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#037 絶望の論理的特異点
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まるで、巨大な獣の骨と、未知の金属が、溶け合うように融合したかのような、名状しがたい、異形の『残骸』だった。
全長は、数キロにも及ぶだろうか。その表面は、長い年月の間に、分厚い海底の泥に覆われているが、所々、剥き出しになった外殻は、真珠のような、あるいは、虹色のような、この世のものとは思えぬ光沢を、静かに放っていた。
そして、その残骸の中心部。まるで、巨大な口のようにも見える裂け目からは、周囲の海水とは明らかに違う、陽炎のような、空間の『歪み』が、ゆらゆらと立ち上っていた。
『……なんだ、これは……』
管制室で、昴助教が絶句する声が聞こえる。
蟹江教授が、戦慄と、そして、歓喜の入り混じった声で、呟いた。
『……間違いない。あれが、全ての始まりの地。ロスト・エヴォルヴをこの星に運び、そして、フェーズ・シフターを呼び寄せた、時空の汚染源……』
水深7900メートル。
そこは、音も、光も、時間すらもが、分厚い水圧に押し潰されてしまったかのような、完全なる静寂の世界だった。
アンファングは、巨大な獣の亡骸の如き、異形の残骸の傍らに着底し、その全身に搭載されたセンサーというセンサーを、目の前の未知なる存在へと向けていた。コントロールルームでは、蟹江教授、昴助教、創磨助教、そしてプロジェクトが誇る最高の頭脳たちが、アンファングから送られてくる膨大なデータを、息を詰めて解析している。
『……信じられないな。この残骸から検出されるエネルギーパターン、その減衰率と揺らぎの周期が、理論物理学の教科書に載っている、ホーキング放射の予測モデルと、ほぼ完全に一致している……』
昴助教が、興奮と畏怖の入り混じった声で呟く。
『馬鹿な。それは、ブラックホールが蒸発する際に放出されるはずの素粒子だ。こんな、ただの海底に、ミニブラックホールが転がっているとでも言うのか?』
創磨助教の冷静な反論が飛ぶ。だが、モニターに表示される数値は、非情なまでに、その異常な現実を肯定していた。
僕たちもまた、目の前で繰り広げられる、人類の知性を超えた現象を、ただ呆然と見つめることしかできない。特に、残骸の中心部――あの陽炎のように揺らめく時空の歪みから、片時も目を離せなかった。
そこに存在するであろう、未知の物理法則を理解しようと、フル回転を始める。なぜ、時空は歪んでいる? 何が、この空間の因果律を捻じ曲げている?
『……蟹江教授。一つ、試したいことがあります』
乾いた唇を舐めると、静かに、しかし、確信に満ちた声で、管制室に呼びかけた。
『僕の……アンファングの『慣性制御システム』を、最低出力で起動させたい。もし、僕の仮説が正しければ、この歪みは、僕のシステムと、何らかの形で共鳴するはずです』
その、あまりに突飛で、危険な提案に、管制室がざわめく。
『待て、物部! 何の確証もないのに、そんなことをすれば、また、あの怪物を呼び寄せかねない!』
昴助教の制止も、もっともだった。だが、その提案を許可したのは、他ならぬ、蟹江翔太その人だった。
『……面白い。やってみたまえ、物部君。君のその、狂気じみた直感を、私は信じよう』
許可は、下りた。美生奈さんが、心配そうに覗き込んでくる中、僕は慣性制御システムを起動させる。
「……慣性制御システム、起動。出力、0.01パーセント。ブレーン振動センサー、同調開始……」
指がコンソールを叩く。アンファングの機体の奥深くで、彼の理論の心臓部が、静かに、しかし、確かな鼓動を始めた。高次元の膜に、ごく微細な、さざ波のような振動が走り始める。
その瞬間だった。
それまで、陽炎のように、ただ静かに揺らめいていただけだった、残骸の中心の時空の歪みが、まるで、呼びかけに応えるかのように、激しく、脈動を始めたのだ。
アンファングから放たれたさざ波と、残骸から漏れ出す歪みが、完全に同じ周波数、同じ波形で、共鳴する。まるで、数億年の時を超えて、双子の兄弟が、再会を喜び合っているかのように。
ソナーが、甲高い警告音を発した。モニターの数値が、異常なレベルで跳ね上がる。
『間違いない……!』
