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第八章 広がる波紋

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そうして季節は幾つも移ろい、私の二度目の時の流れは冒頭の太陽の五歳の誕生日に行き着いた。

元気で過ごしてきたことへの感謝を捧げ、生まれてきてくれた奇跡を祝う特別な日。

誕生日プレゼントの生物図鑑を片手に嬉しそうに微笑む息子に目を細める。

「リクエストが図鑑なんて、たっくんは本当に昆虫が好きね?パパの影響かしら??」

そう笑う私に、大きなケーキの向こう側で、無邪気な笑顔で息子はこう言ったのだ。

「パパの影響?じゃあ、僕、、何が好きだったのかなぁ!?」

全く悪気のない爆弾発言に飲んでいたビールを吹き出した夫はゴホンゴホンと何度も蒸せている。

「ちょっ、大丈夫?」

「こら、太陽!お前、滅多なことを言うんじゃなよ!?」

青筋と涙を浮かべながら、引き攣った笑みで太陽を見据える夫は、結構本気で気分を害していると見える。

「えぇ……だってぇ!」

私は苦笑しながら夫にタオルを渡して太陽を嗜めた。

「もう、そうだよ、たっくん、変なこと言わないの!パパとママから産まれたから、たっくんはたっくんなんでしょう?」

「えっ?」

そう言った瞬間、息子は、鳩が豆鉄砲を食らったようにきょとんとした。

「え?え?えええ??」

その後、太陽は信じられないとばかりに慌て始めた。

「な、なんだ?どうしたんだ??お前……」

ぎょっとする夫に太陽は食いつくように言い放った。

「違うよ?だって、そんなのおかしいよ??絶対違う!!」

「はっ?何言ってんだ、お前…」

その大袈裟な息子の反応に驚いた私は太陽に言った。

「お、おかしいって、だってそうでしょう?パパがいないとたっくんは、きっとたっくんにはならないんだから、太陽がここにこうして生まれて来てくれた事は、すごい奇跡の積み重ねなんだよ?」

(それは誰よりも私が知っている…)

だけど、目の前の息子は心底不思議そうな顔をした後、不服そうに首を振り、真剣な瞳でこう言い切ったのだ。

「違うよ!だって、元々、僕たちはママのなかにいるんだもん?」

怒ったようにそう断言した太陽の勢いに私たちは固まった。

「え!?」「へ……?」

太陽は必死な顔で続けた。
なんとか信じてもらおうと身振りを交えて一生懸命に訴える幼い息子に私たちは気圧される。

「だからね、元々、僕たちはママのなかにいるんだもん!!いつからか分からないけどいるんだもん!!」

そう言って太陽は、私のお腹を指差す。

「ちょ、太陽、落ち着いて……」

だけど太陽はイヤイヤするように首を振りながら懸命に続けた。

「そこに、えっとね、そこにパパの何かを分けて貰って、その後少しずつ僕になってくるんだ、その頃には声だって聞こえるよ?」

「声………」

妊娠中の記憶を話す子がいるとは聞いたことがあるけれど、まさかそれを自らの息子から聞かされる日が来るとは思わなかった。

「狭くて苦しくて、何言ってるのか分からないけど、声がもっと近くで聞きたくて、ようやく外に出たらママがいた。もう一人の声はパパだった。だからきっとパパは僕に魔法をかけてくれた人なんだって思った、そうなんでしょう?」

「ま、魔法って………」

私たちは妙に気まずい気持ちで口籠るしかなかった。

「いやっ、まぁ、魔法って言われたら…、なぁ…」

「は、はは……」

そんな煮え切らない態度に太陽は苛立ったように拳を固めて声を張り上げた。

「だ・か・ら、パパが誰でも、僕は元から僕!そうなんだけど、もしパパが野球選手の大平選手だったら、僕もきっともっと野球が上手になれたと思うんだ、パパだってそう思うでしょ?」

