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第九章 予感
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そんなことがありながらも、家庭としての日常は平和そのものだった。
その日、太陽は朝からご機嫌だった。
博物館で臨時開催される、昆虫展を見た後に、小さな遊園地を併設した水族館に行って、夜は焼き肉を食べて帰ろうと夫が提案したスペシャルイベントの日だったからだ。
だけど間が悪い事に、朝から現場で図面を巡ってのトラブルが起きているという連絡があり、急遽、夫は仕事になってしまったのだ。
「パパの嘘つき!!あぁぁぁん!!!」
「いや、だから、ごめんってば、な?」
大泣きをしながら父親を責める太陽、それを困り果てた顔で見つめる夫。
「太陽!パパだって、行きたかったのに行けなくなったんだから、そんなに言わない!」
私がそう嗜めても癇癪を起こしたように泣く太陽。
気持ちは分かるけどどうしようと私も途方に暮れた。
「だって、だって、約束したから、すっごく楽しみにしてたのにぃ!!うぐっ、ひっく……」
(うっ……、これはまずいかも………)
その様子を見て私も夫もぎょっとした。
「ママ……」
助けてくれと訴える夫の死んだような瞳に小さく頷いた私はこう提案した。
「じゃ、じゃあ、太陽、こうしよう?水族館と遊園地はきっと皆で行ったほうが楽しいからまた今度にしよう」
「やあだぁぁぁ、今日がいい!!」
「今日は、ママしかいないから、ジェットコースターも、観覧車も、お化け屋敷も入れないよ?」
だけど太陽は泣き続ける。
「やだぁぁ!!入るの!!今日入るのぉぉ!!!」
「今度にしたら、全部できるよ?あっ、じゃあ、じゃあさ、こうしない!?」
(考えて、考えるのよ、私……)
「ひっく、うぐっ………」
私は目頭を揉んだあと、にっこり笑顔を作った。
「遊園地と水族館はまた今度、その代わり、次に行った時には太陽が乗りたいものは全部パパに乗せてもらおう?」
「うっ……、でも……」
チラッとこちらを見た太陽に私は言葉巧みに続けた。
(このまま押せば行けるかもしれない……)
「その代わり、今日は約束通り昆虫展を見に行こう?これは今日いかないと終わっちゃうしね、そして、ちょっと待ってね、その辺りで他に何かイベントやってないか調べるからね」
そう言いながら、私はスマホのイベント情報を調べて、ある情報に行き着き笑みを浮かべた。
「太陽、昆虫展のすぐそばで、絵本展もやってるみたいだよ、そう言えば、この間、園でチラシを貰ったイベントじゃないかなぁ!?」
その瞬間太陽の肩は明らかにピクリと反応した。
(よし!食いついた?)
「た、たしか太陽の好きな絵本の作家さんも来るって先生言ってたのに、うっかりそのまま忘れちゃってたね、思い出してよかったね?行ってみようか?」
「いっ、行く!!」
その瞬間ぱぁぁっと顔を輝かした太陽を見て私は心のなかでガッツポーズを決めた。
太陽の後ろでは夫が手を合わせていたので、太陽に気付かれないように、密かに親指をたてる。
「ご、ごめんな、太陽、早く帰れたら、飯は皆で食いにいこうな?焼き肉にするか??」
「もう、パパは、期待させる事ばっかり言わない!!」
そう言って睨み付ける私に夫は面目ないと苦笑した。
「ははっ、ごめん、でも、本当に出来るだけ早く帰るから、いい子してろよ?」
そう言って太陽の頭を撫でる夫。
「うん!行ってらっしゃい、遊園地と水族館は違う日に行くんだからね、絶対、絶対、約束だからね!!」
そう釘を指す息子の頭をくしゃっと撫でる夫。
「分かってるって!」
「絶対だよ!」
「おうっ!」
「行ってらっしゃい、気を付けてね」
そう言った私の頬にも夫は触れてそっと囁いた。
「うん、陽愛さん、ありがとね」
そう言った瞬間、太陽からは見えない角度で唇をチュッと合わせる夫に赤面した私は抗議の目を向ける。
「ちょ……!!」
「じゃあ、よろしくね!」
それを可笑しそうに見て夫は扉の向こうに姿を消した。
「もう! ………よし、じゃあ、日向、ご飯食べちゃうよ!?」
「はぁぁい!!」
「あっ、その前に、葉月にもご飯あげちゃいなさい!」
「うん!!」
そして、食事をとり、支度をすませると、太陽の膝でクゥゥンと甘える声がする。
「ごめんね、ハヅたん、今日は連れていけないんだ」
そう言って葉月の頭を撫でる太陽。
「クィィィン、ハッハッハッハッ……」
「お土産買ってくるから、いい子しててね」
そんな生意気な事を言っている息子に、日頃の夫の口調を重ねて苦笑する。
---ほんとうに良く似てきた
「行こうか?」
「うん!!」
私は、太陽と一緒に博物館を訪れた。
「ヘラクレスだぁ!やっぱり格好いいな、見て、ママ、ゾウカブトもいるよ?」
嬉しそうに目を輝かせる息子に私も笑みが溢れる。
やはり、連れてきてよかった。
「本当だ、強そうだし、それに高そうだねっ……」
そう言って苦笑する私に、太陽は別のところを指差した。
「あっちはクワガタだ!!見てきていい?」
「人にぶつからないように静かに見るんだよ?ママ、ここにいるからね?」
そう言って、休憩用のソファを指差す私に太陽は頬を真っ赤にしながら頷いた。
「うん、行ってくる」
コロコロと表情を変えながら、楽しそうに会場を転々としている太陽の姿を見守る。
これは、長期戦になりそうだと苦笑しながら、今日は飽きるまで付き合うかと覚悟を決める。
そして、行き着くところはお決まりの昆虫触れ合いコーナーだ。
(そうそう最後は離れないんだよね、ああいう場所から………)
私は自販機でコーヒーを買って、触れあいコーナー近くのソファに座り直して太陽の背中を確認する。
(あははっ、もう、友達が出来てる!)