管制室で、蟹江教授が、戦慄に打ち震えながら叫んだ。
『この残骸の推進機関は……我々の、アンファングの慣性制御システムと、完全に、同一の理論に基づいている!』
「……そう、ですか。そんな気は、していました」
その言葉は、決定的な最後の審判だった。
コックピットの中で、ただ呆然としていた。そしてその口から、乾いた自嘲の笑いが、ゆっくりと漏れ出した。
「……は、はは……。ははははは……」
「物部、くん……?」
クリスタル・レプリカントを、この星に呼び寄せた、最初の引き金。それは、ロスト・エヴォルヴと酷似したバイオシグネチャを持つ、琴吹美生奈の人工筋肉だった。
そして、宇宙の物理法則そのものを捻じ曲げる、最悪の番人、フェーズ・シフターを呼び寄せた、元凶。それは、この深海の残骸と同じ、禁断の力に手を出した、僕自身の、慣性制御システムだった。
アンファングの、二人のパイロット。
始まりの、二人。
僕と、彼女は、まさに、全ての始まりにふさわしい、最悪の『共犯者』だったのだ。
脳裏に、かつての記憶が、蘇る。
凪の領域での死闘の後渡された、一枚の色褪せた紙。子供が、クレヨンで描いた、アンファングの絵。『ありがとう、パイロットさん』という、拙い文字。
―――ふざけるな。
心の中で、何かが、音を立てて、砕け散った。
何が、ヒーローだ。
何が、人類の希望だ。
自分が、こんな、悪魔の理論に手を出さなければ。
『慣性制御システム』なんていう、神の領域を侵す、傲慢な発明さえしなければ。
フェーズ・シフターは、現れなかった。
奴らのせいで平穏な日常を奪われた人々は、間違いなく存在する。その奴らをこの星に招いたのは―――。
ヒーローどころじゃない。
僕こそが、この、終わりの見えない戦いを招いた、全ての元凶。
真の、黒幕だったんじゃないか。
美生奈さんが、心配そうに声をかけてくる。だが、その声は僕の心を動かすことはなかった。意識は、自己嫌悪と、絶望という、光の届かない、心の深海へと、どこまでも、どこまでも、沈んでいく。
『……調査は、十分だろう。これ以上は危険だ。アンファング、出来るだけでいい。残骸を回収し、浮上を開始せよ』
蟹江教授の冷静な声が、コックピットに響く。
アンファングは残骸を手に取ると、その巨体をもたげ、深海の闇から、光のある世界へと、上昇を始めた。
しかし、それとは反対に僕の心は、まるで、あの深淵の残骸に、魂を捕らわれたかのように、重く、冷たく、沈んだままだった。
光が、痛かった。
東都工業大学の地下ドックにアンファングが固定される。管制室から送られてくる安堵の声、そして教授たちの労いの言葉。その全てが、鼓膜を通り抜けて脳に届く前に、意味を失ったノイズへと変わっていく。
隣で、美生奈さんが僕の顔を心配そうに覗き込んでいた。何かを言おうとして、やめる。彼女のその気遣いすら、今はガラスの向こう側の出来事のように、ひどく遠い。
僕は、誰の呼びかけにも応えず、ハッチが開くと同時にコックピットから転がり出た。ふらつく足でキャットウォークを渡り、皆が集まるブリーフィングルームとは逆方向へ、ただひたすらに歩く。背後で、僕の名を呼ぶ声がしたが、振り返ることはできなかった。
足が向かったのは、プロジェクト・アンファングの巨大な資料保管庫だった。過去の戦闘データ、敵性存在の分析レポート、そして――被害報告。これまで、僕が一度として、自らの意志で目を通そうとしなかった領域。
僕にとって、戦闘とは解くべきパズルであり、被害とはその過程で生じる、無視可能な誤差でしかなかった。だが、今は違う。その誤差の一つひとつが、僕という元凶から生まれた、拭い去ることのできない結果なのだ。
冷たいアーカイブサーバーにアクセスし、指が震えるのを抑えながら、キーワードを打ち込む。『フェーズ・シフター』。
表示されたのは、無機質なテキストと数字の羅列だった。
黒潮海域における被害報告。船舶十数隻、航行不能。乗員・乗客、計288名、極度の低温障害による後遺症の疑い。経済損失、推定――兆円。
京葉工業地帯における被害報告。プラント数基、機能停止。負傷者、32名。その後の共振誘導による二次被害、未だ調査中。
数字。
僕が、誰よりも得意とし、誰よりも信頼してきた、客観的で、嘘をつかない情報の形。その一つひとつが、僕の罪状を告発する、鋭い棘となって突き刺さってくる。
