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1巻
1-3
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「こぉんこん。花嫁様、妖屋敷にようこそ」
尾崎は芝居がかった言い回しで私の手を引いて松林を歩く。逃がさないためなのか、その手を離そうとはしない。
しかし、暗闇の中、ぐいぐいと手を引っ張られていても、不思議と松の根に躓くことはなかった。
我が由良家から尾崎の屋敷まで高々数分。その時間で心の準備が出来るはずもない。妖がたくさんいる場所で三ヶ月も過ごすだなんて、とにかく不安でならなかった。
私は歩きながら尾崎に尋ねた。
「あの……私、人間ってバレたらいけないんですよね?」
「そうですよ。妖にもよりますが、人が好きで人に交じって暮らす者がいれば、人が嫌いで虎視眈々と命を狙う者、食べ物として見る者もおりますね。屋敷には色々住み着いておりますから、さてさてどれがどれやら……」
「そんなの無責任じゃないですか! 私はただの人間です。あの花嫁の狐だって、私をすぐに人間だって見破ったのに」
「確かにそうですねえ。せっかく連れ帰ったのに、すぐに齧られてはたまりません」
尾崎は足を止め、ううんと唸る。
その気の抜けた声は、私を守る気がなさそうに聞こえて更に不安が募る。
「とりあえず化け狐と化け狸の親戚ってことにしときましょうか。ほらさっきの二人、まさにそんな感じだったでしょう」
私もそれには同意見だったので、そんな場合じゃないはずなのにクスッと笑いが漏れた。
「本物の狐の妖から見てもそう見えます?」
「ええ。欲深が人の皮をかぶっているようにしか見えませんでした。妖だってねえ、心根の綺麗な人間の方が好きに決まってます。ま、それとは別に悪い奴なら食っていいなんて考える妖もおりますけれど」
そうか狐か、と尾崎がぼそりと呟く。
「お嬢さん、これを」
尾崎は袂を探って鈴を一つ取り出した。
尾崎の袂には色々な物が入っているらしい。
「その鈴、さっきの……?」
「ええ。お嬢さんの家まで私を案内してくれた鈴です。こいつは、元はお燦狐の持ち物ですからね。狐の妖気が染み付いています」
お燦狐とは、逃げた狐の花嫁の名前だろうか。鈴を手渡された私はマジマジと見つめる。
「これをどうすれば?」
「飲んでください」
「ええっ!」
私は驚き、再度鈴を見た。私の親指の爪より少し大きい。しかも金属製だ。そんなものを飲み込んだら喉に詰まってしまいそうだ。
「無理です!」
「でもこいつを飲んでくれれば大体の問題は解決しますよ?」
「この大きさじゃ物理的に厳しいですし……何より妖の道具なんて飲めません!」
飲み込んだら、一体どうなることか。そんな恐ろしいことはごめんだった。
私は半ば押し付けるように尾崎に鈴を返す。
「大丈夫、こいつはそこそこ古いけど、まだ付喪神になるほどじゃありません。飲んだところで、たまーにお腹の中で鳴るくらいでしょう」
鈴は尾崎の手のひらの上で勝手にシャンと音を立てた。まるで意思があって返事をしたみたいではないか。
「大丈夫じゃありません! 気味が悪い!」
「うーん困りましたねえ……」
まったくもって困ってなさそうな声色で、尾崎は肩をすくめた。
「お嬢さん、ちょっとごめんなさいよ。ほんの少ーしだけ辛抱していてくださいな」
「だから、い――」
嫌だと言う途中、突然私の喉が凍りついた。
喉だけではない。体も動かせない。それは狐の嫁入りを邪魔してしまった時と同じだった。体の自由がどこかに行ってしまったかのようだ。
動かせるのは視線のみで、尾崎を睨むことすら出来ない。
「まあ、ちょこっと乱暴なやり方ですけどね。でも、もういい加減、嫁を連れ帰らねば屋敷の者に怪しまれますし」
尾崎はそう言いながら狐面に手をかけ、少し上にずらした。狐面で隠れていた鼻と口が露わになる。
(なんだ、ちゃんと顔があるんじゃない)
なんとなく、あの狐面の下はのっぺらぼうかもしれないと思っていた私は、拍子抜けした。
すっと通った鼻筋に形のいい唇。ボサボサの蓬髪を見なければ、鼻から下は男前と言えるかもしれない。上半分が見えないから正しい判断は出来ないが。
つい露わになった狐面の下の顔に意識が向いてしまって、尾崎のしようとしていることに気付くのが遅れた。
尾崎は私の顎をわずかに持ち上げ、唇を開かせた。体が動かないから尾崎の思うままだ。無理矢理鈴を飲ませる気だと悟った時には、全てが遅かった。
尾崎は己の舌を出して鈴を載せると、パクリと口に含んだ。
そのまま彼の顔が近付いてくる。何をするつもりなのか、問わなくても分かった。
(やめてっ――!)
