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第十一章 歪曲の世界②
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「僕は思うんだ、あの人、兄さんと巫南はきっと、元々一対なんじゃないかなって」
海晴は憂いた吐息を吐きそう言った。
「まぁ、これは僕の憶測で、あの信仰に本当に強い意味があるとしたらだけどね……」
「意味…」
眉を寄せた私に海晴は頷いた。
「兄の風雅はきっと、巫南と一体となって生を受け取るべき魂を持った器、そう言った存在だったんじゃないかなと思うんだ…」
私はあまりの内容に目を瞬かせた。
「そんな…」
「巫南があの島で生涯一人でいても、寂しくないように」
「その為の器、そんなまさか……」
「そう、まあ、これはものの例えだけどね、そんなようなもの。だけど、人としての欲を持ってしまった僕の母の行いが原因で、巫南は入るべき箱を失ってこの世をさ迷うことになったとしたら…」
(迷い神……)
私の心には自然とそんな言葉が浮かんだ。
そうだとしたら、多くの不可思議なことが意味を持ち、繋がってくるように思う。
「そして、現状を理解できない彼女は安息の存在を求めて兄さんの傍に寄り添っていた……、だけど兄さんは……」
ーーー突然、いなくなってしまった
なんて痛々しい話だろうか。
「そこで大きく歪みが生じたとしたら、思うんだ。僕は、本来は生まれるはずの無かった命だったんじゃないかってね」
「海晴…」
「器はひとつしかいらない、しかも本来は一体で離れてはいけないものだったとしたら」
「……」
「でもしきたりを破り、男子となってしまった体は、一つの存在とは成りきれず、兄は奪われ、僕は生まれた、そして母さんは死んだ、死ねなかった母さんがようやく死ねたのだとしたら…」
その言葉に悪寒が走る。
「運命は、僕らに試練を与えてこの不都合を相殺しようとしていたんじゃないかな、不完全な器をもうひとつ増やして、僕は段々とそんな考えに囚われ始めた…」
海晴はそう言って黙り込んだ。
「そんな……」
「大丈夫、今は、その使命の意味がなんとなくだけど、分かってるように思うんだ。だから、寂しくない、もう僕は寂しくはないよ陽愛……」
「光、あの子がいるから……」
そう言われた私は、太陽と無邪気に戯れる綺麗な顔をした幼い少年を見つめた。
「光くん」
「そう、光が傍にいてくれる…」
「あっ、でも……」
私は過去の経緯から光くんのお母さんは南さんであることを知っている。
だけど、不自然なほどに今ここにいる二人にはその影を感じない。
(光くんのお母さんは、南さんは、今一体どうしているんだろう?)
「…南さんは」
そう問いかけた私の胸はドクンドクンと嫌な音を立てていた。
「………死んだ」
そう言った海晴は、小さく笑った。
その表情には、明らかな悲しみと、少しの安堵が混ざっているように思えてならなかった。
「南はね、………何度も死んだんだ」
通常では頷けないはずの言葉に、私はやはりと、言葉なく頷いた。
小さく笑った海晴は、まるで子供が文句を言うかのように呟いた。
それは、少しだけ私が知っているあの頃の海晴のようだった。
「本当に迷惑な女、僕が好きだったのは、ずっと陽愛ただ一人だったのに、そのはずだったのに…」
「海晴………」
「陽愛と、ずっと一緒にいたかった。あの頃の僕は、偽りなくそう思っていたよ………」
「……うん」
今、時を越えて、はっきりと過去形になっている言葉を受け止めた。
「だけど、南は悲しい女性だった、そして僕たちはとてもよく似ていた、特に、なにかが欠けていることがね」
ほぅ、とまた一つ息を吐いた海晴は、無表情に遠くを見つめて口を開いた。
「………南は、死ぬ運命だったんだ」
「っ………」
私はその言葉に目を見開いた。
「おそらく、実体を手にした瞬間それは運命付けられたんだと思う」
「そんな…」
「彼女は、僕より先にそれに気付いた、そして僕もやがて、それが抗う事のできない法則のようなものだと信じるしかなくなった……」
「ど、どうして………」
その問いかけにしばらく押し黙った海晴は、静かに口を開いた。
「それは、彼女が能力者だから……」
「能力者…」
「そう、時を操る、いや、時を操るのは手段に過ぎなくて、彼女もまた残酷な時間に翻弄されながら足掻いてたんだと思う…」
南さんも足掻いていた?
「南自身もそれを本当の意味で制御できる力は持ってはいなかった。だから彼女は現状に絶望して足掻く度にタイムリープを繰り返したんだ」
「えっ……」
私は背筋が凍る思いだった。
「今となっては、そう思えてならないんだ。そして、僕たちは、南の生と死の狭間にある葛藤と願望の渦に空間を超えて巻き込まれた………」
「南さんは、なんの為に………」
私の乾いた問いに海晴はまた一つ息を吐いてこう言った。
「今だから思うことだけど、あの二人、南と兄さんの出会いも再開もきっと運命だった、だけど、一度狂ってしまった運命は、もはや誰かを巻き込まずに修正される事は無かったんだと思う………」
「そんな……」
「それは今なら僕もよくわかる……」
「そして、そんな事を突き付けられる度に、南は手段を選ばない鬼になっていたんだ」
(手段を選ばない鬼?)
海晴はまるで自分を責めるようにそう言い、静かに、語り始めた。
その話は海晴が見てきた世界と、私の知っている二つの世界がとても皮肉な糸で結びついている事を私に突きつけるものだった。
◇◇海晴視点◇◇
元々、南に恋愛感情なんてなかった。
ただどうしようもない懐かしさと一体感が燻っていたのは否定しない。
たぶん、南も同じだったんだと思う。
だから、陽愛を裏切って彼女とどうこうなりたいなんて気持ちは微塵もなかった。
それだけは自信を持って言える。
だって、陽愛はつまらない僕の人生をいつだって暖かいもので満たしてくれる日溜まりのような人だったから。僕は小さな頃から陽愛の傍にいられるだけで幸せだった。
今でも時々思うんだ。
南、彼女とは、もし人生の一ページというものが存在するとしたら、そこですれ違い様に互いに大きく手を振って、「幸せでな」「お前もな」って笑顔で通り過ぎられたら良かった。
だけど、それが出来ないくらいに、世界にとって南の存在は圧倒的だった。
そして、僕の生そのものがそんな彼女の強い力に紐付いたものだったんだろう。
今なら思う、きっと、僕たちの本質は誰よりもよく似ていた。
たぶん、僕は兄さんの影のような存在だから……
僕は、思いがけない形でそれを思い知らされる事になった。
見えない力に踊らされる、究極の罪と罰の世界。
自分はそんな世界の住民であることを本当の意味で思い知ったのはどの世界だっただろうか。
僕は、自分自身を何度も…
そう何度も上書きされて弄ばれるような恐ろしさを感じていた。
ーーータイムリープは恐ろしい
何が恐ろしいって、どんどん自分が分からなくなるから。
好きな人を失うことをひたすら怖がって足掻いてはずの自分には、いつの間にか別の絆も出来ていて、守りたいものも増えていく。
矛盾してることなんて、分かりきっているのに僕は段々と欲張りになっていく。
あれは、いつの空間、どの自分?
それすらもよくわからない。
どの記憶が一番古いのだろう、それは分からないけど、僕のなかではまぁまぁ古い記憶の南は、本当に憎たらしい女だった。
あの日、僕はホテルのベッドに寝ていたんだ。そしてその隣には、全裸の女性が眠っていた。
僕は彼女を知っていた。
名乗られるまでもなく、彼女の名前は大地南だった。
あのとき僕は南は、僕の過去にいた巫南なことも理解していた。
だけど、僕の記憶は見事に混乱していた。
南を抱いた生々しい記憶が脳に残っていたからだ。
だけど、僕の本能はそれを真実じゃないと否定した。
僕は酷く腹を立てた。
南を女性として愛した記憶を、陽愛が大好きな自分が全力で否定したからだ。
陽愛を好きな気持ちを汚されたようで、悔しかった。
更に言うなら、本当に身体まで重ねたのか、この脳裏の記憶は幻なのか、多分僕たちにとって重要なのはそんな事ではなくて、僕と南は僕の自我の所有権を争っていた。
「南、なんでここに、僕たち………」
「ふふっ、海晴、おはよう、もう一回する?」
「っ………」
「ねぇ、海晴?」
「し、しない!っていうか、してない!僕してないよね??」
「あらっ、随分と往生際が悪いのね、ちゃんと記憶だってあるでしょう……」
「う、嘘だっ…」
「そう、やっぱりこんな状態でも私に恥をかかせて陽愛さんに操立てするのね?」
「そ、そうだけど、そうじゃなくて……」
「………ふふっ」
「…へ?」
「嘘よ、でも、合格。やっぱり海晴、あなたは付いて来られるのね、記憶の一部をちゃんと維持して…」
南は試すようにそう言った。
「…風雅はダメ、役に立たない。柵が枷のように纏わりついて、自分の子供すら守る力を失ってるなんて、まるでゴミ箱だわ」
「えっ……、何を言って?」
「今回は、少し混乱しているようだけど、きっとあなたになら任せられる……」
僕にはその時、彼女の言っている事の意味が全く分からなかった。
何故、彼女が陽愛の名前を知っているのかも…
それはどこかの世界で、突然現れた南に情報操作されて試された僕の話。
「一体なにを言っているんだ?」
あの時の僕は段々と空恐ろしい気持ちに支配されはじめていた。
南の事は認識できる。
だけど、僕は僕の記憶に自信が持てなくなっていた。
まるで幻覚を見せられているような不安感に自分の中の第六感が警鐘を鳴らしていた。
この女からは逃げられないと…
その時、彼女は突然表情を歪ませて僕に迫った。
「ねぇ、海晴、今度は助けて?」
「な、にを…」
「どうしていつも私だけなのよ、苦しいのも、辛いのも、寂しいのも、こんな世界嫌い」
「巫南…」
「なのにこんな世界に、あの子を置いて、最期にはたった一人で逝かせるなんて………」
そう苛立った声でブツブツと言い始める彼女の形相が変わるのを見て僕は驚愕した。
「南?」
彼女は突然僕の胸ぐらを掴んで金切り声をあげた。
「今度はちゃんと思い出しなさいよ!早く!!迎えにきてよ!!!私の光を!!!そうしないと許さないから、あなた達だけ幸せになんて絶対なれない、なれないんだから…」
鬼気迫る勢いに僕は顔色を失った。
「な、なにを…」
「覚えていて!今日、私とここで逢ったこと!!」
「待って、何言ってるのか、分からない、本当に分からないんだ、光ってなに?誰かの名前なの??」
そう言った瞬間、彼女は一層暗いオーラをまとった。
その時の僕は蛇に睨まれた蛙のようだった。
「光は、私たちの子、そうでしょう?親の癖にそんな事も忘れるなんて、酷いわ、海晴……」
(僕たちの子………)
「ま、待って、南、僕、本当に………」
(あぁ、これは、これはきっと南の嘘だ、嘘だ………、だって僕は陽愛を……)
---ー裏切らない、裏切らないよ
だけど、僕は混乱していた。
その時の目の前の出来事だって、その世界でのことなのか、他の世界でのことなのか、よく分からない。
僕は僕である事を失いかけていた。
そして自分の立ち位置すらも…
だって、巫南が言うように、確かな記憶があったから。
僕は小さな男の子の手を握って、その子を抱き上げて空を見上げている。
その子は空の雲を指差して僕に微笑みかける。
僕は日に日に成長を遂げる少年に目を細める。
そして、僕によく似た面差しの男の子は満面の笑顔で呼ぶんだ「パパ」って……
傍にはそんな僕達を見つめながら微笑む南がいて、男の子、光は彼女をママと呼び、僕の腕の中から、嬉しそうに手を振るんだ。
どこを旅していた時の記憶なのか分からない。
順番なんて滅茶苦茶なループだった。
だけど朧げに思い出す、たぶんそんな日常でも、光という少年の誕生や成長を喜んでいても、僕は消えない違和感を抱き続ける。
ーーここは違う、ここは僕のいる場所じゃないって
やがてそれは自分の運命と南への憎悪のうねりに変わる。
(戻せ、戻せ、戻せ、僕の世界を、陽愛はどこだ?陽愛の元に返せ、僕の世界を僕に返せ……)
そうして気づくと、平穏な世界に僕はいる。
だけど、いつからだろう。
僕はだんだんとその平穏が苦しくなってきた。
自分の一部のような何か大切なものを失ってしまったような喪失感に僕は塞ぎ込んだ。
たぶん、南はそうなることを分かってた。
だから、あんな手段で僕を追い詰めて、僕の心を徐々に蝕んでいったんだと思う。
ーーー彼女と彼女の息子の為に
「光、大丈夫よ、今度はちゃんとパパが迎えに来てくれるから、必ず…」
そうして僕は自我と立ち位置を失い始めていた。
だけど徐々に適応してきたのか、タイムリープの瞬間と、今自分が見ているものがその世界の本当の姿なのか、南が僕に見せている幻覚に過ぎないものなのかの区別ができるようになってきた。
そして、徐々にではあるが、南がどんな状況に置かれて、一体僕を使って何をしようとしているのかを僕は朧げに知ったままタイムリープするようになった。
(流されない、陽愛の元に戻る、何度でも…)
この頃から、南は一層苛立ち始めた。
僕が陽愛に執着して言うことを聞かないから。
「光を忘れるなんて、許さない!!絶対に許さない!!!思い出せ!!!思い出しなさいよ!!!!」
(思い出してない訳じゃない、だけどそれは君たちの問題だ…)
罪悪感と同時に憎悪を覚える。
過去のどの時間だろう、幾度にも渡るやり取りが蘇る。
「あなたの子供よ?お願い、彼女と別れて……」
「いやだ、俺は陽愛と別れない……」
「そう、私と光はどうなってもいいのね?」
「光?光って誰だよ??」
「っ、使えない男ね、さようなら、海晴、今度は必ず救って、私たちを救って……」
「ちょっと待て!何をする!?」
待っているわ………
そう言った彼女が妖しい笑みを浮かべてマンションのベランダから身を投じた記憶も蘇る。
血が凍るような怖気と同時に理解する。
南が死んでも世界は戻る、いや違う、切り替わるように巻き戻される。
そして不安になる。
---僕の、元の世界はどこにある?
帰らなければ、陽愛のところに、例え、この世界の南を殺してでも、何度でも、何十回でも
---陽愛、陽愛、どこにいるの?
僕は寂しいよ、君がいなければ
ーーーどこ? 陽愛どこにいるの?逢いたいよ
きっとこの世界には陽愛がいる。
(いた、見つけた、ようやく、陽愛……)
帰れた、君がいる場所に、だけど…
ーーーちょっと待ってここはどこ?
その男は誰?
「俺、陽愛先輩の事が好きでした、ずっと前から」
「き、桐谷くん?」
ーーう、嘘だろう?
「陽愛、その男は誰?」
僕を睨みつけるように見つめる大きな男と、目を瞬かせて困惑している陽愛。
陽愛は僕にこんな顔はしない。
「……海晴?何でここに、私たち、別れたよね」
「はっ、別れてない!僕は別れてなんてない!そんなはずはない!!」
僕はパニックになってそう叫ぶ。
「………意味、分からないよ、海晴はパパになるんだよ?」
(は、パパ?誰のだよ?俺は、陽愛と、嘘だろうこんな世界、違う、おかしいよ、陽愛は僕との別れなんて選ばない)
ーーー僕の陽愛はどこ?
そうじゃない、憎しみに身体が焼けつきそうになる。
ここじゃない、僕の帰る場所はこんなところじゃない。
ーーー南、南はどこだ?
確かな殺意を持って僕はその姿を探す。
---殺してやる、何度でも殺してやる!
「殺してっ…」
噛み締めた唇から鉄の味がした。
「海晴、大丈夫?」
「っ………、ここは、どこだ?僕は……」
「海晴、海晴?どうしたの?怖い夢でも見たの?」
案じるように僕を見下ろす陽愛がいた。
「陽愛、陽愛………」
「どうしたの海晴?なんか変だよ……」
僕は子供みたいに泣きそうになりながら陽愛を抱きしめた。
「なんでもない、なんでもないんだよ…」
「海晴…」
「夢を見てただけ、陽愛、ここにいて……」
そう言って僕は懇願するように彼女に口付けた。
「好きだよ、陽愛、ずっと、一緒にいよう………」
理性なんて持ちようがない夜だった。
「ちょっと、海晴……、それに、あっ、ダメだよ、ちゃんと着けないと」
欲しいのは永遠だけ、陽愛と僕との永遠だけ…
他には何も、そう、何も……
「いらないっ……」
ーー僕達を隔てるものなんて何もいらない
消えてしまえばいい、僕と陽愛を残して
もし再び引き裂かれても…
どんなに離れても、君のいるここに帰って来る。
ここをそんな場所に出来たらいいな。
何度飛ばされても、僕は君と生きる為に、ここに戻ってくるよ………
いつかの時の流れのなかの、友人の結婚式の夜の話。
だけど、数日後、陽愛は事故にあい、帰らぬ人となった。そして僕はまた、南に手をかけた。
もう、鬼はきっと僕の方だったね。
「パパ…」
ーーなんだ、この世界は?