僕の頭脳が生み出した、あの美しい数式。宇宙の理に触れた、あの完璧な理論。その結果が、これだ。僕が誇りとしてきた全てのものが、この無慈悲な数字の前では、ただの醜悪な破壊の記録でしかなかった。
脳裏に、美生奈さんの顔が浮かぶ。彼女に、僕は言ったはずだ。『僕たちは、ヒーローですよ』と。
なんて、傲慢な言葉だったのだろう。
ヒーロー? 笑わせるな。僕は、この悲劇の脚本を書き、最初のページをめくった、真の黒幕じゃないか。あの時の僕は、被害者のすぐ隣で、自らの罪にも気づかず、偽善の言葉を吐いていたのだ。
背負いきれない。
僕一人の脆弱な肉体と、傲慢なだけの頭脳では、この罪の質量を、到底支えきれない。
「自分が招いた災厄は、自分で終わらせなければならない」
頭の中の、冷静な部分がそう囁く。それは論理的に正しい。だが、その論理を実行するための、心が、もう、動かなかった。
これまでの人生の、全てが否定されたのだ。非力な肉体へのコンプレックスから逃れるため、知性だけを磨き続けてきた。誰にも文句を言わせない、圧倒的な結果を出すために。その結果が、これだ。僕の頑張りは、僕の人生は、世界を救うどころか、ただ新しい災厄を呼び込んだだけだった。
もう、何も考えたくない。
何も、したくない。
僕は、サーバーへのアクセスを強制的に遮断すると、幽鬼のような足取りで、資料保管庫を後にした。向かう先は、一つしかない。
自室。
僕が、唯一、誰にも邪魔されずに、僕だけの世界に閉じこもれる、最後の聖域。
ドアを開け、中に入り、鍵をかける。カーテンを閉め切ると、部屋は完全な闇に包まれた。ベッドに倒れ込むと、冷たいシーツが、深海の底に沈んでいく僕の身体を、優しく受け止めてくれたような気がした。
コン、コン。
ドアの向こうから、美生奈さんの声がする。
「……物部くん? 大丈夫……? 少し、話、しませんか……?」
僕は、答えない。
耳を塞ぎ、目を固く閉じる。
もう、誰の声も聞きたくない。
誰の顔も、見たくない。
僕が築き上げた論理の世界は、僕自身の証明によって、内側から完全に崩壊した。
後に残されたのは、ただ、暗くて、冷たい、静寂だけだった。
全長は、数キロにも及ぶだろうか。その表面は、長い年月の間に、分厚い海底の泥に覆われているが、所々、剥き出しになった外殻は、真珠のような、あるいは、虹色のような、この世のものとは思えぬ光沢を、静かに放っていた。
そして、その残骸の中心部。まるで、巨大な口のようにも見える裂け目からは、周囲の海水とは明らかに違う、陽炎のような、空間の『歪み』が、ゆらゆらと立ち上っていた。
『……なんだ、これは……』
管制室で、昴助教が絶句する声が聞こえる。
蟹江教授が、戦慄と、そして、歓喜の入り混じった声で、呟いた。
『……間違いない。あれが、全ての始まりの地。ロスト・エヴォルヴをこの星に運び、そして、フェーズ・シフターを呼び寄せた、時空の汚染源……』
水深7900メートル。
そこは、音も、光も、時間すらもが、分厚い水圧に押し潰されてしまったかのような、完全なる静寂の世界だった。
アンファングは、巨大な獣の亡骸の如き、異形の残骸の傍らに着底し、その全身に搭載されたセンサーというセンサーを、目の前の未知なる存在へと向けていた。コントロールルームでは、蟹江教授、昴助教、創磨助教、そしてプロジェクトが誇る最高の頭脳たちが、アンファングから送られてくる膨大なデータを、息を詰めて解析している。
『……信じられないな。この残骸から検出されるエネルギーパターン、その減衰率と揺らぎの周期が、理論物理学の教科書に載っている、ホーキング放射の予測モデルと、ほぼ完全に一致している……』
昴助教が、興奮と畏怖の入り混じった声で呟く。
『馬鹿な。それは、ブラックホールが蒸発する際に放出されるはずの素粒子だ。こんな、ただの海底に、ミニブラックホールが転がっているとでも言うのか?』
創磨助教の冷静な反論が飛ぶ。だが、モニターに表示される数値は、非情なまでに、その異常な現実を肯定していた。
僕たちもまた、目の前で繰り広げられる、人類の知性を超えた現象を、ただ呆然と見つめることしかできない。特に、残骸の中心部――あの陽炎のように揺らめく時空の歪みから、片時も目を離せなかった。
そこに存在するであろう、未知の物理法則を理解しようと、フル回転を始める。なぜ、時空は歪んでいる? 何が、この空間の因果律を捻じ曲げている?