拒絶の言葉は声にならない。
おでこに狐面がこつりとぶつかる。
まったく動かない唇に尾崎の唇が触れた。
――口付けられてしまった。
しかもそれだけに止まることなく、触れ合った唇の合間から、何か金臭い味のする液体が流れ込んでくるではないか。
「はい、ごっくん」
尾崎は唇を離し、小さい子供に薬を飲ませるみたいに、私の喉を軽く撫でる。
口の中に液体が溜まったせいか、それとも尾崎が喉だけ動かしたのか。
――ごくん。
私は口の中の液体を飲み込んでしまった。
妖から口移しで与えられたわけの分からない液体を。
口付けをされた衝撃と合わせて、頭が真っ白になっていく。
「いやあっ‼」
無我夢中で、目の前の尾崎を突き飛ばす。
しかし、直前でひょいっと尾崎にその手を避けられ、私はその場に尻餅をついてしまった。
いつの間にか、体が動くようになっている。でも、なんにも嬉しくない。袖でゴシゴシと口を拭う。
「ひどいっ! なんてことをするのよっ!」
「そんな。私はお嬢さんのためを思って」
尾崎はとてもそうは思っていないような声色で言った。
「だって大きくて飲み込めないって言うから、わざわざ鈴を液体にしたんですよ。ちゃんとお腹の中に入ってから、固体に戻るようにして。それもこれもお嬢さんの体に負担をかけないためにしたことです」
「だ、だからって……!」
「三ヶ月後の親族会議が終わったら取り出してあげましょう! 鈴が教えてくれるから、それまではどうせ逃げられませんしね」
私のお腹の中でシャンと鈴が鳴る。慌ててお腹を押さえた。
本当に体の中に妖の鈴を入れられてしまったのだ。顔からさあっと血の気が引いていく。
「もう嫌ぁっ! どうして私がこんな目に!」
高ぶる感情に任せて大声を上げた。
もう泣きたい。
「そりゃあ、禁足地に足を踏み入れてしまった自分のせいでしょう」
「黙っててよ! そんなの私にだって分かってるわよっ!」
だからといって感情を我慢出来るものでもない。
「……そんなに嫌だったんですか?」
「嫌に決まってるじゃない!」
「でも、その鈴はお嬢さんのことを気に入ってるみたいですよ」
また一つ、お腹の中でシャンと音が鳴る。
「きっと、お嬢さんを助けてくれると思いますけどねえ。魑魅魍魎の巣みたいなところに行くわけですし、味方は多い方がいいですよぉ」
「うるさいっ!」
私は頭にカッと血が昇り、すぐ側に落ちている松ぼっくりを拾って投げた。
ちょうど狐面の位置を直していた尾崎の、その狐の鼻っ面に松ぼっくりが当たり、ポコンといい音がする。
「あ痛ッ!」
尾崎はしゃがみ込んで狐面を押さえた。
そこまで痛いはずはないだろうが、ほんの少しだけ私の溜飲が下がった。
気を取り直して私たちは尾崎の屋敷の近くまでやって来た。
いや、それでも気が重いことには変わりない。そっと鈴の入ったお腹を撫でる。
身動きをしても音が鳴ることがないのは不幸中の幸いだった。そもそもお腹の中だというのに振って鳴らすのと同じ音が出るのだから、見た目通りの鈴ではなく、あくまで特別な妖の鈴ということなのだろう。
「それじゃあお嬢さん……いや、ここからは小春さんと呼ばせてもらいますね」
「はあ……」
「やはり鈴を飲んだからでしょう。小春さんからわずかに妖気を感じるようになりました。これでまあ人間と見破られる確率も減ったことでしょう」
私にはさっぱり分からないが、尾崎がそう言うのなら効果はあったのかもしれない。
松林がぽっかりと開き、二つの門に挟まれた不思議な橋が現れる。
「さて、ここから先はいつバレてもおかしくありません。今のうちに少し話をすり合わせておきましょう。まず、私のことを尾崎さんと呼ぶのはやめましょう」
「じゃあなんと呼べば?」
「私には、尾崎玄湖って名前がございます」
尾崎――いや玄湖はそう言いながら己の狐面を指差した。
「分かりました。では、玄湖さんで」
どうせ逆らったところで鈴を取り出してもらうまでは逃げられない。これではまるで首に鈴を付けられた猫だ。うんざりした気分で息を吐く。
「ああ、夫婦になるとはいえ、褥を共にすることはありませんからご安心を。それでもたまには夫婦に見えるよう振る舞ってもらいます」
「はい」
三つ指でも付いて出迎えればよいのだろうか。妖の作法などまったく分からない。渋々ながらそう返事をした。
「あの、小春さんって、か弱い見た目のわりにかなり気が強いですねえ。ね、そんなにつんけんしないでくださいよぉ」
「別に、私はさっさと役目を果たして家に帰りたいだけです! 誰も見てないところでまで演技をする必要はないでしょう!」
ふん、と私はソッポを向いた。
玄湖はへにょへにょとした情けない声を出す。
「……すみませんでした。あんなことはもうしませんから」
「そうですね! もう頭から齧られたって構わないってなれば、親族会議で全部ぶちまけてやりますから。私をこれ以上怒らせないでくださいね!」
