイとかシツコイじゃなくて??)
否定されてしまえば、長年、海晴に対しての愛だと思っていた執着や束縛。
そんなものの多くがひどく我が儘で独りよがりなものに思えてくるから不思議だ。
「だって、好きになった初めから、最後まで、陽愛先輩はその人の事を裏切らずに、今でもそんなに泣くくらい、好きでいる事ができたんでしょう?」
「………そうだけど、でも?」
「仕事にもそんな一途な姿勢がいつも滲み出てて、俺すげえって、ずっと尊敬してました」
「ん?」
(仕事って??)
その時、大きな手がベンチに座ったままの私の両肩に置かれた。それと同時に冷えた肩に暖かさが広がった。桐谷くんの真剣な瞳が上から私を真っ直ぐに捕らえる。
「それって、誰にでもできる事じゃないと思います。陽愛先輩は誇っていい」
「………」
(ほこっ??……何これ、どういう状況?)
「そんな風に人を想える人はきっとまた、何度だって誰かを愛せると、少なくても俺はそう思います!好きの大往生だと俺は思います!!!」
(ちょっと待って、なんでそんな清々しい気持ちになってくるような笑顔で見つめてるの?)
「き、桐谷くん………?」
(ダメだよ、そんなに優しいこと言われちゃうと折角止まりそうだった涙がまた出てきちゃうから、ついでに鼻水も、でも、好きの大往生って、結局、死んでるじゃん私………)
「はい、どうぞ、陽愛先輩?いつも飲んでるやつ、偶々あってよかったです!」
そう言って差し出されたミルクティを手に取る。
「うっ、ありがとう…」
そうして案の定、その後、飲み物を差し出してくれた桐谷君の隣で私は、涙と鼻水を止めどなく流した。
「ご、ごめんね、なんか、汚くてみっともなくて……」
「だから、汚くもみっともなくもないですって!」
そう言って桐谷君は心底困ったように笑った。
さっきまで、一人になりたくて仕方がなかった。
そのくせ、一人でいるのが凄く心細かった。そのことに、今隣にいる桐谷くんが気付かせてくれたようだった。
喉に留まる重苦しい涙は、少しずつ私を浄化させてくれる涙に変わっていくようだった。
「ごめんね、ごめん、わたし、こんな時間に、すっごい迷惑をかけてるよね?」
そう言って詫びる私に桐谷くんは、私の隣にどっしり構えたまま首を横に振ってくれる。
「だ、か、ら、俺の事なんて気にしないでくださいって言ってるでしょう?それより、涙は我慢するより、ちゃんと流した方が次に進めるっていいますから、今、こうして泣けるときにはしっかり泣いてください」
「でも、もうこんな時間、桐谷くん、本当にもういいから………」
「ダメです!こんな時間にこんな場所で、泣いてる美人の先輩なんて絶対置いて帰れる訳ないでしょう!!職場の人間に知られたら俺が干されます!!」
「ふはっ……」
そんな冗談に私は涙を流しながら吹き出した。
「もう、なんだよ、それ!保身、保身だよね?第一、私、美人じゃないから対象外だよ!?」
「……何、言ってるんですか?陽愛先輩は美人っす!」
その言葉に私はさすがに嘘でしょと疑いの眉をひそめた。平均・普通・凡庸、それは私のトレードマークだ。
だけど、真剣な横顔は、そのまま次の言葉を紡いだ。
「…………そりゃ、確かにすっげえ美人ってのとは違うかもしれないけど、凄く綺麗な人っす、皆そう思ってる、だから」
その瞬間、ストンと桐谷君の言葉が府に落ちた。
「あっ、そうか、そうだよね、うん、ありがとうね、桐谷くん」
私はそう言って少しだけ微笑んだ。なんだか拍子抜けしたというか、申し訳なくなったというか、とにかく桐谷くんが必死に私を慰めようとしてくれているのが可笑しくて有り難くて、心が少しだけ暖かくなった気がした。
「あっ!?陽愛先輩、なんですか?その言い方!俺、今、本気で言ったのに全然信じてくれてないでしょう!?」
「はははっ、ありがとう!!桐谷くんの気持ちはちゃんと伝わってますよ!?」
「………いや、絶対伝わってないと思います」
そう言って泣きながら笑う私に桐谷くんは不満そうに頬を膨らませた。
ガッチリした長身に会社ではキチンとセットされている綺麗な黒い髪が今は額を覆っている。どこか中性的な海晴とは対照的な精悍な整った顔立ちの桐谷くん。
普段から、人当たりのいい彼は、仕事のセンスはもちろん、何事にもストイックで努力を怠らない。
最近では社会人としても非の打ち所がないほどの成長を見せているのに、時折こんな子供みたいな顔もするし、くだらない冗談で場を和ませてくれる事も多い。
