2 / 52
1巻
1-2
しおりを挟む
叔母は自分で自分の言ったことに腹を抱えて笑っている。馬鹿にされた怒りと羞恥にカッと顔が熱くなるのを感じた。
「それになぁ、お前の父さんはワシらに借金があるからな。女工やなんかで働いたところで、簡単には返せない額だぞ」
「……そんなっ、嘘よっ!」
私は愕然として叔父を見た。
無理をして女学校に通わせてくれていたのは知っていたが、父との生活は質素そのもので借金の話など一度も出たことがなかった。なにより、真面目で堅実な父が、無闇に借金を作るはずがない。
「嘘なもんか。ワシは偉い弁護士様だぞ。ちゃーんとお前の父さんが書いた借用書だってある。お前は知らんだろうが、元治義兄さんはお前の縁談のためにあちらこちらに金を撒いていたのさ」
「そうそう。アンタにいいところにお嫁に行ってほしいって、義兄さんの親心じゃないのぉ」
叔父は弁護士を自称していた。胡散臭いことこの上ない叔父を、父は詐欺師まがいの代言人と言って嫌っていたことを覚えている。たとえ借金をするにしても、この叔父から借りるはずがない。
しかし見せられた借用書には確かに父の名前が書かれていた。借金の額は一般的な女工の給料の二十倍以上。これから私が勤めに出たところで到底返せそうにない。
「いいか、これがあるってことは、小春が代わりに金を返さにゃならんってことだ。……それで小春や、元治義兄さんの葬式で集まった金はどうしたんだね?」
「そうそう。香典がいーっぱい集まったんじゃないかと思ってねぇ。それを渡してくれたら、ひとまず今日は帰ってあげるわよ。大体、姉さんの着物も地味な柄ばっかりで、ろくなのが残ってないしさぁ」
その言葉に私の体がブルッと震える。
続きの間の襖を飛びつくようにして開けると、母の形見の和箪笥を物色した跡が見て取れた。それどころか父が細工の仕事に使っていた道具まで荒らされている。
「な、なんてことを……! この家から出て行ってよ!」
「おうおう、凄んだところで何も怖くないぞ。香典はどうした」
「……そんなの、もうないに決まってるでしょ!」
いただいた香典はお坊さんへのお布施や、葬式の手伝いに来てくれた近所の人への心付けなどで残っていない。
「ふうん、じゃあアンタ、お妾になるしかないわねえ」
「え……?」
叔母がニタリと笑う。
「だってアンタじゃ借金を返せっこないでしょうが。このボロ家なんて二束三文にしかなりゃしないし。それとも踏み倒す気かい? そんなことしちゃ、草葉の陰でアンタの父さんが泣くわよぉ」
「な、そんな親不孝はよくないだろう。……実は、知り合いに妾を欲しがってるお大尽がいるんだよ。借金はその方が全部返してくれるぞ」
叔父は猫撫で声で言う。
二人が今日来たのは最初からそのつもりだったのだ。心臓が嫌な鼓動を立て始める。
「小春は器量もいいし、女学校にも通っていて躾も行き届いておるだろう。そういうお嬢さんを是非とも側に置きたいってね」
「そうよぉ、とってもいいお話で。アタシがあと十歳若けりゃお妾になりたいくらいのお人なのよぉ。すこーしお年がいってるけどねぇ、だからこそ、ほんの数年我慢するだけだから」
叔父と叔母は顔を見合わせ、わざとらしい笑い声を立てた。そのおぞましさにぞわっと鳥肌が立つ。
「そ、そんなの……」
「月々お金も貰えるし、一等地にある家作をお前にくれるそうだよ。たまーに旦那が来たら相手をするだけさ。どうだい楽なもんだろう」
「でも……私はこの家から出て行きたくないんです」
古い家だが、私が生まれた時から住んでいる。両親の思い出が染み付いた大切な家なのだ。
「なんならさ、代わりにアタシらがこの家に住んであげようか。ちゃーんと管理してあげるわよぉ」
「そりゃいいな。小春は借金がなくなるし、生活の憂いもない。旦那もいい妾を持てて大喜び、ワシらも家賃が浮いて万々歳だ。三方良しで、いいことずくめだろう」
「い、嫌っ! お金は……なんとかしますから」
私は首を横に振って言った。誰とも知れない男の妾になどなりたくもない。
だが叔父は返事の代わりにちゃぶ台をバンと叩く。
その激しい音に心臓が縮み上がり、両腕で庇うように胸を押さえた。叔母は黙って冷めた目をして私を見ている。
「まだ分かってねえのかっ! お前じゃ金を返せっこねえだろうが! ……花街の娼妓にでもなるってんなら話は別だが」
「このあたりなら千住遊郭が近いかしらねえ。別に、そっちのがいいってんならアタシらはねえ?」
「ああ、そうとも。妾の方が楽だったって思い知るだけさ。どっちも嫌、で逃げられる話じゃないって分かってんだろうなぁ? 他に手があるなら一応聞くだけ聞いてやろうじゃないか、おい」
「――いやいや、お待ちを。旦那さんに奥さん。ちょいと私の話を聞いちゃあくれませんかね?」
シャン、とどこからか鈴の音がして私は息を呑んだ。
「だ、誰……?」
叔父ではない男の声。
私は目を瞬かせながら声のした玄関へ視線を向ける。
玄関扉が開いた音はしなかったはずなのに、男がひょっこりと三和土に立っていた。
紋付袴、ボサボサの蓬髪。そして狐の面と尻尾――尾崎の家の前で会った、あの妖の男だった。
「嘘……どうして、ここに……」
せっかく家まで逃げたのに、追いつかれてしまった。私は恐ろしさのあまりその場に座り込んだ。
「いやあ、すみません。実は、袂にね」
そう言いながら男が己の袂を指差した。
それを見て慌てて自分の着物の袂を探れば、一体いつ入れられたのか、鈴がコロリと転がり出てくる。おそらくは、さっきの花嫁行列で使っていた鈴錫杖の鈴だ。
「……え、どうして」
「お嬢さんが逃げてしまうから、ちょいとね」
狐面の男は飄々とそんなことを言った。