「光……」
ーーなんで僕はこのこの名前を呼んでいる。
さっきまで、俺は確かに陽愛と
(また、飛ばされたのか…)
「ママが、ママが、死んじゃうよ……」
(はっ、死ねばいい、死んでくれないと、僕は帰れないから)
「パパは、僕とずっと一緒にいてくれるって、本当?」
(そんなはずないだろ、僕は君のパパじゃない、君のパパなんかじゃないから……)
だけど、僕は気付いていた。
ここまでして南が抗い続けているひとつの結末。
それが光の死だということに……
実体を持ってしまった南には制約ができた。
南は長く生きられない。
そして南は兄、風雅には光を守れないことを悟ってしまったのだ。
南の死後、光はどうやっても殺されてしまうのだ。
嫉妬に狂って精神を病んだ風雅を愛するもう一人の悲しき女性凛子によって。
八方塞がりのなか、僕は神を憎んだ。
僕は南や凛子を責める資格のある人間ではない。
浅ましい自分の記憶は時を隔ててももう消えない。
そしていつの日か僕は葛藤するようになった。
---今の僕は、陽愛の隣に相応しいと言えるだろうか?
夜中に魘されて目を覚ます事も日常だった。
夢でも現実とも言えない現実でも、大抵自分のせいで誰かが死んでしまう。
それは、南だったり、陽愛だったり、光だったり
---夢なのか?
---現実なのか?
目の前で繰り広げられる、愛と欲望と裏切りと喪失。
恐怖と不安に支配される世界での僕はいつだって、大切なものを守ろうと利己的に考え行動をする。
だけど、大切なものは死んでいく……
僕を恨みながら死んでいく……
そして僕は自分を責め続ける………
そしてまた目覚める。
こんな生活がいつまで続くのか。
もういっそ、僕が折れてしまったら、こんな傷だらけのループは終わるのか、だけど僕にはそんな覚悟は持てなかった。
なのに、見えない絆にも引っ張られる。
だからきっと、どの世界でも君の前にいた僕は歪だったよね?
---ごめんね陽愛、たくさん傷つけてごめんね
そして僕は、何度目かの世界で君と出会った。
「海晴、私と結婚してくれるよね?」
「あなたの子よ?」
そう微笑む南もこの世界での俺がちゃんと前世の記憶をもっているのかを探っている。
狸と狸の化かしあいだ…
そして、今の俺は、南が嘘をついている事も知っている。
腹の子は、僕の子供ではない。
でも、そうだ、南、君のお腹の中にいるのは僕の子だ。
たとえ血が繋がっていなくても、光、君は僕の息子。
「あぁ……」
僕は、南にそう答えた。
「大切にするよ、光のことも、君のことも……」
そう言った僕に彼女は目を見開いた。
「じゃあ、陽愛さんとも?」
「あぁ、別れるよ………、もうすこし先になるけどね、だけど時間が欲しい、彼女を絶対に死なせるわけにはいかないから」
「分かったわ………」
---これが僕たちの運命だから
「ちゃんと自分で時期をみて話すから、南は、今度だけは邪魔しないで……」
僕はそう釘を刺す。
「しないわよ、私は、光さえ守ってもらえたらそれでいいんだから………」
「またそんな事言って、もう、寝なよ?体、辛いんだろ?」
南は後ろから俺の体を抱き締めた。
「………海晴、分かってるんでしょう?これが、本当に最後になるかもしれない」
「あぁ…」
もう聞き分けなく足掻くことに時を使えないことを俺も理解していた。
ーー陽愛を守らなければならない、そして光を…
南の心身が、これまで以上に力を失っていた。
それは、タイムループ自体の絶対性を揺るがし始めているのではないかと考えた。
最初の頃は戻ればほとんど消えていた記憶が、回数を重ねるごとに夢のように潜在意識に存在し、今は、自らの意思により朧気な記憶をたどり理論付ける作業ができるようになった。
それを裏付けるように、タイムループを繰り返すごとに、過去の記憶を消す絶対的な何かを失い始め、巻き戻る時期も短くなっている。
初めは、高校生の頃に戻せていただろうループも、今では、陽愛と別れる少し前にしか戻れない……
それは、タイムループが無限で、絶対的なものではないことを表しているようだった。
そして、それはもうひとつの可能性を暗示していた。
それは、南の本質的な「死」なのだ。
それは、タイムループを繰り返してきた、南と、それに都度巻き込まれてきた記憶のある、自分にしか理解できない確かな予感でもあった。
「海晴、ごめんなさい……、巻き込んで……」
体よりもずっと衰弱した表情で彼女はそう呟く。
「そうだね、巻き込まれちゃったね……、でもきっと僕は元々部外者じゃないから、そうなんだろ、南……」
そう言って、僕は南の腹を撫でた。
この時にはもう、朧げに感じていた。
巫南は、兄風雅が生まれた事で迷い神のような存在となった、そして兄と情を交わし、光が生まれ、そんな光を守れるのは自分だけ…
結局、僕らは離れきれなくて、形を変えてここにいるに過ぎないのかもしれない。
「そうやって、あなた段々優しくなるから、調子狂っちゃう……」
いつも強気な南の目尻から涙が溢れる。
「それは仕方ない……」
最初はなかった感情が芽生えてそれがどうしたって蓄積されてしまうから。
繰り返すタイムループのなかで、分かったことがいくつかある。
人には、変えられる運命と、変えられない運命の二種類が存在すること。
将棋の駒を進め、欲しいものを狙いにいったら、必ず負ける。
そんな状況を繰り返し、僕は気付いた。
ここに来るまで、何度も何度も、僕は陽愛を選んだ。
でも、僕が、陽愛を選ぶと南は必ず自ら死んでしまう。そして世界は南の能力により巻き戻る。
僕の生きる時間軸において彼女は《絶対的な王者》だった。
出口を見いだせなくなった俺は、苦悩の末に、身を引き裂かれる思いで陽愛から身を引いた。
結果は、皮肉なものだった。
そうすると、今度は時を置かず陽愛が死んでしまうのだ。
その結果、狂人と化した僕は、この手で南を殺すしかなかった。
陽愛がいない世界を僕は絶対認めないから。
だけど、その度に南は諦めたように、それを受け入れ抵抗しなかった。
いつだったか僕はその理由を聞いた。
すると南は「そんなあなたじゃ、どちらにしても光を守れないでしょ」と言った。
それは同時に僕の選ぶしかない運命を示していた。
この無限ループを終わらせる落とし所。
それは光と陽愛を生かす方法を探すこと。
それが僕の最期に出来ることだった。
だけど僕は、陽愛に別れを告げるのを躊躇していた。
南には今度こそ誰も傷つかない方法で別れるからといいながら内心方法が分からず途方に暮れていた。
戻ってきた世界の時間軸を理解して僕は皮肉な笑みを浮かべた。
ーーあの夜にさえ、僕はもう戻れないのか
何度か過ごした友人の結婚式。
あの一日は、僕の人生の大きな駅のようだった。
陽愛と愛し合った数多の夜を思い出す。
僕はそこで何度も縋るように、噛み締めるように陽愛を愛した。君との未来が欲しいと陽愛を抱きしめた。
---苦しさと嫉妬から命を宿そうと願ったこともある
また、いつの世界の夜だったろう、僕は祈った。
僕は消えても構わない、だけど、神様、お願いだから陽愛を消さないでと。
そんないつの日かの僕の願いが通じたのか、この世界の陽愛はあの夜から数日経過した今、まだ生きている。
とても危ういバランスの上で生きている。
だから僕もこうして未だ別れを切り出せずに、宙ぶらりんの状態は続いている。
こんな状態、きっと陽愛にとってはもちろん、南にとっても裏切りなのかもしれない。
だけど、南は許してくれた。
---許すわ、ちゃんとこの最期の世界で光の父親として生きてくれるなら
南が僕に望むことはシンプルにただそれだけだった。
僕がどんなに南に冷たくても、罵倒しようとも南はそれを静かに受け入れる。
詳しい理由は話したがらないけれど、南は僕が光の父親になることに、強い拘りと執着を持っている。
たぶん、僕が父親にならないと光は死ぬと信じているかのようだった。
そして、それが誰よりも多くタイムリープを繰り返した経験に裏付くものであるのならば、恐らくは南の言う通りなのだろうことは察せられた。
そして僕は、断腸の思いで陽愛に別れを告げた。
だけど、その後も密かに陽愛の近況を探り、つかず離れずで彼女を見守った。
彼女の安全を見守りたくて…
嘘だ、それだけじゃない、未練があるのはもう仕方ない。僕はどうしたって僕だから。
だから、ハゲ鷹ワンコに陽愛をとられた時の痛みは筆舌に尽くしがたいものがあった。
だけど、陽愛は生きていた。
もしかしたら、あいつがいるから陽愛が生きているのかと思ったら、安堵する反面、すごく苦しくて悔しかった。
だけど、陽愛は、あいつとも突然別れた。
僕はその理由が最初は分からなかった。
だけど、やがて、それが僕の子供を妊娠していることがきっかけだと知ったとき、僕は不謹慎にも心が震えたんだ、本当に勝手な男だと自分でも思う。
---陽愛のなかに、僕の子供がいる
奇跡だと思った。
このループで僕が作った子供ではない。
だけど、この世界は、僕がループした過去の一つの延長にあったんだ。
やがて、南は出産して、男の子を産んだ。
「光よ、抱いてあげて?」
穏やかに僕を見つめる琥珀色の瞳。
そこには汚れなど一つもなかった。
当然なのかもしれないけど、僕は、その子と始めて逢った気なんてしなくって、可愛くて、愛しくて、守らなければいけない存在なんだと初めからちゃんと知っている。
そして、産まれたばかりの光を抱いてなんとなく自然な形で初めて運命を受け入れる事が出来る気がした。
これが、南がずっと僕に拘り続けてきた理由なんだと思った。
僕と光には、きっと、元々見えない絆があるのだと。
だけど、光が可愛いと思うほどに、陽愛と陽愛が産んでくれた僕の子供が幸せか健やかかが気になって仕方がなかった。
何か困ってはいないだろうか…
もしからしたら、もう新しい家族ができているのだろうか……
もう引き返せない。
だから、これでよかったのだと、そう言い聞かせながらも、僕は未練がましく無くしたものの近況を知りたいと思う気持ちを押さえられなかった。
父親として最低な生き方しか出来ないのに、折に触れて君たちの様子を窺っていたんだ。
そしてある日、僕たちの子供である日向に、重大な疾患があると気付いた。
僕は、信じられない気持ちで、日向の主治医のところに駆け込んだ。
「父親は僕です!僕の体を使ってしてやれる事はないですか?」
掴みかからんばかりの勢いにも、医師はただ、困ったように静かに答えた。
「お気持ちはお察ししますが………」
医師は首を横に振った。
「本来ならば、親権をお持ちのお母様以外に状況の説明はしないのですが……」
そう言って、まるでひとりごとのように病状を語った医師の言葉に僕は絶望した。
「お母様にも説明はしたのですが、後は、お子さんとの時間を大切にして、楽しい思い出をたくさん共有してほしいと……」
「そんな……」
---そんな事があっていい訳がない、ないんだ!!
必死になった僕は色々調べつくしたが、病状は医師の言う通りのものばかりで、無力な自分には日向を救う道は見出だす事が出来なかった。
---嘘だ、嘘だろう?まさかこんな
僕にはひとつの予感があった。
もしかしたら、死ぬはずだった陽愛に、あの時、日向というひとつの命を与えたこと。
それ事態がこんなことを引き落としているのではないかという不吉な予感に怖くなった。
---海晴、時はね、時々すごく意地悪なのよ、全てを自浄していくの、まるで、なにもなかったようにね
いつかそう言って、皮肉に笑っていた今はもういない南の顔を思い出す。
僕は堪らない気持ちになって、ついには、通りかかりの絵本作家なんて肩書きで日向に近づいた。
僕は、本当にずるい。
最悪の男として君を世に産み出し、最低の父親として生きてきた。
だけど、日向はそんな僕に満面の笑顔を向けてくれた。
抱き締める事のできない僕のお日様。
それが、陽愛と日向だったのだと僕は気付く。
僕は、僕と陽愛の面影を確かに宿す日向のなかに、自分にはない強さを見た。
彼は、幼いながらも辛い闘病生活のなかで、懸命に生きようとしていた。
そして僕よりずっと自然な笑顔で陽愛に微笑みかける君をたまらなく愛しくて羨ましいと思った。
「日向くん!」
「あっ、絵本のお兄さん!!」
「今日も会えたらいいなって思ってたの!また、お話聞かせて!?」
そう言って満面の笑顔で微笑む車椅子の少年の前に、僕はしゃがみこむ。
「いいよ」
「今日はどんなお話を聞かせてくれるの?」
僕は思い付いた話を、日向や、彼と病院生活を共にする子供達に聞かせていた。
そんな接点しか持てない実の父親を絵本のお兄さんなんて呼んで慕ってくれる幼い彼に罪悪感を感じながらも、僕はそれをやめられなかった。
---君が今日一日少しでも楽しい時間を過ごせますように
---君にどうか奇跡がおこりますように
---もし、そうでなくても決して君が意味なく消えてしまうことがありませんように
「今日はね、お日様のお話、これを君に……」
そう言って、差し出した絵本に、彼の瞳は輝いた。
「もらっていいの?すごく綺麗な絵……」
「うん、試作品だからね、まだ出回ってないものだよ、日向くんに最初に読んで欲しかったんだ」
本当は、ただ君の為だけに何日も何日も時間を割いて、描いては破りを繰り返しようやく完成させた本。
止められない涙を流しながら描き続けた僕は、果たして君の為にありったけのハッピーエンドを届けることが出来ただろうか。
今となってもそれは分からない。
「ほんとうに!?嬉しい!!お日様が笑ってる」
「うん、優しいお日様のお話だよ、さぁ、読んであげようね………」
(君のように優しいお日様、そして、僕のように寂しいお日様………)
もし、僕自身にこの絵本のお日様のような力があるのならば、僕の一番大切な一部である君を、一番暖かい世界に置いてあげられるのに。
だけどあの頃の僕にはそんな力などなかった。
日向の余命を知る数年前、南は僕に光を託して静かにこの世を去っていた。
だからもう、僕は南を殺して、世界を元に戻す事すら叶わなかった。
もし、時を戻せたとしても、日向を幸せにする方法など検討もつかないのだけれども。
そして、全てはそんな独りよがりな僕への罰だったのだろうか。
それから一月後、病状が急変した日向はこの世を去った。
僕がその事実を知ったのは、仕事で貧しい途上国を訪れていたときの事だった。
日向の主治医が迷いながらも僕に連絡をくれたのだ。
「こんな連絡を僕が独断であなたに行うのは、ルール違反です。ですが、あの様子では、お母様は誰かが見ていないと危険な状況かと思われまして…」
そう言われた僕は全身が凍りつく思いだった。
(陽愛………)
---日向が死んだ
崩れ落ちそうな絶望のその先に更なる絶望が待ち受けているような例えようのない気持ち。
---陽愛?
この上、陽愛までいなくなってしまったら……
ダメだ……
それはまるで、ここまで生きてきた自分という人間の土台すらも失われていくような恐怖だった。
繰り返す嘔吐に周りに心配をかけつつも、全ての仕事を投げ出して、陽愛の元にかけつけようとした。
---陽愛、陽愛、行かないでくれ!
「先生!前の便の欠航の為、帰りの便の予約がとれません」
---嘘だろう?
《海晴、時は、時々すごく意地悪なのよ、どんなにあがいても全てを無に帰してしまうの》
南の不吉な言葉がまるで呪いのように脳内を木霊する。
その後も必死にチケットの段取りをしたが、気持ちとは裏腹に手段は限られていた。
(間に合わない………、陽愛………)
---こんなときにさえ自分は君にかけつける事すらできない、それは、僕が僕だから?
「くそっ…………」
「先生!大丈夫ですか?先生………」
そう思い知るしかなかった。
南が死んだ今でさえも、不思議な力に僕は囚われているかのようだった。
そんな状況に窮した僕は、一枚の名刺を苦々しくとり出し顔を歪めた。
---こいつになら、助けられるのか?