数人の男の子や女の子と昆虫を見せあいながら、興奮したようにああだこうだと笑いあう姿が微笑ましくて、私は目を細めた。
子供の凄いところは、何と言っても友達を現地調達できるところだと思う。
そこには何の打算も、期待も存在しなくて、ただその瞬間を共に謳歌する。
そして、きっともう会えない一期一会の出会いと別れに、またね、遊んでくれてありがとうと満面の笑みで感謝と別れを告げるのだ。
---いいよね、そういう出会いも
結構な時間をそうして過ごす子供達を見つめていた。
そして、時計をみた私は立ち上がった。
「太陽、そろそろ行こうか……」
「やだぁ!まだ遊ぶぅ!!」
予想通りの回答に苦笑するも私は諭すように言った。
「楽しいのは分かるよ、お友だちも出来て良かったね、だけど、絵本展にいくのならもう移動しないと、今度はあっちがほとんど見られなくなっちゃうけど、いいのかな?」
そう言った瞬間、太陽は困ったような表情を浮かべた。
「それもやだ……」
途端に窮したような難しい顔になる太陽。
こんな時の表情は凄く夫の桐谷に似ている。
昔告白されたとき「本当に友達でいいの」と聞いた時の答えに困った顔と似すぎていて私は苦笑した。
「でしょう?だったら、お友だちに、ありがとうってバイバイして、絵本見に行こう?」
「う、うん、でも……」
その会話を聞いてお友だちの一人が寂しそうに太陽に声をかけた。
琥珀色の瞳をした随分綺麗な顔立ちをした男の子だ。
「もう、いくの?」
そう問いかけられた瞬間、太陽も覚悟を決めたのだろう。
「うん、遊んでくれてありがとう、僕、これから絵本展に行くんだ!」
その瞬間、男の子の目が見開かれた。
「絵本展?そ、そうなんだ」
「君も行けばいいのに?絵本は好き?」
太陽はその子にそう問いかけた。
どうやら、このお友だちとのやり取りが楽しくて後ろ髪を引かれているようだ。
「す、好きだよ!?だけど、僕はもう絵本は午前中に見たから、ここでお父さんを待ってるんだ。ほら、あそこにいるのが、絵本展のスタッフのおじさんだよ。パパがもう少し忙しいからここで待ってようねって連れてきてもらったの……」
男の子が指差す方角には、時々家族連れにチラシを渡す気の良さそうな年配の男性がいた。
「そっか……」
太陽はその言葉に残念そうに眉を下げた。
男の子の言葉から察すると、お父さんが絵本展の関係者なのかもしれない。
指をさされた初老の男性は私たちに気付いたのだろう。
穏やかに頭を下げて笑顔でこちらに近づいてきた。
「おじさん、このお友だちも今から絵本展に行くんだって!」
その言葉に男性は、「そうですか、是非、楽しんできてくださいね!」とにっこり笑って、「では、ぼうやにこれを…」と太陽に小さなセミのキーホルダーを渡してくれた。
「わぁぁ、セミだ♡」
顔を輝かせる太陽を横目に私は、男性に声をかけた。
「可愛いですね、でもっ、戴いてもいいんですか?」
「構いませんよ、午前中に時間限定で配った分の残りですから、種類は沢山あったんですが、もうセミしか残ってないのですがね、やはりカブトムシの人気は絶大だったねぇ」
そう言って汗をふきふき微笑む男性に私は恐縮した。
「そんな、ありがとうございます!太陽、良かったね、ちゃんとお礼言いなさい!!」
「ありがとう、おじちゃん、大切にするね?」
そう言って嬉しそうにお礼を言う太陽に、男性も表情を崩した。
「あぁ、大切にしてくれるなら、セミさんもきっと喜んでくれるね、昆虫が好きなのかい?」
「うん!」
「それは昆虫のお話も手掛けている絵本作家さんのキャラクターだから探してみるといい」
男性がそう言った瞬間、太陽はそのセミを穴が開きそうなほど見つめた。
「僕、知ってるよ!八日間の大冒険のセミさんでしょ!?」
「おやおや、ぼうや、よく知っているね、最近人気のお話でね、おじさんもあの話は大好きさ……」
そして、男性は少しだけ声を潜めて、秘密めいた声で囁いた。
「ここだけの話だがね、このぼうやのお父さんがその作品を書いた作家さんなんだよ?」
「えっ、そうなの!?すごい!!!」「え!?そうなんですか!!」
私たちは、二人で目を瞬かせた。
「人気作家さんでなかなかサイン会の人が引かなくてね、それで退屈した息子さんとここまで遠征してきたんですよ」
そうにこやかに話していた男性だが、腕時計を見た瞬間、あっと少し困った顔になったのだ。
「おやおや、もう三時半だ、もっとお話したいけれど、絵本展の入場受付は四時までだからね、早くいかないと、終了してしまうよ?近道は知ってるかな、そこをまっすぐ通って、中を抜けていけば、多分、十分くらい前には到着すると思うから……」
その言葉に私は焦った。
「ママぁ?」
太陽が不安そうに私を見上げる。
終了時間を見ていて受け付け時間を意識していなかった私は一瞬迷ったが、太陽の手をきゅっと握りしめた。
「ありがとうございます、太陽急ごう!」
