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2巻
2-2
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「この部屋が、さっきの一瞬の揺れで出来上がったのかしら。すごいわね。中はどうなって――」
襖の引き手に手をかけるが開かない。
「開かない……」
玄湖は私の肩をポンと叩いた。
「……ひとまず、そっとしておいてやろうよ。屋敷神が望んだからこの部屋は出来たんじゃないかな」
「分かりました。でも、これじゃ部屋の中のお掃除が出来ませんね……」
私がそう言うと、玄湖は呆れたように腕を組んだ。
「もう、小春さんってば掃除のことばっかり! たまには掃除をしなくてもいいって。決めた、今日の掃除はお休みにしよう!」
「え、でも、それじゃお部屋が汚くなってしまうじゃないですか!」
「一日くらい大したことないさ。気になる場所があったら南天と檜扇に頼めばいいよ。最近あのちびすけどもったら、遊んでばかりなんだから、少しくらい仕事をさせなきゃ」
「でも……」
「はいはーい、強制終了だよ!」
玄湖はひょいっと私を抱き上げた。
「きゃっ! 玄湖さんっ」
「ほらほら、庭で麦と遊ぼうじゃないか。鞠を投げてやったら喜ぶよ。麦は投げた鞠を取るのが上手になってきたんだ。それから、お楽と新しい着物を選んで、お重と一緒にコロッケを作るのはどうだい? あ、明日は街に出かけるのもいいね」
玄湖は私を抱っこしたまま歩き出す。恥ずかしさに、私がペチペチ叩いても笑っている。
「あはは、小春さん軽いなあ!」
そう言いながら玄湖はダッと走り出した。驚いて玄湖に強くしがみつく。
「く、玄湖さん、下ろしてってば!」
「やーだよ!」
子供のように笑う玄湖に私は苦笑した、その時。
「た――そ……」
また、声が聞こえたような気がした。
しかし私を抱っこする玄湖にはなんの変化もない。
「ん、どうかしたかい?」
「い、いえ。なんでもないです」
気のせいだ。きっと空耳だったのだろう。
「ねえ、玄湖さんってば。そろそろ下ろしてくださいな」
「えー、小春さん軽いし、どうせならずっと抱っこしていたいなあ」
「もうっ!」
私は玄湖の耳を引っ張る。
「あいたーっ!」
大して痛くないはずなのに大袈裟に痛がって、その場で私を抱えたままクルクル回る。私は玄湖の首にしがみついてクスクス笑ったのだった。
私は、牡丹の襖絵がある不思議な部屋を「牡丹の間」と名付けた。不思議なことに、誰が開けようとしても、襖は固く閉じられたまま開くことはなかった。
二章
「今日はカフェーに行こうじゃないか!」
次の日、玄湖は朝一番にそう宣言した。
「あらま、外出ですか。それなら旦那様と小春奥様の昼餉は用意しなくてよろしいですかね」
朝食の配膳をしていたお重が玄湖に尋ねる。
「いいや、みんなで行こう。お重、お楽、それから南天と檜扇もだ。麦……はまあ、連れて行ってもカフェーじゃ懐に隠すしかないけど、仲間外れは可哀想だからね」
「えっ! あたしらもですか⁉」
「まああ……よろしいのですか」
お重とお楽は配膳の手を止めてきょとんとしている。南天や檜扇も目をまん丸に見開き、透き通った瞳が今にも零れ落ちそうだ。
「僕たちも⁉」
「本当に⁉」
「きゅー!」
麦だけは素直に喜んでいる。
「ね、たまにはいいでしょう、小春さん」
玄湖にそう言われ、私は大きく頷いた。
「ええ、もちろん! みんな家族だもの。一緒に行けるなら、とっても嬉しいわ」
南天と檜扇はもじもじと手を動かし、照れたような仕草をしている。
「えへへ、家族だって!」
「家族! 嬉しいな!」
南天と檜扇が私に抱きついてきた。彼らは人形の付喪神だけれど、こういうところは本物の人間の子供と変わらず、素直で愛らしい。
「……それで、お重とお楽はどうしてつねり合っているの?」
私の目の前で、何故かお重とお楽が互いの頬をつねり合っていたのだ。
私が尋ねると、二人はつねっていた手を離し、今度はお互いを叩き合い始めた。ペチペチという音からして痛くはなさそうだけれど、二人のおかしな行動に、南天と檜扇もきょとんとしている。
「いや、そのねえ……」
「ええ……まあその……」
返事も煮え切らない。私は首を傾げた。
そのやり取りを見て、声を上げて笑ったのは玄湖だ。
「ああ、お重とお楽は照れ隠しをしているのさ。まーったく、私がお重とお楽は家族だって言っても笑うだけなのにさ、小春さんにそう言ってもらえて嬉しくてたまらないんだろう」