そうきっぱり言って玄湖を見れば、不思議と狐面の眉が下がって見える。
「わ、分かりました。じゃあ、無事に三ヶ月後の親族会議を乗り切ることが出来たら、小春さんの望みを何か一つ叶えましょう。妖に叶えられる望みだけになりますが。……この最後の尻尾に誓います」
玄湖はそう言って赤茶けた己の尻尾を掴む。大きくてふさふさしているが、よく見るとしばらく洗っていない犬の尻尾みたいで汚らしい。
私は思いっきり眉を寄せる。
「その望みは全部終わってからよね。それはそれとして、玄湖さんの髪の毛と尻尾、なんだか汚いです! 花嫁のフリをさせたければ、それ、どうにかしてください!」
指を突き付けると、狐面がガクガクと縦に揺れた。
「……大人しそうな娘に見えたのに」
ぼそりと小声でそう言うのが聞こえたので、思いっきり睨み付けてやる。
震え上がった玄湖の尻尾がピーンと伸びた。
まったく、昨今の女学生を舐めないでいただきたい。
「で、ええと、さっきも言いましたが、小春さんは化け狐と化け狸の親戚です。お父様は人間だった半妖ということにしておきましょうか。半妖ゆえに人の世界で育てられたので、妖の世界には詳しくない。そう言い張ればよろしいでしょう」
「分かりました」
大人しく相槌を打つと玄湖はホッとしたように息を吐いた。
「あと、屋敷には大なり小なり妖がウロウロしています。奉公人は全て把握していますから、後で紹介します。それ以外の小さな妖やら勝手に入り込んでいる居候やらは私も把握出来ていません。多分、変な妖が近寄ればその鈴が教えてくれるでしょうから、私や奉公人の側に行くようにしてくださいな」
「その奉公人にも私が人間ってことは言っちゃ駄目なんですよね」
「はい。万が一、そっちから話がバレたら困りますし。ついうっかりで口を滑らせることってあるでしょう」
まさに玄湖こそペラペラと口を滑らしそうな男だ。しかし秘密を知る者は少ない方がいいと納得して頷く。
あまり時間はなく、さっと話をすり合わせた私たちは尾崎家の門前に立った。
「そういえば、どうして門が二つあるんですか?」
私はずっと気になっていたことを尋ねる。
「ああ、この門は大事なものを守るためにあるのですよ」
「お屋敷のことですか?」
「いえ、屋敷には基本的に私がいますし、奉公人もおりますから。それに人のように泥棒に入られることも、そうそうありませんしねぇ。妖ってのは金銭や物に執着するより、妖気や強さに執着する方が多いもんでねぇ。弱い妖はまた違いますが、ある程度長く生きた妖にゃそういう傾向があります」
「じゃあ、一体何を守っているんですか?」
「この川ですよ。……言いそびれていましたが、小春さん、この川に下りて水遊びをするなんてことは絶対に、絶対にやめてくださいね」
「水遊びなんてしません! 小さい子供じゃあるまいし」
「いや、そうならいいんですけど。まあ、林の側から川に入ったくらいなら、たまーに事故が起きるくらいで済むでしょうが……門と門の間、この橋の側から川へ下りたら――多分死にます」
死ぬときた。私は眉を寄せて川面を覗く。
澄んだ水がさらさらと流れていく様子はただの川にしか見えない。
「この川は、彼方と此方が混ざり合っているんです。特に混ざりが強いのがこの橋の部分で。この場所を封印して、出来るだけ周囲に影響を出さないようにしているのがこの二つ門というわけです」
玄湖は首を傾ける。
「そうですねえ、小春さんに分かりやすく例えると三途の川でしょうか。極楽に繋がっていればまだいいでしょうが、地獄に出るかもしれませんし、全然別の場所に出るかもしれません。妖の力でもどうにもならない川ですから」
その声は今までの飄々としたものとは違い、真剣な色を帯びている。
「ま、この二つ門を守るために私の屋敷があり、私がいるのですよ。それじゃあ、ようこそ狐の屋敷へ」
お腹の中で鈴がシャンと音を立てた。
それを合図としたように、ギイッと音を立てて門が開いていく。しかし橋の上に人影はない。誰かが開けたわけでなく、ひとりでに開いたようだ。
やはり妖の屋敷は不思議だらけだ。屋敷側の門もいつの間にか開いている。少しだけ不気味に感じた。
「足元に気を付けてくださいね」
「はい――」
そう返事をして玄湖の後に続き、一歩足を踏み出したところでシャンと鈴が鳴り、心臓がドキリと大きな音を立てた。
「きゃっ⁉」
「ぎゃうんっ!」
足元に、なにやらぐにゃりとした感触と、生き物らしい鳴き声。
どうやら何かを踏み付けてしまったらしい。
私は慌てて踏み付けたものから足を離そうとタタラを踏む。わずかに傾斜のある橋の上だから余計によたついてしまった。そのまま己の足にもう片方の足を引っ掛けてつんのめる。あっと思った時には、もう川へと落ちる角度で足を滑らせていた。
(あ、まずい――)