僕じゃないこいつなら
それはかつて自分の元を訪れた桐谷という陽愛の同僚だった男の名刺だった。
「あの、突然すみません、俺、桐谷といいます。陽愛さんを知りませんか?ずっと探しているんです!!」
あの男もまた、この数年陽愛の行方を探していた。
だけど、陽愛の行方を知りながら、僕はあいつの問いに答えることはなかった。
表向きは、彼を残して姿を消した陽愛の意思を尊重するため。
だけど、内心はそんな理性的なものではなかったのだと思う。そう、嫉妬以外のなにものでもない。
陽愛の元を去ってからも、僕は時折陽愛の様子を窺うのを止められなかった。
だから、僕は、僕と別れてから、この男と陽愛の間に築かれつつあった関係も知っていた。
あれは正直、自分の体の一部をもぎ取られたような苦しみで、あの頃の僕はやけになってよく深酒をして南に悪態をついては困らせていた。
まるで、本来自分のものだった人生を他人にそのまま強奪されるような、憤りと寂しさを伴った黒い感情。
だけどしばらくした頃、陽愛は突然姿を消した。
僕はすぐに、人を雇って調べさせた。
そして、陽愛が海辺の町にいること、腹に子供を宿していることに気付いた。
浅ましいことに、僕は内心歓喜したんだ。
(日向の父親は僕だ、おまえじゃない………)
そんな確信が確かにあったから。
例え、この手で幸せに出来なくても……
僕の子供を育てている限り、陽愛は僕を忘れない。
だけど、桐谷は陽愛の行方を追っていた。
陽愛と僕の子供の隣に、この男が寄り添うことに僕は生涯耐え続ける事ができるだろうか。
そう思った時に、薄暗く黒い感情が体を支配した。
「知らないね、彼女とはもう随分前に別れたんだ。今は僕には妻子がいるから、今更不用意にそんな事聞かれても困るんだけど?」
そう言い放った僕に一瞬ムッとした彼はそれでも食い下がった。
「それじゃあ、もし、連絡があったら、ここに連絡してもらえませんか?」
そう言って残された一枚の名刺を僕は直ぐにゴミ箱に捨てようとした。
だけど、今にして思えば何故だろう、どうしても僕はそれを捨て去る事ができなかった。
今でも思う。
もしあの時、陽愛、君を探しにきた桐谷に、君の行き先を告げていたなら、少なくとも、あの世界の君は死なずにすんだのかもしれないね。
そして、僕のいない一組の家族が、日向、君に奇跡をおこしてくれた可能性はあったのだろうか?それともやっぱり、なかったのだろうか?
日向の死を知って、空港に足止めされていた僕は、その日ついに、あの男の名刺に書かれていた番号に電話をかけた。
「桐谷さんですか?僕、神谷、神谷海晴と言います」
「………あんた、もしかして?」
「頼みます、陽愛を、陽愛を助けてやってください………」
「ちょっと待って、いったい何が?」
「今は、あなたにしか頼めない、だから………」
「状況を教えてください」
「息子が、彼女が産んでくれた息子が……」
「っ………、分かりました!陽愛さんっ……」
短い通話が終了したスマホを、祈る思いで握り続ける事しか出来なかった。
自分の無力をただただ呪いながら、無事であって欲しいと大嫌いな神に祈り続けた。
---だけど、全ては遅かった
あの男が駆けつけた時にはすでに陽愛は息を引き取ろうとしていたのだ。
僕がようやく日本に着いたのは、陽愛がこの世を去った一週間後だった。
---嘘だろ、こんな、こんな
結局、自分は、何も守れなかったのだ。
---僕は一体何のために身を引いたんだろう
何を守ろうとしてこの生き方を選んだ?
僕も死んでしまおうか、なんて漠然と思っていたその時、スマホにメッセージが入った。
それは日向と同じ六歳になっていた光からだった。
《見て、特別賞をもらったよ!!パパ、いつ帰ってくるの?今度、美術館に展示してくれるんだって、一緒に見てほしいな》
そう言って、添付されてきた一枚の絵の画像。
そこには、必死に書いた僕の姿、後ろに天から見守るように描かれた南の笑顔があった。
《待ってるね、パパの絵本、喜んでもらえた?帰ったら、外国のお友達のお話、いっぱいいっぱい聞かせてね》
---光
一縷の希望もないような絶望に違いなかった。
だけど、そのメッセージと絵を見たとき、僕は、表現し難い葛藤を胸に抱いた。
南は僕を束縛した。
それは光の為なのだと僕は考えている。
光の存在があったから、僕は、僕の望む幸せを手にいれられなかった。
だけど、南を亡くしてから、僕は光と二人きりで生活を共にした。
《パパ、見て?上手にできたでしょ??》
《パパの痛いの飛んでいきますように………》
《パパ、大好き》
日向を愛しいと思ったから、光を息子として愛せたのか………
光から愛をもらったから、父親として日向を愛しいと思う気持ちが芽生えたのか……
今となってはもう分からない。
子供達を知らなかった頃の感情に戻ることなどもうできない。
自分は一体どこに帰ればいいのだろう。
自分はどこから間違えてしまったのだろうか。
もう一度、過去に戻れたなら………
だけど、何度繰り返したって、正しい道など存在するのか?
本当は、分かっていたのかもしれない。
日向に渡したあの本を描きながら、僕はたぶん自分に言い聞かせていた。
僕が僕である限り、僕は、陽愛と日向を幸せにはできないんだと。
お日様は僕で……
お日様は君だ……
こうなって、僕ははじめて、あの頃の南の狂気の意味が分かった気がした。
南が誰を傷つけてでも守りたかったものの意味がようやく理解できた気がしたのだ。
僕は、日本に戻り、その足で光を迎えにいった。
そして、帰国を喜ぶ光の手を握りしめて電車に乗った。
無邪気な光は僕に逢えたことで終始ご機嫌だった。
それに対して、僕はと言えば、到着した南の墓の前で、途方に暮れたようにただ時間を費やしていた。
いつの間にか眠ってしまった光を自分のコートで包んで抱き締めて、僕は必死になって南の墓の前で願った。
---もう一度、もう一度だけチャンスを与えてほしい
光の事は、命に変えても幸せにする、約束するから、どうか南…
僕は長い時間祈り続けた。
いや、正確にはそんな綺麗なものではない。
僕は情けなくも眠りについている南に泣き縋って時を過ごした。
光にもずいぶん寒い思いをさせたかもしれない。
墓のなかでは、こんな情けない状態の僕に南はさぞ気を揉んでいただろう。
寝言で僕を慕うように「パパ……」そう呼んだ光は次の瞬間「一人は寂しいよ、どこにもいかないで……」そう呟いた。
「あぁ、父さんはもう、光、君を追いてどこにもいかないよ、行けないんだよ。寂しい思いをさせてごめんね……」
僕は、光に誓うようにそう答えた。
だって、光はもう他人じゃない僕の子供だ。
---君は、僕の子だから
そう心のなかで強く思った瞬間、僕たちは光の渦に巻き込まれた。
一人、ベッドの上で目を覚ました。
そこは僕の部屋だった。
(戻った?本当に、戻れたのか?ここは………)
起き上がり、焦ったように状況を把握した僕は、両手を顔で覆った。
---南、感謝する、本当にありがとう
そう思った瞬間、ベッドの上にあったスマホがメッセージの着信を告げる。
《今日は予定通り10時に駅前だからね、遅刻しちゃダメだよ!》
そのメッセージに僕は瞬時に表情を崩して震えそうになる唇を噛み締めた。
---生きている、陽愛が、生きてくれている
そして、はっとした僕はまだ違和感の残る頭で考える。
---そうだ、今日は友人の結婚式の日
そう悟った瞬間、僕は顔色を変えた。
---いきなり、今日だと?
僕は眉を寄せたまま固まった。
膝の上にはポツリポツリと嫌な汗が滴り落ちる。
酷く気持ちが悪かった、ループ特有のあれがきたのだと悟る。酷い船酔いに似た体調不良と、僕の記憶を曖昧にしようとする強制的な時の自浄能力。
---こんなときに、どうすれば、どうすれば回避できるんだ?
「くそっ!離れろ!!邪魔だ」
僕は頭を抱えたまま誰もいない空間に向かい叫んだ。
酷くからだが重苦しい、考えようとするものが全て歪んで流されてしまいそうになる。
---ダメだ、こんな事で足止めされている訳にはいかないんだ!!
何故、何故、僕はそう思うんだ?
僕は何をするためにここにいる?
そうだ、それは僕が、今日を運命の日だと考えているからだ。だけど、待て、運命ってなんだ?
《お日様、笑ってる、よかったね?》
《よかった?ほんとうに、これでよかったのかな?》
《うん、だってみんな、笑ってるもの、にこにこにこにこ笑ってるもの、あっ、ここにいる女の人、少しだけ僕のママに似てる気がする?》
---日向
そう目を輝かせる少年の名を呟いた瞬間、まるでそれが今の僕と、前の世界との絆になったように少しずつ世界が繋がり始めた。
それと同時に、胸が、暖かく、切なく、締め付けられるように満たされていき、苦い現実を噛み締める。
---あぁ、僕は
そして、大切な人との約束や、育んだ沢山の絆を思い出し、そして思い知るのだ。
僕は決してその全てを叶える事ができない不完全な人間であるのだと。
---陽愛、日向、僕は何をしてあげられる?
どうすれば、この忌まわしい呪いの枷から、お前達を解き放つことができるだろうか。
時の自浄作用に未だ阻まれながらも、僕は、懸命に過去のループを思い出そうとする。
酷く胸が苦しくて、頭が痛む。
---何故直ぐに思い出せない?
あんなに一生懸命だったのに
時間がない、思い出せ、思い出せ、思い出せ
気をしっかり保たないと、忘れそうになる、狂いそうになる、流されそうになる。
それくらいに時の浄化作用は狂暴だった。
それでも今しかない、今、手繰り寄せなければならないのだ。
どれだけそうしていただろう。
僕は荒い息を吐きながら立ち上がった。
そして、洗面所に向かい、鏡の自分を睨み付ける。
---今日しかない、今日しかないんだ
そして、俺は第六感的な何かで感じていた。
この世界は、今までループした世界観とは少しだけなにかが違うことを。
---だけど、今は考えるのをやめよう。
僕はまず、昔の僕に戻って今日一日を過ごさなければならなかった。
幸い記憶を呼び覚ます事には成功した。
あれほど短時間であの記憶の混乱を抜けられたのはおそらく初めてだと思う。
それほど、今の自分の意思は固いのだと思い知る。
だけど、まだ、僕には陽愛達をこの呪縛から解放する方法をまだ思い描く事ができない。
スーツを着て駅に着いた僕に、陽愛が今日も目を輝かせながら手を振っている。
この光景はもう、何度目だろうか?
---知ってるよ、僕のスーツ姿にときめいてくれているんだね?
僕は、そのコートの中が暖色系のカクテルのような少し大人っぽいパーティドレスで、それがどれほど君によく似合っているかも、そして、夜、それを脱がせた君がどれだけ甘くて柔らかな離れがたい肌をしているのかも知りすぎているというのに。
君はこうして毎回、残酷すぎるくらいに新鮮で屈託のない顔をして僕に笑いかけてくれる。
大好きだって、身体全体で伝えてくれる。
だから、僕も君の笑顔が一秒でも長く続くように、こうして毎回、嘘が上手くなるんだ。
それが、結果的に君をもっと深く傷付けることになることだって、もう分かっているのに。
---でもどうしようもないんだ
だって、この瞬間だけ、最後のこの瞬間だけ、僕の瞳には陽愛だけを映し出せて、君の瞳にも僕だけが映っている。
僕は、この瞬間が、僕と君の幸せの境界線だと知り過ぎているから。
ここから先に、君と一緒に生きていける世界を僕は遂に見つけることが出来なかった
長い友人として、唯一無二の女性として、僕が愛したただ一人の人。それは今でも変わらない。
だけど、繰り返すタイムリープは、どうしたって僕を徐々に変えてしまった。
桐谷の隣で微笑む君
光を僕に託して死んでいく南
僕の指先をぎゅっと握りしめて笑う幼い光
懸命に生きる僕の面影を宿した日向
母親の顔をして強く生きる尊敬に値する強さをもった君
どんどん遺影になっていく僕が不幸にした愛する人達
そして、いつしか考えるようになった。
タイムリープを繰り返し罪を重ね続けた自分だから、余計に考えたのだ。
---僕が、僕でなかったら、世界はどう変わるのだろう?
そんな気持ちが滲み出たあの絵本を手にとって、日向、君が微笑んでくれたあの瞬間から、もしかしたら、僕は決めていたのかもしれない。
君に許しを得たつもりになっていたのかもしれない。
---いつか、もう一度、生まれておいでよ
だけど今度は、こんな不完全な僕の要素なんて微塵も受け継がないで、幸せになるためだけに、戻っておいで、それがどんな形でも…
そう、多分、自分の気持ちはもう決まっていた。
随分と身勝手で理不尽な解釈の上になりたつ行動であることも十分理解していた。
それでも、それ以外に、僕は答えを導き出せなかったのだ。
南はいつか言ったのだ。
《特別に無理なお願いをしている訳じゃないのよ?だって、死ぬ運命なのは、多分、私も、陽愛さんも同じだもの?》
あの時、あっけらかんと南はそう言った。
だけど俺の心臓は凍りついた。
《う、嘘を吐くな!?》
《嘘じゃないわ、だから、死にゆく私はあなたに託すの……、でも彼女はもしかして貴方と距離を取れたなら……》
---それならば
僕は、結局、陽愛の前から去る人生を選んだ。
南との約束を守り、この世を継続させる。
だけど前回も僕は、それで、全てを守ったつもりになっていた。
---だけど、結局、日向も、陽愛も、死んだ
絶望の中で、発狂していた自分を思い出す。
(陽愛………)
もう何度出席したか分からない結婚式も終わり、飲み慣れない酒に酔いベッドに横たわる無防備な姿に僕は感極まって彼女の間近に座り込んだ。
---あぁ、再び、ここに戻れるなんて
前回のリープでは南の力が弱まっていたからか、ここから一週間程度後の時間軸に巻き戻り、陽愛に別れを告げたのだ。
そして僕ははっとした。
(南、南は?)
これが夢ではないのなら、僕を再びここに戻してくれたのは南の力なのだろう。
だけど、彼女はあのとき、既にあの世界では死人だった。
俺はホテルの非常口にでて、南に電話をかけた。
そこには、いつになく具合の悪そうな掠れた声の南が存在した。
僕はその事実に驚愕した。
「はぁ、あなた……、ゆっくり死なせてもくれないなんて、相当なSね……」
ブラックジョークにしてもあまりに質の悪い状況に僕は素直に謝るしかなかった。
「それに関しては、本当に申し訳ない……」
「嘘よ、いいの、意地悪なのは、私だもの……」
《私は加害者であなたは被害者、そう言いたいんでしょう?いいわ、その通りだから……》
生前から南はそういって笑っていた。
だけど、今思えば、その顔はとても寂しくて痛そうだったのを思い出す。
「光は?」
僕は思わずそう叫んだ。
「ちゃんと、いるわよ?お腹のなかに……」
「そ、そうか……」
その言葉に安堵した僕はその場にしゃがみ込んだ。
非常階段を吹き抜ける風が、頬を冷たく通り抜け、その冷たさにこれが再び訪れた現実だと知らされる。
(生きている、陽愛も、光も、そして日向は………)
「………南、こんなこと、俺が今言うのはおかしいかもしれない。だけど大事にしてほしい……」
その言葉に彼女は一瞬絶句した後、あらあらと、吹き出した。
「当たり前でしょう?大事なのよ、誰よりも、何を犠牲にしても幸せにするの。だから、きっと元気に産んで見せるわ……」
今なら、あの頃は分からなかったその言葉の意味が痛いほどによくわかる。
だけど彼女はいつになく気弱な口調で続けた。
「でも、海晴、たぶん、私はもう無理、今度は本当の最後……」
《だって、今の私、おばけが更におばけになったみたいなものでしょう?》
と冗談めかして笑う言葉の切なさに僕は唇を噛み締めた。
自分が南にどれだけ残酷な事をしているのか気が付いた瞬間だった。
この世界は、以前までとは何かが違うのだ、南の力が前のように感じられない。
「ねぇ、私、今度はきっと前みたいに、光の傍にいてあげられない、だから、海晴………」
きっと今、涙が滲んでいるだろうその声に僕は、はっきりと頷いた。
僕がしたことは罪だ…
南から光と過ごした最期の日々を取り上げ、塗り替える悪行だ。
光が描いてくれた南の絵を思い出す。
きっとあの絵を描く光にはもう逢えない。
「うん、南、ごめん、だから、君の分まで光を大切にするよ、そして君の話を光にたくさん話して聞かせる、もう血なんてどうでもいいんだ、僕はずっと前から光の父親だから……」
---だから光、出ておいで、今度は、全身で君を受け止めるから
---そして日向、君をもう一度
だけど、僕になにができる?