私はどう反応すればいいか分からず、手のひらの鈴を握りしめる。手の中で鈴が小さくチリリと鳴った。
「おい、なんじゃお前は。勝手に人ん家に入りよって」
「そうよぉ。どこのお大尽だか知りませんけどねぇ、今は取り込み中なんですよ」
叔母夫婦は迷惑そうな素振りを隠そうともしない。けれど、ボサボサの髪も狐面も、これ以上ないほど怪しげだというのに、そこには何一つ触れない。まるで二人には、この男がごく普通の人間に見えているかのようだ。
おかしいのは私の方なのだろうか。私はすっかり混乱していた。
男は如何にも困ったように腕組みをした。面をかぶっていることもあり、芝居がかった動きに見える。
「実は、困ったことがありまして……。ああ、申し遅れました。私はこの松林の奥にある屋敷に住んでおります、尾崎と申します」
「誰がお前の名前なんぞ聞いてるんじゃ!」
「ちょっと、アンタ、少し黙って――尾崎さん……いえ、尾崎様とおっしゃいましたねぇ? お屋敷ってあの、林の奥に土塀が見える、あそこの?」
「ええ、ご存じでしたか。そこの屋敷の者ですよ」
叔母の目がギラリと光り、獲物を狙う猫――いや狐みたいになった。
「まあまあ、それで、今日はどういったご用件ですの? アタシでよければお力になりますよぉ」
叔母には尾崎が金満家にでも見えているのか、急によそ行きの顔でシナを作る。あの松林の奥に大きなお屋敷があることを知っていたらしい。
「それはそれは、助かります。実は女中を探しているのです。急ぎでして、とにかくすぐにでも屋敷に来ていただきたい。それというのも、本日結婚をしたのですが、妻が連れてくるはずだった女中が急に都合が悪くなりまして」
尾崎はペラペラと話し始めた。叔母はうんうんと真剣に頷いているが、それにしてもよく舌が動くものだと思ってしまう。
「結婚したばかりの、それはそれは可愛い新妻です。家事の苦労など一切させる気はございません! ですがどうにも手が足りんのです。とにかく広いばかりの屋敷でございまして、このままでは掃除も行き届かない。そんな環境に可愛い新妻を置いておけるはずございませんでしょう。そういうわけで早急に掃除が出来る女中が欲しいんですね。そんな折、たまたま屋敷の近くで、お可哀想に最近お父上を亡くされたお嬢さんがいらっしゃると小耳に挟んだものですから、もしよろしければしばらくの間お預かりできないものかと、まあそう思って伺ったわけです、はい」
「あらまぁ、そうですの。でも、この子にはいいご縁がございまして、先が決まっておりますの。ですが……どうしてもとおっしゃるなら、それ相応のモノが必要でございましょう?」
叔母はにんまりと笑う。
叔父も合点がいったように太鼓腹をポンと叩き、手を揉んだ。
「ええ、ええ。そうですとも。この小春はとても気立てのいい娘です。女学校出で学もありますし、器量もこの通り。磨けばよぅく光ること間違いございません。私共が親代わりでございましてねえ」
「な、何が親代わりよ」
叔父の言葉を否定しようとしたが、叔母にぺしんと叩かれる。
「馬鹿っ、黙ってなさい! あんなお屋敷の持ち主よ。お金持ちに決まってるじゃないさ!」
叔母は小声でそう言い、私を居間の隅まで引き摺り、耳元で囁いた。
「フン、結婚したばかりだってのに助平な男だよ。あれはね、女中という名の妾奉公を求めてるんだ。奥様公認のお妾ってことだよ。奥様が不美人かそれとも不仲なのかは知らないけどねぇ」
「で、でも……」
「でもじゃないわよ! せめて若い方がアンタだっていいじゃないさ! 奥様より早く跡継ぎを産んじまえば、屋敷で大きな顔が出来るわよぉ」
私は欲深い叔母に閉口した。
そもそも私には、その男はどう見ても狐の妖に見える。しかも先程、私の目の前で花嫁に逃げられているのだ。男の言っていることの意味がまったく分からず、混乱するしかない。
しかしその間も、叔父と尾崎の話は続いている。
「実は小春には先にお約束がございまして。それを反故にして尾崎様の家に小春をやるとなると、それなりにかかるものがございます。元々小春の父親の借金を私が肩代わりしているもので……」
「ははあ、なるほど。支度金だけでなく返済金に違約金も必要と、そういうわけですね」
その通りと示すように叔父はにんまり笑いながら揉み手をしている。
「分かりました。手持ちの紙幣で足りるでしょうか」
尾崎はそう言うや否や、袂からごっそりと束を取り出して床へバラバラと撒いた。
それを見た叔父は床に目が釘付けである。私を押さえる叔母も、横で息を呑んだのが聞こえた。
「ああ、ちょいと古いですが小判でもよろしいですか? それならもーっとありますよ」
更に袂を探り、取り出したそれも床に撒く。床でぶつかり合い、カチャンカチャンと硬い音を立てた。
「まああ……き、金じゃないの……」
「はい。見ての通り本物の小判でございます」
「い、いやいや、まず本物の金かどうか。齧れば分かると言いますが……ちょっと失敬。ああ、本物だ! ほれ、見てみろ、噛んだ跡が付いただろう!」
「ほ、本物よぉ!」
叔母夫婦は顔を見合わせ喜色満面だ。
「え……でも、それ……」
言いかけた私に、尾崎は黙って狐面の口に人差し指を立てて見せる。私はおずおずと頷いた。
叔父も叔母も、すっかり金に目が眩んだ顔で笑っている。
――しかし私には、彼らが床に這いつくばって集めた紙幣は木の葉に、本物の金かどうか齧って確かめていた小判は瓦のかけらにしか見えなかった。もちろん歯形など付くはずもないのに、叔父はうっとりと瓦を撫でている。
私は目を瞬かせて怪しげな狐面の男を見上げた。今気が付いたが、かなり上背がある。声の感じや、首や手のひらを見る限り、父さんよりずっと若そうだ。しかし妖だとすれば見た目通りの年齢であるはずもない。