橋の上から落ちたら死ぬという言葉を思い出して、ゾッと血の気が引いた。しかし傾く体は、もう自力で立て直せない。刹那の瞬間に数々のことが脳裏を過る。私は迫りくる川面に、ぎゅっと目を閉じた。
「――危ないっ!」
声と共にグイッと手を引っ張られ、ぐるりと視界が回る。そのまま硬いものに鼻っ面を打ち付けた。しかし、川には落ちずに済んだようだった。
思わず止めていた呼吸を再開する。はっはっと走ったみたいに息が荒く、心臓がバクバクと激しい音を立てている。おそるおそる目を開けると黒い物が見えた。いや紋付袴を着た玄湖の体だ。ちょうど胸のあたりに顔をぶつけたらしい。
「もう、気を付けてと言ったそばから! さすがの私も肝が冷えましたよぉ!」
「あ、ありがとうございます……」
私は玄湖の腕の中にいた。引っ張られた勢いで抱き付くような体勢になっていたらしい。慌てて腕の中から出ようとしたが、力尽くで止められる。
「小春さん、嫌なのは分かります。でもお願いだから橋の上で暴れるのだけはよしてください。本当に洒落にならない。橋を渡るまで、手だけ繋がせてください」
「は、はい……」
「体を離しますから、ちょいと落ち着いて、大きくゆーっくり息をして」
玄湖に言われた通り大きく息を吸って吐いた。
私が落ち着いたのを見計らって玄湖はそっと体を離した。私の手首は握ったままだ。
「落ち着きましたね。じゃあ、行きましょう」
「はい……ごめんなさい」
幼い子供みたいに取り乱してしまって恥ずかしい。しかし、軽薄で頼りにならないと思っていた玄湖だが、一応私のことを案じてくれているらしい。勝手に口付けられたのはまだ許せないが、ほんの少しだけ見直した。
「あの、そういえば私が踏んでしまったものって……」
橋を渡り終えてからキョロキョロとあたりを見回す。
なんだか柔らかく、生き物のような感触だった。しかも思いっきり踏んでしまった。今更ながらに少し心配になってくる。
「ああ、スイカツラっていう妖です」
「スイカツラ? 忍冬って植物なら知ってますけど」
「いえいえスイカツラでいいんです。犬神の一種ですよ。ほら、そこに」
玄湖が指差した先、門の陰からおそるおそるこちらを覗く小さな姿があった。
柴犬の子犬によく似ている。大きさは鼠より一回り大きいくらい。実際の子犬よりも小さい。毛並みは茶色、目と鼻は黒。鼻周りの毛が黒く、わずかに垂れた耳の感じは近くの集落で生まれた子犬にそっくりだ。いや、ずんぐりむっくりとした短い手足や胴体は、子犬というよりまだ歩行もおぼつかないよちよちの赤ちゃんの頃を彷彿とさせる。
「踏んでしまってごめんなさい」
私はしゃがみ込んでスイカツラに向かって話しかけた。スイカツラは首を傾げているだけで門の陰から出てこようとしない。
「あの、怯えさせてしまったでしょうか。結構強く踏んでしまったから、怪我してるかも」
玄湖にそう言うと、彼は笑いながら首を横に振った。
「大丈夫ですって。妖は頑丈ですし、人や獣と姿形が似ていてもまったく同じに骨や内臓があるとは限りません。私も何度か踏ん付けたことありますがね、その程度じゃ怪我なんてしませんよ。大体スイカツラが無遠慮に足元に絡んでくるのが悪いんですから」
「でも……」
「それにそいつらは人型の妖ほど知恵もありません。ほとんど獣のようなものです。小春さんは犬神って分かりますか?」
「ええと、聞いたことはあるんですが、詳しくは……」
「ここいらじゃ、この屋敷にくらいしかいませんが、人に憑く犬の妖です。人が飼い慣らすことも出来ます。……というか犬神を飼い慣らして式神として使役し、狙った相手に取り憑かせる血筋の人間がいるんです」
玄湖の説明はなんだかおっかない。
「……怖い妖なんですか?」
「いいえ、ちーっとも。この屋敷にいるのはみんな野良の犬神ですしねぇ。野良犬がウロウロしてるようなものですよ。寄ってきたら撫でてみたらどうでしょう。懐くかもしれませんよ」
玄湖はそう言って声を上げて笑う。その様子にちょっとホッとした。
「そうですか。……じゃあ、おいでー」
再度スイカツラに声をかけると、垂れた耳をピクリと動かした。隠れていた門の陰からちょこちょこと出てくる。歩き方もあどけない子犬のようで愛らしい。
やはり小さい。こんなに小さな生き物を踏んでしまった罪悪感がある。
「きゅうん」
鳴き声まで子犬だ。
サイズが小さいただの子犬にしか見えない。そう思ったところで門の陰からスイカツラの全身が現れ、私は凍り付いた。
柴犬に似ているなら、くるりとした巻き尾のはずだ。けれど私の目に入ってきたスイカツラの尾はニョロニョロと長い、蛇みたいな尻尾だった。
トカゲとも違う。スイカツラが歩けばまさに蛇のような動きで蛇行しながら尻尾も地面を這っている。
「きゅん」
私の足元まで来て立ち止まったスイカツラ。尻尾もしっかり見える位置だ。
まさに蛇の尻尾のような鱗が見て取れた。くるりと巻いていることは巻いている。想定していた柴犬の巻き尾とはまったく違ってとぐろを巻いているのだけれど。