「うん!ありがとうおじさん、君もあそんでくれてありがとう、またね!!」
「うん、またね」
その挨拶に男の子も少し残念そうに笑みを浮かべる。
私は、手を振ってくれる男性と男の子に頭を下げて、太陽の手を引き絵本展に急いだ。
ギリギリで受付をすませた私たちは会場に入った。
そこはあまり大きな空間ではないけれど、色とりどりの絵本が並べられた素敵な展示スペースだった。
「さきほど、サイン会が終わって、ちょうど来られていた作家さん達も引き上げてしまったところなんですが、時間までゆっくりしていって下さいね、あっ、僕、そのセミって」
「さっき、昆虫展でスタッフのおじさんにもらったの!!」
そう言って、セミのキーホルダを高く持ち上げる太陽の言葉に思い当たった、スタッフの女性は顔を綻ばせた。
「そっか、それはラッキーだったわね、もう会場の分は配り終えてしまってたから、ほら、そのセミさんの絵本はあっちのコーナーになるのよ、他にも色んな作品を手掛ける先生で、ご本人もまだお若くてとても素敵な……、あ、これは、お姉さんの個人的感想になっちゃうか……」
そう言ってぺろりと舌をだす若い女性に私たちも一緒に笑った。
「ははっ、先生イケメンなんだ!」
そう笑う、生意気な太陽にお姉さんも破顔して話を合わせる。
「そう!イケメンなのよ!!って、お姉さん仕事中だから、本当はこういう事言っちゃダメなんだけどね?」
今度はそういいながら、自分の頭を拳骨で叩く振りをする女性は大学生くらいに見えた。
きっとアルバイトのイベントスタッフなのだろうと目を細めた。
「でも、お姉さんもずっと、この作家さんのファンなのは本当なんだよ?だから今日もこっそりサインもらっちゃった!ほら!!」
「わぁぁ!!ヘラクレスの絵もある!!いいなぁ!!!」
「そうでしょう!?ここですよ!」
そして、そのコーナーに足を止めた瞬間、私は、全身に鳥肌のようなものが立つのを感じた。
ここに並べられている絵のタッチを、世界観を私は確かに知っていたからだ。
---なにっ、これ、嘘、でしょ?
心臓が波打っていた。
《ママ、見て!病院の下に来たお兄さんが、絵本をくれたんだよ!》
《えっ!絵本を?日向にだけ?》
《ううん、何冊か持ってて、他のお友だちにも配ってた!!お日様の本、お日様はみんなから大切にされているのにお友だちが出来ないんだ……、ひとりぼっちでさみしいんだって》
《え、お友だち出来ないって……もしかして、熱すぎるから??》
その当然の推測に日向はぱぁぁっと瞳を輝かせた。
《正解!!なんでわかったの?ママすごぉぉい!!天才!!!》
《やっぱりかぁ……》
そうして、日向にせがまれて、その絵本を読んだ時の事を思い出した。
夕暮れ時の西日が差し込む病室で、いつの間にか眠った日向の傍らで、涙が溢れて止まらなくなったあの日の事を、鮮明に思い出したのだ。
途中で寝てしまっていた日向がふいに目を開けて、本を手にしたままの私に首を傾げた。
「どうしてそんなに泣くの?お日様ちゃんと幸せになったよね?」
そう問われた私は、泣き笑いするように日向の頭を撫でて抱き締めた。
「そうだね、お日様は幸せになったよ、だからよかったねって、嬉しくて泣いてるの…」
たしか日向が亡くなる一ヶ月ほど前の夏の終わりの夕暮れだった。
◇◇◇
その世界では、お日様は、誰よりも愛されていた。
だけど、お日様には友達がいなかった。
近づくもの全てを焼き付くしてしまう特別な存在だったからだ。
みんなはお日様を見つめて微笑む、感謝する。
お日様は凄いのだと……
だけど、お日様は誰にも近づけない。
お日様は、地上で仲間と過ごす人間や、動植物が羨ましいと思う気持ちが日に日に強まった。
ある日、お日様は考えた。
自分の体のほんの一部分だけを小さく小さく切り取って、そこに気持ちをたくさん、たくさん込めて地上に送り込んだなら、自分にもお友だちが出来るのではないかと………
お日様の思った通り、地上に降りた小さなお日様の分身には、地上で大切な人がたくさんできた。
皆、地上のお日様を、まるで日だまりのような優しい人だと、愛してくれた。
お日様ももちろん、彼らをとても愛していた。
そしてお日様には特別に大切な人もできた。
その人に触れると、お日様の心は益々、ポカポカと熱く暖かくなったのだ。
だけど、幸せだったお日様は、少しずつ大変な事実に気付くことになる。
お日様は、絶対的な存在だった。
唯一無二の強い影響力を持つ存在だった。
---誰がなんと言おうと、お日様がそれをどう思おうと関係ない
お日様の大きさと力と、世界との距離感………
それが、人々が幸せに暮らせるための絶対的な生存条件となっていたのだ。
やがて、分身のお日様が降り立った冷たく寒い国の雪と氷は溶けはじめて………
溶けた雪と氷は海に流れ込み水嵩を増し、小さな島々とそこに住む動植物を飲み込んだ。