「さて、これで足りますでしょうか? 私としましては、この小春さんの育ての親とのことで礼を尽くしているつもりですが」
「ま、まあ……これだけあれば……なあ?」
「ええ、アタシらは文句の付けようもございませんわぁ」
「そうですか。それはよかったです。それで、もしよろしければ、小春さんと少しお話しさせてもらえませんか? 出来れば二人きりで」
叔父と叔母は顔を見合わせてニタリと笑う。
「ええ、どうぞ。……ごゆっくり」
ごゆっくり、の部分に力を込め、叔母夫婦はいそいそと荷物をまとめる。
「ああ、借用書は置いていってくださいね」
「か、鍵も! それから母さんの着物も返して!」
叔父から借用書を、そして叔母から鍵と、ちゃっかり持ち去ろうとしていた亡き母の着物を取り返す。
「はいはい。アンタも目敏いねえ」
叔母は大金を手にして気が大きくなっているらしく、緩み切った顔で大人しく返してくれた。
叔母たちが去り、取り戻した母の形見の着物を抱きかかえてホッと息を吐く。
けれどこれで済んだはずもない。
私は顔を上げ、何を考えているのかまったく読めない狐面を見つめた。
「あ、あの……どうして助けてくれたんですか」
私はおずおずと尋ねた。
私は狐の嫁入りを邪魔してしまったのだ。責められこそすれ、助けられるとは思ってもみなかった。
「へえ、助けられたんですか?」
しかし尾崎はとぼけた態度でそう言い、大袈裟な動きで首を傾げる。
「だって私、あの人たちに借金のカタで妾として売り払われるところだったんですよ」
「あれまあ、そうだったんですか。じゃあ、お嬢さんは、今は私のものってことですよね」
「えっ……⁉」
狐の面からは尾崎の表情が分からないはずなのに、何故だかニンマリと笑っているみたいに思えた。
「ほら、これ。さっきあの人たちから買い取った紙切れ」
尾崎はヒラヒラと借用書を振って見せる。
「た、助けてくれたんじゃないの……?」
「そりゃ、人間だってタダで人助けをしたりしないでしょう。結局、私が借金を支払ったようなものですし」
「で、でも叔母さんたちに渡したのは偽物のお金でしたよね? 私には木の葉と瓦のかけらに見えました」
そう言う私に、尾崎はふふふと含み笑いをする。
「お嬢さん、やっぱり勘がいいねえ。それとも目がいいのかな。とはいえ、私が買い取ったのは事実でしょう。力尽くで奪ったわけではないですし、あの人たちも喜んで渡してくれましたよ」
「そんなの屁理屈だわ!」
「屁理屈で結構。そんなことより、私は困ってるんですよ。なにせお嬢さんのせいで花嫁に逃げられてしまったんですから」
私は気まずさを感じて目を逸らす。
「た、確かに……それは……」
わざとではないとはいえ、花嫁が怒ったのは私が嫁入りを邪魔してしまったせいなのは確かだ。
「実は私、どうしても早急に嫁を得なければならないんですよ」
「はあ……」
「三ヶ月後の親族会議に嫁を連れて行くと約束してしまいまして……もうね、海千山千の古妖ばかりの会議です。私なんてあの中じゃ尻の青い若造扱いでねぇ……。それでお嬢さん、代わりに私の花嫁になってくれませんかね?」
「えっ⁉」
私はその言葉に弾かれたように顔を上げた。
「いやっ、無理っ、無理です!」
ブンブンとおさげが空を切る勢いで首を横に振った。いくら禁忌を破って禁足地に入った自分のせいとはいえ、見ず知らずの、しかも妖に嫁ぐだなんて。
しかし尾崎は身を小さくして拝み倒してくる。妖のくせに随分と腰の低い男だ。
「どうかこの通り! お願いしますよぉ。ほんの少しの間でいいんです!」
「……ほ、ほんの少し?」
「はい。言ったでしょう。親族会議があるって。そこで花嫁のフリをしていただきたいのです」
「本物の花嫁じゃなくて、フリだけ?」
「はい、フリだけです」
私は少し考え込む。妖の花嫁はごめんだが、花嫁のフリをするだけならば、さっきの詫びにもなるだろう。何より、尾崎のおかげで叔母夫婦に妾として売り払われずに済んだのは事実だ。それに、あの欲深い叔父や叔母が這いつくばって木の葉や瓦を拾い集める姿には、少しスッキリした。
「それにタダでとは言いません。この紙だけでなく、お金でも小判でも……」
「いえ、それはいらないです。さっきみたいに木の葉と瓦のかけらかもしれないですもん」
私の言葉に尾崎は蓬髪をバリバリと掻き、声を上げて笑った。
「はは、確かに。では何か欲しい物はありませんか? 私に用意できる物なら用意します。まあそれも偽物だろうと言われてしまえばそれまでですが……」
「欲しい物……」
私は首を傾げた。
両親を安らかに眠らせる墓が欲しい。しかし、はいどうぞ、と墓石を渡されても困る。
少し考えてから思い付く。
「欲しい物とは少し違うんですけど、叔父と叔母がまた戻って来たら困ります。もしかしたら、さっきのお金が偽物だって気付いて乗り込んでくるかもしれませんし。あの人たち、鍵がなきゃ、次は扉を壊しそうだから心配で」
「なるほど。うーん、じゃあ、この松林にあの人らが入れないようにしましょうか。ほら、よくあるじゃないですか。一本道なのに何やら同じところをぐーるぐるって。私は狐ですから、そういうの得意なんですよ」
「あの、貴方は本当に狐の妖なんですか?」
私は尾崎のふさふさと揺れる赤茶色の尻尾を見て言う。普通の人間には思えないけれど、こうしてちゃんと会話が出来る。子供の頃に寝物語で聞かされていた怖い妖の話とは随分違うみたいだ。
「はい。私は狐ですよ。尻尾もほらこの通り。ですけどね、本当であれば私の尻尾は五本で、もっと強い力を持っていたんです。それがどうしたことか、今は一本しかないのですよ。よよよ……」
