あやかし狐の身代わり花嫁

シアノ

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1巻

1-1

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   一章


 シャン、とどこかで鈴が鳴った気がして私は歩みを止めた。
 小さい集落から更に人気ひとけのない方へ向かう細い一本道の手前。夕暮れ時の小道に黒松が暗い影を落としていた。

小春こはるちゃん、今帰り?」

 話しかけてきたのは手前の集落に住むおしずさんだった。
 お静さんの背中には半年ほど前に生まれた八重やえちゃんがおんぶされている。
 八重ちゃんは丸々とした指でどこかを指差し、むにゃむにゃと私には分からない言葉を呟いていた。
 私はそんな愛らしい姿に少し微笑んだ。しかしその笑みは長続きしない。

「はい。女学校に手続きに行ってきたんです」
「……そう、学校辞めちゃうんだって? もったいないねえ……友達と別れるのも寂しいでしょうに」
「父が亡くなっては通えませんから……」
元治げんじさんねぇ……本当に急なことで」

 ――つい先日、父さんの初七日が終わったばかりだった。
 神妙な顔をするお静さんに私は軽く頭を下げた。

「先日はお葬式に来てくださってありがとうございました」
「なに水臭いこと言ってるの。それより一人じゃ味気ないでしょ。夕飯食べて行かない? やかましい家で悪いけどさ」
「ありがとうございます。でも、朝の残りがあるから片付けなきゃ」

 子だくさんのお静さん夫婦は五人の子持ちだ。それにしゅうとしゅうとめもいる。きっとにぎやかで楽しい夕飯になるのだろうが、急にお邪魔してはきっと迷惑になってしまう。
 私の返答にお静さんは複雑そうに微笑む。

「そうかい。それならもうじきに暗くなるから、急いだ方がいいね。気を付けて帰んなよ」
「うん、ありがとう」

 私は会釈えしゃくをしてお静さんと別れ、小道を進む。
 きっと先程の鈴の音は八重ちゃんの玩具おもちゃか何かの音だろう。
 そう思いながら、私は黒松の影を踏んだ。


 家に続く小道は鬱蒼うっそうと黒松の生えた林の中に伸びていく。
 幹が黒々とした黒松であるせいか、林の中は日中でもどことなく薄暗さを感じさせた。それが夕暮れ時なら尚更だ。
 ――黒松は境目さかいめの木だから、気を付けなさい。
 そう教えてくれたのは、今は亡き父だった。
 黒松は神様のいる彼方あちら此方こちらを隔てている木なのだという。
 だから、呼ばれても行ってはいけないよ、と。
 門松かどまつに松竹梅。どちらかと言えば目出度めでたい印象のある松の木に対し、うっすらと恐ろしい気持ちが付きまとっているのは、あの時の父さんの言葉のせいだろうか。
 夕暮れ時は鬼が出る。逢魔おうまとき――そんな言葉も思い出して、私はかぶりを振った。
 チラリと見上げた西の空は、まるで燃えているかのように赤い。急がなければあっという間に暗くなってしまうだろう。
 私は足を急がせた。家はこの細い一本道の行き止まりに建っている。周囲に他の家はなく、黒松の林は途切れることなく続いていた。
 家の周囲はぐるりと全てが黒松の林で、かまどや風呂をく着火剤として燃えやすい松の葉やまつぼっくりを使うことはあったが、拾いに行くのも家の周辺だけ。あまり松林の奥に行かないように、まきにするなら落ちた枝以外手を付けてはならんと、たびたび父さんから言われていたものだ。
 数年前、集落から少し離れた由良ゆら家にも遅ればせながら電気は通ったけれど、未だに街灯はなく、暗くなれば月明かりのみ。銀座や浅草ならば夜でも街灯が煌々こうこうと道を照らしていると聞くが、このあたりはまだまだだ。かつてはそれなりに栄えた宿場町だったこの地には、鉄道こそ走っているものの、中心地から少し離れただけでだいぶ寂れている。
 気が付けば赤々としていた夕焼けも消え去り、わずかな残照ざんしょうがあるだけだった。家まであと少し。今日は晴れているから、いずれ月が出てくるはずだ。
 父さんが生きていた頃は、私が遅くなると玄関先で石油ランプをけて待っていてくれたものだ。しかし、もう誰も家で待ってはいない。
 それを思うと、チクリと胸に刺すような痛みが走る。
 母は私が幼い頃に亡くなっていた。そして細工師さいくしをしながら、男手一つで育ててくれた父も、もういない。
 じわりと涙が浮かぶのをこらえ、私は足を止めた。
 そでで目元を拭う。悲しみを誤魔化すように黒松のざらざらとした木肌に触れた。そのまま片手で松の木にもたれ、急ぎ足で上がった息を整える。
 ――シャン。
 鈴の音だろうか。不意に高く澄んだ音がした。
 人家もないこんなところに? それとも集落の子供が忘れていった鈴が木の枝にかけてあるのだろうか。
 そう首を傾げた時、頬にポツリと冷たい感触が当たった。
 雨だ。そう思う間にも、ポツポツと髪や肌に雨粒が落ちてくる。あっという間に本降りになる音がし、地面には早くも水溜りが出来て雨粒が弾けるように跳ねている。家まであと少しだが、走ったところで家に着く頃には濡れねずみだ。