そして、お日様本体がほんの少しだけ小さくなった影響で、今まで温暖だった国々は十分な日光と暖かさを受けることの出来なくなった。
それからは植物が上手く育たなくなり、多くの人々がお腹を空かせ困って泣いた。
慌てたお日様は、全てを元通りにしなければと考えた……
泣きながら必死に必死に考えた……
体を元の場所に戻し、自分は決して地上に手を伸ばしてはいけない。
だけど、お日様がどれだけそうしようと思っても元には戻せないものがひとつだけあったのだ。
《お日様の気持ち》
それだけは、どれだけ物理的な距離をとろうとも愛する人達の傍から離れる事は出来なかったのだ。
このままではお日様の愛する人達を思う気持ちが、愛する人達を不幸にしてしまうかもしれない……
愛する人を亡くす怖さを知ったお日様は神様にひたすら祈った。
---どうか、どうか、どうか、私の気持ちがあの地上に残っていることで、人々が不幸になりませんように
大切なあの人を苦しめることがありませんように。
そうしてくださったら、私は、ずっとここにいます、たとえ、心など持たないただの熱い石の塊になったとしても。
お日様の懸命な願いを憐れに思った世界の創造主である神様は、お日様の熱い熱い想いを、特別な神の力で覆い隠し、お日様が想いを寄せる唯一の女性の腹に一番自然な形で命として宿した。
そうすれば、全てを忘れたお日様の気持ちがいつか、最初に触れる事になるのは、お日様の一番大切な女性になるだろうと思ったから。
彼女の誰よりも優しい笑顔がお日様の心を照らしてくれると信じたから。
神様の期待通り、彼女は生涯、お日様の心に無償の愛を捧げた。
その隣で微笑む男性は、お日様ではないけれど、記憶をなくしたお日様はその男性にも、とびきりの笑顔で微笑んだ。
大切な母親と、それと同じ目線で自分に微笑みかけてくれる優しい存在だったから。
お日様は、優しい家族の元に育ちたくさん笑った。
もちろん地上で輝く太陽のように、無数の人を幸せにすることは出来ない……
だけど、その分、地上で出会った人を幸せな気持ちにすることはできるのだ。
素直に愛情を示し許可を得たなら、特別な人にだって深く溺れるように触れることだってできる。
そうして、母を得たお日様の周りには、別世界の暖かさが広がった。
そして、お日様の心もその家族も最期まで知ることはなかった。
---かつて自分が、太陽だったことを
◇◇◇
そんな絵本の内容を思い出した私はそわそわと辺りを見回した。
「ここってもしかして、お日様の絵本も、展示されているんですか?」
確信に近い推測で、震えそうになる声を必死を押さえながら聞く私に 、スタッフの女性は、一瞬きょとんとした顔で答えた。
「いえ、久遠先生の作品には、いまのところ、お日様……、太陽を題材にしたものは無かったはずですけど……」
---太陽の本が、存在しない?
その意味するところと、かつて読んだ絵本の内容に私の胸はザワザワと音を立てていた。
---海晴
幼馴染みであり、かつての恋人とのやり取りを思い出す。
《ねぇ、陽愛、僕たち、ずっと、一緒にいられたらいいね………》
《陽愛、どこにもいかないで………》
《愛してるよ………》
《違うんだ、陽愛……、僕は、僕は陽愛………》
八日間の大冒険
---作者、久遠ひなた
本の題名と、ペンネームを見て胸が震えた。
涙が込み上げそうになる。
久遠……
それは切なくなるくらい遠く、だけどずっと変わらない事を示している。
(ひなた…… お日様………)
心がザワザワするのを抑えられない私は振り返った。
「作者の先生は、今、どこへ………」
私は震える声でそうスタッフの女性に問いかけた。
「え、先生ですか?確か、三十分くらい前に、息子さんを迎えにいって公園で遊ばせてから帰られるから、打ち上げにはいけないって仰られてましたが……」
女性は戸惑ったようにそう答えた。
「そう、ですか…」
「太陽!」
私は、その場に座り絵本を物色している太陽から本を取り上げた。
「えっ、ママ、どうしたの?」
「ごめん、ママ、公園に用事できたから、ここにはまた来よう?欲しい絵本は今度絶対買ってあげるから!約束するから!!」
そういって太陽の腕を掴んで走り出す私に太陽は戸惑ったような声をあげた。
「え、ママ、ちょっと待って、どうしたの?折角きたのに……」
「ごめんね、だけど、今日だけは、ママの言うこときいて!!」
私の剣幕に驚く太陽の手を引いて、私は必死で走り出した。
その日、太陽は朝からご機嫌だった。
博物館で臨時開催される、昆虫展を見た後に、小さな遊園地を併設した水族館に行って、夜は焼き肉を食べて帰ろうと夫が提案したスペシャルイベントの日だったからだ。
だけど間が悪い事に、朝から現場で図面を巡ってのトラブルが起きているという連絡があり、急遽、夫は仕事になってしまったのだ。
「パパの嘘つき!!あぁぁぁん!!!」
「いや、だから、ごめんってば、な?」
大泣きをしながら父親を責める太陽、それを困り果てた顔で見つめる夫。