「……し、尻尾が蛇なんですね」
「そういえばそうだねえ。抱き上げてみたらどうだい?」
「……今度にしておきます」
その言葉が分かったのか、スイカツラはその場からタタッと走り去った。
尻尾もしゅるしゅると本体の後ろを這っていく。
私はその光景を見て息を吐いた。
(……本当に妖屋敷なんだ。気を抜かないようにしなきゃ)
屋敷へ歩き出した玄湖の後ろを歩きながら、私はそう強く決心をした。
尾崎は芝居がかった言い回しで私の手を引いて松林を歩く。逃がさないためなのか、その手を離そうとはしない。
しかし、暗闇の中、ぐいぐいと手を引っ張られていても、不思議と松の根に躓くことはなかった。
我が由良家から尾崎の屋敷まで高々数分。その時間で心の準備が出来るはずもない。妖がたくさんいる場所で三ヶ月も過ごすだなんて、とにかく不安でならなかった。
私は歩きながら尾崎に尋ねた。
「あの……私、人間ってバレたらいけないんですよね?」
「そうですよ。妖にもよりますが、人が好きで人に交じって暮らす者がいれば、人が嫌いで虎視眈々と命を狙う者、食べ物として見る者もおりますね。屋敷には色々住み着いておりますから、さてさてどれがどれやら……」
「そんなの無責任じゃないですか! 私はただの人間です。あの花嫁の狐だって、私をすぐに人間だって見破ったのに」
「確かにそうですねえ。せっかく連れ帰ったのに、すぐに齧られてはたまりません」
尾崎は足を止め、ううんと唸る。
その気の抜けた声は、私を守る気がなさそうに聞こえて更に不安が募る。
「とりあえず化け狐と化け狸の親戚ってことにしときましょうか。ほらさっきの二人、まさにそんな感じだったでしょう」
私もそれには同意見だったので、そんな場合じゃないはずなのにクスッと笑いが漏れた。
「本物の狐の妖から見てもそう見えます?」
「ええ。欲深が人の皮をかぶっているようにしか見えませんでした。妖だってねえ、心根の綺麗な人間の方が好きに決まってます。ま、それとは別に悪い奴なら食っていいなんて考える妖もおりますけれど」
そうか狐か、と尾崎がぼそりと呟く。
「お嬢さん、これを」
尾崎は袂を探って鈴を一つ取り出した。
尾崎の袂には色々な物が入っているらしい。
「その鈴、さっきの……?」
「ええ。お嬢さんの家まで私を案内してくれた鈴です。こいつは、元はお燦狐の持ち物ですからね。狐の妖気が染み付いています」
お燦狐とは、逃げた狐の花嫁の名前だろうか。鈴を手渡された私はマジマジと見つめる。
「これをどうすれば?」
「飲んでください」
「ええっ!」
私は驚き、再度鈴を見た。私の親指の爪より少し大きい。しかも金属製だ。そんなものを飲み込んだら喉に詰まってしまいそうだ。
「無理です!」
「でもこいつを飲んでくれれば大体の問題は解決しますよ?」
「この大きさじゃ物理的に厳しいですし……何より妖の道具なんて飲めません!」
飲み込んだら、一体どうなることか。そんな恐ろしいことはごめんだった。
私は半ば押し付けるように尾崎に鈴を返す。
「大丈夫、こいつはそこそこ古いけど、まだ付喪神になるほどじゃありません。飲んだところで、たまーにお腹の中で鳴るくらいでしょう」
鈴は尾崎の手のひらの上で勝手にシャンと音を立てた。まるで意思があって返事をしたみたいではないか。
「大丈夫じゃありません! 気味が悪い!」
「うーん困りましたねえ……」
まったくもって困ってなさそうな声色で、尾崎は肩をすくめた。
「お嬢さん、ちょっとごめんなさいよ。ほんの少ーしだけ辛抱していてくださいな」
「だから、い――」
嫌だと言う途中、突然私の喉が凍りついた。
喉だけではない。体も動かせない。それは狐の嫁入りを邪魔してしまった時と同じだった。体の自由がどこかに行ってしまったかのようだ。
動かせるのは視線のみで、尾崎を睨むことすら出来ない。
「まあ、ちょこっと乱暴なやり方ですけどね。でも、もういい加減、嫁を連れ帰らねば屋敷の者に怪しまれますし」
尾崎はそう言いながら狐面に手をかけ、少し上にずらした。狐面で隠れていた鼻と口が露わになる。
(なんだ、ちゃんと顔があるんじゃない)
なんとなく、あの狐面の下はのっぺらぼうかもしれないと思っていた私は、拍子抜けした。
すっと通った鼻筋に形のいい唇。ボサボサの蓬髪を見なければ、鼻から下は男前と言えるかもしれない。上半分が見えないから正しい判断は出来ないが。
つい露わになった狐面の下の顔に意識が向いてしまって、尾崎のしようとしていることに気付くのが遅れた。
尾崎は私の顎をわずかに持ち上げ、唇を開かせた。体が動かないから尾崎の思うままだ。無理矢理鈴を飲ませる気だと悟った時には、全てが遅かった。
尾崎は己の舌を出して鈴を載せると、パクリと口に含んだ。
そのまま彼の顔が近付いてくる。何をするつもりなのか、問わなくても分かった。
(やめてっ――!)