裏表のない真っ直ぐな性格をしていて、どこか羨ましいなとも感じる。
「………まぁ、さすがに今日はそれでもいいっすけど」
少し拗ねたような諦めたような彼の横顔は、こんなに迷惑をかけているというのに不機嫌さなど微塵もなかった。
この日、私の絶望の涙を、さようならの涙に変えてくれたのは、その夜の桐谷くんのたった一つの言葉だったのかもしれない。
(好きの、大往生か……、ものは言い様だね)
いつか私も、過去の自分にそう報告ができる日が来るだろうか。
小学生の自分に、高校生の自分に、少し前の海晴を信じきっていた愚直な自分に……
その恋は、大往生を迎えるよって、いつか言える日がきたらいいなと思う。
だけど実際の問題として、まだまだこれから先の事なんて到底考えられる心境ではなかった。
そうなのだけれども、自分を責める事しか出来なかった私の恋が、間違ってはいなかったと、そう言ってくれる人がその日、傍にいてくれた。それが少なからず、その夜の私の救いになってくれたのかもしれない。
「もう、本当に大丈夫だから……」
「ダメです、色んな意味で心配だからおいてはいけません」
既にひとしきり泣いていた私は、彼の登場で静かに涙がひくのを待っていた。
どれほど、時が経過していたのだろうか。桐谷くんは静かに手を差し出した。
「送ります、陽愛先輩、さすがに夜風が冷たくなってきました、そんな薄着じゃ風邪をひいてしまいます」
「えつ、い、いいよ?悪いし……」
その言葉に戸惑って首を振る私に桐谷くんもまた譲らなかった。
「こんな夜中に泣き腫らした顔の女性を一人で返せません、今晩だけは頼りない俺を立てると思って言うことを聞いてください」
「で、でも………」
「俺の家、ここからそんなに遠くないんです、アパートの駐車場に車停めてあるんで、歩けそうならそこまで一緒に歩いてください、あっ、何ならおんぶでもいいですよ?」
その言葉に面食らった私は、必死に首を振った。
「おっ…!?い、いいよ、そんなの歩けるし……」
だけど、桐谷くんは、私の足元に座り込んで困ったように笑った。
「だけど、その靴じゃ、辛そうだと思って………」
「あっ………」
ヒールが折れて、留め具も壊れてたサンダルに私は絶句する。よくこんな姿でここまで来たものだと思う。そして、その一部分が肌に食い込んで、赤く靴擦れをおこしていた。
それを見た桐谷くんは背中を差し出して再び言った。
「さぁ、遠慮しないでください、言っときますけど、長いやりとりは余計に俺も恥ずかしいんで…」
「で、でも……」
「いいから、このままじゃ、明日になっちゃいますよ?」
呆れたような優しい笑顔でそう言われた私は、不甲斐なく俯いた。
桐谷くんは、職業柄頑固なところもあって、譲らないときは絶対譲らない事も知っている。
「い、いいのかな… 甘えちゃって…」
「いいですよ?問題があるとしたら俺の下心だけですから!」
少し意地の悪い笑みでドキッとすることを言って私をからかう桐谷くん。それにムッとした私は、屈んでくれている彼の背中を見下ろしながら言い返す。
「もう、その気もないのに先輩揶揄うような事言わない!!」
「ははっ、冗談です!さすがにここまで傷心の女性に漬け込む事はしませんから、安心してくださいよ」
そう言って笑う桐谷くん。
きっと、こうして彼なりに場を和ませてくれているのだろう。
「もう!!でも、じゃあ、ごめんね、お言葉に甘えて」
「はい、甘えてください!!喜んで!!」
そう言って私は桐谷くんの背中に身を預けた。
「…ふふっ、お寿司屋さんみたい、ほんと桐谷くんは誰にでも優しいよね?人たらしだ」
恥ずかしさを紛らわせる為にそんなふうに茶化してみるが、桐谷君は職場の人気者で、なんていうか、とても暖かい人だと思う。こうしていてもまるでクマの背中に乗せてもらっているみたいな安心感がある。
「ははっ、別に、誰にでもってことはないですよ?」
そう言って笑う桐谷くん。だけど、私が知る限り、誰にでも親切なのは間違いない。
職場でも桐谷くんの仕事をアシストしたがる同僚は多い。
(ほんとうに、迷惑かけちゃったな………)
そう思うのに、心と体が限界を超えたのか私はそのまま桐谷くんの背中で意識を手放してしまったのだ。
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