(変なの。ついさっきまで晴れていたはずなのに)

 たまたま木の下で立ち止まっていたため、り出した松の枝がいい具合に傘の代わりになってくれていた。幾分かは細い松の葉の隙間を通って冷たい飛沫ひまつが落ちてくるが全身が濡れるほどではない。
 それならば、いっそ家まで続くこの松林の中を通り抜けてしまえばいいのでは。今日の着物は一張羅いっちょうら。女学校に通う際によく着ていた着物にはかまだった。今後、職を求めるのにも、きっとこの着物を着る機会は多いだろう。出来る限り濡らしたくない私にはそれは名案に思えた。
 私は松林の奥をそっと窺う。
 松林は暗い。けれど今ならまだかろうじて足元が見えるから歩けないこともない。このまま木の下で立ち止まっていても雨がやむ保証はないし、もたもたして真っ暗闇になってしまえばもう松林は通れなくなる。
 ここを通るか、それとも濡れるかの二択だ。
 私は小さく息を吐いて松林に足を踏み入れた。松の独特の香りが鼻をくすぐる。
 松林は途切れることなく家の裏手まで続いていた。道沿いに進めば迷うことはない。足元の根に蹴躓けつまづかないようにだけ気を付ければいいはずだ。
 ――シャン、シャン。
 また鈴の音だ。
 私は、ハッと息を呑む。
 松の木の奥に温かみのある光が見えた気がした。
 あれは父さんが玄関にともしてくれていた石油ランプ――いや、そんなはずはない。だって父さんは、もうこの世にはいないのだから。
 そう思ってはいても、足は自然と道沿いから逸れ、ふらりふらりと松林の奥に向かっていた。家ではなく松林の奥へ。
 雨粒が松の葉を叩く音と共に鈴の音が一定間隔で聞こえている。
 何故かその音を聞いていると、側頭部がじんわりとしびれ、足元がふわふわした。
 不意に松林が開けた。人がギリギリ二人並んで通れそうな幅の狭い道が現れて、私は目をまたたかせる。

(――こんな道、あったかしら)

 私はそっと黒松の幹にすがる。
 鈴の音はだんだんと大きくなり、こちらへ近付いてくる。正体も分からぬそれが恐ろしい。
 何かにき立てられるように、鈴の音が聞こえてくる方と逆に向かった。すると、そちらからさらさらとせせらぎが聞こえてくる。川があるのだ。

「あ……ここ、お屋敷のある方だわ」

 私は不意に幼い頃のことを思い出した。
 幼い頃、それなりにお転婆だった私は、何度か父さんの言いつけを破って、こっそり松林の奥へ探検に行っていたものだ。
 薄暗い松林の奥には、そう広くはないが水量の多い川が流れていた。その対岸には大きなお屋敷を囲う、土塀が続いていたはずだ。
 背の高い土塀でさえぎられ外からお屋敷は見えなかったけれど、瓦のついた土塀はとても立派で、幼心にきっとお金持ちの住むお屋敷があるに違いないと思っていた。だから、父さんは松林の奥へ行くことを禁じるのだろう、と。
 せせらぎのする方へ向かえば、記憶の通り川が現れ、そこに小さな橋がかかっている。その橋がまた風変わりなのだった。
 橋の手前側、それから渡った先に、門が二つあるのだ。おそらくこの屋敷専用の橋なのだろう。
 しかし、こんな二重の門では橋を渡るにも、まず手前の門を開けてもらわねばならない。それともお金持ちのお屋敷はどこもこういうややこしい造りなのだろうか。
 橋の手前側の門扉もんぴにかかった表札には『尾崎おざき』という苗字が刻まれていた。