その表情はうっとりとして、ワクワクが止まらない子供心を伝えてくる。

「いっ……?」

その勢いに大きく目を見開いた私と夫は、しばらくぽかんとして顔を見合わせた。
その後、夫はこれは堪らないとばかりに笑いだした。

「はははっ、そうだな、そう言われたら、もしかして太陽の言っている事が正しいのかもしれないな?」

「もしかしてじゃないよぉ?そうなんだってばぁ!!」

「ちょっと!?パパまで何言って……」

面食らう私の前で夫が納得したように頷いている。

「じゃあ、太陽は元々ママの子で、今はパパの遺伝子を受け継いでいるからパパの子でもあるって事か、なるほどな、お前の中では順番があるっていいたいんだな?」

そう言って、頭をポンポンと撫でられる太陽はようやく納得したように頷いた。

「そうだよ?だから、僕はパパとママの子なんだよ、野球が上手じゃないのはやっぱりちょっと残念だけどね、まぁ、それは仕方ないから僕は努力でなんとかしようと思ってる!!」

と胸を張っている。

「こいつぅ!生意気に男前な事言いやがって、でも、前から言ってるけど、パパは、たまたま野球をやってなかったってだけで、球技は結構うまいんだぞ?ラグビーだって学生時代はいいところまで行ったんだ!」

「えぇぇ?やだよ、ラグビーなんて、お友だちとできないから意味ないよ!」

「そんな事言うなよ、じゃあ、クラブはサッカーにしないか?サッカーだったらパパだってちょっとは教えてやるぞ?ボールはでっかいほうが扱いやすいぞ?」

「やだ、野球がいいの、クラブも絶対野球チームに入るんだ!」

「そ、そうか?サッカーも楽しいのに………」

そんな必死なやり取りが無性に可笑しくて苦笑する

ーーーだけど


胸には徐々に複雑な思いが充満して、ドクンドクンと体を支配し始め、それは波紋となり広がっていく。

たかが、子供の戯言と言えばそうなのかもしれない。
その一方で、あの世界とこの世界の超えてはいけない
禁忌のようなものがあるとするなら、今私は朧げにその境界線を感じているのではないだろうか。

頭のなかで鳴り始めた警鐘が私を不安にする。

だって、太陽の理屈だとまるで、日向と太陽は元々はひとつだったようで、受け入れ難いような気持ちになる。

太陽の言うところの【魔法】というものが

海晴なのか---
桐谷なのか---

その分かれ目があの世界と、この世界の二人の分かれ目だったとしたら、それはとても切ない。
私のなかの日向を消したのは、私自身なのだろうか。


一筋の暖かくて、切ない風のような声が今も時々私の胸の中を吹き抜ける。

《ママ、大好きだよ、僕の事ずっと忘れないで》

---忘れないよ日向、忘れたことなんてない

だけど、もしその理屈が真実だったと仮定したならば、最大限に都合よく解釈したなら、日向は、私と共に新しい人生を歩いていることにもなるのだろうか。

日向は太陽で…
太陽は日向…

ずっと、この世界でもうひとつの家族を持って幸せでいる自分に、罪悪感に似たものを感じ続けてきたように思う。

だけど、今日、太陽が語ったあの言葉が、もしも真実だとしたら、そう結論付けて楽になる事が出来るだろうか。

そう思い至りそうになって、私は自嘲するように首を横に振った。心は違和感の方を受け入れる。

日向は日向で…
太陽は太陽…

その方がやはりしっくりくるのだ。

---やめよう

そんなことは誰にも分かることではないのだから。

そんな事を考えながら夜風を受けながら部屋の空気を入れ替えていた私に、夫の声がかかる。

「太陽、口ほどにもなく、早く寝ちゃったな、部屋に運ぼうか……」

仕事の電話からリビングに戻った夫は、ソファーに横たわる太陽を見つめてそう言った。

「うん、お願い、朝からはしゃいでたから疲れたんだよ、やっぱり誕生日は特別だね、でもまだ五歳の子供だもん…」

太陽を抱き上げた夫に先だって歩き、太陽の部屋の扉を開けて、ベッドに横たわり寝息をたてる太陽に布団をかけた。起きてしまわないようにとお腹をポンポンと布団越しに優しく叩きながら一つ大きくなった息子の寝顔に目を細める。