拒絶の言葉は声にならない。
おでこに狐面がこつりとぶつかる。
まったく動かない唇に尾崎の唇が触れた。
――口付けられてしまった。
しかもそれだけに止まることなく、触れ合った唇の合間から、何か金臭い味のする液体が流れ込んでくるではないか。
「はい、ごっくん」
尾崎は唇を離し、小さい子供に薬を飲ませるみたいに、私の喉を軽く撫でる。
口の中に液体が溜まったせいか、それとも尾崎が喉だけ動かしたのか。
――ごくん。
私は口の中の液体を飲み込んでしまった。
妖から口移しで与えられたわけの分からない液体を。
口付けをされた衝撃と合わせて、頭が真っ白になっていく。
「いやあっ‼」
無我夢中で、目の前の尾崎を突き飛ばす。
しかし、直前でひょいっと尾崎にその手を避けられ、私はその場に尻餅をついてしまった。
いつの間にか、体が動くようになっている。でも、なんにも嬉しくない。袖でゴシゴシと口を拭う。
「ひどいっ! なんてことをするのよっ!」
「そんな。私はお嬢さんのためを思って」
尾崎はとてもそうは思っていないような声色で言った。
「だって大きくて飲み込めないって言うから、わざわざ鈴を液体にしたんですよ。ちゃんとお腹の中に入ってから、固体に戻るようにして。それもこれもお嬢さんの体に負担をかけないためにしたことです」
「だ、だからって……!」
「三ヶ月後の親族会議が終わったら取り出してあげましょう! 鈴が教えてくれるから、それまではどうせ逃げられませんしね」
私のお腹の中でシャンと鈴が鳴る。慌ててお腹を押さえた。
本当に体の中に妖の鈴を入れられてしまったのだ。顔からさあっと血の気が引いていく。
「もう嫌ぁっ! どうして私がこんな目に!」
高ぶる感情に任せて大声を上げた。
もう泣きたい。
「そりゃあ、禁足地に足を踏み入れてしまった自分のせいでしょう」
「黙っててよ! そんなの私にだって分かってるわよっ!」
だからといって感情を我慢出来るものでもない。
「……そんなに嫌だったんですか?」
「嫌に決まってるじゃない!」
「でも、その鈴はお嬢さんのことを気に入ってるみたいですよ」
また一つ、お腹の中でシャンと音が鳴る。
「きっと、お嬢さんを助けてくれると思いますけどねえ。魑魅魍魎の巣みたいなところに行くわけですし、味方は多い方がいいですよぉ」
「うるさいっ!」
私は頭にカッと血が昇り、すぐ側に落ちている松ぼっくりを拾って投げた。
ちょうど狐面の位置を直していた尾崎の、その狐の鼻っ面に松ぼっくりが当たり、ポコンといい音がする。
「あ痛ッ!」
尾崎はしゃがみ込んで狐面を押さえた。
そこまで痛いはずはないだろうが、ほんの少しだけ私の溜飲が下がった。
気を取り直して私たちは尾崎の屋敷の近くまでやって来た。
いや、それでも気が重いことには変わりない。そっと鈴の入ったお腹を撫でる。
身動きをしても音が鳴ることがないのは不幸中の幸いだった。そもそもお腹の中だというのに振って鳴らすのと同じ音が出るのだから、見た目通りの鈴ではなく、あくまで特別な妖の鈴ということなのだろう。
「それじゃあお嬢さん……いや、ここからは小春さんと呼ばせてもらいますね」
「はあ……」
「やはり鈴を飲んだからでしょう。小春さんからわずかに妖気を感じるようになりました。これでまあ人間と見破られる確率も減ったことでしょう」
私にはさっぱり分からないが、尾崎がそう言うのなら効果はあったのかもしれない。
松林がぽっかりと開き、二つの門に挟まれた不思議な橋が現れる。
「さて、ここから先はいつバレてもおかしくありません。今のうちに少し話をすり合わせておきましょう。まず、私のことを尾崎さんと呼ぶのはやめましょう」
「じゃあなんと呼べば?」
「私には、尾崎玄湖って名前がございます」
尾崎――いや玄湖はそう言いながら己の狐面を指差した。
「分かりました。では、玄湖さんで」
どうせ逆らったところで鈴を取り出してもらうまでは逃げられない。これではまるで首に鈴を付けられた猫だ。うんざりした気分で息を吐く。
「ああ、夫婦になるとはいえ、褥を共にすることはありませんからご安心を。それでもたまには夫婦に見えるよう振る舞ってもらいます」
「はい」
三つ指でも付いて出迎えればよいのだろうか。妖の作法などまったく分からない。渋々ながらそう返事をした。
「あの、小春さんって、か弱い見た目のわりにかなり気が強いですねえ。ね、そんなにつんけんしないでくださいよぉ」
「別に、私はさっさと役目を果たして家に帰りたいだけです! 誰も見てないところでまで演技をする必要はないでしょう!」
ふん、と私はソッポを向いた。
玄湖はへにょへにょとした情けない声を出す。
「……すみませんでした。あんなことはもうしませんから」
「そうですね! もう頭から齧られたって構わないってなれば、親族会議で全部ぶちまけてやりますから。私をこれ以上怒らせないでくださいね!」
そうきっぱり言って玄湖を見れば、不思議と狐面の眉が下がって見える。
「わ、分かりました。じゃあ、無事に三ヶ月後の親族会議を乗り切ることが出来たら、小春さんの望みを何か一つ叶えましょう。妖に叶えられる望みだけになりますが。……この最後の尻尾に誓います」