「……間違いない。尾崎さんの――」

 どうやらこの細い道は尾崎家へ向かう道だったらしい。
 見ると、今まで一度も開いているところを見たことがない尾崎家の門が――開いていた。
 私は、尾崎家の門が見える位置で足を止めた。
 シャン、シャンと鳴る鈴の音はやむことなく私の耳に届いている。
 音だけではない。遠くにあった光が段々大きくなっていくのが分かった。
 何かが、近付いてくる――
 私は一際太い松の木の陰に隠れるようにして、その光景を見守っていた。逃げ出したいのに、一体何がやってくるのか見ていたい。そんな相反する気持ちが心の中でせめぎ合っている。

「――おや、花嫁殿かい?」
「きゃっ!」

 足音もなく、背後から声をかけられて、私は文字通り飛び上がった。
 振り返ると狐面をかぶった男が立っていて、私は息を呑む。
 狐面だけでも怪しいが、その男は全身がチグハグで違和感しかなかったからだ。
 紋付もんつきはかま姿だけれど、立派な着物に不釣り合いなボサボサに伸び切った蓬髪ほうはつ頭。その赤茶けた髪の色と同じ色の大きな尻尾しっぽがふさり、ふさりと左右に揺れている。
 ――狐の尻尾しっぽだ。
 驚きのあまり腰が抜けそうだ。私は手近な松の木にすがり付いてやっとのことで立っていた。
 声も出ない私に、狐面の男は首を傾げる。

「ふぅむ。その反応、私の花嫁殿ではないようだ。それなら用はない。お嬢さん、もう暗いから早く家にお帰りなさい。これからここに花嫁行列がやってくるんだ。邪魔をしちゃいけないよ」
「は、はい……ごめんなさい」

 私はやっとのことでそれを言うと胸を押さえた。心臓がバクバクと激しい音を立てている。
 狐面、そして作り物とは到底思えない狐の尻尾しっぽ
 ――あやかしだ。
 父さんの言っていた通り、黒松の林には入ってはいけなかったのだ。狐のあやかしに見つかってしまった。
 逃げようにも腰は抜けかけ、膝が震えていて一歩も動けない。
 狐面の男はそんな私を意に介さず、蓬髪ほうはつを掻いて鈴の音が鳴る方を向いた。

「ああ、いかん。もう来てしまった。いいかい、お嬢さん。花嫁行列が通り過ぎるまで決して音など立てず、静かにしてるんだよ」

 男は狐の面の口あたりに人差し指を立てる。
 そのまま足音を立てずに松の林から出ると、花嫁を出迎えるように尾崎家の門の前に立った。

(……見逃してもらえたの?)

 私は狐面の男の言う通りに息を殺して幹の陰に隠れた。松の木にすがる手が緊張でぶるぶると震えている。鼓動もまだ速い。その時、鈴の音が一際大きく聞こえた。
 しとしとと降る雨の中、花嫁行列がやってくる。
 狐の嫁入りは雨が降る――私はその言葉を思い出していた。
 鬼火おにび――この場合は狐火きつねびというのだろうか。火の玉が周囲をいくつも飛んでおり、行列を照らしていた。雨粒が火の玉を反射してキラキラと光っている。
 まさにこの世のものとは思えないほど美しい。私は息をするのも忘れて、食い入るように見つめていた。
 先頭は神職の白装束しろしょうぞくの男。鈴の付いた錫杖しゃくじょうを持っている。錫杖しゃくじょうが地面を突くたび、あたりにシャンと鈴の音が響いた。
 その音を聞いていると夢の中のように現実感が失せ、頭がしびれてぼうっとしてくる。足元がふわふわして、立っていることを忘れてしまいそうだ。すがり付いた幹のざらつきが手のひらに食い込む。その痛みのおかげで私は意識を飛ばさずにいられた。
 錫杖しゃくじょうを持つ男の後ろには、闇の中でほんのり光る白無垢しろむくを着た花嫁の姿。雨の中だというのに長いすそを引き摺り、滑るように進んでいく。
 更にその後ろは親族らしき紋付の羽織はかま黒留袖くろとめそでの男女がずらりと立ち並び、わずかな乱れもなく行列を構成していた。しかしその花嫁行列の全ての人が狐面をかぶっており、一切表情を窺えない。
 不可思議で恐ろしいのに目を離せないほど美しい。
 ――これが狐の嫁入り。
 花嫁行列は門の手前で立ち止まる。
 花嫁と花婿――おそらく先程の狐面の男が花婿なのだろう。彼らが向かい合うのが見えた。
 きっと合流して尾崎の門をくぐるのだろう。そこまで見届けたら私も帰ろう。
 安堵の心地でそっと息を吐いた。つい気を抜いてしまったのだろう。力の抜けた足元でパキリと硬い音がした。
 落ちた小枝を踏みつけた些細ささいな音。
 まさか聞こえるはずがない――そう思った次の瞬間、花嫁が振り返り、私の方を見た。
 ――目が合った。
 狐面越しだというのにそんな気がした。
 心臓が一際大きく音を立て、背中をどっと汗が流れる。