「太陽!パパだって、行きたかったのに行けなくなったんだから、そんなに言わない!」
私がそう嗜めても癇癪を起こしたように泣く太陽。
気持ちは分かるけどどうしようと私も途方に暮れた。
「だって、だって、約束したから、すっごく楽しみにしてたのにぃ!!うぐっ、ひっく……」
(うっ……、これはまずいかも………)
その様子を見て私も夫もぎょっとした。
「ママ……」
助けてくれと訴える夫の死んだような瞳に小さく頷いた私はこう提案した。
「じゃ、じゃあ、太陽、こうしよう?水族館と遊園地はきっと皆で行ったほうが楽しいからまた今度にしよう」
「やあだぁぁぁ、今日がいい!!」
「今日は、ママしかいないから、ジェットコースターも、観覧車も、お化け屋敷も入れないよ?」
だけど太陽は泣き続ける。
「やだぁぁ!!入るの!!今日入るのぉぉ!!!」
「今度にしたら、全部できるよ?あっ、じゃあ、じゃあさ、こうしない!?」
(考えて、考えるのよ、私……)
「ひっく、うぐっ………」
私は目頭を揉んだあと、にっこり笑顔を作った。
「遊園地と水族館はまた今度、その代わり、次に行った時には太陽が乗りたいものは全部パパに乗せてもらおう?」
「うっ……、でも……」
チラッとこちらを見た太陽に私は言葉巧みに続けた。
(このまま押せば行けるかもしれない……)
「その代わり、今日は約束通り昆虫展を見に行こう?これは今日いかないと終わっちゃうしね、そして、ちょっと待ってね、その辺りで他に何かイベントやってないか調べるからね」
そう言いながら、私はスマホのイベント情報を調べて、ある情報に行き着き笑みを浮かべた。
「太陽、昆虫展のすぐそばで、絵本展もやってるみたいだよ、そう言えば、この間、園でチラシを貰ったイベントじゃないかなぁ!?」
その瞬間太陽の肩は明らかにピクリと反応した。
(よし!食いついた?)
「た、たしか太陽の好きな絵本の作家さんも来るって先生言ってたのに、うっかりそのまま忘れちゃってたね、思い出してよかったね?行ってみようか?」
「いっ、行く!!」
その瞬間ぱぁぁっと顔を輝かした太陽を見て私は心のなかでガッツポーズを決めた。
太陽の後ろでは夫が手を合わせていたので、太陽に気付かれないように、密かに親指をたてる。
「ご、ごめんな、太陽、早く帰れたら、飯は皆で食いにいこうな?焼き肉にするか??」
「もう、パパは、期待させる事ばっかり言わない!!」
そう言って睨み付ける私に夫は面目ないと苦笑した。
「ははっ、ごめん、でも、本当に出来るだけ早く帰るから、いい子してろよ?」
そう言って太陽の頭を撫でる夫。
「うん!行ってらっしゃい、遊園地と水族館は違う日に行くんだからね、絶対、絶対、約束だからね!!」
そう釘を指す息子の頭をくしゃっと撫でる夫。
「分かってるって!」
「絶対だよ!」
「おうっ!」
「行ってらっしゃい、気を付けてね」
そう言った私の頬にも夫は触れてそっと囁いた。
「うん、陽愛さん、ありがとね」
そう言った瞬間、太陽からは見えない角度で唇をチュッと合わせる夫に赤面した私は抗議の目を向ける。
「ちょ……!!」
「じゃあ、よろしくね!」
それを可笑しそうに見て夫は扉の向こうに姿を消した。
「もう! ………よし、じゃあ、日向、ご飯食べちゃうよ!?」
「はぁぁい!!」
「あっ、その前に、葉月にもご飯あげちゃいなさい!」
「うん!!」
そして、食事をとり、支度をすませると、太陽の膝でクゥゥンと甘える声がする。
「ごめんね、ハヅたん、今日は連れていけないんだ」
そう言って葉月の頭を撫でる太陽。
「クィィィン、ハッハッハッハッ……」
「お土産買ってくるから、いい子しててね」
そんな生意気な事を言っている息子に、日頃の夫の口調を重ねて苦笑する。
---ほんとうに良く似てきた
「行こうか?」
「うん!!」
私は、太陽と一緒に博物館を訪れた。
「ヘラクレスだぁ!やっぱり格好いいな、見て、ママ、ゾウカブトもいるよ?」
嬉しそうに目を輝かせる息子に私も笑みが溢れる。
やはり、連れてきてよかった。
「本当だ、強そうだし、それに高そうだねっ……」
そう言って苦笑する私に、太陽は別のところを指差した。
「あっちはクワガタだ!!見てきていい?」
「人にぶつからないように静かに見るんだよ?ママ、ここにいるからね?」
そう言って、休憩用のソファを指差す私に太陽は頬を真っ赤にしながら頷いた。
「うん、行ってくる」
コロコロと表情を変えながら、楽しそうに会場を転々としている太陽の姿を見守る。
これは、長期戦になりそうだと苦笑しながら、今日は飽きるまで付き合うかと覚悟を決める。
そして、行き着くところはお決まりの昆虫触れ合いコーナーだ。
(そうそう最後は離れないんだよね、ああいう場所から………)
私は自販機でコーヒーを買って、触れあいコーナー近くのソファに座り直して太陽の背中を確認する。
(あははっ、もう、友達が出来てる!)