『……蟹江教授。一つ、試したいことがあります』
乾いた唇を舐めると、静かに、しかし、確信に満ちた声で、管制室に呼びかけた。
『僕の……アンファングの『慣性制御システム』を、最低出力で起動させたい。もし、僕の仮説が正しければ、この歪みは、僕のシステムと、何らかの形で共鳴するはずです』
その、あまりに突飛で、危険な提案に、管制室がざわめく。
『待て、物部! 何の確証もないのに、そんなことをすれば、また、あの怪物を呼び寄せかねない!』
昴助教の制止も、もっともだった。だが、その提案を許可したのは、他ならぬ、蟹江翔太その人だった。
『……面白い。やってみたまえ、物部君。君のその、狂気じみた直感を、私は信じよう』
許可は、下りた。美生奈さんが、心配そうに覗き込んでくる中、僕は慣性制御システムを起動させる。
「……慣性制御システム、起動。出力、0.01パーセント。ブレーン振動センサー、同調開始……」
指がコンソールを叩く。アンファングの機体の奥深くで、彼の理論の心臓部が、静かに、しかし、確かな鼓動を始めた。高次元の膜に、ごく微細な、さざ波のような振動が走り始める。
その瞬間だった。
それまで、陽炎のように、ただ静かに揺らめいていただけだった、残骸の中心の時空の歪みが、まるで、呼びかけに応えるかのように、激しく、脈動を始めたのだ。
アンファングから放たれたさざ波と、残骸から漏れ出す歪みが、完全に同じ周波数、同じ波形で、共鳴する。まるで、数億年の時を超えて、双子の兄弟が、再会を喜び合っているかのように。
ソナーが、甲高い警告音を発した。モニターの数値が、異常なレベルで跳ね上がる。
『間違いない……!』
管制室で、蟹江教授が、戦慄に打ち震えながら叫んだ。
『この残骸の推進機関は……我々の、アンファングの慣性制御システムと、完全に、同一の理論に基づいている!』
「……そう、ですか。そんな気は、していました」
その言葉は、決定的な最後の審判だった。
コックピットの中で、ただ呆然としていた。そしてその口から、乾いた自嘲の笑いが、ゆっくりと漏れ出した。
「……は、はは……。ははははは……」
「物部、くん……?」
クリスタル・レプリカントを、この星に呼び寄せた、最初の引き金。それは、ロスト・エヴォルヴと酷似したバイオシグネチャを持つ、琴吹美生奈の人工筋肉だった。
そして、宇宙の物理法則そのものを捻じ曲げる、最悪の番人、フェーズ・シフターを呼び寄せた、元凶。それは、この深海の残骸と同じ、禁断の力に手を出した、僕自身の、慣性制御システムだった。
アンファングの、二人のパイロット。
始まりの、二人。
僕と、彼女は、まさに、全ての始まりにふさわしい、最悪の『共犯者』だったのだ。
脳裏に、かつての記憶が、蘇る。
凪の領域での死闘の後渡された、一枚の色褪せた紙。子供が、クレヨンで描いた、アンファングの絵。『ありがとう、パイロットさん』という、拙い文字。
―――ふざけるな。
心の中で、何かが、音を立てて、砕け散った。
何が、ヒーローだ。
何が、人類の希望だ。
自分が、こんな、悪魔の理論に手を出さなければ。
『慣性制御システム』なんていう、神の領域を侵す、傲慢な発明さえしなければ。
フェーズ・シフターは、現れなかった。
奴らのせいで平穏な日常を奪われた人々は、間違いなく存在する。その奴らをこの星に招いたのは―――。
ヒーローどころじゃない。
僕こそが、この、終わりの見えない戦いを招いた、全ての元凶。
真の、黒幕だったんじゃないか。
美生奈さんが、心配そうに声をかけてくる。だが、その声は僕の心を動かすことはなかった。意識は、自己嫌悪と、絶望という、光の届かない、心の深海へと、どこまでも、どこまでも、沈んでいく。
『……調査は、十分だろう。これ以上は危険だ。アンファング、出来るだけでいい。残骸を回収し、浮上を開始せよ』
蟹江教授の冷静な声が、コックピットに響く。
アンファングは残骸を手に取ると、その巨体をもたげ、深海の闇から、光のある世界へと、上昇を始めた。
しかし、それとは反対に僕の心は、まるで、あの深淵の残骸に、魂を捕らわれたかのように、重く、冷たく、沈んだままだった。