それを聞いて、私もフフッと笑ってしまった。南天と檜扇もケラケラとお腹を抱えて笑った。
「んもう、旦那様ってば!」
「旦那様……ひどいです……」
お重とお楽は顔を赤くして玄湖に怒っている。
照れ隠しでお互いをつねったり叩いたりする二人は、まさに喧嘩するほどなんとやらだ。玄湖に対して結託する時も息がぴったりだった。
「よーし、朝餉を食べたら出かける準備をしよう!」
玄湖がそう言うと、その場のみんなが笑顔になった。
もちろん私もだ。
「家族みんなで出かけるの、楽しみですね」
「そうだねえ」
出かけると聞いて、大慌てで朝食を掻き込み始めた南天と檜扇に玄湖は苦笑した。
「ああ、お前たち、そんなに慌てなくて大丈夫だって。置いて行ったりしないから」
「喉に詰まらせたら大変よ。ちゃんと噛んで食べてね」
ふぁーい、と食べ物を口に含んだまま返事をする南天と檜扇。その様子に笑いを堪えながら、私も朝食を口に運んだ。
朝食の後、玄湖の髪をいつもより丹念に梳くと、お返しにと私の髪も整えてもらった。
玄湖は手先が器用で髪をいじるのも上手だ。複雑に髪を編み込んで、リボンを結んでくれた。
「今日は銀座に行こうか。小春さんも支度をして……そうだ! たまには洋服にするのはどうだい?」
「い、いえ私は着物で……。袖を通していないよそ行きの着物も、まだたくさんありますし。せっかくだから今日はそれを着ようかしらって」
「そうかい? 小春さんには淡い色のワンピースなんかも似合いそうだけどなあ」
昨今は洋装の女性も随分増えた。確かに憧れはするのだが、私にはまだまだ敷居が高い。
「いきなり洋装で出かけるのは、ちょっと恥ずかしいです」
「じゃあ、家の中で着てみることから始めるのはどうだろう」
「うーん、それなら……あ、今日じゃないですよ。今度時間のある時に、ですからね!」
「ふふ、約束だよ。はい、出来上がり」
「ありがとうございます」
手鏡を取り出して、結い上げた髪を見る。
「玄湖さんって本当に器用ですよね」
斜め上に持ち上げた手鏡にリボンを映す。
「リボンの結び方も可愛くて――」
幅広のリボンを映していた手鏡の中に、不意に動くものが見えた。
――ひらりと翻る着物の袖のような何か。
「え……?」
私は振り返り、斜め後ろを向いた。
しかし誰もいない。
「小春さん、どうかしたのかい?」
「いえ、あの……」
ほんの一瞬、見えた気がしたもの。それは幼い女の子が着るような、色鮮やかな牡丹色の振袖に見えた。しかしこの家に幼い女の子はいない。
「どうかしたのかい?」
玄湖は心配そうに私の背に腕を回す。私は首を横に振った。
「いえ、きっと見間違いです。早く着替えちゃいましょう」
「……そうだね」
玄湖は眉根を寄せて何事かを思案していたが、私の視線に気が付くと優しく微笑んだ。私の肩をポンと叩く。ニコニコ柔和ないつもの玄湖だ。
「そうだ、お楽を呼ぼう。せっかくだから帯の結び方を凝ったのにしてもらおうよ。洋服じゃなくても、いつもよりお洒落にするくらいはいいだろう?」
「それはいいですね」
私は今見たものを頭から追い出しながら頷いた。
出かける準備を終えて玄関に向かう。よそ行きの真新しい着物に袖を通すと気分が上がる。お楽が帯を凝った結び方にしてくれたので、着物が尚更華やかになった。
玄関には玄湖以外は全員揃っていた。広々とした立派な玄関だが、五人と一匹が集まるとさすがに狭く感じる。
「玄湖さんはまだみたいですね」
お重は首を傾げた。
「おかしいね。旦那様なんて、一番支度に時間がかからなそうなもんじゃないか」
確かに、髪は私が整えたし、後は着替えるだけのはずだ。
「まあ、一番時間がかからないといえば麦なのでは……? いつも裸ですからね」
お楽の言葉に私はクスッと笑う。
「本当ね!」
麦は何故か胸を張ってきゅうっと鳴いた。
麦はお出かけでもいつも通りだが、今日のお重やお楽は綺麗なよそ行きの着物姿だった。
着道楽のお楽は特別めかしこんで、鮮やかな黄色に幾何学模様という攻めた柄の着物を粋に着こなしている。いつもは野良着のお重まで、真新しい鴨の羽色をした絣の着物姿だ。
「お重、その着物よく似合っているわ」
私がそう言うと、お重は健康的な丸い頬を赤く染めた。
「そ、そうですか? あたしは着物には詳しくないもんで、お楽に選んでもらったんですよ」
「お重はどれを出しても派手だのなんだのと文句を言うではありませんか……これを選ぶのに楽がどれだけ苦労したことか……」
「な、なんだい!」