こうして新たな機会を得ても、僕は不安で一杯だった。
繰り返してきた記憶の中で、はっきり覚えているものもあれば、実は朧気なものも多い。既に僕の記憶だけが僕の過ごした時間とは言えない状況になっているだろうと思う。
まるで、終わらない悪夢をエンドレスで見続けてきたようだ。
そして僕はそこで様々な死に直面し、現在に至っている。
そのなかでも、日向と陽愛が死んでしまうという絶望感は僕のなかで、鮮明な恐怖として残っていた。
僕は身勝手にも、あの世界の日向と陽愛を凄く特別に思っていたのだろう。
ーーー陽愛が一度だけ僕の子供を産んでくれた世界
ーーー日向が生きていた世界
僕は電話を切り、陽愛の待つホテルの一室に戻った。
静かな寝息をたてる君。
僕の愛した唯一の女性。
数々の思い出が走馬灯のように蘇る。
それは、二人に共通した優しい過去ばかりではない。
君の知らない君との思い出は、いつだってとても苦いものばかりだった。
だけど前の世界で、日向の手を引いて歩く君の姿は、とても凛として力強いものだった。
---あぁ、愛しい陽愛
僕は、静かな寝息をたてる陽愛に覆い被さるようにそっとその唇を食んだ。
ピクリと長いまつげが揺れる。
再び唇を合わせる僕に応えるように君は唇を少し開く。
抗いがたい欲が体を支配し始める。
(このまま………)
前の世界と同じようにこのまま陽愛と繋がれば、まるで陽だまりのように笑う日向がまた生まれてくるだろうか。
僕はここにきて葛藤していた。
陽愛は僕と関わり続けたら恐らくは生きられない。
だけど僕は今、陽愛の生存条件を見極められずにいた。
過去、この時期に別れを切り出した時、陽愛はその後、十日ほどの間に高確率で死んだ。
そして、俺は南を介して世界を巻き戻した。
だけど前回の世界で、陽愛は生きていた。
だけど、日向の死と共に結局死んでしまった。
自分はどうすればいい?
欲に任せて、日向を再び僕の手で…
そう考えるも僕は拳を握りしめた。
自分は変わらず、陽愛と日向を守る術もないのだ。
---もし、今度は桐谷、あの男に託せば
あの男なら、二人を幸せにしてくれるだろうか?
そう思うと同時に心が分裂しそうなほどの葛藤に苛まれる。身勝手だと思う、こんなのはエゴだ、僕は所詮エゴの塊だ。
あいつの傍で幸せに笑う陽愛と日向、それを思うとこんな状況でも苦しくて悔しくて堪らない。何故自分には常にそれが出来る選択肢がないのかと………
光を待ち望むのと同じ心が悲鳴を上げ続ける。
もう、何が自分の本心なのか、何が義務か、強制力とは何かすら分からなくなかった。
今の僕には大切なものが増えすぎているから。
だけど、別の葛藤もどうしても拭いきれない。
---このまま日向、君を無責任にこの世界に迎え入れることは許されるのか?
今の僕には、前の世界での二人の苦しみを物理的に取り去る方法も持ち合わせていない。
---日向
父と名乗る事もできず、見送る事さえも叶わなかった、遠い世界の僕の息子。
今度こそは、元気に産まれてきてほしい。
だけどそこに何の保証すらもないのだ。
---僕は、僕は、どうすればいい?
答えがでないまま、陽愛を見つめて途方に暮れていた。
陽愛の長い睫毛が揺れている、たぶんもうすぐ目を覚ますのだろう。
そして、残り少なくなった僕たちのカウントダウンが始まるんだ。
かつて僕だった無数の自分が叫ぶ。
離れるのがいやだと……
誰にも奪われたくないと……
君にこんな気持ちを知られてはいけない。
だけど、本当は知ってほしい。
---愛しているよ、陽愛、そして、日向
僕は今日、どうすればいい?
《約束よ………》
《パパ、どこにも行かないで………》
南ともうひとりの息子、光の言葉が脳裏をよぎる。
---あぁ、複数の人生を生きるというのは
なんてやっかいなんだろうね。
複数の愛と葛藤で気が狂いそうになる。
---でも、明日もし、陽愛、君が死んだなら、僕はこの世界と自分の運命を呪うだろう。
だけど、その後の事態は僕が予想していたものとは遥か違う展開になったのだ。
平静を装い、抱き締めようとした陽愛に、僕は先に振られてしまったから。
こんなことは初めてだった。
そして、自らの意思で走り出す陽愛の背中を僕は、図らずもここで見送ることになった。
痛む胸でそれを見ていた僕は、次の瞬間はっとして追いかけた。
---陽愛、待ってくれ!
いつかの夜、僕から別れを切り出しだあの日のように、泣きながら走る君が、事故にあったらどうしようと懸命に後を追って探した。
(陽愛、お願いだから無事にいて、もう、もうどうやったってやり直せないんだ!)
これが最後のチャンスだと本能的に分かっていた。
この世界での南の威圧感を僕は前ほどには感じない。
もしかしたら、今、僕は初めて自由になれたのかもしれない。
南からの呪縛から解き放たれて、陽愛を追いかけることも出きるのかもしれない。
---だけど
《パパ、置いていかないで………》
脳裏に光の声がする。
《お日様はどうなっちゃうの?》
そう心配そうに無邪気な顔を曇らせる日向の声が甦る。
陽愛、僕はあの日、君を探しに探した。
行くあてなんてないけれど、ありとあらゆる場所を探した。
死なないでくれ……
消えないで………
行かないで……
自由になって……
矛盾ばかりの気持ちで君を探した。
いつかの世界で、君が死んでしまった時刻が刻一刻と近づくのが怖くて僕は走り続けた。
失敗は許されなかった。
僕にはもうそれを取り戻す術はきっとないから。
不安のなかで怯えながら、必死に君を探した。
そして、その時、救急車が僕の横を通り抜けていった。
「救急車………、まさか、嘘だろ………」
胸騒ぎを感じた僕は、タクシーを拾い救急車の後を追った。
そこは、大きな公園だった。
僕と陽愛との思い出も接点も何もない知らない場所。
「陽愛っ!」
心配そうに群がる人の先に横たわる君を見つけたとき、僕は一瞬で血の気が引いた。
だけど、僕は駆け寄ることを躊躇った。
ようやく探しだすことができた君の傍には、すでにあの桐谷という男が寄り添っていたからだ。
「陽愛先輩、しっかりしてください!!陽愛先輩!!!」
そんな声が煩いくらいに公園内に響き渡っていた。
「………でたね、ハゲ鷹ワンコくん」
僕は掠れた声で悪態を吐くことしかできなかった。
本当は駆け寄りたいのに、そうしてはならないともう一人の自分が警鐘を鳴らす。
お前の役目は終わったんだと……
怒りに似た悔しさと、諦めたくないという悪足掻き。
だけど、そんな感情に突き動かされてはならないという自制心と、そして認めたくないけどようやく安堵している自分がいた。
そんな気持ちは初めてだった。
(あぁ、ほんとに、嫌になるくらい鼻が利く男だ。だけど、陽愛、君は、今度は初めから自分の足でそこに行き着いたんだね………)
「大丈夫そうね……」
案じるような野次馬の声が空虚な僕の耳を通過する。
「彼氏さんもついてるみたいだし、あー、滅茶苦茶心配してるね……」
「ほんとだよ、ちょっと不謹慎だけど、大きな犬みたいで、格好いい人なのに、なんかあの必死さが可愛くない??」
「分かる、いいよね!ああいう感じの大型犬系の彼氏?うちの彼なんてさあ、犬でも猫でもなくて、もうなんていうかさぁ、チベットスナギツネみたいに無感動っていうの?スマホばっかりいじってて!」
「ぷっ、チベットスナギツネ?それってどんなだよ??でも、わかるぅ!!」
「はぁ、もうね、何を考えてるか分からない、通じ合えない感じ?こっちは常に片手間、自分は別世界みたいな?」
「でも、あれ、憎めない面構えだよ?」
「そうそう!そこが案外ツボなんだよ?もう全部君なら仕方ないかってなっちゃう!!」
「なんだよ、結局ノロケじゃん、あははっ!!」
(何を考えているのか分からないか………)
彼女達の話を気が抜けたような気持ちで聞いていた。
---そうか、そうだよな
ここにいる陽愛が、今まで僕だと思ってみつめていた僕は、いったいいつの僕なのだろうか?
最初の僕、それとも、何度目かの………
分かるはずもない問いに小さく顔が歪む。
---この数年の僕も、陽愛から見たら、そんな感じだったのかな?
だから、今回の僕は、こうして振られてここにいるのだろうか。
「陽愛先輩、陽愛先輩」と、煩いくらいに僕の大事な彼女の名を叫び続けるあの男の後ろ姿を表情なく見つめた。
(あぁ、ほんとに君は、嫌になるくらい陽愛が好きだね………)
どんな世界でも、どんな状況でも陽愛、陽愛って……
まるで国民的泥棒漫画の古くさい刑事のようなストーカーぶりだと呆れる。
(ほんと、何度見たって暑苦しい男だよ、君は)
僕だって、こんな呪いのような立場じゃなかったら、駆け寄って負けずに叫んだよ「どこにもいかないでくれ、君が好きだ」と。
だけどその一方で分かっている。
自分は悲劇のヒーローではなく、おそらく資格喪失者なのだ。
きっと、自分はどこか利己的な人間で、あいつにはある何かが欠落しているのだ。
だから、神様はあの男と同じように、陽愛を抱き締める腕を僕に与えてはくれなかったのかもしれない。
---陽愛
僕は去り行く救急車の音を聞きながら、木にもたれ掛かるように崩れ落ちた。
自嘲しながら、自らの手を見る。
---ここでも、やっぱり叶わなかったな
だけど、不思議と後悔の気持ちは微塵もなかった。
手放そうと決めたのは、僕の意思。
だけど、何故だろう。
ここにきて、僕は君に初めて振られたのだと実感した。
---ここに来たのは陽愛の意思
あの男はただ偶然にここを通りかかったのだろうか?
いや、きっとそうではない。
そこには悔しいけれど、陽愛とあの男の何らかの必然が存在したのだろう。
救急車の音がどんどん遠ざかる毎に、僕の顔は歪んだ。
(今度こそ、幸せに……。陽愛、今まで、こんな僕を愛してくれて本当にありがとう……)
まだ肌寒い、三月の別れだった。
それから僕は、南と暮らし始めた。
この世界での南は、やはり今までとは違った。
生きているのが不思議なくらい儚げで、心細そうで、衰弱していく南を励ましながら、光の出産を待った。
僕の知る別世界での南は夢でよく魘されていた。
泣いて、怒って、苦しんで、そして僕に詰めより無茶を言う。
「光を守って!お願いだから守って!!」と半狂乱で叫ぶ彼女はまるで物語にでてくる鬼子母神のようで正直怖かった。
なんで、自分ばかりこんな目にあうのかと、僕の心は追い付いていない事ばかりで、そんな中、以前の世界で光の誕生に立ち会った記憶も何度か残っている。
それならばまだいい。
別の世界の僕は、光を本当に自分の子供だと信じて、誕生後にそれを知り裏切られた事もある。
その世界では陽愛まで死んでしまった、あの時、僕は南の首を絞めて殺した。
光を一人残して、僕はあの世界を終わらせたんだ。
そう、僕は、いくつもの世界で、被害者ではなく加害者だった。
エゴイストなんだと自分で思う。
だけど最近、それが堪らなくなる瞬間がある。
時々、思いを馳せるのだ。
---僕と南が終わらせた世界は、ちゃんと終わっているのだろうか?
時々、別世界に戻っていると感じているのは僕だけで、あの世界がそのまま続いているとしたらと思うと堪らない罪悪感に襲われるのだ。
何に心を砕くのが正解なのか、尊ばれるべきものは何なのか、時々分からなくなる。
だけど、一つだけ分かるとしたら、これが僕たちに与えられたラストチャンスだということだ。
この世界の南は僕が知る数々の南のなかで一番穏やかだ。
それは僕が約束を守ると南が信頼してくれているのもあるだろうが、南は自分がもう長くない事を知っているからかもしれない。
今はもうどんな夢にも魘されることなく、ただ静かに眠る南。
痩せこけた南の長いまつげが、今の僕の唯一の道標となっていた。
僕は、この世界で、ひとつだけ自分なりの決め事を作った。
---僕はこの世界ではもう、陽愛には逢いにはいかない。
君の傍にはあの男がいるし、僕には南と光を守るという使命があるから。
今度こそは、感謝の気持ちをもって、僕は生まれたての君を抱き締めたいと思うんだ。
---光、待ってるよ、今度は心から待ってる、だから無事に産まれてきておくれ
その日を迎えるまで不安は続いた。南の体はもう限界だったから。
今回は、帝王切開での出産、初めてのことだ。
僕が変えてしまった今は、またなにか別のものを失わせるかもしれないと不安が過った。
それはもしかしたら、今度は光の命なのかもしれないと思ったら、僕は怖くて堪らなくなった。
冷たくなった指先をカタカタ震わせながら病院の待合室で過ごす時間は今まで過ごしてきたどんな時間よりも長く恐ろしかった。
だけど、光は無事に産まれてきてくれた。
それは、長く暗い、暗闇から僕を救い出してくれた。
泣いている
生きている
また会えた
---ありがとう南、僕に光を会わせてくれて
ありがとう光、また僕を君の父親にしてくれて
麻酔から覚めた南の手を握りしめた。
「ありがとう、南、ありがとう」
そう言った瞬間、南は破顔して泣いた。
過去の世界での僕は酷い男だった。
出産したばかりの南を罵って、自分の不幸を嘆いた瞬間もあった。
罪にはかならず罰が訪れる。
そして、それは必ず不幸な結果を招いた。
だけどこの世界で光を迎えた僕は違う。
僕は、初めから光の父親だったから。
自分が光の実の父親ではないことなど今は本当にどうでもよかった。
光は光でないと困るから、その光にまた会えたから。
そんな安堵の気持ちが身体中を支配して喜びで震わせた。
だからこそ、別世界で微笑んでいた一人の少年の姿を思い出す。
---ごめん、ごめん、ごめんな、日向
この思いも、きっと僕が永遠に引きずり続けていかなければいけない重たく暗い愛の枷なのだろう。
繰り返す人生のなかで、いつの間にか大切なものを知りすぎていた。
だけど多分、それが、僕に欠けていた何かだったのではないかと思う。
だから、神はこんなにも多くの悲しみを伴う試練で、僕に愛を知らしめたのだろうか。
予想通り、南は長くは持たなかった。
光の誕生を見届けた一週間後、南は静かにこの世を去った。
南の死は何度何度も経験した。
なのに、僕の涙は止まらなかった。
それでも僕らの癒えない悲しみのなかで、世界は動いていた。
風が吹き、梅雨は終わりを告げ、途端に蒸し暑くなり夏の日差しが大地を照らす。
そう、この世界では南が死んでも何も変わらなかった。
それは、ようやく僕らがこの長かった柵から解放された瞬間でもあった。
南が死んだ事を、本当の意味で痛感したのは、きっと、僕と光だけなのかもしれない。
母を知らずに育つ事になるだろう光の為に僕は一冊の絵本を作った。
眩しくて
臆病で
強くて
残酷で
儚くて
優しくて
悲しい
そんな虹色の光が、様々な炎を纏いその命を燃やし、やがて美しく消える話。
その光の正体は破壊と想像を司る一人の女神。
彼女は大地を焼き付くし、人々に「心」という産物を残した。
このお話が、漠然とでも分かるようになった光は、その女神をどう思うだろうか。
僕が知る彼女の全てを、いつか光に話すかは、まだ思案中だ。
だけど、人の行動はとても複雑なものなんだと、愛というのは時に歪んで見えてもやはり愛なんだと、いつか光、君にも分かる日がくるだろうか?