光が、痛かった。
東都工業大学の地下ドックにアンファングが固定される。管制室から送られてくる安堵の声、そして教授たちの労いの言葉。その全てが、鼓膜を通り抜けて脳に届く前に、意味を失ったノイズへと変わっていく。
隣で、美生奈さんが僕の顔を心配そうに覗き込んでいた。何かを言おうとして、やめる。彼女のその気遣いすら、今はガラスの向こう側の出来事のように、ひどく遠い。
僕は、誰の呼びかけにも応えず、ハッチが開くと同時にコックピットから転がり出た。ふらつく足でキャットウォークを渡り、皆が集まるブリーフィングルームとは逆方向へ、ただひたすらに歩く。背後で、僕の名を呼ぶ声がしたが、振り返ることはできなかった。
足が向かったのは、プロジェクト・アンファングの巨大な資料保管庫だった。過去の戦闘データ、敵性存在の分析レポート、そして――被害報告。これまで、僕が一度として、自らの意志で目を通そうとしなかった領域。
僕にとって、戦闘とは解くべきパズルであり、被害とはその過程で生じる、無視可能な誤差でしかなかった。だが、今は違う。その誤差の一つひとつが、僕という元凶から生まれた、拭い去ることのできない結果なのだ。
冷たいアーカイブサーバーにアクセスし、指が震えるのを抑えながら、キーワードを打ち込む。『フェーズ・シフター』。
表示されたのは、無機質なテキストと数字の羅列だった。
黒潮海域における被害報告。船舶十数隻、航行不能。乗員・乗客、計288名、極度の低温障害による後遺症の疑い。経済損失、推定――兆円。
京葉工業地帯における被害報告。プラント数基、機能停止。負傷者、32名。その後の共振誘導による二次被害、未だ調査中。
数字。
僕が、誰よりも得意とし、誰よりも信頼してきた、客観的で、嘘をつかない情報の形。その一つひとつが、僕の罪状を告発する、鋭い棘となって突き刺さってくる。
僕の頭脳が生み出した、あの美しい数式。宇宙の理に触れた、あの完璧な理論。その結果が、これだ。僕が誇りとしてきた全てのものが、この無慈悲な数字の前では、ただの醜悪な破壊の記録でしかなかった。
脳裏に、美生奈さんの顔が浮かぶ。彼女に、僕は言ったはずだ。『僕たちは、ヒーローですよ』と。
なんて、傲慢な言葉だったのだろう。
ヒーロー? 笑わせるな。僕は、この悲劇の脚本を書き、最初のページをめくった、真の黒幕じゃないか。あの時の僕は、被害者のすぐ隣で、自らの罪にも気づかず、偽善の言葉を吐いていたのだ。
背負いきれない。
僕一人の脆弱な肉体と、傲慢なだけの頭脳では、この罪の質量を、到底支えきれない。
「自分が招いた災厄は、自分で終わらせなければならない」
頭の中の、冷静な部分がそう囁く。それは論理的に正しい。だが、その論理を実行するための、心が、もう、動かなかった。
これまでの人生の、全てが否定されたのだ。非力な肉体へのコンプレックスから逃れるため、知性だけを磨き続けてきた。誰にも文句を言わせない、圧倒的な結果を出すために。その結果が、これだ。僕の頑張りは、僕の人生は、世界を救うどころか、ただ新しい災厄を呼び込んだだけだった。
もう、何も考えたくない。
何も、したくない。
僕は、サーバーへのアクセスを強制的に遮断すると、幽鬼のような足取りで、資料保管庫を後にした。向かう先は、一つしかない。
自室。
僕が、唯一、誰にも邪魔されずに、僕だけの世界に閉じこもれる、最後の聖域。
ドアを開け、中に入り、鍵をかける。カーテンを閉め切ると、部屋は完全な闇に包まれた。ベッドに倒れ込むと、冷たいシーツが、深海の底に沈んでいく僕の身体を、優しく受け止めてくれたような気がした。
コン、コン。
ドアの向こうから、美生奈さんの声がする。
「……物部くん? 大丈夫……? 少し、話、しませんか……?」
僕は、答えない。
耳を塞ぎ、目を固く閉じる。
もう、誰の声も聞きたくない。
誰の顔も、見たくない。
僕が築き上げた論理の世界は、僕自身の証明によって、内側から完全に崩壊した。
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