「もう、喧嘩するほど仲がいいのは知っているけど、今日は喧嘩をしてはダメよ。お楽の着物選びの腕はさすがね。その柄の着物を着こなせるのもすごいわ。それに南天と檜扇の分も選んでくれたし、私の着物も素敵なのを揃えてくれているもの。いつも感謝しているのよ」
「小春奥様にそう言っていただけると、楽も嬉しゅうございます……」
南天と檜扇は、水兵さんのような大きな襟の付いたシャツと短いズボンで、いつもより動きやすそうだ。
「おでかけ、嬉しいな!」
「みんなで行くんだよ!」
二人は待ちきれないのか、元気いっぱいにその場で足踏みをしている。目を離したらすぐにも外に飛び出してしまいそうだ。
「南天、檜扇。玄湖さんが来るまで待っていて」
「――て……でっ」
その時、どこかから声が聞こえた気がした。と同時に背後でガシャンッと何かが割れる音がして、心臓が飛び跳ねる。振り返ると、玄関の棚飾りに置かれている壺が割れていた。落ちたわけでもないのに粉々になっている。まるで、その場に叩きつけたかのような割れ方だ。
その様子に不吉なものを感じてしまう。
「な、何が……」
その場が凍りついたように静まり返る。
それを破ったのは玄湖がパンパンと手を打つ音だった。ちょうどやって来た玄湖の姿を見て私は安堵する。
「おいおい、みんな、落ち着いておくれ。壺が割れただけだよ。この壺はまだ付喪神じゃなかったね。お楽、悪いけど片付けてくれるかい?」
「は、はい……」
お楽が割れた壺の破片を片付け、それを見ながらみんなはもう元通りの態度で笑い合っている。しかし私は気がそぞろになっていた。急に割れたのも気になるが、またあの声が聞こえてしまったのだ。
(……なんだか怒っている気がした)
何を言っているかまでは分からなかったが、そんな雰囲気を感じた。
まるで、姿のない何者かが屋敷にいるかのようだ。割れた壺も、もしかして声の主が怒って叩きつけたのでは――そんな考えが浮かぶ。しかし玄湖含め、他のみんなには今の声が聞こえていない様子だった。妖に見えない妖がいたとしても、それがただの人間の私にだけ見えるなんてあるはずがない。
では今の声は、一体なんだというのか……。私は強張る手を胸の前でぎゅっと握った。
「小春さん、お楽が片付けてくれたから大丈夫。ほらほら、そんな顔をしていると、可愛いほっぺがカチコチになってしまうよ」
そう言いながら玄湖は私の頬を突いた。いつもと変わらず、カラカラと笑っている。そんな玄湖のおかげで少しずつ強張りが解け、心が落ち着くのを感じていた。
「小春さん、それじゃあ行こうか」
「は、はい」
私は玄湖の差し出す手をしっかり握った。微笑む玄湖と目が合ったので笑いかける。玄湖がいるから大丈夫だ。
「ほら、みんな出発だよ。小春さん、カフェーは初めてかい?」
「実はそうなんです。女学校の帰りにカフェーに寄る先輩や同級生はいましたけど、私は急いで帰って家事をしなきゃいけなかったので」
「小春さん、女学生の頃から働き者だねえ」
「そんなことないですよ」
「いーえ、小春奥様は働き過ぎですよ。掃除も毎日しっかりしているし、その上あたしの手伝いまでなさるじゃありませんか」
「ええ。楽も洗濯物を畳むのを手伝っていただきました……」
お重とお楽にそう言われ、私は慌てて手を振った。
「そんな、大したことじゃないわ。今までは父と二人だけとはいえ、全部自分でやっていたことなんだから」
「小春さん。今日はそういうのを一切忘れて、美味しいものを食べようじゃないか」
「わーい、美味しいの!」
「わーい、何食べるの?」
南天と檜扇は楽しげにはしゃいでいる。麦は既にはしゃぎ疲れて玄湖に抱かれていたが嬉しそうだ。お重やお楽もニコニコしている。
朝から変なことが続いていたが、外に出ると不安な気持ちも忘れてしまった。
「玄湖さん、本当に銀座でいいんですか? 鉄道でもちょっと時間がかかりますし、麦は隠さないと鉄道に乗れないんじゃないかしら」
以前玄湖と二人で浅草まで行ったことがあるが、銀座は浅草へ行くより遠いのだ。麦は玄湖の術で蛇の尻尾を誤魔化せば犬に見えるが、犬は鉄道に乗れないから結局隠すしかない。それに南天と檜扇はまだ鉄道に乗ったことがない。いきなり長距離を乗ると疲れてしまうかもしれない。
「大丈夫。鉄道に乗らなくても銀座に行く方法があるのさ。少し歩くけど、いい場所があってね」
玄湖はニンマリと笑った。
屋敷を出て、落ちたら大変なことになる二つ門の橋を渡る。松林をてくてく歩いて玄湖についていくと、不意に開けた場所に出た。松林に不釣り合いな赤い鳥居がポツリとある。
「ここを使うんだ。前に浅草に行った時は使えなかったが、今は尻尾が五本あるからね」