夫によく似たやんちゃ盛りのあどけない頬に指先でそっと触れると、一瞬ピクリと睫毛を揺らした後、寝息が続いているのを確認した私は笑みを溢した。

(うん、ちゃんと寝てるね、最近またちょっと大きくなったなぁ……)

そして暫く息子を感慨深く見つめた私は、片付けをしようと思い立ちキッチンに戻った。
すると既にシャワーを済ませたと見える夫が、キッチンに立ってそでをまくっていた。

「あっ、いいよ、片付けは私がやるから……」

「いや、陽愛さんは料理で疲れたでしょ?俺が片付けとくから、このままお風呂入っておいでよ?」

そう言って、慣れた手つきで片付けを続けてくれる夫に甘える事にした私は夫に微笑みかけた。

「そう?じゃあ、お願いしようかな、ありがとう」

夫は父親になった今も変わらずに優しくて、忙しいのに家の事もこうしてできる範囲でフォローしてくれる。

私はそんな夫に感謝しながらシャワーに向かった。
今日はなんだか太陽の一言から色んな感情を呼び覚まされてしまったように思う。

そしてシャワーから出た私は、声をあげた。

「あれっ……?」

シャワーを浴びてリビングに戻ると、そこにはもう夫はいなくて、ただ常夜灯が点灯していた。

(もう寝ちゃったんだ、疲れちゃったのかな……)

時計を見るとまだ二十時を少し過ぎた時間だった。
いつもなら、やれやれと追加のビールでも出して、テレビを視て笑っているか持ち帰った仕事をしている頃なのにと私は首を傾げた。

寝室をそっと開けると、そこは音もなく薄暗く静寂な空間だった。

「もう、寝ちゃったんだ……」

(起こしちゃ悪いし、私もたまには早く寝ますか………)

そう思い、眠った夫を起こさないように、そっとベッドに忍び込んで、目を閉じた。

そして、今日の太陽の言葉を思い出す。

《違うよ?僕たちは元々、ママの中にいるんだ!》

何故かその言葉が脳内で繰り返されていた。

(今日は、なんだか不思議な一日だったな)

上手く言えないけれど、いつの間にか随分遠くに着たことに改めて気付いて、過去が一気に遠ざかってしまったような、そんな不思議な気分だった。

そうして少し身体を動かして夫の寝顔を見つめる。
元々精悍な顔をしていたが、最近では当たり前ながら年相応の落ち着きとか大人の余裕のようなものを表情から醸し出してきた。

最近では『空間の匠』なんて雑誌に取り上げられて注目を浴びている夫。
出会った頃の初々しい顔を思い出し、何年前だよって、自分にツッコミを入れる。
私は二回分の時を経ているから、入社当時の夫と出会ってから相当な年月が経過しているのだ。

可愛い後輩にしか見えなかったあの頃の感覚が今では随分と昔の事に感じる。

(おやすみ……)

隣で眠る夫の肩まで、布団を引き上げて、そっとベッドの外側を向いて丸くなる。
すると、突然寝返りをうった夫の両腕に包まれた。

(あっ、今ので起こしちゃったかな?)

そう思い、敢えてそのままじっとしていると、後ろからもう一段階強い力で、ぎゅっと抱き締められた。

「起きてたの…」

そう問いかけようとした瞬間、ぐるりと体の向きを変えられたと思ったら、そのまま唇を塞がれた。

「ちょ、どうしたの?」

まるで強引だった昔を思い出すような、少し我が儘なキスに戸惑った私は、こそばゆい気持ちでそれを制す。

「ねぇ、陽愛さん……」

久しぶりに名前を呼ばれた私は思わず声を上げそうになった。
薄暗い部屋でも、じっと見つめられているのが分かり唖然とする。

「な、ななな、なに?」

獣に見定められているかのような居心地の悪さに私は戸惑う。

「そろそろ、いいよね?二人目、作っても……」

「………へ?」

(突然、どうしたの……?)