それが、正しいとか、間違っているとか、そういう事ではなく、僕は君に、いつか伝わればいいなと願っている。
そして、もしかしたら神もまた自分にそれを伝えたかったのかもしれない。
僕は、自宅で執筆活動を続けながら光を育てた。
別世界の若い頃の僕は食べていくのがやっとで、筆を折ることばかり考えていた。
なのに、この世界での僕は伝えたいことがありすぎて、その結果、仕事に事欠くことはなくなった。
まるで、あの頃の南の気持ちが僕に乗り移ったような不思議な感覚で僕は今も絵本を描き続けている。
その後の君たちのことはずっと気になっていた。
だけど、僕は会いに行くことはしなかった。
綺麗事を言えば、君のため、光のため、だけど、本当はどうしても怖かったのだ。
僕たちがどれだけ繊細な天秤の上で今の状態を保っているのか、もしそれが崩れてしまったらどうなってしまうのか、僕はそれを知りすぎているから。
そして、あの世界のもう一人の僕の息子。
---日向、僕は、君がいない世を思い知るのが怖かったんだ。
きっともう、時間は巻き戻せないから………
だから、僕はもう君をこの世に産み出すことは決して叶わない。
だけど、それだからこそ、僕は忘れないでいようと思う。
自分の経験したもう一つの世界の君の笑顔と苦悩に満ちた短い人生を。
「---これが僕たちの本当のエピローグだよ、陽愛?」
僕はそう言って、綺麗に年を重ねた陽愛を見て微笑んだ。
そして、まだ幼い子供達に目を向けて立ち上がった。
沈みかけの空から、黄色く優しい光が二人の少年のはしゃぎあう姿を照らしていた。
海晴は憂いた吐息を吐きそう言った。
「まぁ、これは僕の憶測で、あの信仰に本当に強い意味があるとしたらだけどね……」
「意味…」
眉を寄せた私に海晴は頷いた。
「兄の風雅はきっと、巫南と一体となって生を受け取るべき魂を持った器、そう言った存在だったんじゃないかなと思うんだ…」
私はあまりの内容に目を瞬かせた。
「そんな…」
「巫南があの島で生涯一人でいても、寂しくないように」
「その為の器、そんなまさか……」
「そう、まあ、これはものの例えだけどね、そんなようなもの。だけど、人としての欲を持ってしまった僕の母の行いが原因で、巫南は入るべき箱を失ってこの世をさ迷うことになったとしたら…」
(迷い神……)
私の心には自然とそんな言葉が浮かんだ。
そうだとしたら、多くの不可思議なことが意味を持ち、繋がってくるように思う。
「そして、現状を理解できない彼女は安息の存在を求めて兄さんの傍に寄り添っていた……、だけど兄さんは……」
ーーー突然、いなくなってしまった
なんて痛々しい話だろうか。
「そこで大きく歪みが生じたとしたら、思うんだ。僕は、本来は生まれるはずの無かった命だったんじゃないかってね」
「海晴…」
「器はひとつしかいらない、しかも本来は一体で離れてはいけないものだったとしたら」
「……」
「でもしきたりを破り、男子となってしまった体は、一つの存在とは成りきれず、兄は奪われ、僕は生まれた、そして母さんは死んだ、死ねなかった母さんがようやく死ねたのだとしたら…」
その言葉に悪寒が走る。
「運命は、僕らに試練を与えてこの不都合を相殺しようとしていたんじゃないかな、不完全な器をもうひとつ増やして、僕は段々とそんな考えに囚われ始めた…」
海晴はそう言って黙り込んだ。
「そんな……」
「大丈夫、今は、その使命の意味がなんとなくだけど、分かってるように思うんだ。だから、寂しくない、もう僕は寂しくはないよ陽愛……」
「光、あの子がいるから……」
そう言われた私は、太陽と無邪気に戯れる綺麗な顔をした幼い少年を見つめた。
「光くん」
「そう、光が傍にいてくれる…」
「あっ、でも……」
私は過去の経緯から光くんのお母さんは南さんであることを知っている。
だけど、不自然なほどに今ここにいる二人にはその影を感じない。
(光くんのお母さんは、南さんは、今一体どうしているんだろう?)
「…南さんは」
そう問いかけた私の胸はドクンドクンと嫌な音を立てていた。
「………死んだ」
そう言った海晴は、小さく笑った。
その表情には、明らかな悲しみと、少しの安堵が混ざっているように思えてならなかった。
「南はね、………何度も死んだんだ」
通常では頷けないはずの言葉に、私はやはりと、言葉なく頷いた。
小さく笑った海晴は、まるで子供が文句を言うかのように呟いた。
それは、少しだけ私が知っているあの頃の海晴のようだった。
「本当に迷惑な女、僕が好きだったのは、ずっと陽愛ただ一人だったのに、そのはずだったのに…」
「海晴………」
「陽愛と、ずっと一緒にいたかった。あの頃の僕は、偽りなくそう思っていたよ………」
「……うん」
今、時を越えて、はっきりと過去形になっている言葉を受け止めた。
「だけど、南は悲しい女性だった、そして僕たちはとてもよく似ていた、特に、なにかが欠けていることがね」
ほぅ、とまた一つ息を吐いた海晴は、無表情に遠くを見つめて口を開いた。
「………南は、死ぬ運命だったんだ」
「っ………」
私はその言葉に目を見開いた。
「おそらく、実体を手にした瞬間それは運命付けられたんだと思う」
「そんな…」
「彼女は、僕より先にそれに気付いた、そして僕もやがて、それが抗う事のできない法則のようなものだと信じるしかなくなった……」
「ど、どうして………」
その問いかけにしばらく押し黙った海晴は、静かに口を開いた。
「それは、彼女が能力者だから……」
「能力者…」
「そう、時を操る、いや、時を操るのは手段に過ぎなくて、彼女もまた残酷な時間に翻弄されながら足掻いてたんだと思う…」
南さんも足掻いていた?
「南自身もそれを本当の意味で制御できる力は持ってはいなかった。だから彼女は現状に絶望して足掻く度にタイムリープを繰り返したんだ」
「えっ……」
私は背筋が凍る思いだった。
「今となっては、そう思えてならないんだ。そして、僕たちは、南の生と死の狭間にある葛藤と願望の渦に空間を超えて巻き込まれた………」
「南さんは、なんの為に………」
私の乾いた問いに海晴はまた一つ息を吐いてこう言った。
「今だから思うことだけど、あの二人、南と兄さんの出会いも再開もきっと運命だった、だけど、一度狂ってしまった運命は、もはや誰かを巻き込まずに修正される事は無かったんだと思う………」
「そんな……」
「それは今なら僕もよくわかる……」
「そして、そんな事を突き付けられる度に、南は手段を選ばない鬼になっていたんだ」
(手段を選ばない鬼?)
海晴はまるで自分を責めるようにそう言い、静かに、語り始めた。
その話は海晴が見てきた世界と、私の知っている二つの世界がとても皮肉な糸で結びついている事を私に突きつけるものだった。
◇◇海晴視点◇◇
元々、南に恋愛感情なんてなかった。
ただどうしようもない懐かしさと一体感が燻っていたのは否定しない。
たぶん、南も同じだったんだと思う。
だから、陽愛を裏切って彼女とどうこうなりたいなんて気持ちは微塵もなかった。
それだけは自信を持って言える。
だって、陽愛はつまらない僕の人生をいつだって暖かいもので満たしてくれる日溜まりのような人だったから。僕は小さな頃から陽愛の傍にいられるだけで幸せだった。
今でも時々思うんだ。
南、彼女とは、もし人生の一ページというものが存在するとしたら、そこですれ違い様に互いに大きく手を振って、「幸せでな」「お前もな」って笑顔で通り過ぎられたら良かった。
だけど、それが出来ないくらいに、世界にとって南の存在は圧倒的だった。
そして、僕の生そのものがそんな彼女の強い力に紐付いたものだったんだろう。
今なら思う、きっと、僕たちの本質は誰よりもよく似ていた。
たぶん、僕は兄さんの影のような存在だから……
僕は、思いがけない形でそれを思い知らされる事になった。
見えない力に踊らされる、究極の罪と罰の世界。
自分はそんな世界の住民であることを本当の意味で思い知ったのはどの世界だっただろうか。
僕は、自分自身を何度も…
そう何度も上書きされて弄ばれるような恐ろしさを感じていた。
ーーータイムリープは恐ろしい
何が恐ろしいって、どんどん自分が分からなくなるから。
好きな人を失うことをひたすら怖がって足掻いてはずの自分には、いつの間にか別の絆も出来ていて、守りたいものも増えていく。
矛盾してることなんて、分かりきっているのに僕は段々と欲張りになっていく。
あれは、いつの空間、どの自分?
それすらもよくわからない。
どの記憶が一番古いのだろう、それは分からないけど、僕のなかではまぁまぁ古い記憶の南は、本当に憎たらしい女だった。
あの日、僕はホテルのベッドに寝ていたんだ。そしてその隣には、全裸の女性が眠っていた。
僕は彼女を知っていた。
名乗られるまでもなく、彼女の名前は大地南だった。
あのとき僕は南は、僕の過去にいた巫南なことも理解していた。
だけど、僕の記憶は見事に混乱していた。
南を抱いた生々しい記憶が脳に残っていたからだ。
だけど、僕の本能はそれを真実じゃないと否定した。
僕は酷く腹を立てた。
南を女性として愛した記憶を、陽愛が大好きな自分が全力で否定したからだ。
陽愛を好きな気持ちを汚されたようで、悔しかった。
更に言うなら、本当に身体まで重ねたのか、この脳裏の記憶は幻なのか、多分僕たちにとって重要なのはそんな事ではなくて、僕と南は僕の自我の所有権を争っていた。
「南、なんでここに、僕たち………」
「ふふっ、海晴、おはよう、もう一回する?」
「っ………」
「ねぇ、海晴?」
「し、しない!っていうか、してない!僕してないよね??」
「あらっ、随分と往生際が悪いのね、ちゃんと記憶だってあるでしょう……」
「う、嘘だっ…」
「そう、やっぱりこんな状態でも私に恥をかかせて陽愛さんに操立てするのね?」
「そ、そうだけど、そうじゃなくて……」
「………ふふっ」
「…へ?」
「嘘よ、でも、合格。やっぱり海晴、あなたは付いて来られるのね、記憶の一部をちゃんと維持して…」
南は試すようにそう言った。
「…風雅はダメ、役に立たない。柵が枷のように纏わりついて、自分の子供すら守る力を失ってるなんて、まるでゴミ箱だわ」
「えっ……、何を言って?」
「今回は、少し混乱しているようだけど、きっとあなたになら任せられる……」
僕にはその時、彼女の言っている事の意味が全く分からなかった。
何故、彼女が陽愛の名前を知っているのかも…
それはどこかの世界で、突然現れた南に情報操作されて試された僕の話。
「一体なにを言っているんだ?」
あの時の僕は段々と空恐ろしい気持ちに支配されはじめていた。
南の事は認識できる。
だけど、僕は僕の記憶に自信が持てなくなっていた。
まるで幻覚を見せられているような不安感に自分の中の第六感が警鐘を鳴らしていた。
この女からは逃げられないと…
その時、彼女は突然表情を歪ませて僕に迫った。
「ねぇ、海晴、今度は助けて?」
「な、にを…」
「どうしていつも私だけなのよ、苦しいのも、辛いのも、寂しいのも、こんな世界嫌い」
「巫南…」
「なのにこんな世界に、あの子を置いて、最期にはたった一人で逝かせるなんて………」
そう苛立った声でブツブツと言い始める彼女の形相が変わるのを見て僕は驚愕した。
「南?」
彼女は突然僕の胸ぐらを掴んで金切り声をあげた。
「今度はちゃんと思い出しなさいよ!早く!!迎えにきてよ!!!私の光を!!!そうしないと許さないから、あなた達だけ幸せになんて絶対なれない、なれないんだから…」
鬼気迫る勢いに僕は顔色を失った。
「な、なにを…」
「覚えていて!今日、私とここで逢ったこと!!」
「待って、何言ってるのか、分からない、本当に分からないんだ、光ってなに?誰かの名前なの??」
そう言った瞬間、彼女は一層暗いオーラをまとった。
その時の僕は蛇に睨まれた蛙のようだった。
「光は、私たちの子、そうでしょう?親の癖にそんな事も忘れるなんて、酷いわ、海晴……」
(僕たちの子………)
「ま、待って、南、僕、本当に………」
(あぁ、これは、これはきっと南の嘘だ、嘘だ………、だって僕は陽愛を……)
---ー裏切らない、裏切らないよ
だけど、僕は混乱していた。
その時の目の前の出来事だって、その世界でのことなのか、他の世界でのことなのか、よく分からない。
僕は僕である事を失いかけていた。
そして自分の立ち位置すらも…
だって、巫南が言うように、確かな記憶があったから。
僕は小さな男の子の手を握って、その子を抱き上げて空を見上げている。
その子は空の雲を指差して僕に微笑みかける。
僕は日に日に成長を遂げる少年に目を細める。
そして、僕によく似た面差しの男の子は満面の笑顔で呼ぶんだ「パパ」って……
傍にはそんな僕達を見つめながら微笑む南がいて、男の子、光は彼女をママと呼び、僕の腕の中から、嬉しそうに手を振るんだ。
どこを旅していた時の記憶なのか分からない。
順番なんて滅茶苦茶なループだった。
だけど朧げに思い出す、たぶんそんな日常でも、光という少年の誕生や成長を喜んでいても、僕は消えない違和感を抱き続ける。
ーーここは違う、ここは僕のいる場所じゃないって
やがてそれは自分の運命と南への憎悪のうねりに変わる。
(戻せ、戻せ、戻せ、僕の世界を、陽愛はどこだ?陽愛の元に返せ、僕の世界を僕に返せ……)
そうして気づくと、平穏な世界に僕はいる。
だけど、いつからだろう。
僕はだんだんとその平穏が苦しくなってきた。
自分の一部のような何か大切なものを失ってしまったような喪失感に僕は塞ぎ込んだ。
たぶん、南はそうなることを分かってた。
だから、あんな手段で僕を追い詰めて、僕の心を徐々に蝕んでいったんだと思う。
ーーー彼女と彼女の息子の為に
「光、大丈夫よ、今度はちゃんとパパが迎えに来てくれるから、必ず…」
そうして僕は自我と立ち位置を失い始めていた。
だけど徐々に適応してきたのか、タイムリープの瞬間と、今自分が見ているものがその世界の本当の姿なのか、南が僕に見せている幻覚に過ぎないものなのかの区別ができるようになってきた。
そして、徐々にではあるが、南がどんな状況に置かれて、一体僕を使って何をしようとしているのかを僕は朧げに知ったままタイムリープするようになった。
(流されない、陽愛の元に戻る、何度でも…)
この頃から、南は一層苛立ち始めた。
僕が陽愛に執着して言うことを聞かないから。
「光を忘れるなんて、許さない!!絶対に許さない!!!思い出せ!!!思い出しなさいよ!!!!」
(思い出してない訳じゃない、だけどそれは君たちの問題だ…)
罪悪感と同時に憎悪を覚える。
過去のどの時間だろう、幾度にも渡るやり取りが蘇る。
「あなたの子供よ?お願い、彼女と別れて……」
「いやだ、俺は陽愛と別れない……」
「そう、私と光はどうなってもいいのね?」
「光?光って誰だよ??」
「っ、使えない男ね、さようなら、海晴、今度は必ず救って、私たちを救って……」
「ちょっと待て!何をする!?」
待っているわ………
そう言った彼女が妖しい笑みを浮かべてマンションのベランダから身を投じた記憶も蘇る。
血が凍るような怖気と同時に理解する。
南が死んでも世界は戻る、いや違う、切り替わるように巻き戻される。
そして不安になる。
---僕の、元の世界はどこにある?
帰らなければ、陽愛のところに、例え、この世界の南を殺してでも、何度でも、何十回でも
---陽愛、陽愛、どこにいるの?
僕は寂しいよ、君がいなければ
ーーーどこ? 陽愛どこにいるの?逢いたいよ
きっとこの世界には陽愛がいる。
(いた、見つけた、ようやく、陽愛……)
帰れた、君がいる場所に、だけど…
ーーーちょっと待ってここはどこ?
その男は誰?
「俺、陽愛先輩の事が好きでした、ずっと前から」
「き、桐谷くん?」
ーーう、嘘だろう?
「陽愛、その男は誰?」
僕を睨みつけるように見つめる大きな男と、目を瞬かせて困惑している陽愛。
陽愛は僕にこんな顔はしない。
「……海晴?何でここに、私たち、別れたよね」
「はっ、別れてない!僕は別れてなんてない!そんなはずはない!!」
僕はパニックになってそう叫ぶ。
「………意味、分からないよ、海晴はパパになるんだよ?」
(は、パパ?誰のだよ?俺は、陽愛と、嘘だろうこんな世界、違う、おかしいよ、陽愛は僕との別れなんて選ばない)
ーーー僕の陽愛はどこ?
そうじゃない、憎しみに身体が焼けつきそうになる。
ここじゃない、僕の帰る場所はこんなところじゃない。
ーーー南、南はどこだ?
確かな殺意を持って僕はその姿を探す。
---殺してやる、何度でも殺してやる!
「殺してっ…」
噛み締めた唇から鉄の味がした。
「海晴、大丈夫?」
「っ………、ここは、どこだ?僕は……」
「海晴、海晴?どうしたの?怖い夢でも見たの?」
案じるように僕を見下ろす陽愛がいた。
「陽愛、陽愛………」
「どうしたの海晴?なんか変だよ……」
僕は子供みたいに泣きそうになりながら陽愛を抱きしめた。
「なんでもない、なんでもないんだよ…」
「海晴…」
「夢を見てただけ、陽愛、ここにいて……」
そう言って僕は懇願するように彼女に口付けた。
「好きだよ、陽愛、ずっと、一緒にいよう………」
理性なんて持ちようがない夜だった。
「ちょっと、海晴……、それに、あっ、ダメだよ、ちゃんと着けないと」
欲しいのは永遠だけ、陽愛と僕との永遠だけ…
他には何も、そう、何も……
「いらないっ……」
ーー僕達を隔てるものなんて何もいらない
消えてしまえばいい、僕と陽愛を残して
もし再び引き裂かれても…
どんなに離れても、君のいるここに帰って来る。
ここをそんな場所に出来たらいいな。
何度飛ばされても、僕は君と生きる為に、ここに戻ってくるよ………
いつかの時の流れのなかの、友人の結婚式の夜の話。
だけど、数日後、陽愛は事故にあい、帰らぬ人となった。そして僕はまた、南に手をかけた。
もう、鬼はきっと僕の方だったね。
「パパ…」
ーーなんだ、この世界は?