「ここを使うって、どういうことですか?」
私が尋ねると、玄湖は鳥居を指差した。
「この鳥居を銀座にある鳥居に繋げるんだ。ただ、どこの鳥居でも繋がるわけじゃない。縁のある狐同士が通行出来るように、あらかじめ許可を取っているんだよ。銀座には昔馴染みの狐がいるから」
それから玄湖は南天と檜扇のつむじあたりをツンツンと順番に突いた。
「玄湖、何するのー!」
「玄湖、やめてよー!」
突かれた南天と檜扇は頬を膨らませ、ぷんぷんと玄湖に怒る。玄湖はやれやれと肩をすくめた。
「変身上手のお重とお楽はともかく、人形の南天と檜扇は髪や瞳が不自然だって思われるからね。私の力でそれを誤魔化す術をかけたのさ。今のお前たちは誰が見てもただの人間に見えるよ」
玄湖も以前出かけた時に、他人からは赤茶色の髪や金色の瞳を黒色に見えるような術をかけていた。同じことを南天と檜扇にもしたのだろう。
「本当⁉ 小春、今の僕どう?」
「本当⁉ 小春、人間に見える?」
しかし前回同様、私の目にはいつも通りの二人にしか見えない。
「私にはいつも通りにしか見えないけど、よその人からは人間の子供に見えていると思うわ」
「面白いね!」
「ワクワクするね!」
南天と檜扇はその場でパタパタ足踏みをした。
「こらこら、飛び出したら危ないからね。私と小春さんが最初。みんなは遅れずについてくるんだよ」
玄湖はそう言って、私の手を取った。
「じゃあ行こうか。足元に気を付けて」
「は、はい」
玄湖に手を引かれ、ドキドキしながら鳥居の下に入る。ふわっと髪が逆立つような不思議な空気の膜に包まれた。もう一歩進むとその膜は消え失せ、突然、松林の匂いから都会の埃っぽい匂いに変わる。
「わっ……」
目を開くと、ビルディングの壁がすぐそこに迫っていた。
「小春さん、ちゃんと通れたね」
「は、はい。ここは……」
見ると、ビルディングの間の細い袋小路になっている場所だった。奥に小さな鳥居とお稲荷さんのお社がある。
「もうここは銀座だよ」
小さな鳥居から次々にお重やお楽が現れた。少し遅れて南天と檜扇。麦は玄湖に抱かれているので、全員揃ったことになる。
「よし、みんな揃ったね。お重、頼んでいたものは持ってきてくれたよね?」
「ええ、旦那様のご要望通り、いなり寿司ですよ」
お重は包みを取り出した。
「ありがとう。このいなり寿司は通らせてもらったお礼に供えるのさ」
そう言って、お重から受け取った包みを小さなお稲荷さんに供える。
「帰りも通らせてもらうから、よろしく頼むよ」
玄湖がそう言うと、お社からコーンと狐の鳴き声が聞こえた。
「――ああ、ありがたくいただこう。玄湖のところのいなり寿司は絶品だからねえ」
お社からそんな声が聞こえた。甲高い男性のような声だ。
「それで、今日は随分と大人数じゃないか。しかも、人間の匂いまでするよ。それが例の人間の花嫁かい?」
「そうだよ。今日は家族みんなでカフェーに行くのさ。こっちが私の可愛い花嫁さんの小春さんだよ!」
「小春と申します」
玄湖は私の肩を抱いて胸を張る。可愛い花嫁だと紹介され、私は頬が熱くなるのを感じながらお社に向かって頭を下げた。
「ふうん……地味な感じで大したことないじゃないか」
「なっ……!」
――地味な感じ。その一言がぐさりと突き刺さる。確かに私は華やかなタイプではないけれど、初対面でそんなことを言われたのは初めてだった。
私がショックを受けていると、玄湖は一度お供えしたいなり寿司をさっと取り上げた。
「そんなこと言うなら、このいなり寿司は持ち帰ろうっと!」
「わあっ、玄湖、今のは冗談だって! 天女のような美人だよ!」
慌てたような声に玄湖は満足そうに笑う。再びいなり寿司をお供えした。
「私の小春さんを悪く言ったら、次はただじゃすまないよ。さあ行こうか」
路地裏から出ると、そこはもう銀座の街だった。
見上げるような大きなビルディング、たくさんの街灯。目の前を横切っていく路面電車。なんでもない日だというのにお祭りのように賑やかだった。
広い目抜き通りを行き交うたくさんの人の姿に、南天と檜扇は目を丸くしている。
銀座は以前行った浅草より洋装の女性が多い気がする。洋服に短い髪で颯爽と歩く姿は見惚れてしまうほど素敵だ。さっきのお社の狐も、銀座の美人を見慣れているから私がいっそう地味に見えたのかもしれない。そんな後ろ向きなことを考えてしまい、慌てて首を振った。せっかく来たのだから楽しまなければ。
「どこに行きます? 私、銀座は何があるか、さっぱりで……」
「あたしやお楽も都会に来たのは久しぶりですからねえ」