どう見ても泣いているようには見えない。白々しい泣き声を上げて尾崎は狐面の目元を袖で押さえた。
「尻尾って……増えたり減ったりするものなんですか?」
「ええ、そうですよ。力のある狐……九尾の狐ってご存じないですか? 妖は、ながーく生きれば生きるほど力を増していくのです。尻尾も力と共に増えます。ま、その逆に、尻尾を失えば力も失いますが」
「ふぅん、やっぱり人とは違うのね……」
「はい。妖は人よりずっと長い時を生きています。この家も元は時川さんって爺さんの家でした。時川の爺さんはここに住む時、私と約束をしたのです。この松林の番人になるってね。ですが気が付けば、時川の爺さんは死んでしまい、お嬢さんのご両親が縁あってここに住み始めた」
「……確か、私が生まれる少し前に、父が師匠の知り合いから買ったそうです。ちょっと不便なところにあるけど、父は細工師だったので、毎日勤めに出るわけではありませんから」
狐面が傾く。尾崎が首を傾げたのだ。彼は少し考え込んでから言った。
「そういえば、かれこれ二十年近く前、お嬢さんによく似た声を聞いた気がします。うちの屋敷の前でなにやら声を張り上げていたような……もしかしたら、お嬢さんのお母様だったのかもしれませんねえ」
「そうかもしれません。とはいえ、母が亡くなったのは私がまだ小さい頃なので、声は覚えてないんですが」
もしかしたら、母も松林で妖を見たことがあったのだろうか。父が松林の奥に行ってはならないと言ったのは、そのせいだったのかもしれない。
「分かりました。尾崎さん……でいいんでしたよね。フリだけですもんね。私、身代わりの花嫁になります!」
「いやあ、ありがたい!」
尾崎はそう声を張り上げると私の手を握った。
「では、早速参りましょう。ああ、着物なんかはこちらでご用意いたしますから、手ぶらで結構ですよ。この家には、お嬢さん以外誰も入れないよう結界を敷いておきましょうね」
「ちょ、ちょっと待って! 三ヶ月後の親族会議で花嫁のフリをするだけじゃなかったの⁉」
「いやいや、まさか! 言ったでしょう、海千山千の古妖ですよ。突然会議に連れてきた花嫁なんてすぐに偽りとバレてしまいます。それに、いつ親戚の古狐が屋敷に様子を見にくるかも分かりませんし。ああ、身代わりの花嫁以前に、貴方が人間であることはもちろんバレてはいけませんよ。私の屋敷にも、妖の奉公人からよく分からない居候までうじゃうじゃウロウロしていますから、お気を付けて。貴方だって人間とバレて、頭から齧られたくはないでしょう?」
「そ、そんな……待って、やっぱり、私……!」
「ふふ、もう約束しましたからねえ。古今東西、妖との約束を破ってよかった試しはないですよぉ。いやあよかった! 貴方もほんの少し、たった三ヶ月だけ我慢をするだけでしょう?」
尾崎はまたヒラヒラと借用書を私に向かって振って見せる。
その狐面の憎らしいことといったら。
一難去ってまた一難。その言葉が身に沁みた私は、尾崎に握られた手を振り払うことさえ出来なかった。
「それになぁ、お前の父さんはワシらに借金があるからな。女工やなんかで働いたところで、簡単には返せない額だぞ」
「……そんなっ、嘘よっ!」
私は愕然として叔父を見た。
無理をして女学校に通わせてくれていたのは知っていたが、父との生活は質素そのもので借金の話など一度も出たことがなかった。なにより、真面目で堅実な父が、無闇に借金を作るはずがない。
「嘘なもんか。ワシは偉い弁護士様だぞ。ちゃーんとお前の父さんが書いた借用書だってある。お前は知らんだろうが、元治義兄さんはお前の縁談のためにあちらこちらに金を撒いていたのさ」
「そうそう。アンタにいいところにお嫁に行ってほしいって、義兄さんの親心じゃないのぉ」
叔父は弁護士を自称していた。胡散臭いことこの上ない叔父を、父は詐欺師まがいの代言人と言って嫌っていたことを覚えている。たとえ借金をするにしても、この叔父から借りるはずがない。
しかし見せられた借用書には確かに父の名前が書かれていた。借金の額は一般的な女工の給料の二十倍以上。これから私が勤めに出たところで到底返せそうにない。
「いいか、これがあるってことは、小春が代わりに金を返さにゃならんってことだ。……それで小春や、元治義兄さんの葬式で集まった金はどうしたんだね?」
「そうそう。香典がいーっぱい集まったんじゃないかと思ってねぇ。それを渡してくれたら、ひとまず今日は帰ってあげるわよ。大体、姉さんの着物も地味な柄ばっかりで、ろくなのが残ってないしさぁ」
その言葉に私の体がブルッと震える。
続きの間の襖を飛びつくようにして開けると、母の形見の和箪笥を物色した跡が見て取れた。それどころか父が細工の仕事に使っていた道具まで荒らされている。
「な、なんてことを……! この家から出て行ってよ!」
「おうおう、凄んだところで何も怖くないぞ。香典はどうした」
「……そんなの、もうないに決まってるでしょ!」
いただいた香典はお坊さんへのお布施や、葬式の手伝いに来てくれた近所の人への心付けなどで残っていない。
「ふうん、じゃあアンタ、お妾になるしかないわねえ」
「え……?」
叔母がニタリと笑う。
「だってアンタじゃ借金を返せっこないでしょうが。このボロ家なんて二束三文にしかなりゃしないし。それとも踏み倒す気かい? そんなことしちゃ、草葉の陰でアンタの父さんが泣くわよぉ」
「な、そんな親不孝はよくないだろう。……実は、知り合いに妾を欲しがってるお大尽がいるんだよ。借金はその方が全部返してくれるぞ」
叔父は猫撫で声で言う。
二人が今日来たのは最初からそのつもりだったのだ。心臓が嫌な鼓動を立て始める。