「光……」
ーーなんで僕はこのこの名前を呼んでいる。
さっきまで、俺は確かに陽愛と
(また、飛ばされたのか…)
「ママが、ママが、死んじゃうよ……」
(はっ、死ねばいい、死んでくれないと、僕は帰れないから)
「パパは、僕とずっと一緒にいてくれるって、本当?」
(そんなはずないだろ、僕は君のパパじゃない、君のパパなんかじゃないから……)
だけど、僕は気付いていた。
ここまでして南が抗い続けているひとつの結末。
それが光の死だということに……
実体を持ってしまった南には制約ができた。
南は長く生きられない。
そして南は兄、風雅には光を守れないことを悟ってしまったのだ。
南の死後、光はどうやっても殺されてしまうのだ。
嫉妬に狂って精神を病んだ風雅を愛するもう一人の悲しき女性凛子によって。
八方塞がりのなか、僕は神を憎んだ。
僕は南や凛子を責める資格のある人間ではない。
浅ましい自分の記憶は時を隔ててももう消えない。
そしていつの日か僕は葛藤するようになった。
---今の僕は、陽愛の隣に相応しいと言えるだろうか?
夜中に魘されて目を覚ます事も日常だった。
夢でも現実とも言えない現実でも、大抵自分のせいで誰かが死んでしまう。
それは、南だったり、陽愛だったり、光だったり
---夢なのか?
---現実なのか?
目の前で繰り広げられる、愛と欲望と裏切りと喪失。
恐怖と不安に支配される世界での僕はいつだって、大切なものを守ろうと利己的に考え行動をする。
だけど、大切なものは死んでいく……
僕を恨みながら死んでいく……
そして僕は自分を責め続ける………
そしてまた目覚める。
こんな生活がいつまで続くのか。
もういっそ、僕が折れてしまったら、こんな傷だらけのループは終わるのか、だけど僕にはそんな覚悟は持てなかった。
なのに、見えない絆にも引っ張られる。
だからきっと、どの世界でも君の前にいた僕は歪だったよね?
---ごめんね陽愛、たくさん傷つけてごめんね
そして僕は、何度目かの世界で君と出会った。
「海晴、私と結婚してくれるよね?」
「あなたの子よ?」
そう微笑む南もこの世界での俺がちゃんと前世の記憶をもっているのかを探っている。
狸と狸の化かしあいだ…
そして、今の俺は、南が嘘をついている事も知っている。
腹の子は、僕の子供ではない。
でも、そうだ、南、君のお腹の中にいるのは僕の子だ。
たとえ血が繋がっていなくても、光、君は僕の息子。
「あぁ……」
僕は、南にそう答えた。
「大切にするよ、光のことも、君のことも……」
そう言った僕に彼女は目を見開いた。
「じゃあ、陽愛さんとも?」
「あぁ、別れるよ………、もうすこし先になるけどね、だけど時間が欲しい、彼女を絶対に死なせるわけにはいかないから」
「分かったわ………」
---これが僕たちの運命だから
「ちゃんと自分で時期をみて話すから、南は、今度だけは邪魔しないで……」
僕はそう釘を刺す。
「しないわよ、私は、光さえ守ってもらえたらそれでいいんだから………」
「またそんな事言って、もう、寝なよ?体、辛いんだろ?」
南は後ろから俺の体を抱き締めた。
「………海晴、分かってるんでしょう?これが、本当に最後になるかもしれない」
「あぁ…」
もう聞き分けなく足掻くことに時を使えないことを俺も理解していた。
ーー陽愛を守らなければならない、そして光を…
南の心身が、これまで以上に力を失っていた。
それは、タイムループ自体の絶対性を揺るがし始めているのではないかと考えた。
最初の頃は戻ればほとんど消えていた記憶が、回数を重ねるごとに夢のように潜在意識に存在し、今は、自らの意思により朧気な記憶をたどり理論付ける作業ができるようになった。
それを裏付けるように、タイムループを繰り返すごとに、過去の記憶を消す絶対的な何かを失い始め、巻き戻る時期も短くなっている。
初めは、高校生の頃に戻せていただろうループも、今では、陽愛と別れる少し前にしか戻れない……
それは、タイムループが無限で、絶対的なものではないことを表しているようだった。
そして、それはもうひとつの可能性を暗示していた。
それは、南の本質的な「死」なのだ。
それは、タイムループを繰り返してきた、南と、それに都度巻き込まれてきた記憶のある、自分にしか理解できない確かな予感でもあった。
「海晴、ごめんなさい……、巻き込んで……」
体よりもずっと衰弱した表情で彼女はそう呟く。
「そうだね、巻き込まれちゃったね……、でもきっと僕は元々部外者じゃないから、そうなんだろ、南……」
そう言って、僕は南の腹を撫でた。
この時にはもう、朧げに感じていた。
巫南は、兄風雅が生まれた事で迷い神のような存在となった、そして兄と情を交わし、光が生まれ、そんな光を守れるのは自分だけ…
結局、僕らは離れきれなくて、形を変えてここにいるに過ぎないのかもしれない。
「そうやって、あなた段々優しくなるから、調子狂っちゃう……」
いつも強気な南の目尻から涙が溢れる。
「それは仕方ない……」
最初はなかった感情が芽生えてそれがどうしたって蓄積されてしまうから。
繰り返すタイムループのなかで、分かったことがいくつかある。
人には、変えられる運命と、変えられない運命の二種類が存在すること。
将棋の駒を進め、欲しいものを狙いにいったら、必ず負ける。
そんな状況を繰り返し、僕は気付いた。
ここに来るまで、何度も何度も、僕は陽愛を選んだ。
でも、僕が、陽愛を選ぶと南は必ず自ら死んでしまう。そして世界は南の能力により巻き戻る。
僕の生きる時間軸において彼女は《絶対的な王者》だった。
出口を見いだせなくなった俺は、苦悩の末に、身を引き裂かれる思いで陽愛から身を引いた。
結果は、皮肉なものだった。
そうすると、今度は時を置かず陽愛が死んでしまうのだ。
その結果、狂人と化した僕は、この手で南を殺すしかなかった。
陽愛がいない世界を僕は絶対認めないから。
だけど、その度に南は諦めたように、それを受け入れ抵抗しなかった。
いつだったか僕はその理由を聞いた。
すると南は「そんなあなたじゃ、どちらにしても光を守れないでしょ」と言った。
それは同時に僕の選ぶしかない運命を示していた。
この無限ループを終わらせる落とし所。
それは光と陽愛を生かす方法を探すこと。
それが僕の最期に出来ることだった。
だけど僕は、陽愛に別れを告げるのを躊躇していた。
南には今度こそ誰も傷つかない方法で別れるからといいながら内心方法が分からず途方に暮れていた。
戻ってきた世界の時間軸を理解して僕は皮肉な笑みを浮かべた。
ーーあの夜にさえ、僕はもう戻れないのか
何度か過ごした友人の結婚式。
あの一日は、僕の人生の大きな駅のようだった。
陽愛と愛し合った数多の夜を思い出す。
僕はそこで何度も縋るように、噛み締めるように陽愛を愛した。君との未来が欲しいと陽愛を抱きしめた。
---苦しさと嫉妬から命を宿そうと願ったこともある
また、いつの世界の夜だったろう、僕は祈った。
僕は消えても構わない、だけど、神様、お願いだから陽愛を消さないでと。
そんないつの日かの僕の願いが通じたのか、この世界の陽愛はあの夜から数日経過した今、まだ生きている。
とても危ういバランスの上で生きている。
だから僕もこうして未だ別れを切り出せずに、宙ぶらりんの状態は続いている。
こんな状態、きっと陽愛にとってはもちろん、南にとっても裏切りなのかもしれない。
だけど、南は許してくれた。
---許すわ、ちゃんとこの最期の世界で光の父親として生きてくれるなら
南が僕に望むことはシンプルにただそれだけだった。
僕がどんなに南に冷たくても、罵倒しようとも南はそれを静かに受け入れる。
詳しい理由は話したがらないけれど、南は僕が光の父親になることに、強い拘りと執着を持っている。
たぶん、僕が父親にならないと光は死ぬと信じているかのようだった。
そして、それが誰よりも多くタイムリープを繰り返した経験に裏付くものであるのならば、恐らくは南の言う通りなのだろうことは察せられた。
そして僕は、断腸の思いで陽愛に別れを告げた。
だけど、その後も密かに陽愛の近況を探り、つかず離れずで彼女を見守った。
彼女の安全を見守りたくて…
嘘だ、それだけじゃない、未練があるのはもう仕方ない。僕はどうしたって僕だから。
だから、ハゲ鷹ワンコに陽愛をとられた時の痛みは筆舌に尽くしがたいものがあった。
だけど、陽愛は生きていた。
もしかしたら、あいつがいるから陽愛が生きているのかと思ったら、安堵する反面、すごく苦しくて悔しかった。
だけど、陽愛は、あいつとも突然別れた。
僕はその理由が最初は分からなかった。
だけど、やがて、それが僕の子供を妊娠していることがきっかけだと知ったとき、僕は不謹慎にも心が震えたんだ、本当に勝手な男だと自分でも思う。
---陽愛のなかに、僕の子供がいる
奇跡だと思った。
このループで僕が作った子供ではない。
だけど、この世界は、僕がループした過去の一つの延長にあったんだ。
やがて、南は出産して、男の子を産んだ。
「光よ、抱いてあげて?」
穏やかに僕を見つめる琥珀色の瞳。
そこには汚れなど一つもなかった。
当然なのかもしれないけど、僕は、その子と始めて逢った気なんてしなくって、可愛くて、愛しくて、守らなければいけない存在なんだと初めからちゃんと知っている。
そして、産まれたばかりの光を抱いてなんとなく自然な形で初めて運命を受け入れる事が出来る気がした。
これが、南がずっと僕に拘り続けてきた理由なんだと思った。
僕と光には、きっと、元々見えない絆があるのだと。
だけど、光が可愛いと思うほどに、陽愛と陽愛が産んでくれた僕の子供が幸せか健やかかが気になって仕方がなかった。
何か困ってはいないだろうか…
もしからしたら、もう新しい家族ができているのだろうか……
もう引き返せない。
だから、これでよかったのだと、そう言い聞かせながらも、僕は未練がましく無くしたものの近況を知りたいと思う気持ちを押さえられなかった。
父親として最低な生き方しか出来ないのに、折に触れて君たちの様子を窺っていたんだ。
そしてある日、僕たちの子供である日向に、重大な疾患があると気付いた。
僕は、信じられない気持ちで、日向の主治医のところに駆け込んだ。
「父親は僕です!僕の体を使ってしてやれる事はないですか?」
掴みかからんばかりの勢いにも、医師はただ、困ったように静かに答えた。
「お気持ちはお察ししますが………」
医師は首を横に振った。
「本来ならば、親権をお持ちのお母様以外に状況の説明はしないのですが……」
そう言って、まるでひとりごとのように病状を語った医師の言葉に僕は絶望した。
「お母様にも説明はしたのですが、後は、お子さんとの時間を大切にして、楽しい思い出をたくさん共有してほしいと……」
「そんな……」
---そんな事があっていい訳がない、ないんだ!!
必死になった僕は色々調べつくしたが、病状は医師の言う通りのものばかりで、無力な自分には日向を救う道は見出だす事が出来なかった。
---嘘だ、嘘だろう?まさかこんな
僕にはひとつの予感があった。
もしかしたら、死ぬはずだった陽愛に、あの時、日向というひとつの命を与えたこと。
それ事態がこんなことを引き落としているのではないかという不吉な予感に怖くなった。
---海晴、時はね、時々すごく意地悪なのよ、全てを自浄していくの、まるで、なにもなかったようにね
いつかそう言って、皮肉に笑っていた今はもういない南の顔を思い出す。
僕は堪らない気持ちになって、ついには、通りかかりの絵本作家なんて肩書きで日向に近づいた。
僕は、本当にずるい。
最悪の男として君を世に産み出し、最低の父親として生きてきた。
だけど、日向はそんな僕に満面の笑顔を向けてくれた。
抱き締める事のできない僕のお日様。
それが、陽愛と日向だったのだと僕は気付く。
僕は、僕と陽愛の面影を確かに宿す日向のなかに、自分にはない強さを見た。
彼は、幼いながらも辛い闘病生活のなかで、懸命に生きようとしていた。
そして僕よりずっと自然な笑顔で陽愛に微笑みかける君をたまらなく愛しくて羨ましいと思った。
「日向くん!」
「あっ、絵本のお兄さん!!」
「今日も会えたらいいなって思ってたの!また、お話聞かせて!?」
そう言って満面の笑顔で微笑む車椅子の少年の前に、僕はしゃがみこむ。
「いいよ」
「今日はどんなお話を聞かせてくれるの?」
僕は思い付いた話を、日向や、彼と病院生活を共にする子供達に聞かせていた。
そんな接点しか持てない実の父親を絵本のお兄さんなんて呼んで慕ってくれる幼い彼に罪悪感を感じながらも、僕はそれをやめられなかった。
---君が今日一日少しでも楽しい時間を過ごせますように
---君にどうか奇跡がおこりますように
---もし、そうでなくても決して君が意味なく消えてしまうことがありませんように
「今日はね、お日様のお話、これを君に……」
そう言って、差し出した絵本に、彼の瞳は輝いた。
「もらっていいの?すごく綺麗な絵……」
「うん、試作品だからね、まだ出回ってないものだよ、日向くんに最初に読んで欲しかったんだ」
本当は、ただ君の為だけに何日も何日も時間を割いて、描いては破りを繰り返しようやく完成させた本。
止められない涙を流しながら描き続けた僕は、果たして君の為にありったけのハッピーエンドを届けることが出来ただろうか。
今となってもそれは分からない。
「ほんとうに!?嬉しい!!お日様が笑ってる」
「うん、優しいお日様のお話だよ、さぁ、読んであげようね………」
(君のように優しいお日様、そして、僕のように寂しいお日様………)
もし、僕自身にこの絵本のお日様のような力があるのならば、僕の一番大切な一部である君を、一番暖かい世界に置いてあげられるのに。
だけどあの頃の僕にはそんな力などなかった。
日向の余命を知る数年前、南は僕に光を託して静かにこの世を去っていた。
だからもう、僕は南を殺して、世界を元に戻す事すら叶わなかった。
もし、時を戻せたとしても、日向を幸せにする方法など検討もつかないのだけれども。
そして、全てはそんな独りよがりな僕への罰だったのだろうか。
それから一月後、病状が急変した日向はこの世を去った。
僕がその事実を知ったのは、仕事で貧しい途上国を訪れていたときの事だった。
日向の主治医が迷いながらも僕に連絡をくれたのだ。
「こんな連絡を僕が独断であなたに行うのは、ルール違反です。ですが、あの様子では、お母様は誰かが見ていないと危険な状況かと思われまして…」
そう言われた僕は全身が凍りつく思いだった。
(陽愛………)
---日向が死んだ
崩れ落ちそうな絶望のその先に更なる絶望が待ち受けているような例えようのない気持ち。
---陽愛?
この上、陽愛までいなくなってしまったら……
ダメだ……
それはまるで、ここまで生きてきた自分という人間の土台すらも失われていくような恐怖だった。
繰り返す嘔吐に周りに心配をかけつつも、全ての仕事を投げ出して、陽愛の元にかけつけようとした。
---陽愛、陽愛、行かないでくれ!
「先生!前の便の欠航の為、帰りの便の予約がとれません」
---嘘だろう?
《海晴、時は、時々すごく意地悪なのよ、どんなにあがいても全てを無に帰してしまうの》
南の不吉な言葉がまるで呪いのように脳内を木霊する。
その後も必死にチケットの段取りをしたが、気持ちとは裏腹に手段は限られていた。
(間に合わない………、陽愛………)
---こんなときにさえ自分は君にかけつける事すらできない、それは、僕が僕だから?
「くそっ…………」
「先生!大丈夫ですか?先生………」
そう思い知るしかなかった。
南が死んだ今でさえも、不思議な力に僕は囚われているかのようだった。
そんな状況に窮した僕は、一枚の名刺を苦々しくとり出し顔を歪めた。
---こいつになら、助けられるのか?