数人の男の子や女の子と昆虫を見せあいながら、興奮したようにああだこうだと笑いあう姿が微笑ましくて、私は目を細めた。
子供の凄いところは、何と言っても友達を現地調達できるところだと思う。
そこには何の打算も、期待も存在しなくて、ただその瞬間を共に謳歌する。
そして、きっともう会えない一期一会の出会いと別れに、またね、遊んでくれてありがとうと満面の笑みで感謝と別れを告げるのだ。
---いいよね、そういう出会いも
結構な時間をそうして過ごす子供達を見つめていた。
そして、時計をみた私は立ち上がった。
「太陽、そろそろ行こうか……」
「やだぁ!まだ遊ぶぅ!!」
予想通りの回答に苦笑するも私は諭すように言った。
「楽しいのは分かるよ、お友だちも出来て良かったね、だけど、絵本展にいくのならもう移動しないと、今度はあっちがほとんど見られなくなっちゃうけど、いいのかな?」
そう言った瞬間、太陽は困ったような表情を浮かべた。
「それもやだ……」
途端に窮したような難しい顔になる太陽。
こんな時の表情は凄く夫の桐谷に似ている。
昔告白されたとき「本当に友達でいいの」と聞いた時の答えに困った顔と似すぎていて私は苦笑した。
「でしょう?だったら、お友だちに、ありがとうってバイバイして、絵本見に行こう?」
「う、うん、でも……」
その会話を聞いてお友だちの一人が寂しそうに太陽に声をかけた。
琥珀色の瞳をした随分綺麗な顔立ちをした男の子だ。
「もう、いくの?」
そう問いかけられた瞬間、太陽も覚悟を決めたのだろう。
「うん、遊んでくれてありがとう、僕、これから絵本展に行くんだ!」
その瞬間、男の子の目が見開かれた。
「絵本展?そ、そうなんだ」
「君も行けばいいのに?絵本は好き?」
太陽はその子にそう問いかけた。
どうやら、このお友だちとのやり取りが楽しくて後ろ髪を引かれているようだ。
「す、好きだよ!?だけど、僕はもう絵本は午前中に見たから、ここでお父さんを待ってるんだ。ほら、あそこにいるのが、絵本展のスタッフのおじさんだよ。パパがもう少し忙しいからここで待ってようねって連れてきてもらったの……」
男の子が指差す方角には、時々家族連れにチラシを渡す気の良さそうな年配の男性がいた。
「そっか……」
太陽はその言葉に残念そうに眉を下げた。
男の子の言葉から察すると、お父さんが絵本展の関係者なのかもしれない。
指をさされた初老の男性は私たちに気付いたのだろう。
穏やかに頭を下げて笑顔でこちらに近づいてきた。
「おじさん、このお友だちも今から絵本展に行くんだって!」
その言葉に男性は、「そうですか、是非、楽しんできてくださいね!」とにっこり笑って、「では、ぼうやにこれを…」と太陽に小さなセミのキーホルダーを渡してくれた。
「わぁぁ、セミだ♡」
顔を輝かせる太陽を横目に私は、男性に声をかけた。
「可愛いですね、でもっ、戴いてもいいんですか?」
「構いませんよ、午前中に時間限定で配った分の残りですから、種類は沢山あったんですが、もうセミしか残ってないのですがね、やはりカブトムシの人気は絶大だったねぇ」
そう言って汗をふきふき微笑む男性に私は恐縮した。
「そんな、ありがとうございます!太陽、良かったね、ちゃんとお礼言いなさい!!」
「ありがとう、おじちゃん、大切にするね?」
そう言って嬉しそうにお礼を言う太陽に、男性も表情を崩した。
「あぁ、大切にしてくれるなら、セミさんもきっと喜んでくれるね、昆虫が好きなのかい?」
「うん!」
「それは昆虫のお話も手掛けている絵本作家さんのキャラクターだから探してみるといい」
男性がそう言った瞬間、太陽はそのセミを穴が開きそうなほど見つめた。
「僕、知ってるよ!八日間の大冒険のセミさんでしょ!?」
「おやおや、ぼうや、よく知っているね、最近人気のお話でね、おじさんもあの話は大好きさ……」
そして、男性は少しだけ声を潜めて、秘密めいた声で囁いた。
「ここだけの話だがね、このぼうやのお父さんがその作品を書いた作家さんなんだよ?」
「えっ、そうなの!?すごい!!!」「え!?そうなんですか!!」
私たちは、二人で目を瞬かせた。
「人気作家さんでなかなかサイン会の人が引かなくてね、それで退屈した息子さんとここまで遠征してきたんですよ」
そうにこやかに話していた男性だが、腕時計を見た瞬間、あっと少し困った顔になったのだ。
「おやおや、もう三時半だ、もっとお話したいけれど、絵本展の入場受付は四時までだからね、早くいかないと、終了してしまうよ?近道は知ってるかな、そこをまっすぐ通って、中を抜けていけば、多分、十分くらい前には到着すると思うから……」
その言葉に私は焦った。
「ママぁ?」
太陽が不安そうに私を見上げる。