「――誰じゃ⁉」

 高い女性の声。花嫁が私の方を指差し、そのまま指をくの字に曲げた。

「出ておいで!」
「ひっ!」

 指でくいっと引っ張るような花嫁の動きに合わせて、私の足が勝手に動き出す。

(いやっ、なにこれ……体の自由が利かない)

 ギクシャクとした操り人形みたいな動きで、私の体は彼らの前へ引き摺り出されてしまった。

「人間ではないか! せっかくの嫁入りに邪魔が入った!」

 花嫁は怒気をみなぎらせ、面越しに私をにらむ。狐面の角度が変わったからか、面の表情まで恐ろしいものに見えた。
 全身に痙攣けいれんのような震えが起こる。

「しかもお前、嫌な匂いがするじゃないか。つい最近、死に触れただろう。ここにけがれを持ち込みよったな!」

 その言葉に心臓を冷たい手で掴まれたような気がした。
 体が動かない。歯の根が合わないほど震えることしか出来なかった。

「ご、ごめんなさい……」

 私は震えながらやっとのことで謝罪の言葉を絞り出した。
 死に触れた――おそらくそれは亡くなった父のことを指している。まだ初七日を過ぎたばかり。わざとではないけれど、婚儀という晴れの日にけがれを持ち込んだのは否定出来なかった。

「まあまあ花嫁殿。せっかくのめでたい日ではないですか。そのような通りすがりの娘一人捨て置きましょう。さあさ、屋敷の中へどうぞ」
「うるさいっ!」

 狐の花嫁は花婿の取りなしにも落ち着こうとしない。癇癪かんしゃくを起こしたように地団駄じだんだを踏み、狐面を外した。同時に綿帽子もはらりと地面に落ちる。
 面の下から切れ長の目をした美女の顔があらわになった。しかし髪を乱し、憤怒ふんぬの表情を浮かべる顔は、まるで般若はんにゃの面のごとし。

「嫌なものは嫌じゃっ! ……ああ、ケチが付いた! そのような結婚など、わらわは願い下げじゃ!」

 狐の花嫁は私をキッとにらむ。
 手にしていた狐面を地面に叩きつけるやいなや、花嫁行列を構成していた男女が全て青い炎に包まれる。ガシャンッと激しい音がして、持ち手を失った鈴錫杖しゃくじょうが地面に落ちた。
 めらめらと燃え上がったのは人形ひとがたをした紙であった。あっという間に燃え尽き、雨の中、薄く煙が立ち昇っている。
 この場に残されたのは狐の新郎新婦と私だけになった。
 もしや私も同じように焼かれてしまうのでは、という恐怖に青ざめる。この場から逃げ出したいのに、私の体は麻痺まひしたように動かなかった。

「花嫁殿! どうか落ち着いて」

 狐婿は慌てて花嫁に取りすがるが、花嫁はにべもなくその手を振り払った。

わらわは帰る。破談じゃ!」
「待ってくださいよ、そんな……こっちにも都合というものが」
「知らぬ、知らぬっ!」

 狐の花嫁はそっぽを向いて、己が髪を一本引き抜いた。
 地面にはらりと落ちた髪はするりと馬の形を取る。本物にしか見えない青毛の馬はいななきを上げた。
 狐の花嫁がその背にさっと横乗りをすると、馬は颯爽さっそうと空へ駆け上がっていく。

「ふん、わらわに落ち度はない。悪いのはその人間の娘じゃ!」

 空飛ぶ馬に乗った狐嫁はそう言い捨て、そでをはためかせて去っていく。
 花嫁が見えなくなると、それまでしびれたように動かなかった体がふっと軽くなり、手足が動くことに気が付いた。
 私はゴクリと唾を呑み込み、一目散にその場から駆け出した。