「ええ、人の街は十年程度で随分変わってしまいますから……」
「大丈夫、任せておくれ」
玄湖はどんと胸を叩いた。
襖の引き手に手をかけるが開かない。
「開かない……」
玄湖は私の肩をポンと叩いた。
「……ひとまず、そっとしておいてやろうよ。屋敷神が望んだからこの部屋は出来たんじゃないかな」
「分かりました。でも、これじゃ部屋の中のお掃除が出来ませんね……」
私がそう言うと、玄湖は呆れたように腕を組んだ。
「もう、小春さんってば掃除のことばっかり! たまには掃除をしなくてもいいって。決めた、今日の掃除はお休みにしよう!」
「え、でも、それじゃお部屋が汚くなってしまうじゃないですか!」
「一日くらい大したことないさ。気になる場所があったら南天と檜扇に頼めばいいよ。最近あのちびすけどもったら、遊んでばかりなんだから、少しくらい仕事をさせなきゃ」
「でも……」
「はいはーい、強制終了だよ!」
玄湖はひょいっと私を抱き上げた。
「きゃっ! 玄湖さんっ」
「ほらほら、庭で麦と遊ぼうじゃないか。鞠を投げてやったら喜ぶよ。麦は投げた鞠を取るのが上手になってきたんだ。それから、お楽と新しい着物を選んで、お重と一緒にコロッケを作るのはどうだい? あ、明日は街に出かけるのもいいね」
玄湖は私を抱っこしたまま歩き出す。恥ずかしさに、私がペチペチ叩いても笑っている。
「あはは、小春さん軽いなあ!」
そう言いながら玄湖はダッと走り出した。驚いて玄湖に強くしがみつく。
「く、玄湖さん、下ろしてってば!」
「やーだよ!」
子供のように笑う玄湖に私は苦笑した、その時。
「た――そ……」
また、声が聞こえたような気がした。
しかし私を抱っこする玄湖にはなんの変化もない。
「ん、どうかしたかい?」
「い、いえ。なんでもないです」
気のせいだ。きっと空耳だったのだろう。
「ねえ、玄湖さんってば。そろそろ下ろしてくださいな」
「えー、小春さん軽いし、どうせならずっと抱っこしていたいなあ」
「もうっ!」
私は玄湖の耳を引っ張る。
「あいたーっ!」
大して痛くないはずなのに大袈裟に痛がって、その場で私を抱えたままクルクル回る。私は玄湖の首にしがみついてクスクス笑ったのだった。
私は、牡丹の襖絵がある不思議な部屋を「牡丹の間」と名付けた。不思議なことに、誰が開けようとしても、襖は固く閉じられたまま開くことはなかった。
二章
「今日はカフェーに行こうじゃないか!」
次の日、玄湖は朝一番にそう宣言した。
「あらま、外出ですか。それなら旦那様と小春奥様の昼餉は用意しなくてよろしいですかね」
朝食の配膳をしていたお重が玄湖に尋ねる。
「いいや、みんなで行こう。お重、お楽、それから南天と檜扇もだ。麦……はまあ、連れて行ってもカフェーじゃ懐に隠すしかないけど、仲間外れは可哀想だからね」
「えっ! あたしらもですか⁉」
「まああ……よろしいのですか」
お重とお楽は配膳の手を止めてきょとんとしている。南天や檜扇も目をまん丸に見開き、透き通った瞳が今にも零れ落ちそうだ。
「僕たちも⁉」
「本当に⁉」
「きゅー!」
麦だけは素直に喜んでいる。
「ね、たまにはいいでしょう、小春さん」
玄湖にそう言われ、私は大きく頷いた。
「ええ、もちろん! みんな家族だもの。一緒に行けるなら、とっても嬉しいわ」
南天と檜扇はもじもじと手を動かし、照れたような仕草をしている。
「えへへ、家族だって!」
「家族! 嬉しいな!」
南天と檜扇が私に抱きついてきた。彼らは人形の付喪神だけれど、こういうところは本物の人間の子供と変わらず、素直で愛らしい。
「……それで、お重とお楽はどうしてつねり合っているの?」
私の目の前で、何故かお重とお楽が互いの頬をつねり合っていたのだ。
私が尋ねると、二人はつねっていた手を離し、今度はお互いを叩き合い始めた。ペチペチという音からして痛くはなさそうだけれど、二人のおかしな行動に、南天と檜扇もきょとんとしている。
「いや、そのねえ……」
「ええ……まあその……」
返事も煮え切らない。私は首を傾げた。
そのやり取りを見て、声を上げて笑ったのは玄湖だ。
「ああ、お重とお楽は照れ隠しをしているのさ。まーったく、私がお重とお楽は家族だって言っても笑うだけなのにさ、小春さんにそう言ってもらえて嬉しくてたまらないんだろう」
それを聞いて、私もフフッと笑ってしまった。南天と檜扇もケラケラとお腹を抱えて笑った。
「んもう、旦那様ってば!」
「旦那様……ひどいです……」
お重とお楽は顔を赤くして玄湖に怒っている。