終了時間を見ていて受け付け時間を意識していなかった私は一瞬迷ったが、太陽の手をきゅっと握りしめた。
「ありがとうございます、太陽急ごう!」
「うん!ありがとうおじさん、君もあそんでくれてありがとう、またね!!」
「うん、またね」
その挨拶に男の子も少し残念そうに笑みを浮かべる。
私は、手を振ってくれる男性と男の子に頭を下げて、太陽の手を引き絵本展に急いだ。
ギリギリで受付をすませた私たちは会場に入った。
そこはあまり大きな空間ではないけれど、色とりどりの絵本が並べられた素敵な展示スペースだった。
「さきほど、サイン会が終わって、ちょうど来られていた作家さん達も引き上げてしまったところなんですが、時間までゆっくりしていって下さいね、あっ、僕、そのセミって」
「さっき、昆虫展でスタッフのおじさんにもらったの!!」
そう言って、セミのキーホルダを高く持ち上げる太陽の言葉に思い当たった、スタッフの女性は顔を綻ばせた。
「そっか、それはラッキーだったわね、もう会場の分は配り終えてしまってたから、ほら、そのセミさんの絵本はあっちのコーナーになるのよ、他にも色んな作品を手掛ける先生で、ご本人もまだお若くてとても素敵な……、あ、これは、お姉さんの個人的感想になっちゃうか……」
そう言ってぺろりと舌をだす若い女性に私たちも一緒に笑った。
「ははっ、先生イケメンなんだ!」
そう笑う、生意気な太陽にお姉さんも破顔して話を合わせる。
「そう!イケメンなのよ!!って、お姉さん仕事中だから、本当はこういう事言っちゃダメなんだけどね?」
今度はそういいながら、自分の頭を拳骨で叩く振りをする女性は大学生くらいに見えた。
きっとアルバイトのイベントスタッフなのだろうと目を細めた。
「でも、お姉さんもずっと、この作家さんのファンなのは本当なんだよ?だから今日もこっそりサインもらっちゃった!ほら!!」
「わぁぁ!!ヘラクレスの絵もある!!いいなぁ!!!」
「そうでしょう!?ここですよ!」
そして、そのコーナーに足を止めた瞬間、私は、全身に鳥肌のようなものが立つのを感じた。
ここに並べられている絵のタッチを、世界観を私は確かに知っていたからだ。
---なにっ、これ、嘘、でしょ?
心臓が波打っていた。
《ママ、見て!病院の下に来たお兄さんが、絵本をくれたんだよ!》
《えっ!絵本を?日向にだけ?》
《ううん、何冊か持ってて、他のお友だちにも配ってた!!お日様の本、お日様はみんなから大切にされているのにお友だちが出来ないんだ……、ひとりぼっちでさみしいんだって》
《え、お友だち出来ないって……もしかして、熱すぎるから??》
その当然の推測に日向はぱぁぁっと瞳を輝かせた。
《正解!!なんでわかったの?ママすごぉぉい!!天才!!!》
《やっぱりかぁ……》
そうして、日向にせがまれて、その絵本を読んだ時の事を思い出した。
夕暮れ時の西日が差し込む病室で、いつの間にか眠った日向の傍らで、涙が溢れて止まらなくなったあの日の事を、鮮明に思い出したのだ。
途中で寝てしまっていた日向がふいに目を開けて、本を手にしたままの私に首を傾げた。
「どうしてそんなに泣くの?お日様ちゃんと幸せになったよね?」
そう問われた私は、泣き笑いするように日向の頭を撫でて抱き締めた。
「そうだね、お日様は幸せになったよ、だからよかったねって、嬉しくて泣いてるの…」
たしか日向が亡くなる一ヶ月ほど前の夏の終わりの夕暮れだった。
◇◇◇
その世界では、お日様は、誰よりも愛されていた。
だけど、お日様には友達がいなかった。
近づくもの全てを焼き付くしてしまう特別な存在だったからだ。
みんなはお日様を見つめて微笑む、感謝する。
お日様は凄いのだと……
だけど、お日様は誰にも近づけない。
お日様は、地上で仲間と過ごす人間や、動植物が羨ましいと思う気持ちが日に日に強まった。
ある日、お日様は考えた。
自分の体のほんの一部分だけを小さく小さく切り取って、そこに気持ちをたくさん、たくさん込めて地上に送り込んだなら、自分にもお友だちが出来るのではないかと………
お日様の思った通り、地上に降りた小さなお日様の分身には、地上で大切な人がたくさんできた。
皆、地上のお日様を、まるで日だまりのような優しい人だと、愛してくれた。
お日様ももちろん、彼らをとても愛していた。
そしてお日様には特別に大切な人もできた。
その人に触れると、お日様の心は益々、ポカポカと熱く暖かくなったのだ。
だけど、幸せだったお日様は、少しずつ大変な事実に気付くことになる。
お日様は、絶対的な存在だった。
唯一無二の強い影響力を持つ存在だった。
---誰がなんと言おうと、お日様がそれをどう思おうと関係ない
お日様の大きさと力と、世界との距離感………
それが、人々が幸せに暮らせるための絶対的な生存条件となっていたのだ。