僕じゃないこいつなら
それはかつて自分の元を訪れた桐谷という陽愛の同僚だった男の名刺だった。
「あの、突然すみません、俺、桐谷といいます。陽愛さんを知りませんか?ずっと探しているんです!!」
あの男もまた、この数年陽愛の行方を探していた。
だけど、陽愛の行方を知りながら、僕はあいつの問いに答えることはなかった。
表向きは、彼を残して姿を消した陽愛の意思を尊重するため。
だけど、内心はそんな理性的なものではなかったのだと思う。そう、嫉妬以外のなにものでもない。
陽愛の元を去ってからも、僕は時折陽愛の様子を窺うのを止められなかった。
だから、僕は、僕と別れてから、この男と陽愛の間に築かれつつあった関係も知っていた。
あれは正直、自分の体の一部をもぎ取られたような苦しみで、あの頃の僕はやけになってよく深酒をして南に悪態をついては困らせていた。
まるで、本来自分のものだった人生を他人にそのまま強奪されるような、憤りと寂しさを伴った黒い感情。
だけどしばらくした頃、陽愛は突然姿を消した。
僕はすぐに、人を雇って調べさせた。
そして、陽愛が海辺の町にいること、腹に子供を宿していることに気付いた。
浅ましいことに、僕は内心歓喜したんだ。
(日向の父親は僕だ、おまえじゃない………)
そんな確信が確かにあったから。
例え、この手で幸せに出来なくても……
僕の子供を育てている限り、陽愛は僕を忘れない。
だけど、桐谷は陽愛の行方を追っていた。
陽愛と僕の子供の隣に、この男が寄り添うことに僕は生涯耐え続ける事ができるだろうか。
そう思った時に、薄暗く黒い感情が体を支配した。
「知らないね、彼女とはもう随分前に別れたんだ。今は僕には妻子がいるから、今更不用意にそんな事聞かれても困るんだけど?」
そう言い放った僕に一瞬ムッとした彼はそれでも食い下がった。
「それじゃあ、もし、連絡があったら、ここに連絡してもらえませんか?」
そう言って残された一枚の名刺を僕は直ぐにゴミ箱に捨てようとした。
だけど、今にして思えば何故だろう、どうしても僕はそれを捨て去る事ができなかった。
今でも思う。
もしあの時、陽愛、君を探しにきた桐谷に、君の行き先を告げていたなら、少なくとも、あの世界の君は死なずにすんだのかもしれないね。
そして、僕のいない一組の家族が、日向、君に奇跡をおこしてくれた可能性はあったのだろうか?それともやっぱり、なかったのだろうか?
日向の死を知って、空港に足止めされていた僕は、その日ついに、あの男の名刺に書かれていた番号に電話をかけた。
「桐谷さんですか?僕、神谷、神谷海晴と言います」
「………あんた、もしかして?」
「頼みます、陽愛を、陽愛を助けてやってください………」
「ちょっと待って、いったい何が?」
「今は、あなたにしか頼めない、だから………」
「状況を教えてください」
「息子が、彼女が産んでくれた息子が……」
「っ………、分かりました!陽愛さんっ……」
短い通話が終了したスマホを、祈る思いで握り続ける事しか出来なかった。
自分の無力をただただ呪いながら、無事であって欲しいと大嫌いな神に祈り続けた。
---だけど、全ては遅かった
あの男が駆けつけた時にはすでに陽愛は息を引き取ろうとしていたのだ。
僕がようやく日本に着いたのは、陽愛がこの世を去った一週間後だった。
---嘘だろ、こんな、こんな
結局、自分は、何も守れなかったのだ。
---僕は一体何のために身を引いたんだろう
何を守ろうとしてこの生き方を選んだ?
僕も死んでしまおうか、なんて漠然と思っていたその時、スマホにメッセージが入った。
それは日向と同じ六歳になっていた光からだった。
《見て、特別賞をもらったよ!!パパ、いつ帰ってくるの?今度、美術館に展示してくれるんだって、一緒に見てほしいな》
そう言って、添付されてきた一枚の絵の画像。
そこには、必死に書いた僕の姿、後ろに天から見守るように描かれた南の笑顔があった。
《待ってるね、パパの絵本、喜んでもらえた?帰ったら、外国のお友達のお話、いっぱいいっぱい聞かせてね》
---光
一縷の希望もないような絶望に違いなかった。
だけど、そのメッセージと絵を見たとき、僕は、表現し難い葛藤を胸に抱いた。
南は僕を束縛した。
それは光の為なのだと僕は考えている。
光の存在があったから、僕は、僕の望む幸せを手にいれられなかった。
だけど、南を亡くしてから、僕は光と二人きりで生活を共にした。
《パパ、見て?上手にできたでしょ??》
《パパの痛いの飛んでいきますように………》
《パパ、大好き》
日向を愛しいと思ったから、光を息子として愛せたのか………
光から愛をもらったから、父親として日向を愛しいと思う気持ちが芽生えたのか……
今となってはもう分からない。
子供達を知らなかった頃の感情に戻ることなどもうできない。
自分は一体どこに帰ればいいのだろう。
自分はどこから間違えてしまったのだろうか。
もう一度、過去に戻れたなら………
だけど、何度繰り返したって、正しい道など存在するのか?
本当は、分かっていたのかもしれない。
日向に渡したあの本を描きながら、僕はたぶん自分に言い聞かせていた。
僕が僕である限り、僕は、陽愛と日向を幸せにはできないんだと。
お日様は僕で……
お日様は君だ……
こうなって、僕ははじめて、あの頃の南の狂気の意味が分かった気がした。
南が誰を傷つけてでも守りたかったものの意味がようやく理解できた気がしたのだ。
僕は、日本に戻り、その足で光を迎えにいった。
そして、帰国を喜ぶ光の手を握りしめて電車に乗った。
無邪気な光は僕に逢えたことで終始ご機嫌だった。
それに対して、僕はと言えば、到着した南の墓の前で、途方に暮れたようにただ時間を費やしていた。
いつの間にか眠ってしまった光を自分のコートで包んで抱き締めて、僕は必死になって南の墓の前で願った。
---もう一度、もう一度だけチャンスを与えてほしい
光の事は、命に変えても幸せにする、約束するから、どうか南…
僕は長い時間祈り続けた。
いや、正確にはそんな綺麗なものではない。
僕は情けなくも眠りについている南に泣き縋って時を過ごした。
光にもずいぶん寒い思いをさせたかもしれない。
墓のなかでは、こんな情けない状態の僕に南はさぞ気を揉んでいただろう。
寝言で僕を慕うように「パパ……」そう呼んだ光は次の瞬間「一人は寂しいよ、どこにもいかないで……」そう呟いた。
「あぁ、父さんはもう、光、君を追いてどこにもいかないよ、行けないんだよ。寂しい思いをさせてごめんね……」
僕は、光に誓うようにそう答えた。
だって、光はもう他人じゃない僕の子供だ。
---君は、僕の子だから
そう心のなかで強く思った瞬間、僕たちは光の渦に巻き込まれた。
一人、ベッドの上で目を覚ました。
そこは僕の部屋だった。
(戻った?本当に、戻れたのか?ここは………)
起き上がり、焦ったように状況を把握した僕は、両手を顔で覆った。
---南、感謝する、本当にありがとう
そう思った瞬間、ベッドの上にあったスマホがメッセージの着信を告げる。
《今日は予定通り10時に駅前だからね、遅刻しちゃダメだよ!》
そのメッセージに僕は瞬時に表情を崩して震えそうになる唇を噛み締めた。
---生きている、陽愛が、生きてくれている
そして、はっとした僕はまだ違和感の残る頭で考える。
---そうだ、今日は友人の結婚式の日
そう悟った瞬間、僕は顔色を変えた。
---いきなり、今日だと?
僕は眉を寄せたまま固まった。
膝の上にはポツリポツリと嫌な汗が滴り落ちる。
酷く気持ちが悪かった、ループ特有のあれがきたのだと悟る。酷い船酔いに似た体調不良と、僕の記憶を曖昧にしようとする強制的な時の自浄能力。
---こんなときに、どうすれば、どうすれば回避できるんだ?
「くそっ!離れろ!!邪魔だ」
僕は頭を抱えたまま誰もいない空間に向かい叫んだ。
酷くからだが重苦しい、考えようとするものが全て歪んで流されてしまいそうになる。
---ダメだ、こんな事で足止めされている訳にはいかないんだ!!
何故、何故、僕はそう思うんだ?
僕は何をするためにここにいる?
そうだ、それは僕が、今日を運命の日だと考えているからだ。だけど、待て、運命ってなんだ?
《お日様、笑ってる、よかったね?》
《よかった?ほんとうに、これでよかったのかな?》
《うん、だってみんな、笑ってるもの、にこにこにこにこ笑ってるもの、あっ、ここにいる女の人、少しだけ僕のママに似てる気がする?》
---日向
そう目を輝かせる少年の名を呟いた瞬間、まるでそれが今の僕と、前の世界との絆になったように少しずつ世界が繋がり始めた。
それと同時に、胸が、暖かく、切なく、締め付けられるように満たされていき、苦い現実を噛み締める。
---あぁ、僕は
そして、大切な人との約束や、育んだ沢山の絆を思い出し、そして思い知るのだ。
僕は決してその全てを叶える事ができない不完全な人間であるのだと。
---陽愛、日向、僕は何をしてあげられる?
どうすれば、この忌まわしい呪いの枷から、お前達を解き放つことができるだろうか。
時の自浄作用に未だ阻まれながらも、僕は、懸命に過去のループを思い出そうとする。
酷く胸が苦しくて、頭が痛む。
---何故直ぐに思い出せない?
あんなに一生懸命だったのに
時間がない、思い出せ、思い出せ、思い出せ
気をしっかり保たないと、忘れそうになる、狂いそうになる、流されそうになる。
それくらいに時の浄化作用は狂暴だった。
それでも今しかない、今、手繰り寄せなければならないのだ。
どれだけそうしていただろう。
僕は荒い息を吐きながら立ち上がった。
そして、洗面所に向かい、鏡の自分を睨み付ける。
---今日しかない、今日しかないんだ
そして、俺は第六感的な何かで感じていた。
この世界は、今までループした世界観とは少しだけなにかが違うことを。
---だけど、今は考えるのをやめよう。
僕はまず、昔の僕に戻って今日一日を過ごさなければならなかった。
幸い記憶を呼び覚ます事には成功した。
あれほど短時間であの記憶の混乱を抜けられたのはおそらく初めてだと思う。
それほど、今の自分の意思は固いのだと思い知る。
だけど、まだ、僕には陽愛達をこの呪縛から解放する方法をまだ思い描く事ができない。
スーツを着て駅に着いた僕に、陽愛が今日も目を輝かせながら手を振っている。
この光景はもう、何度目だろうか?
---知ってるよ、僕のスーツ姿にときめいてくれているんだね?
僕は、そのコートの中が暖色系のカクテルのような少し大人っぽいパーティドレスで、それがどれほど君によく似合っているかも、そして、夜、それを脱がせた君がどれだけ甘くて柔らかな離れがたい肌をしているのかも知りすぎているというのに。
君はこうして毎回、残酷すぎるくらいに新鮮で屈託のない顔をして僕に笑いかけてくれる。
大好きだって、身体全体で伝えてくれる。
だから、僕も君の笑顔が一秒でも長く続くように、こうして毎回、嘘が上手くなるんだ。
それが、結果的に君をもっと深く傷付けることになることだって、もう分かっているのに。
---でもどうしようもないんだ
だって、この瞬間だけ、最後のこの瞬間だけ、僕の瞳には陽愛だけを映し出せて、君の瞳にも僕だけが映っている。
僕は、この瞬間が、僕と君の幸せの境界線だと知り過ぎているから。
ここから先に、君と一緒に生きていける世界を僕は遂に見つけることが出来なかった
長い友人として、唯一無二の女性として、僕が愛したただ一人の人。それは今でも変わらない。
だけど、繰り返すタイムリープは、どうしたって僕を徐々に変えてしまった。
桐谷の隣で微笑む君
光を僕に託して死んでいく南
僕の指先をぎゅっと握りしめて笑う幼い光
懸命に生きる僕の面影を宿した日向
母親の顔をして強く生きる尊敬に値する強さをもった君
どんどん遺影になっていく僕が不幸にした愛する人達
そして、いつしか考えるようになった。
タイムリープを繰り返し罪を重ね続けた自分だから、余計に考えたのだ。
---僕が、僕でなかったら、世界はどう変わるのだろう?
そんな気持ちが滲み出たあの絵本を手にとって、日向、君が微笑んでくれたあの瞬間から、もしかしたら、僕は決めていたのかもしれない。
君に許しを得たつもりになっていたのかもしれない。
---いつか、もう一度、生まれておいでよ
だけど今度は、こんな不完全な僕の要素なんて微塵も受け継がないで、幸せになるためだけに、戻っておいで、それがどんな形でも…
そう、多分、自分の気持ちはもう決まっていた。
随分と身勝手で理不尽な解釈の上になりたつ行動であることも十分理解していた。
それでも、それ以外に、僕は答えを導き出せなかったのだ。
南はいつか言ったのだ。
《特別に無理なお願いをしている訳じゃないのよ?だって、死ぬ運命なのは、多分、私も、陽愛さんも同じだもの?》
あの時、あっけらかんと南はそう言った。
だけど俺の心臓は凍りついた。
《う、嘘を吐くな!?》
《嘘じゃないわ、だから、死にゆく私はあなたに託すの……、でも彼女はもしかして貴方と距離を取れたなら……》
---それならば
僕は、結局、陽愛の前から去る人生を選んだ。
南との約束を守り、この世を継続させる。
だけど前回も僕は、それで、全てを守ったつもりになっていた。
---だけど、結局、日向も、陽愛も、死んだ
絶望の中で、発狂していた自分を思い出す。
(陽愛………)
もう何度出席したか分からない結婚式も終わり、飲み慣れない酒に酔いベッドに横たわる無防備な姿に僕は感極まって彼女の間近に座り込んだ。
---あぁ、再び、ここに戻れるなんて
前回のリープでは南の力が弱まっていたからか、ここから一週間程度後の時間軸に巻き戻り、陽愛に別れを告げたのだ。
そして僕ははっとした。
(南、南は?)
これが夢ではないのなら、僕を再びここに戻してくれたのは南の力なのだろう。
だけど、彼女はあのとき、既にあの世界では死人だった。
俺はホテルの非常口にでて、南に電話をかけた。
そこには、いつになく具合の悪そうな掠れた声の南が存在した。
僕はその事実に驚愕した。
「はぁ、あなた……、ゆっくり死なせてもくれないなんて、相当なSね……」
ブラックジョークにしてもあまりに質の悪い状況に僕は素直に謝るしかなかった。
「それに関しては、本当に申し訳ない……」
「嘘よ、いいの、意地悪なのは、私だもの……」
《私は加害者であなたは被害者、そう言いたいんでしょう?いいわ、その通りだから……》
生前から南はそういって笑っていた。
だけど、今思えば、その顔はとても寂しくて痛そうだったのを思い出す。
「光は?」
僕は思わずそう叫んだ。
「ちゃんと、いるわよ?お腹のなかに……」
「そ、そうか……」
その言葉に安堵した僕はその場にしゃがみ込んだ。
非常階段を吹き抜ける風が、頬を冷たく通り抜け、その冷たさにこれが再び訪れた現実だと知らされる。
(生きている、陽愛も、光も、そして日向は………)
「………南、こんなこと、俺が今言うのはおかしいかもしれない。だけど大事にしてほしい……」
その言葉に彼女は一瞬絶句した後、あらあらと、吹き出した。
「当たり前でしょう?大事なのよ、誰よりも、何を犠牲にしても幸せにするの。だから、きっと元気に産んで見せるわ……」
今なら、あの頃は分からなかったその言葉の意味が痛いほどによくわかる。
だけど彼女はいつになく気弱な口調で続けた。
「でも、海晴、たぶん、私はもう無理、今度は本当の最後……」
《だって、今の私、おばけが更におばけになったみたいなものでしょう?》
と冗談めかして笑う言葉の切なさに僕は唇を噛み締めた。
自分が南にどれだけ残酷な事をしているのか気が付いた瞬間だった。
この世界は、以前までとは何かが違うのだ、南の力が前のように感じられない。
「ねぇ、私、今度はきっと前みたいに、光の傍にいてあげられない、だから、海晴………」
きっと今、涙が滲んでいるだろうその声に僕は、はっきりと頷いた。
僕がしたことは罪だ…
南から光と過ごした最期の日々を取り上げ、塗り替える悪行だ。
光が描いてくれた南の絵を思い出す。
きっとあの絵を描く光にはもう逢えない。
「うん、南、ごめん、だから、君の分まで光を大切にするよ、そして君の話を光にたくさん話して聞かせる、もう血なんてどうでもいいんだ、僕はずっと前から光の父親だから……」
---だから光、出ておいで、今度は、全身で君を受け止めるから
---そして日向、君をもう一度
だけど、僕になにができる?