「小春は器量もいいし、女学校にも通っていて躾も行き届いておるだろう。そういうお嬢さんを是非とも側に置きたいってね」
「そうよぉ、とってもいいお話で。アタシがあと十歳若けりゃお妾になりたいくらいのお人なのよぉ。すこーしお年がいってるけどねぇ、だからこそ、ほんの数年我慢するだけだから」
叔父と叔母は顔を見合わせ、わざとらしい笑い声を立てた。そのおぞましさにぞわっと鳥肌が立つ。
「そ、そんなの……」
「月々お金も貰えるし、一等地にある家作をお前にくれるそうだよ。たまーに旦那が来たら相手をするだけさ。どうだい楽なもんだろう」
「でも……私はこの家から出て行きたくないんです」
古い家だが、私が生まれた時から住んでいる。両親の思い出が染み付いた大切な家なのだ。
「なんならさ、代わりにアタシらがこの家に住んであげようか。ちゃーんと管理してあげるわよぉ」
「そりゃいいな。小春は借金がなくなるし、生活の憂いもない。旦那もいい妾を持てて大喜び、ワシらも家賃が浮いて万々歳だ。三方良しで、いいことずくめだろう」
「い、嫌っ! お金は……なんとかしますから」
私は首を横に振って言った。誰とも知れない男の妾になどなりたくもない。
だが叔父は返事の代わりにちゃぶ台をバンと叩く。
その激しい音に心臓が縮み上がり、両腕で庇うように胸を押さえた。叔母は黙って冷めた目をして私を見ている。
「まだ分かってねえのかっ! お前じゃ金を返せっこねえだろうが! ……花街の娼妓にでもなるってんなら話は別だが」
「このあたりなら千住遊郭が近いかしらねえ。別に、そっちのがいいってんならアタシらはねえ?」
「ああ、そうとも。妾の方が楽だったって思い知るだけさ。どっちも嫌、で逃げられる話じゃないって分かってんだろうなぁ? 他に手があるなら一応聞くだけ聞いてやろうじゃないか、おい」
「――いやいや、お待ちを。旦那さんに奥さん。ちょいと私の話を聞いちゃあくれませんかね?」
シャン、とどこからか鈴の音がして私は息を呑んだ。
「だ、誰……?」
叔父ではない男の声。
私は目を瞬かせながら声のした玄関へ視線を向ける。
玄関扉が開いた音はしなかったはずなのに、男がひょっこりと三和土に立っていた。
紋付袴、ボサボサの蓬髪。そして狐の面と尻尾――尾崎の家の前で会った、あの妖の男だった。
「嘘……どうして、ここに……」
せっかく家まで逃げたのに、追いつかれてしまった。私は恐ろしさのあまりその場に座り込んだ。
「いやあ、すみません。実は、袂にね」
そう言いながら男が己の袂を指差した。
それを見て慌てて自分の着物の袂を探れば、一体いつ入れられたのか、鈴がコロリと転がり出てくる。おそらくは、さっきの花嫁行列で使っていた鈴錫杖の鈴だ。
「……え、どうして」
「お嬢さんが逃げてしまうから、ちょいとね」
狐面の男は飄々とそんなことを言った。
私はどう反応すればいいか分からず、手のひらの鈴を握りしめる。手の中で鈴が小さくチリリと鳴った。
「おい、なんじゃお前は。勝手に人ん家に入りよって」
「そうよぉ。どこのお大尽だか知りませんけどねぇ、今は取り込み中なんですよ」
叔母夫婦は迷惑そうな素振りを隠そうともしない。けれど、ボサボサの髪も狐面も、これ以上ないほど怪しげだというのに、そこには何一つ触れない。まるで二人には、この男がごく普通の人間に見えているかのようだ。
おかしいのは私の方なのだろうか。私はすっかり混乱していた。
男は如何にも困ったように腕組みをした。面をかぶっていることもあり、芝居がかった動きに見える。
「実は、困ったことがありまして……。ああ、申し遅れました。私はこの松林の奥にある屋敷に住んでおります、尾崎と申します」
「誰がお前の名前なんぞ聞いてるんじゃ!」
「ちょっと、アンタ、少し黙って――尾崎さん……いえ、尾崎様とおっしゃいましたねぇ? お屋敷ってあの、林の奥に土塀が見える、あそこの?」
「ええ、ご存じでしたか。そこの屋敷の者ですよ」
叔母の目がギラリと光り、獲物を狙う猫――いや狐みたいになった。
「まあまあ、それで、今日はどういったご用件ですの? アタシでよければお力になりますよぉ」
叔母には尾崎が金満家にでも見えているのか、急によそ行きの顔でシナを作る。あの松林の奥に大きなお屋敷があることを知っていたらしい。
「それはそれは、助かります。実は女中を探しているのです。急ぎでして、とにかくすぐにでも屋敷に来ていただきたい。それというのも、本日結婚をしたのですが、妻が連れてくるはずだった女中が急に都合が悪くなりまして」
尾崎はペラペラと話し始めた。叔母はうんうんと真剣に頷いているが、それにしてもよく舌が動くものだと思ってしまう。
「結婚したばかりの、それはそれは可愛い新妻です。家事の苦労など一切させる気はございません! ですがどうにも手が足りんのです。とにかく広いばかりの屋敷でございまして、このままでは掃除も行き届かない。そんな環境に可愛い新妻を置いておけるはずございませんでしょう。そういうわけで早急に掃除が出来る女中が欲しいんですね。そんな折、たまたま屋敷の近くで、お可哀想に最近お父上を亡くされたお嬢さんがいらっしゃると小耳に挟んだものですから、もしよろしければしばらくの間お預かりできないものかと、まあそう思って伺ったわけです、はい」
「あらまぁ、そうですの。でも、この子にはいいご縁がございまして、先が決まっておりますの。ですが……どうしてもとおっしゃるなら、それ相応のモノが必要でございましょう?」
叔母はにんまりと笑う。
叔父も合点がいったように太鼓腹をポンと叩き、手を揉んだ。
「ええ、ええ。そうですとも。この小春はとても気立てのいい娘です。女学校出で学もありますし、器量もこの通り。磨けばよぅく光ること間違いございません。私共が親代わりでございましてねえ」