玄湖はそう言って赤茶けた己の尻尾を掴む。大きくてふさふさしているが、よく見るとしばらく洗っていない犬の尻尾みたいで汚らしい。
私は思いっきり眉を寄せる。
「その望みは全部終わってからよね。それはそれとして、玄湖さんの髪の毛と尻尾、なんだか汚いです! 花嫁のフリをさせたければ、それ、どうにかしてください!」
指を突き付けると、狐面がガクガクと縦に揺れた。
「……大人しそうな娘に見えたのに」
ぼそりと小声でそう言うのが聞こえたので、思いっきり睨み付けてやる。
震え上がった玄湖の尻尾がピーンと伸びた。
まったく、昨今の女学生を舐めないでいただきたい。
「で、ええと、さっきも言いましたが、小春さんは化け狐と化け狸の親戚です。お父様は人間だった半妖ということにしておきましょうか。半妖ゆえに人の世界で育てられたので、妖の世界には詳しくない。そう言い張ればよろしいでしょう」
「分かりました」
大人しく相槌を打つと玄湖はホッとしたように息を吐いた。
「あと、屋敷には大なり小なり妖がウロウロしています。奉公人は全て把握していますから、後で紹介します。それ以外の小さな妖やら勝手に入り込んでいる居候やらは私も把握出来ていません。多分、変な妖が近寄ればその鈴が教えてくれるでしょうから、私や奉公人の側に行くようにしてくださいな」
「その奉公人にも私が人間ってことは言っちゃ駄目なんですよね」
「はい。万が一、そっちから話がバレたら困りますし。ついうっかりで口を滑らせることってあるでしょう」
まさに玄湖こそペラペラと口を滑らしそうな男だ。しかし秘密を知る者は少ない方がいいと納得して頷く。
あまり時間はなく、さっと話をすり合わせた私たちは尾崎家の門前に立った。
「そういえば、どうして門が二つあるんですか?」
私はずっと気になっていたことを尋ねる。
「ああ、この門は大事なものを守るためにあるのですよ」
「お屋敷のことですか?」
「いえ、屋敷には基本的に私がいますし、奉公人もおりますから。それに人のように泥棒に入られることも、そうそうありませんしねぇ。妖ってのは金銭や物に執着するより、妖気や強さに執着する方が多いもんでねぇ。弱い妖はまた違いますが、ある程度長く生きた妖にゃそういう傾向があります」
「じゃあ、一体何を守っているんですか?」
「この川ですよ。……言いそびれていましたが、小春さん、この川に下りて水遊びをするなんてことは絶対に、絶対にやめてくださいね」
「水遊びなんてしません! 小さい子供じゃあるまいし」
「いや、そうならいいんですけど。まあ、林の側から川に入ったくらいなら、たまーに事故が起きるくらいで済むでしょうが……門と門の間、この橋の側から川へ下りたら――多分死にます」
死ぬときた。私は眉を寄せて川面を覗く。
澄んだ水がさらさらと流れていく様子はただの川にしか見えない。
「この川は、彼方と此方が混ざり合っているんです。特に混ざりが強いのがこの橋の部分で。この場所を封印して、出来るだけ周囲に影響を出さないようにしているのがこの二つ門というわけです」
玄湖は首を傾ける。
「そうですねえ、小春さんに分かりやすく例えると三途の川でしょうか。極楽に繋がっていればまだいいでしょうが、地獄に出るかもしれませんし、全然別の場所に出るかもしれません。妖の力でもどうにもならない川ですから」
その声は今までの飄々としたものとは違い、真剣な色を帯びている。
「ま、この二つ門を守るために私の屋敷があり、私がいるのですよ。それじゃあ、ようこそ狐の屋敷へ」
お腹の中で鈴がシャンと音を立てた。
それを合図としたように、ギイッと音を立てて門が開いていく。しかし橋の上に人影はない。誰かが開けたわけでなく、ひとりでに開いたようだ。
やはり妖の屋敷は不思議だらけだ。屋敷側の門もいつの間にか開いている。少しだけ不気味に感じた。
「足元に気を付けてくださいね」
「はい――」
そう返事をして玄湖の後に続き、一歩足を踏み出したところでシャンと鈴が鳴り、心臓がドキリと大きな音を立てた。
「きゃっ⁉」
「ぎゃうんっ!」
足元に、なにやらぐにゃりとした感触と、生き物らしい鳴き声。
どうやら何かを踏み付けてしまったらしい。
私は慌てて踏み付けたものから足を離そうとタタラを踏む。わずかに傾斜のある橋の上だから余計によたついてしまった。そのまま己の足にもう片方の足を引っ掛けてつんのめる。あっと思った時には、もう川へと落ちる角度で足を滑らせていた。
(あ、まずい――)
橋の上から落ちたら死ぬという言葉を思い出して、ゾッと血の気が引いた。しかし傾く体は、もう自力で立て直せない。刹那の瞬間に数々のことが脳裏を過る。私は迫りくる川面に、ぎゅっと目を閉じた。
「――危ないっ!」
声と共にグイッと手を引っ張られ、ぐるりと視界が回る。そのまま硬いものに鼻っ面を打ち付けた。しかし、川には落ちずに済んだようだった。