照れ隠しでお互いをつねったり叩いたりする二人は、まさに喧嘩するほどなんとやらだ。玄湖に対して結託する時も息がぴったりだった。
「よーし、朝餉を食べたら出かける準備をしよう!」
玄湖がそう言うと、その場のみんなが笑顔になった。
もちろん私もだ。
「家族みんなで出かけるの、楽しみですね」
「そうだねえ」
出かけると聞いて、大慌てで朝食を掻き込み始めた南天と檜扇に玄湖は苦笑した。
「ああ、お前たち、そんなに慌てなくて大丈夫だって。置いて行ったりしないから」
「喉に詰まらせたら大変よ。ちゃんと噛んで食べてね」
ふぁーい、と食べ物を口に含んだまま返事をする南天と檜扇。その様子に笑いを堪えながら、私も朝食を口に運んだ。
朝食の後、玄湖の髪をいつもより丹念に梳くと、お返しにと私の髪も整えてもらった。
玄湖は手先が器用で髪をいじるのも上手だ。複雑に髪を編み込んで、リボンを結んでくれた。
「今日は銀座に行こうか。小春さんも支度をして……そうだ! たまには洋服にするのはどうだい?」
「い、いえ私は着物で……。袖を通していないよそ行きの着物も、まだたくさんありますし。せっかくだから今日はそれを着ようかしらって」
「そうかい? 小春さんには淡い色のワンピースなんかも似合いそうだけどなあ」
昨今は洋装の女性も随分増えた。確かに憧れはするのだが、私にはまだまだ敷居が高い。
「いきなり洋装で出かけるのは、ちょっと恥ずかしいです」
「じゃあ、家の中で着てみることから始めるのはどうだろう」
「うーん、それなら……あ、今日じゃないですよ。今度時間のある時に、ですからね!」
「ふふ、約束だよ。はい、出来上がり」
「ありがとうございます」
手鏡を取り出して、結い上げた髪を見る。
「玄湖さんって本当に器用ですよね」
斜め上に持ち上げた手鏡にリボンを映す。
「リボンの結び方も可愛くて――」
幅広のリボンを映していた手鏡の中に、不意に動くものが見えた。
――ひらりと翻る着物の袖のような何か。
「え……?」
私は振り返り、斜め後ろを向いた。
しかし誰もいない。
「小春さん、どうかしたのかい?」
「いえ、あの……」
ほんの一瞬、見えた気がしたもの。それは幼い女の子が着るような、色鮮やかな牡丹色の振袖に見えた。しかしこの家に幼い女の子はいない。
「どうかしたのかい?」
玄湖は心配そうに私の背に腕を回す。私は首を横に振った。
「いえ、きっと見間違いです。早く着替えちゃいましょう」
「……そうだね」
玄湖は眉根を寄せて何事かを思案していたが、私の視線に気が付くと優しく微笑んだ。私の肩をポンと叩く。ニコニコ柔和ないつもの玄湖だ。
「そうだ、お楽を呼ぼう。せっかくだから帯の結び方を凝ったのにしてもらおうよ。洋服じゃなくても、いつもよりお洒落にするくらいはいいだろう?」
「それはいいですね」
私は今見たものを頭から追い出しながら頷いた。
出かける準備を終えて玄関に向かう。よそ行きの真新しい着物に袖を通すと気分が上がる。お楽が帯を凝った結び方にしてくれたので、着物が尚更華やかになった。
玄関には玄湖以外は全員揃っていた。広々とした立派な玄関だが、五人と一匹が集まるとさすがに狭く感じる。
「玄湖さんはまだみたいですね」
お重は首を傾げた。
「おかしいね。旦那様なんて、一番支度に時間がかからなそうなもんじゃないか」
確かに、髪は私が整えたし、後は着替えるだけのはずだ。
「まあ、一番時間がかからないといえば麦なのでは……? いつも裸ですからね」
お楽の言葉に私はクスッと笑う。
「本当ね!」
麦は何故か胸を張ってきゅうっと鳴いた。
麦はお出かけでもいつも通りだが、今日のお重やお楽は綺麗なよそ行きの着物姿だった。
着道楽のお楽は特別めかしこんで、鮮やかな黄色に幾何学模様という攻めた柄の着物を粋に着こなしている。いつもは野良着のお重まで、真新しい鴨の羽色をした絣の着物姿だ。
「お重、その着物よく似合っているわ」
私がそう言うと、お重は健康的な丸い頬を赤く染めた。
「そ、そうですか? あたしは着物には詳しくないもんで、お楽に選んでもらったんですよ」
「お重はどれを出しても派手だのなんだのと文句を言うではありませんか……これを選ぶのに楽がどれだけ苦労したことか……」
「な、なんだい!」
「もう、喧嘩するほど仲がいいのは知っているけど、今日は喧嘩をしてはダメよ。お楽の着物選びの腕はさすがね。その柄の着物を着こなせるのもすごいわ。それに南天と檜扇の分も選んでくれたし、私の着物も素敵なのを揃えてくれているもの。いつも感謝しているのよ」
「小春奥様にそう言っていただけると、楽も嬉しゅうございます……」