「な、何が親代わりよ」
叔父の言葉を否定しようとしたが、叔母にぺしんと叩かれる。
「馬鹿っ、黙ってなさい! あんなお屋敷の持ち主よ。お金持ちに決まってるじゃないさ!」
叔母は小声でそう言い、私を居間の隅まで引き摺り、耳元で囁いた。
「フン、結婚したばかりだってのに助平な男だよ。あれはね、女中という名の妾奉公を求めてるんだ。奥様公認のお妾ってことだよ。奥様が不美人かそれとも不仲なのかは知らないけどねぇ」
「で、でも……」
「でもじゃないわよ! せめて若い方がアンタだっていいじゃないさ! 奥様より早く跡継ぎを産んじまえば、屋敷で大きな顔が出来るわよぉ」
私は欲深い叔母に閉口した。
そもそも私には、その男はどう見ても狐の妖に見える。しかも先程、私の目の前で花嫁に逃げられているのだ。男の言っていることの意味がまったく分からず、混乱するしかない。
しかしその間も、叔父と尾崎の話は続いている。
「実は小春には先にお約束がございまして。それを反故にして尾崎様の家に小春をやるとなると、それなりにかかるものがございます。元々小春の父親の借金を私が肩代わりしているもので……」
「ははあ、なるほど。支度金だけでなく返済金に違約金も必要と、そういうわけですね」
その通りと示すように叔父はにんまり笑いながら揉み手をしている。
「分かりました。手持ちの紙幣で足りるでしょうか」
尾崎はそう言うや否や、袂からごっそりと束を取り出して床へバラバラと撒いた。
それを見た叔父は床に目が釘付けである。私を押さえる叔母も、横で息を呑んだのが聞こえた。
「ああ、ちょいと古いですが小判でもよろしいですか? それならもーっとありますよ」
更に袂を探り、取り出したそれも床に撒く。床でぶつかり合い、カチャンカチャンと硬い音を立てた。
「まああ……き、金じゃないの……」
「はい。見ての通り本物の小判でございます」
「い、いやいや、まず本物の金かどうか。齧れば分かると言いますが……ちょっと失敬。ああ、本物だ! ほれ、見てみろ、噛んだ跡が付いただろう!」
「ほ、本物よぉ!」
叔母夫婦は顔を見合わせ喜色満面だ。
「え……でも、それ……」
言いかけた私に、尾崎は黙って狐面の口に人差し指を立てて見せる。私はおずおずと頷いた。
叔父も叔母も、すっかり金に目が眩んだ顔で笑っている。
――しかし私には、彼らが床に這いつくばって集めた紙幣は木の葉に、本物の金かどうか齧って確かめていた小判は瓦のかけらにしか見えなかった。もちろん歯形など付くはずもないのに、叔父はうっとりと瓦を撫でている。
私は目を瞬かせて怪しげな狐面の男を見上げた。今気が付いたが、かなり上背がある。声の感じや、首や手のひらを見る限り、父さんよりずっと若そうだ。しかし妖だとすれば見た目通りの年齢であるはずもない。
「さて、これで足りますでしょうか? 私としましては、この小春さんの育ての親とのことで礼を尽くしているつもりですが」
「ま、まあ……これだけあれば……なあ?」
「ええ、アタシらは文句の付けようもございませんわぁ」
「そうですか。それはよかったです。それで、もしよろしければ、小春さんと少しお話しさせてもらえませんか? 出来れば二人きりで」
叔父と叔母は顔を見合わせてニタリと笑う。
「ええ、どうぞ。……ごゆっくり」
ごゆっくり、の部分に力を込め、叔母夫婦はいそいそと荷物をまとめる。
「ああ、借用書は置いていってくださいね」
「か、鍵も! それから母さんの着物も返して!」
叔父から借用書を、そして叔母から鍵と、ちゃっかり持ち去ろうとしていた亡き母の着物を取り返す。
「はいはい。アンタも目敏いねえ」
叔母は大金を手にして気が大きくなっているらしく、緩み切った顔で大人しく返してくれた。
叔母たちが去り、取り戻した母の形見の着物を抱きかかえてホッと息を吐く。
けれどこれで済んだはずもない。
私は顔を上げ、何を考えているのかまったく読めない狐面を見つめた。
「あ、あの……どうして助けてくれたんですか」
私はおずおずと尋ねた。
私は狐の嫁入りを邪魔してしまったのだ。責められこそすれ、助けられるとは思ってもみなかった。
「へえ、助けられたんですか?」
しかし尾崎はとぼけた態度でそう言い、大袈裟な動きで首を傾げる。
「だって私、あの人たちに借金のカタで妾として売り払われるところだったんですよ」
「あれまあ、そうだったんですか。じゃあ、お嬢さんは、今は私のものってことですよね」
「えっ……⁉」
狐の面からは尾崎の表情が分からないはずなのに、何故だかニンマリと笑っているみたいに思えた。
「ほら、これ。さっきあの人たちから買い取った紙切れ」
尾崎はヒラヒラと借用書を振って見せる。
「た、助けてくれたんじゃないの……?」
「そりゃ、人間だってタダで人助けをしたりしないでしょう。結局、私が借金を支払ったようなものですし」
「で、でも叔母さんたちに渡したのは偽物のお金でしたよね? 私には木の葉と瓦のかけらに見えました」
そう言う私に、尾崎はふふふと含み笑いをする。
「お嬢さん、やっぱり勘がいいねえ。それとも目がいいのかな。とはいえ、私が買い取ったのは事実でしょう。力尽くで奪ったわけではないですし、あの人たちも喜んで渡してくれましたよ」
「そんなの屁理屈だわ!」
「屁理屈で結構。そんなことより、私は困ってるんですよ。なにせお嬢さんのせいで花嫁に逃げられてしまったんですから」
私は気まずさを感じて目を逸らす。
「た、確かに……それは……」
わざとではないとはいえ、花嫁が怒ったのは私が嫁入りを邪魔してしまったせいなのは確かだ。
「実は私、どうしても早急に嫁を得なければならないんですよ」