こうして新たな機会を得ても、僕は不安で一杯だった。
繰り返してきた記憶の中で、はっきり覚えているものもあれば、実は朧気なものも多い。既に僕の記憶だけが僕の過ごした時間とは言えない状況になっているだろうと思う。
まるで、終わらない悪夢をエンドレスで見続けてきたようだ。
そして僕はそこで様々な死に直面し、現在に至っている。
そのなかでも、日向と陽愛が死んでしまうという絶望感は僕のなかで、鮮明な恐怖として残っていた。
僕は身勝手にも、あの世界の日向と陽愛を凄く特別に思っていたのだろう。
ーーー陽愛が一度だけ僕の子供を産んでくれた世界
ーーー日向が生きていた世界
僕は電話を切り、陽愛の待つホテルの一室に戻った。
静かな寝息をたてる君。
僕の愛した唯一の女性。
数々の思い出が走馬灯のように蘇る。
それは、二人に共通した優しい過去ばかりではない。
君の知らない君との思い出は、いつだってとても苦いものばかりだった。
だけど前の世界で、日向の手を引いて歩く君の姿は、とても凛として力強いものだった。
---あぁ、愛しい陽愛
僕は、静かな寝息をたてる陽愛に覆い被さるようにそっとその唇を食んだ。
ピクリと長いまつげが揺れる。
再び唇を合わせる僕に応えるように君は唇を少し開く。
抗いがたい欲が体を支配し始める。
(このまま………)
前の世界と同じようにこのまま陽愛と繋がれば、まるで陽だまりのように笑う日向がまた生まれてくるだろうか。
僕はここにきて葛藤していた。
陽愛は僕と関わり続けたら恐らくは生きられない。
だけど僕は今、陽愛の生存条件を見極められずにいた。
過去、この時期に別れを切り出した時、陽愛はその後、十日ほどの間に高確率で死んだ。
そして、俺は南を介して世界を巻き戻した。
だけど前回の世界で、陽愛は生きていた。
だけど、日向の死と共に結局死んでしまった。
自分はどうすればいい?
欲に任せて、日向を再び僕の手で…
そう考えるも僕は拳を握りしめた。
自分は変わらず、陽愛と日向を守る術もないのだ。
---もし、今度は桐谷、あの男に託せば
あの男なら、二人を幸せにしてくれるだろうか?
そう思うと同時に心が分裂しそうなほどの葛藤に苛まれる。身勝手だと思う、こんなのはエゴだ、僕は所詮エゴの塊だ。
あいつの傍で幸せに笑う陽愛と日向、それを思うとこんな状況でも苦しくて悔しくて堪らない。何故自分には常にそれが出来る選択肢がないのかと………
光を待ち望むのと同じ心が悲鳴を上げ続ける。
もう、何が自分の本心なのか、何が義務か、強制力とは何かすら分からなくなかった。
今の僕には大切なものが増えすぎているから。
だけど、別の葛藤もどうしても拭いきれない。
---このまま日向、君を無責任にこの世界に迎え入れることは許されるのか?
今の僕には、前の世界での二人の苦しみを物理的に取り去る方法も持ち合わせていない。
---日向
父と名乗る事もできず、見送る事さえも叶わなかった、遠い世界の僕の息子。
今度こそは、元気に産まれてきてほしい。
だけどそこに何の保証すらもないのだ。
---僕は、僕は、どうすればいい?
答えがでないまま、陽愛を見つめて途方に暮れていた。
陽愛の長い睫毛が揺れている、たぶんもうすぐ目を覚ますのだろう。
そして、残り少なくなった僕たちのカウントダウンが始まるんだ。
かつて僕だった無数の自分が叫ぶ。
離れるのがいやだと……
誰にも奪われたくないと……
君にこんな気持ちを知られてはいけない。
だけど、本当は知ってほしい。
---愛しているよ、陽愛、そして、日向
僕は今日、どうすればいい?
《約束よ………》
《パパ、どこにも行かないで………》
南ともうひとりの息子、光の言葉が脳裏をよぎる。
---あぁ、複数の人生を生きるというのは
なんてやっかいなんだろうね。
複数の愛と葛藤で気が狂いそうになる。
---でも、明日もし、陽愛、君が死んだなら、僕はこの世界と自分の運命を呪うだろう。
だけど、その後の事態は僕が予想していたものとは遥か違う展開になったのだ。
平静を装い、抱き締めようとした陽愛に、僕は先に振られてしまったから。
こんなことは初めてだった。
そして、自らの意思で走り出す陽愛の背中を僕は、図らずもここで見送ることになった。
痛む胸でそれを見ていた僕は、次の瞬間はっとして追いかけた。
---陽愛、待ってくれ!
いつかの夜、僕から別れを切り出しだあの日のように、泣きながら走る君が、事故にあったらどうしようと懸命に後を追って探した。
(陽愛、お願いだから無事にいて、もう、もうどうやったってやり直せないんだ!)
これが最後のチャンスだと本能的に分かっていた。
この世界での南の威圧感を僕は前ほどには感じない。
もしかしたら、今、僕は初めて自由になれたのかもしれない。
南からの呪縛から解き放たれて、陽愛を追いかけることも出きるのかもしれない。
---だけど
《パパ、置いていかないで………》
脳裏に光の声がする。
《お日様はどうなっちゃうの?》
そう心配そうに無邪気な顔を曇らせる日向の声が甦る。
陽愛、僕はあの日、君を探しに探した。
行くあてなんてないけれど、ありとあらゆる場所を探した。
死なないでくれ……
消えないで………
行かないで……
自由になって……
矛盾ばかりの気持ちで君を探した。
いつかの世界で、君が死んでしまった時刻が刻一刻と近づくのが怖くて僕は走り続けた。
失敗は許されなかった。
僕にはもうそれを取り戻す術はきっとないから。
不安のなかで怯えながら、必死に君を探した。
そして、その時、救急車が僕の横を通り抜けていった。
「救急車………、まさか、嘘だろ………」
胸騒ぎを感じた僕は、タクシーを拾い救急車の後を追った。
そこは、大きな公園だった。
僕と陽愛との思い出も接点も何もない知らない場所。
「陽愛っ!」
心配そうに群がる人の先に横たわる君を見つけたとき、僕は一瞬で血の気が引いた。
だけど、僕は駆け寄ることを躊躇った。
ようやく探しだすことができた君の傍には、すでにあの桐谷という男が寄り添っていたからだ。
「陽愛先輩、しっかりしてください!!陽愛先輩!!!」
そんな声が煩いくらいに公園内に響き渡っていた。
「………でたね、ハゲ鷹ワンコくん」
僕は掠れた声で悪態を吐くことしかできなかった。
本当は駆け寄りたいのに、そうしてはならないともう一人の自分が警鐘を鳴らす。
お前の役目は終わったんだと……
怒りに似た悔しさと、諦めたくないという悪足掻き。
だけど、そんな感情に突き動かされてはならないという自制心と、そして認めたくないけどようやく安堵している自分がいた。
そんな気持ちは初めてだった。
(あぁ、ほんとに、嫌になるくらい鼻が利く男だ。だけど、陽愛、君は、今度は初めから自分の足でそこに行き着いたんだね………)
「大丈夫そうね……」
案じるような野次馬の声が空虚な僕の耳を通過する。
「彼氏さんもついてるみたいだし、あー、滅茶苦茶心配してるね……」
「ほんとだよ、ちょっと不謹慎だけど、大きな犬みたいで、格好いい人なのに、なんかあの必死さが可愛くない??」
「分かる、いいよね!ああいう感じの大型犬系の彼氏?うちの彼なんてさあ、犬でも猫でもなくて、もうなんていうかさぁ、チベットスナギツネみたいに無感動っていうの?スマホばっかりいじってて!」
「ぷっ、チベットスナギツネ?それってどんなだよ??でも、わかるぅ!!」
「はぁ、もうね、何を考えてるか分からない、通じ合えない感じ?こっちは常に片手間、自分は別世界みたいな?」
「でも、あれ、憎めない面構えだよ?」
「そうそう!そこが案外ツボなんだよ?もう全部君なら仕方ないかってなっちゃう!!」
「なんだよ、結局ノロケじゃん、あははっ!!」
(何を考えているのか分からないか………)
彼女達の話を気が抜けたような気持ちで聞いていた。
---そうか、そうだよな
ここにいる陽愛が、今まで僕だと思ってみつめていた僕は、いったいいつの僕なのだろうか?
最初の僕、それとも、何度目かの………
分かるはずもない問いに小さく顔が歪む。
---この数年の僕も、陽愛から見たら、そんな感じだったのかな?
だから、今回の僕は、こうして振られてここにいるのだろうか。
「陽愛先輩、陽愛先輩」と、煩いくらいに僕の大事な彼女の名を叫び続けるあの男の後ろ姿を表情なく見つめた。
(あぁ、ほんとに君は、嫌になるくらい陽愛が好きだね………)
どんな世界でも、どんな状況でも陽愛、陽愛って……
まるで国民的泥棒漫画の古くさい刑事のようなストーカーぶりだと呆れる。
(ほんと、何度見たって暑苦しい男だよ、君は)
僕だって、こんな呪いのような立場じゃなかったら、駆け寄って負けずに叫んだよ「どこにもいかないでくれ、君が好きだ」と。
だけどその一方で分かっている。
自分は悲劇のヒーローではなく、おそらく資格喪失者なのだ。
きっと、自分はどこか利己的な人間で、あいつにはある何かが欠落しているのだ。
だから、神様はあの男と同じように、陽愛を抱き締める腕を僕に与えてはくれなかったのかもしれない。
---陽愛
僕は去り行く救急車の音を聞きながら、木にもたれ掛かるように崩れ落ちた。
自嘲しながら、自らの手を見る。
---ここでも、やっぱり叶わなかったな
だけど、不思議と後悔の気持ちは微塵もなかった。
手放そうと決めたのは、僕の意思。
だけど、何故だろう。
ここにきて、僕は君に初めて振られたのだと実感した。
---ここに来たのは陽愛の意思
あの男はただ偶然にここを通りかかったのだろうか?
いや、きっとそうではない。
そこには悔しいけれど、陽愛とあの男の何らかの必然が存在したのだろう。
救急車の音がどんどん遠ざかる毎に、僕の顔は歪んだ。
(今度こそ、幸せに……。陽愛、今まで、こんな僕を愛してくれて本当にありがとう……)
まだ肌寒い、三月の別れだった。
それから僕は、南と暮らし始めた。
この世界での南は、やはり今までとは違った。
生きているのが不思議なくらい儚げで、心細そうで、衰弱していく南を励ましながら、光の出産を待った。
僕の知る別世界での南は夢でよく魘されていた。
泣いて、怒って、苦しんで、そして僕に詰めより無茶を言う。
「光を守って!お願いだから守って!!」と半狂乱で叫ぶ彼女はまるで物語にでてくる鬼子母神のようで正直怖かった。
なんで、自分ばかりこんな目にあうのかと、僕の心は追い付いていない事ばかりで、そんな中、以前の世界で光の誕生に立ち会った記憶も何度か残っている。
それならばまだいい。
別の世界の僕は、光を本当に自分の子供だと信じて、誕生後にそれを知り裏切られた事もある。
その世界では陽愛まで死んでしまった、あの時、僕は南の首を絞めて殺した。
光を一人残して、僕はあの世界を終わらせたんだ。
そう、僕は、いくつもの世界で、被害者ではなく加害者だった。
エゴイストなんだと自分で思う。
だけど最近、それが堪らなくなる瞬間がある。
時々、思いを馳せるのだ。
---僕と南が終わらせた世界は、ちゃんと終わっているのだろうか?
時々、別世界に戻っていると感じているのは僕だけで、あの世界がそのまま続いているとしたらと思うと堪らない罪悪感に襲われるのだ。
何に心を砕くのが正解なのか、尊ばれるべきものは何なのか、時々分からなくなる。
だけど、一つだけ分かるとしたら、これが僕たちに与えられたラストチャンスだということだ。
この世界の南は僕が知る数々の南のなかで一番穏やかだ。
それは僕が約束を守ると南が信頼してくれているのもあるだろうが、南は自分がもう長くない事を知っているからかもしれない。
今はもうどんな夢にも魘されることなく、ただ静かに眠る南。
痩せこけた南の長いまつげが、今の僕の唯一の道標となっていた。
僕は、この世界で、ひとつだけ自分なりの決め事を作った。
---僕はこの世界ではもう、陽愛には逢いにはいかない。
君の傍にはあの男がいるし、僕には南と光を守るという使命があるから。
今度こそは、感謝の気持ちをもって、僕は生まれたての君を抱き締めたいと思うんだ。
---光、待ってるよ、今度は心から待ってる、だから無事に産まれてきておくれ
その日を迎えるまで不安は続いた。南の体はもう限界だったから。
今回は、帝王切開での出産、初めてのことだ。
僕が変えてしまった今は、またなにか別のものを失わせるかもしれないと不安が過った。
それはもしかしたら、今度は光の命なのかもしれないと思ったら、僕は怖くて堪らなくなった。
冷たくなった指先をカタカタ震わせながら病院の待合室で過ごす時間は今まで過ごしてきたどんな時間よりも長く恐ろしかった。
だけど、光は無事に産まれてきてくれた。
それは、長く暗い、暗闇から僕を救い出してくれた。
泣いている
生きている
また会えた
---ありがとう南、僕に光を会わせてくれて
ありがとう光、また僕を君の父親にしてくれて
麻酔から覚めた南の手を握りしめた。
「ありがとう、南、ありがとう」
そう言った瞬間、南は破顔して泣いた。
過去の世界での僕は酷い男だった。
出産したばかりの南を罵って、自分の不幸を嘆いた瞬間もあった。
罪にはかならず罰が訪れる。
そして、それは必ず不幸な結果を招いた。
だけどこの世界で光を迎えた僕は違う。
僕は、初めから光の父親だったから。
自分が光の実の父親ではないことなど今は本当にどうでもよかった。
光は光でないと困るから、その光にまた会えたから。
そんな安堵の気持ちが身体中を支配して喜びで震わせた。
だからこそ、別世界で微笑んでいた一人の少年の姿を思い出す。
---ごめん、ごめん、ごめんな、日向
この思いも、きっと僕が永遠に引きずり続けていかなければいけない重たく暗い愛の枷なのだろう。
繰り返す人生のなかで、いつの間にか大切なものを知りすぎていた。
だけど多分、それが、僕に欠けていた何かだったのではないかと思う。
だから、神はこんなにも多くの悲しみを伴う試練で、僕に愛を知らしめたのだろうか。
予想通り、南は長くは持たなかった。
光の誕生を見届けた一週間後、南は静かにこの世を去った。
南の死は何度何度も経験した。
なのに、僕の涙は止まらなかった。
それでも僕らの癒えない悲しみのなかで、世界は動いていた。
風が吹き、梅雨は終わりを告げ、途端に蒸し暑くなり夏の日差しが大地を照らす。
そう、この世界では南が死んでも何も変わらなかった。
それは、ようやく僕らがこの長かった柵から解放された瞬間でもあった。
南が死んだ事を、本当の意味で痛感したのは、きっと、僕と光だけなのかもしれない。
母を知らずに育つ事になるだろう光の為に僕は一冊の絵本を作った。
眩しくて
臆病で
強くて
残酷で
儚くて
優しくて
悲しい
そんな虹色の光が、様々な炎を纏いその命を燃やし、やがて美しく消える話。
その光の正体は破壊と想像を司る一人の女神。
彼女は大地を焼き付くし、人々に「心」という産物を残した。
このお話が、漠然とでも分かるようになった光は、その女神をどう思うだろうか。
僕が知る彼女の全てを、いつか光に話すかは、まだ思案中だ。
だけど、人の行動はとても複雑なものなんだと、愛というのは時に歪んで見えてもやはり愛なんだと、いつか光、君にも分かる日がくるだろうか?
それが、正しいとか、間違っているとか、そういう事ではなく、僕は君に、いつか伝わればいいなと願っている。
そして、もしかしたら神もまた自分にそれを伝えたかったのかもしれない。
僕は、自宅で執筆活動を続けながら光を育てた。
別世界の若い頃の僕は食べていくのがやっとで、筆を折ることばかり考えていた。
なのに、この世界での僕は伝えたいことがありすぎて、その結果、仕事に事欠くことはなくなった。
まるで、あの頃の南の気持ちが僕に乗り移ったような不思議な感覚で僕は今も絵本を描き続けている。
その後の君たちのことはずっと気になっていた。
だけど、僕は会いに行くことはしなかった。
綺麗事を言えば、君のため、光のため、だけど、本当はどうしても怖かったのだ。
僕たちがどれだけ繊細な天秤の上で今の状態を保っているのか、もしそれが崩れてしまったらどうなってしまうのか、僕はそれを知りすぎているから。
そして、あの世界のもう一人の僕の息子。
---日向、僕は、君がいない世を思い知るのが怖かったんだ。
きっともう、時間は巻き戻せないから………
だから、僕はもう君をこの世に産み出すことは決して叶わない。
だけど、それだからこそ、僕は忘れないでいようと思う。
自分の経験したもう一つの世界の君の笑顔と苦悩に満ちた短い人生を。
「---これが僕たちの本当のエピローグだよ、陽愛?」
僕はそう言って、綺麗に年を重ねた陽愛を見て微笑んだ。
そして、まだ幼い子供達に目を向けて立ち上がった。
沈みかけの空から、黄色く優しい光が二人の少年のはしゃぎあう姿を照らしていた。
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