南天と檜扇は、水兵さんのような大きな襟の付いたシャツと短いズボンで、いつもより動きやすそうだ。
「おでかけ、嬉しいな!」
「みんなで行くんだよ!」
二人は待ちきれないのか、元気いっぱいにその場で足踏みをしている。目を離したらすぐにも外に飛び出してしまいそうだ。
「南天、檜扇。玄湖さんが来るまで待っていて」
「――て……でっ」
その時、どこかから声が聞こえた気がした。と同時に背後でガシャンッと何かが割れる音がして、心臓が飛び跳ねる。振り返ると、玄関の棚飾りに置かれている壺が割れていた。落ちたわけでもないのに粉々になっている。まるで、その場に叩きつけたかのような割れ方だ。
その様子に不吉なものを感じてしまう。
「な、何が……」
その場が凍りついたように静まり返る。
それを破ったのは玄湖がパンパンと手を打つ音だった。ちょうどやって来た玄湖の姿を見て私は安堵する。
「おいおい、みんな、落ち着いておくれ。壺が割れただけだよ。この壺はまだ付喪神じゃなかったね。お楽、悪いけど片付けてくれるかい?」
「は、はい……」
お楽が割れた壺の破片を片付け、それを見ながらみんなはもう元通りの態度で笑い合っている。しかし私は気がそぞろになっていた。急に割れたのも気になるが、またあの声が聞こえてしまったのだ。
(……なんだか怒っている気がした)
何を言っているかまでは分からなかったが、そんな雰囲気を感じた。
まるで、姿のない何者かが屋敷にいるかのようだ。割れた壺も、もしかして声の主が怒って叩きつけたのでは――そんな考えが浮かぶ。しかし玄湖含め、他のみんなには今の声が聞こえていない様子だった。妖に見えない妖がいたとしても、それがただの人間の私にだけ見えるなんてあるはずがない。
では今の声は、一体なんだというのか……。私は強張る手を胸の前でぎゅっと握った。
「小春さん、お楽が片付けてくれたから大丈夫。ほらほら、そんな顔をしていると、可愛いほっぺがカチコチになってしまうよ」
そう言いながら玄湖は私の頬を突いた。いつもと変わらず、カラカラと笑っている。そんな玄湖のおかげで少しずつ強張りが解け、心が落ち着くのを感じていた。
「小春さん、それじゃあ行こうか」
「は、はい」
私は玄湖の差し出す手をしっかり握った。微笑む玄湖と目が合ったので笑いかける。玄湖がいるから大丈夫だ。
「ほら、みんな出発だよ。小春さん、カフェーは初めてかい?」
「実はそうなんです。女学校の帰りにカフェーに寄る先輩や同級生はいましたけど、私は急いで帰って家事をしなきゃいけなかったので」
「小春さん、女学生の頃から働き者だねえ」
「そんなことないですよ」
「いーえ、小春奥様は働き過ぎですよ。掃除も毎日しっかりしているし、その上あたしの手伝いまでなさるじゃありませんか」
「ええ。楽も洗濯物を畳むのを手伝っていただきました……」
お重とお楽にそう言われ、私は慌てて手を振った。
「そんな、大したことじゃないわ。今までは父と二人だけとはいえ、全部自分でやっていたことなんだから」
「小春さん。今日はそういうのを一切忘れて、美味しいものを食べようじゃないか」
「わーい、美味しいの!」
「わーい、何食べるの?」
南天と檜扇は楽しげにはしゃいでいる。麦は既にはしゃぎ疲れて玄湖に抱かれていたが嬉しそうだ。お重やお楽もニコニコしている。
朝から変なことが続いていたが、外に出ると不安な気持ちも忘れてしまった。
「玄湖さん、本当に銀座でいいんですか? 鉄道でもちょっと時間がかかりますし、麦は隠さないと鉄道に乗れないんじゃないかしら」
以前玄湖と二人で浅草まで行ったことがあるが、銀座は浅草へ行くより遠いのだ。麦は玄湖の術で蛇の尻尾を誤魔化せば犬に見えるが、犬は鉄道に乗れないから結局隠すしかない。それに南天と檜扇はまだ鉄道に乗ったことがない。いきなり長距離を乗ると疲れてしまうかもしれない。
「大丈夫。鉄道に乗らなくても銀座に行く方法があるのさ。少し歩くけど、いい場所があってね」
玄湖はニンマリと笑った。
屋敷を出て、落ちたら大変なことになる二つ門の橋を渡る。松林をてくてく歩いて玄湖についていくと、不意に開けた場所に出た。松林に不釣り合いな赤い鳥居がポツリとある。
「ここを使うんだ。前に浅草に行った時は使えなかったが、今は尻尾が五本あるからね」
「ここを使うって、どういうことですか?」
私が尋ねると、玄湖は鳥居を指差した。
「この鳥居を銀座にある鳥居に繋げるんだ。ただ、どこの鳥居でも繋がるわけじゃない。縁のある狐同士が通行出来るように、あらかじめ許可を取っているんだよ。銀座には昔馴染みの狐がいるから」