「ねぇ、作ろう?」

「一体、どうしたの??」

「さっきさ……」

「ん?」

「言ってただろう?太陽、僕達はママのお腹に元々いたんだって……」

夫のいつになく劣情を帯びた表情にただ戸惑った。
それと同時にその言葉に若干の違和感を感じた。

「あ……、僕達って……」

「そう、待ってるんなら、陽愛さんに魔法かけるのは俺だけでしょ?」

眉間に皺を寄せたまま呟いた私を野性味のある精悍な顔立ちで見下ろす夫。
するとドキンドキンと胸が早鐘をうち始める。

太陽を授かってからの私たちは決して順風満帆とはいかなかった。
上手く現実を受け入れたつもりでも、罪悪感が葛藤を呼び、折に触れ心身を蝕んだ。
そんな私は長引く適応障害から来る、産後鬱だと周囲に心配をかける事も多かったのだ。

ここで私はずっと幸せだった。
他に何も望むことがないほどに、幸せだった。
だけど、私にとっての幸せは、きっと常にどこかで罪悪感と表裏一体だったのだと思う。

太陽を愛しいと思うと同時に、苦しくなった。
幸せだと思う瞬間に、罪悪感を感じた。
今に、身を任せたくなる瞬間に、忘れたくないと心が叫んでいた。

幸せだけど、それを認めることに葛藤する。
そんな不完全な私に多分気付きながら、時に傷つきながら、夫はずっと、私と太陽を支え続けてくれたのではないだろうか。

夜の生活はそれなりにあったけど、私の体調や気持ちを第一に尊重してくれていた夫は太陽を授かった後は、次の子供のことには触れないで避妊を怠らなかった。
それだけに、いつもと違う強引さに私の心は戸惑った。

いつもより、強く抱き締められる体……
熱く激しく重ねられる唇。

そんな夫に戸惑う。
だけど、体はそれとは裏腹にどんどんと高められていく。


「待って、もし、太陽が起きてきたら……」

「大丈夫だよ……」

「でも……」

時刻はまだ早い。
いつもより早く寝てしまった太陽が目を覚ましても不思議ではない。

「ねぇ、陽愛さん、久しぶりに名前呼んで?」

「だ、大輝くん……」

その瞬間、強く抱きしめられた。

「はっ、くるっ……」

今日の夫はいつもとどこか違った。

「陽愛さん、今日なんか、いつもとは違う事考えてるでしょう……」

そう言って私の反応を見つめる夫に私は戸惑って目を瞬かせる私の唇は再び塞がれる。

「太陽の言葉?だとしたら、陽愛さんの全ては今でも俺のだから……」

そう言われた私は、居心地の悪い恥ずかしさを感じて顔を背けた。

「逃げないで……」

「ちょ、待って……」

「ダメ、この先の陽愛さんも、太陽も、このなかで待ってる子も、全部俺が受け止めるから……」

今日の夫には、どこか余裕が感じられない。
そうだ、昔の夫はこうして、どこか執着するように不安を払拭するかのように、激しく私の身体を求めていた。

「………なんか、昔みたいだね」

そういうと夫はハッとしたように顔をあげた。
そして少しだけ気まずそうに笑みを作って、溜息を吐いた。

そのまま私の下腹部に頬を擦り寄せて、少し上目遣いに口を開いた。

「そっすか?男の本質なんて、そんなに変わるもんじゃないでしょ、陽愛先輩!」

そう言って唇を尖らせて見せる顔が今でもどこかあの頃を思わせて思わず噴き出した。

「もう、またそうやって揶揄う……」

そして、子供を作るという大義名分を得た夫の私への執着はこの夜から激しいものになっていくのだった。


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