「はあ……」
「三ヶ月後の親族会議に嫁を連れて行くと約束してしまいまして……もうね、海千山千の古妖ばかりの会議です。私なんてあの中じゃ尻の青い若造扱いでねぇ……。それでお嬢さん、代わりに私の花嫁になってくれませんかね?」
「えっ⁉」
私はその言葉に弾かれたように顔を上げた。
「いやっ、無理っ、無理です!」
ブンブンとおさげが空を切る勢いで首を横に振った。いくら禁忌を破って禁足地に入った自分のせいとはいえ、見ず知らずの、しかも妖に嫁ぐだなんて。
しかし尾崎は身を小さくして拝み倒してくる。妖のくせに随分と腰の低い男だ。
「どうかこの通り! お願いしますよぉ。ほんの少しの間でいいんです!」
「……ほ、ほんの少し?」
「はい。言ったでしょう。親族会議があるって。そこで花嫁のフリをしていただきたいのです」
「本物の花嫁じゃなくて、フリだけ?」
「はい、フリだけです」
私は少し考え込む。妖の花嫁はごめんだが、花嫁のフリをするだけならば、さっきの詫びにもなるだろう。何より、尾崎のおかげで叔母夫婦に妾として売り払われずに済んだのは事実だ。それに、あの欲深い叔父や叔母が這いつくばって木の葉や瓦を拾い集める姿には、少しスッキリした。
「それにタダでとは言いません。この紙だけでなく、お金でも小判でも……」
「いえ、それはいらないです。さっきみたいに木の葉と瓦のかけらかもしれないですもん」
私の言葉に尾崎は蓬髪をバリバリと掻き、声を上げて笑った。
「はは、確かに。では何か欲しい物はありませんか? 私に用意できる物なら用意します。まあそれも偽物だろうと言われてしまえばそれまでですが……」
「欲しい物……」
私は首を傾げた。
両親を安らかに眠らせる墓が欲しい。しかし、はいどうぞ、と墓石を渡されても困る。
少し考えてから思い付く。
「欲しい物とは少し違うんですけど、叔父と叔母がまた戻って来たら困ります。もしかしたら、さっきのお金が偽物だって気付いて乗り込んでくるかもしれませんし。あの人たち、鍵がなきゃ、次は扉を壊しそうだから心配で」
「なるほど。うーん、じゃあ、この松林にあの人らが入れないようにしましょうか。ほら、よくあるじゃないですか。一本道なのに何やら同じところをぐーるぐるって。私は狐ですから、そういうの得意なんですよ」
「あの、貴方は本当に狐の妖なんですか?」
私は尾崎のふさふさと揺れる赤茶色の尻尾を見て言う。普通の人間には思えないけれど、こうしてちゃんと会話が出来る。子供の頃に寝物語で聞かされていた怖い妖の話とは随分違うみたいだ。
「はい。私は狐ですよ。尻尾もほらこの通り。ですけどね、本当であれば私の尻尾は五本で、もっと強い力を持っていたんです。それがどうしたことか、今は一本しかないのですよ。よよよ……」
どう見ても泣いているようには見えない。白々しい泣き声を上げて尾崎は狐面の目元を袖で押さえた。
「尻尾って……増えたり減ったりするものなんですか?」
「ええ、そうですよ。力のある狐……九尾の狐ってご存じないですか? 妖は、ながーく生きれば生きるほど力を増していくのです。尻尾も力と共に増えます。ま、その逆に、尻尾を失えば力も失いますが」
「ふぅん、やっぱり人とは違うのね……」
「はい。妖は人よりずっと長い時を生きています。この家も元は時川さんって爺さんの家でした。時川の爺さんはここに住む時、私と約束をしたのです。この松林の番人になるってね。ですが気が付けば、時川の爺さんは死んでしまい、お嬢さんのご両親が縁あってここに住み始めた」
「……確か、私が生まれる少し前に、父が師匠の知り合いから買ったそうです。ちょっと不便なところにあるけど、父は細工師だったので、毎日勤めに出るわけではありませんから」
狐面が傾く。尾崎が首を傾げたのだ。彼は少し考え込んでから言った。
「そういえば、かれこれ二十年近く前、お嬢さんによく似た声を聞いた気がします。うちの屋敷の前でなにやら声を張り上げていたような……もしかしたら、お嬢さんのお母様だったのかもしれませんねえ」
「そうかもしれません。とはいえ、母が亡くなったのは私がまだ小さい頃なので、声は覚えてないんですが」
もしかしたら、母も松林で妖を見たことがあったのだろうか。父が松林の奥に行ってはならないと言ったのは、そのせいだったのかもしれない。
「分かりました。尾崎さん……でいいんでしたよね。フリだけですもんね。私、身代わりの花嫁になります!」
「いやあ、ありがたい!」
尾崎はそう声を張り上げると私の手を握った。
「では、早速参りましょう。ああ、着物なんかはこちらでご用意いたしますから、手ぶらで結構ですよ。この家には、お嬢さん以外誰も入れないよう結界を敷いておきましょうね」
「ちょ、ちょっと待って! 三ヶ月後の親族会議で花嫁のフリをするだけじゃなかったの⁉」
「いやいや、まさか! 言ったでしょう、海千山千の古妖ですよ。突然会議に連れてきた花嫁なんてすぐに偽りとバレてしまいます。それに、いつ親戚の古狐が屋敷に様子を見にくるかも分かりませんし。ああ、身代わりの花嫁以前に、貴方が人間であることはもちろんバレてはいけませんよ。私の屋敷にも、妖の奉公人からよく分からない居候までうじゃうじゃウロウロしていますから、お気を付けて。貴方だって人間とバレて、頭から齧られたくはないでしょう?」
「そ、そんな……待って、やっぱり、私……!」
「ふふ、もう約束しましたからねえ。古今東西、妖との約束を破ってよかった試しはないですよぉ。いやあよかった! 貴方もほんの少し、たった三ヶ月だけ我慢をするだけでしょう?」
尾崎はまたヒラヒラと借用書を私に向かって振って見せる。
その狐面の憎らしいことといったら。