それから玄湖は南天と檜扇のつむじあたりをツンツンと順番に突いた。
「玄湖、何するのー!」
「玄湖、やめてよー!」
突かれた南天と檜扇は頬を膨らませ、ぷんぷんと玄湖に怒る。玄湖はやれやれと肩をすくめた。
「変身上手のお重とお楽はともかく、人形の南天と檜扇は髪や瞳が不自然だって思われるからね。私の力でそれを誤魔化す術をかけたのさ。今のお前たちは誰が見てもただの人間に見えるよ」
玄湖も以前出かけた時に、他人からは赤茶色の髪や金色の瞳を黒色に見えるような術をかけていた。同じことを南天と檜扇にもしたのだろう。
「本当⁉ 小春、今の僕どう?」
「本当⁉ 小春、人間に見える?」
しかし前回同様、私の目にはいつも通りの二人にしか見えない。
「私にはいつも通りにしか見えないけど、よその人からは人間の子供に見えていると思うわ」
「面白いね!」
「ワクワクするね!」
南天と檜扇はその場でパタパタ足踏みをした。
「こらこら、飛び出したら危ないからね。私と小春さんが最初。みんなは遅れずについてくるんだよ」
玄湖はそう言って、私の手を取った。
「じゃあ行こうか。足元に気を付けて」
「は、はい」
玄湖に手を引かれ、ドキドキしながら鳥居の下に入る。ふわっと髪が逆立つような不思議な空気の膜に包まれた。もう一歩進むとその膜は消え失せ、突然、松林の匂いから都会の埃っぽい匂いに変わる。
「わっ……」
目を開くと、ビルディングの壁がすぐそこに迫っていた。
「小春さん、ちゃんと通れたね」
「は、はい。ここは……」
見ると、ビルディングの間の細い袋小路になっている場所だった。奥に小さな鳥居とお稲荷さんのお社がある。
「もうここは銀座だよ」
小さな鳥居から次々にお重やお楽が現れた。少し遅れて南天と檜扇。麦は玄湖に抱かれているので、全員揃ったことになる。
「よし、みんな揃ったね。お重、頼んでいたものは持ってきてくれたよね?」
「ええ、旦那様のご要望通り、いなり寿司ですよ」
お重は包みを取り出した。
「ありがとう。このいなり寿司は通らせてもらったお礼に供えるのさ」
そう言って、お重から受け取った包みを小さなお稲荷さんに供える。
「帰りも通らせてもらうから、よろしく頼むよ」
玄湖がそう言うと、お社からコーンと狐の鳴き声が聞こえた。
「――ああ、ありがたくいただこう。玄湖のところのいなり寿司は絶品だからねえ」
お社からそんな声が聞こえた。甲高い男性のような声だ。
「それで、今日は随分と大人数じゃないか。しかも、人間の匂いまでするよ。それが例の人間の花嫁かい?」
「そうだよ。今日は家族みんなでカフェーに行くのさ。こっちが私の可愛い花嫁さんの小春さんだよ!」
「小春と申します」
玄湖は私の肩を抱いて胸を張る。可愛い花嫁だと紹介され、私は頬が熱くなるのを感じながらお社に向かって頭を下げた。
「ふうん……地味な感じで大したことないじゃないか」
「なっ……!」
――地味な感じ。その一言がぐさりと突き刺さる。確かに私は華やかなタイプではないけれど、初対面でそんなことを言われたのは初めてだった。
私がショックを受けていると、玄湖は一度お供えしたいなり寿司をさっと取り上げた。
「そんなこと言うなら、このいなり寿司は持ち帰ろうっと!」
「わあっ、玄湖、今のは冗談だって! 天女のような美人だよ!」
慌てたような声に玄湖は満足そうに笑う。再びいなり寿司をお供えした。
「私の小春さんを悪く言ったら、次はただじゃすまないよ。さあ行こうか」
路地裏から出ると、そこはもう銀座の街だった。
見上げるような大きなビルディング、たくさんの街灯。目の前を横切っていく路面電車。なんでもない日だというのにお祭りのように賑やかだった。
広い目抜き通りを行き交うたくさんの人の姿に、南天と檜扇は目を丸くしている。
銀座は以前行った浅草より洋装の女性が多い気がする。洋服に短い髪で颯爽と歩く姿は見惚れてしまうほど素敵だ。さっきのお社の狐も、銀座の美人を見慣れているから私がいっそう地味に見えたのかもしれない。そんな後ろ向きなことを考えてしまい、慌てて首を振った。せっかく来たのだから楽しまなければ。
「どこに行きます? 私、銀座は何があるか、さっぱりで……」
「あたしやお楽も都会に来たのは久しぶりですからねえ」
「ええ、人の街は十年程度で随分変わってしまいますから……」
「大丈夫、任せておくれ」
玄湖はどんと胸を叩いた。
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