思わず止めていた呼吸を再開する。はっはっと走ったみたいに息が荒く、心臓がバクバクと激しい音を立てている。おそるおそる目を開けると黒い物が見えた。いや紋付袴を着た玄湖の体だ。ちょうど胸のあたりに顔をぶつけたらしい。
「もう、気を付けてと言ったそばから! さすがの私も肝が冷えましたよぉ!」
「あ、ありがとうございます……」
私は玄湖の腕の中にいた。引っ張られた勢いで抱き付くような体勢になっていたらしい。慌てて腕の中から出ようとしたが、力尽くで止められる。
「小春さん、嫌なのは分かります。でもお願いだから橋の上で暴れるのだけはよしてください。本当に洒落にならない。橋を渡るまで、手だけ繋がせてください」
「は、はい……」
「体を離しますから、ちょいと落ち着いて、大きくゆーっくり息をして」
玄湖に言われた通り大きく息を吸って吐いた。
私が落ち着いたのを見計らって玄湖はそっと体を離した。私の手首は握ったままだ。
「落ち着きましたね。じゃあ、行きましょう」
「はい……ごめんなさい」
幼い子供みたいに取り乱してしまって恥ずかしい。しかし、軽薄で頼りにならないと思っていた玄湖だが、一応私のことを案じてくれているらしい。勝手に口付けられたのはまだ許せないが、ほんの少しだけ見直した。
「あの、そういえば私が踏んでしまったものって……」
橋を渡り終えてからキョロキョロとあたりを見回す。
なんだか柔らかく、生き物のような感触だった。しかも思いっきり踏んでしまった。今更ながらに少し心配になってくる。
「ああ、スイカツラっていう妖です」
「スイカツラ? 忍冬って植物なら知ってますけど」
「いえいえスイカツラでいいんです。犬神の一種ですよ。ほら、そこに」
玄湖が指差した先、門の陰からおそるおそるこちらを覗く小さな姿があった。
柴犬の子犬によく似ている。大きさは鼠より一回り大きいくらい。実際の子犬よりも小さい。毛並みは茶色、目と鼻は黒。鼻周りの毛が黒く、わずかに垂れた耳の感じは近くの集落で生まれた子犬にそっくりだ。いや、ずんぐりむっくりとした短い手足や胴体は、子犬というよりまだ歩行もおぼつかないよちよちの赤ちゃんの頃を彷彿とさせる。
「踏んでしまってごめんなさい」
私はしゃがみ込んでスイカツラに向かって話しかけた。スイカツラは首を傾げているだけで門の陰から出てこようとしない。
「あの、怯えさせてしまったでしょうか。結構強く踏んでしまったから、怪我してるかも」
玄湖にそう言うと、彼は笑いながら首を横に振った。
「大丈夫ですって。妖は頑丈ですし、人や獣と姿形が似ていてもまったく同じに骨や内臓があるとは限りません。私も何度か踏ん付けたことありますがね、その程度じゃ怪我なんてしませんよ。大体スイカツラが無遠慮に足元に絡んでくるのが悪いんですから」
「でも……」
「それにそいつらは人型の妖ほど知恵もありません。ほとんど獣のようなものです。小春さんは犬神って分かりますか?」
「ええと、聞いたことはあるんですが、詳しくは……」
「ここいらじゃ、この屋敷にくらいしかいませんが、人に憑く犬の妖です。人が飼い慣らすことも出来ます。……というか犬神を飼い慣らして式神として使役し、狙った相手に取り憑かせる血筋の人間がいるんです」
玄湖の説明はなんだかおっかない。
「……怖い妖なんですか?」
「いいえ、ちーっとも。この屋敷にいるのはみんな野良の犬神ですしねぇ。野良犬がウロウロしてるようなものですよ。寄ってきたら撫でてみたらどうでしょう。懐くかもしれませんよ」
玄湖はそう言って声を上げて笑う。その様子にちょっとホッとした。
「そうですか。……じゃあ、おいでー」
再度スイカツラに声をかけると、垂れた耳をピクリと動かした。隠れていた門の陰からちょこちょこと出てくる。歩き方もあどけない子犬のようで愛らしい。
やはり小さい。こんなに小さな生き物を踏んでしまった罪悪感がある。
「きゅうん」
鳴き声まで子犬だ。
サイズが小さいただの子犬にしか見えない。そう思ったところで門の陰からスイカツラの全身が現れ、私は凍り付いた。
柴犬に似ているなら、くるりとした巻き尾のはずだ。けれど私の目に入ってきたスイカツラの尾はニョロニョロと長い、蛇みたいな尻尾だった。
トカゲとも違う。スイカツラが歩けばまさに蛇のような動きで蛇行しながら尻尾も地面を這っている。
「きゅん」
私の足元まで来て立ち止まったスイカツラ。尻尾もしっかり見える位置だ。
まさに蛇の尻尾のような鱗が見て取れた。くるりと巻いていることは巻いている。想定していた柴犬の巻き尾とはまったく違ってとぐろを巻いているのだけれど。
「……し、尻尾が蛇なんですね」
「そういえばそうだねえ。抱き上げてみたらどうだい?」
「……今度にしておきます」
その言葉が分かったのか、スイカツラはその場からタタッと走り去った。
尻尾もしゅるしゅると本体の後ろを這っていく。
私はその光景を見て息を吐いた。
(……本当に妖屋敷なんだ。気を抜かないようにしなきゃ)
屋敷へ歩き出した玄湖の後ろを歩きながら、私はそう強く決心をした。
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