一難去ってまた一難。その言葉が身に沁みた私は、尾崎に握られた手を振り払うことさえ出来なかった。
49
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある
柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった
王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。
リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。
「わかりました。あなたには、がっかりです」
微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。
香死妃(かしひ)は香りに埋もれて謎を解く
液体猫
キャラ文芸
第8回キャラ文芸大賞にて奨励賞受賞しました(^_^)/
香を操り、死者の想いを知る一族がいる。そう囁かれたのは、ずっと昔の話だった。今ではその一族の生き残りすら見ず、誰もが彼ら、彼女たちの存在を忘れてしまっていた。
ある日のこと、一人の侍女が急死した。原因は不明で、解決されないまま月日が流れていき……
その事件を解決するために一人の青年が動き出す。その過程で出会った少女──香 麗然《コウ レイラン》──は、忘れ去られた一族の者だったと知った。
香 麗然《コウ レイラン》が後宮に現れた瞬間、事態は動いていく。
彼女は香りに秘められた事件を解決。ついでに、ぶっきらぼうな青年兵、幼い妃など。数多の人々を無自覚に誑かしていった。
テンパると田舎娘丸出しになる香 麗然《コウ レイラン》と謎だらけの青年兵がダッグを組み、数々の事件に挑んでいく。
後宮の闇、そして人々の想いを描く、後宮恋愛ミステリーです。
シリアス成分が少し多めとなっています。
番を拒み続けるΩと、執着を隠しきれないαが同じ学園で再会したら逃げ場がなくなった話 ――優等生αの過保護な束縛は恋か支配か
雪兎
BL
第二性が存在する世界。
Ωであることを隠し、平穏な学園生活を送ろうと決めていた転校生・湊。
しかし入学初日、彼の前に現れたのは――
幼い頃に「番になろう」と言ってきた幼馴染のα・蓮だった。
成績優秀、容姿端麗、生徒から絶大な信頼を集める完璧なα。
だが湊だけが知っている。
彼が異常なほど執着深いことを。
「大丈夫、全部管理してあげる」
「君が困らないようにしてるだけだよ」
座席、時間割、交友関係、体調管理。
いつの間にか整えられていく環境。
逃げ場のない距離。
番を拒みたいΩと、手放す気のないα。
これは保護か、それとも束縛か。
閉じた学園の中で、二人の関係は静かに歪み始める――。
【完結】冷酷伯爵ディートリヒは、去った妻を取り戻せない
くろねこ
恋愛
名門伯爵家に政略結婚で嫁いだ、正妻エレノア・リーヴェルト。夫である伯爵ディートリヒ・フォン・アイゼンヴァルトは、
軍務と義務を最優先し、彼女に関心を向けることはなかった。
言葉も、視線も、愛情も与えられない日々。それでも伯爵夫人として尽くし続けたエレノアは、ある一言をきっかけに、静かに伯爵家を去る決意をする。
――そして初めて、夫は気づく。
自分がどれほど多くのものを、彼女から与えられていたのかを。
一方、エレノアは新たな地でその才覚と人柄を評価され、
「必要とされる存在」として歩き始めていた。
去った妻を想い、今さら後悔する冷酷伯爵。前を向いて生きる正妻令嬢。
これは、失ってから愛に気づいた男と、
二度と戻らないかもしれない夫婦の物語。
――今さら、遅いのです。
大根令嬢の雑学無双、王弟殿下を添えて。~ 前世を思い出したので、許婚をほったらかして人助けしまくります!!
古森真朝
恋愛
気弱な伯爵令嬢のカレンは、自分勝手な婚約者レナートに振り回されていた。耐え続けていたある日、舞踏会で何者かに突き飛ばされ、階段から落ちてしまう。
その傷が元で儚く……なるかと思いきや。衝撃で前世を思い出したカレンは一転、かの『ド根性大根』みたいな超・ポジティブ人間になっていた。
『モラハラ婚約者の思惑なんぞ知るか!! 今度こそ好きなことやって、目いっぱい幸せに長生きするんだから!!!』
昔ひたすら読書に耽って身に着けた『雑学』を武器に、うっかり採れ過ぎた作物や、開墾しようとすると不幸に見舞われる土地、不治の病にかかった王族、等々の問題をどんどん解決。
領地の内外で心強い友人が出来たり、いつの間にかものすごく有名になっていたり、何かと協力してくれる王弟ヴィクトルから好意を寄せられたり(注:気付いてない)する中、温かい家族と共に仕事に励んでいく。
一方、前世から因縁のある人々もまた、こちらに転生していて――
【完結】20年後の真実
ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。
マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。
それから20年。
マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。
そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。
おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。
全4話書き上げ済み。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。