「わあ、ちょっと!」

 狐婿がわあわあ言う声が背後から聞こえたが、振り返らなかった。
 走りながらたもとをほんの少し引っ張られたような気がしたが、枝に引っ掛けただけだろう。
 暗い松林をしゃにむに走る。何度もつまずきそうになるが、足は止めなかった。枝に肌を引っ掻かれても、おさげに編んだ髪が絡め取られても走り続ける。今日の履き物がブーツであったのは幸いだった。草履ぞうりでは林の中をこんなに走れない。
 追いつかれてはいけない。私は必死に走った。
 突然松林が開け、家に続く一本道へ転がり出た。見覚えのある場所に安堵して、その場に膝をつく。
 髪はボサボサで、大事な着物には土が付き、かぎ裂きもありそうだ。枝に引っ掛けた肌があちこち痛む。
 でも、帰ってこられたのだ。荒くなった息を整え、走り過ぎて痛む肺のあたりを押さえた。
 そして気が付く。さっきまでの雨が嘘のようにやんでいた。それどころか地面に水溜りはおろか、湿り気すらない。
 空には月が昇り、家への小道を照らしていた。
 狐の嫁入り――まさに狐に化かされたのか。
 私は立ち上がり、家路を急いだ。


 月明かりの中、ようやく家が見えてホッとしたのも束の間。
 無人のはずの家に明かりがついているのに気が付いて身構えた。私は眉を寄せ、抜き足差し足で近寄った。
 そっと玄関の引き戸に耳を近付ける。男女の笑い声が聞こえて、更に眉を寄せた。叔母夫婦だ。
 玄関の鍵が開いている。いつの間にか予備の鍵を持っていかれていたらしい。
 がらりと玄関を開け、土間へ向かう。足元にからの酒瓶が転がっていた。土間にまでむっとした酒臭さが立ち込めている。その酒瓶は、父に供えていたはずのものだった。
 居間で酒を飲んでいたらしい叔母が、とろりとにごった目をこちらに向けた。

「あーら、随分と遅かったじゃなぁい。あんまり遅いから心配したわぁ」

 そう言いながらにじり寄り、酒臭い息を吹きかけてくる。私はそれを避けて顔をそむけた。

「あの、ちょっと、なんですか。人の家に勝手に上がり込んで……」
「アタシらは一人になっちゃった小春を心配してんのよぉ」

 彼女は亡くなった母の妹だ。若い頃、素行の悪い男に引っかかり、親の反対を押し切って駆け落ち同然で出ていったと聞いていた。だが数年前から、たびたび我が家に顔を出しては、父に金を都合してくれと頼みにくるようになっていた。
 堅気かたぎには思えない派手な着物のえりを抜いた着こなし。唇には濃い紅を付け、酒杯片手にしどけなく座っている姿はまさに女狐めぎつねという言葉がぴったりの女だった。

「なーに他人行儀なこと言うとるんじゃ。小春の身内はもうワシらだけなんだから助け合っていこうや」

 そう言ったのは叔母の連れ合いである叔父だ。

「だからって、お供えのお酒まで……」
「はは、あんまりにも待たせるものだから、ちょっと一杯、な」

 叔父は信楽しがらきやきの狸みたいな太鼓腹を抱えてゲラゲラ笑う。叔母が女狐めぎつねならこちらは狸親父だ。叔父の横にも酒のき瓶が転がっていて、どう考えても一杯どころの話ではない。

「やめてください……鍵も返して!」

 夕飯にする予定で炊いておいた煮物の器がからっぽになっている。父さんが作ってくれたちゃぶ台の上が、散々飲み食いした跡で汚れているのを見て、湧き上がる怒りに胸を押さえた。

「出てってください。もう貴方たちに渡すお金もありませんから」
「なんじゃい、生意気に! 半人前の小娘がっ!」

 叔父は赤ら顔を更に赤くして私を怒鳴りつけた。
 怒鳴り声は無条件で恐ろしい。私は首をすくめて身をちぢめる。

「あーもう、アンタ、やめなってぇ! おびえてるじゃないさ」

 叔母は酒杯をトンと音を立ててちゃぶ台へ置いた。そして、目を細めて猫撫で声を出す。

「小春ぅ、アタシらはさ、アンタが心配なんだよ。義兄にいさんも死んじゃって、学校だって続けられないでしょうが。アンタこれからどうするつもりよ」
「……女学校は辞めてきました。どうにかして働き口を探します。叔母さんたちに迷惑はかけません」

 女工じょこうか、それとも給仕か。仕事を選ばなければ働き口はあるはずだ。
 父さんの初七日も終わり、手続きのたぐいおおむね済んだ。葬式に来てくれた父の師匠に、仕事の紹介を頼めないか近いうちに相談に行くつもりだった。

「働くって、ねえ。アンタみたいな世間知らずの子供が? 笑わせてくれるよ。アタシ、タイピストになりたいのぉ、とでも言う気かい?」


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