やがて、分身のお日様が降り立った冷たく寒い国の雪と氷は溶けはじめて………
溶けた雪と氷は海に流れ込み水嵩を増し、小さな島々とそこに住む動植物を飲み込んだ。
そして、お日様本体がほんの少しだけ小さくなった影響で、今まで温暖だった国々は十分な日光と暖かさを受けることの出来なくなった。
それからは植物が上手く育たなくなり、多くの人々がお腹を空かせ困って泣いた。
慌てたお日様は、全てを元通りにしなければと考えた……
泣きながら必死に必死に考えた……
体を元の場所に戻し、自分は決して地上に手を伸ばしてはいけない。
だけど、お日様がどれだけそうしようと思っても元には戻せないものがひとつだけあったのだ。
《お日様の気持ち》
それだけは、どれだけ物理的な距離をとろうとも愛する人達の傍から離れる事は出来なかったのだ。
このままではお日様の愛する人達を思う気持ちが、愛する人達を不幸にしてしまうかもしれない……
愛する人を亡くす怖さを知ったお日様は神様にひたすら祈った。
---どうか、どうか、どうか、私の気持ちがあの地上に残っていることで、人々が不幸になりませんように
大切なあの人を苦しめることがありませんように。
そうしてくださったら、私は、ずっとここにいます、たとえ、心など持たないただの熱い石の塊になったとしても。
お日様の懸命な願いを憐れに思った世界の創造主である神様は、お日様の熱い熱い想いを、特別な神の力で覆い隠し、お日様が想いを寄せる唯一の女性の腹に一番自然な形で命として宿した。
そうすれば、全てを忘れたお日様の気持ちがいつか、最初に触れる事になるのは、お日様の一番大切な女性になるだろうと思ったから。
彼女の誰よりも優しい笑顔がお日様の心を照らしてくれると信じたから。
神様の期待通り、彼女は生涯、お日様の心に無償の愛を捧げた。
その隣で微笑む男性は、お日様ではないけれど、記憶をなくしたお日様はその男性にも、とびきりの笑顔で微笑んだ。
大切な母親と、それと同じ目線で自分に微笑みかけてくれる優しい存在だったから。
お日様は、優しい家族の元に育ちたくさん笑った。
もちろん地上で輝く太陽のように、無数の人を幸せにすることは出来ない……
だけど、その分、地上で出会った人を幸せな気持ちにすることはできるのだ。
素直に愛情を示し許可を得たなら、特別な人にだって深く溺れるように触れることだってできる。
そうして、母を得たお日様の周りには、別世界の暖かさが広がった。
そして、お日様の心もその家族も最期まで知ることはなかった。
---かつて自分が、太陽だったことを
◇◇◇
そんな絵本の内容を思い出した私はそわそわと辺りを見回した。
「ここってもしかして、お日様の絵本も、展示されているんですか?」
確信に近い推測で、震えそうになる声を必死を押さえながら聞く私に 、スタッフの女性は、一瞬きょとんとした顔で答えた。
「いえ、久遠先生の作品には、いまのところ、お日様……、太陽を題材にしたものは無かったはずですけど……」
---太陽の本が、存在しない?
その意味するところと、かつて読んだ絵本の内容に私の胸はザワザワと音を立てていた。
---海晴
幼馴染みであり、かつての恋人とのやり取りを思い出す。
《ねぇ、陽愛、僕たち、ずっと、一緒にいられたらいいね………》
《陽愛、どこにもいかないで………》
《愛してるよ………》
《違うんだ、陽愛……、僕は、僕は陽愛………》
八日間の大冒険
---作者、久遠ひなた
本の題名と、ペンネームを見て胸が震えた。
涙が込み上げそうになる。
久遠……
それは切なくなるくらい遠く、だけどずっと変わらない事を示している。
(ひなた…… お日様………)
心がザワザワするのを抑えられない私は振り返った。
「作者の先生は、今、どこへ………」
私は震える声でそうスタッフの女性に問いかけた。
「え、先生ですか?確か、三十分くらい前に、息子さんを迎えにいって公園で遊ばせてから帰られるから、打ち上げにはいけないって仰られてましたが……」
女性は戸惑ったようにそう答えた。
「そう、ですか…」
「太陽!」
私は、その場に座り絵本を物色している太陽から本を取り上げた。
「えっ、ママ、どうしたの?」
「ごめん、ママ、公園に用事できたから、ここにはまた来よう?欲しい絵本は今度絶対買ってあげるから!約束するから!!」
そういって太陽の腕を掴んで走り出す私に太陽は戸惑ったような声をあげた。
「え、ママ、ちょっと待って、どうしたの?折角きたのに……」
「ごめんね、だけど、今日だけは、ママの言うこときいて!!」
私の剣幕に驚く太陽の手を引いて、私は必死で走り出した。
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