47 / 50
#047 消えた道と紡ぐ道
しおりを挟む
その日、僕は久しぶりにかつての師が待つ部屋のドアをノックした。
東都工業大学の地下研究施設。その最も奥まった一角にある巨大な球形のドーム。そこはかつて僕の全てであった『慣性制御システム』の理論が生まれた場所であり、そして今は、この星の静かな平和を見守る新たな目が設置された場所だった。
『入りたまえ』
スピーカーから変わらない静謐な声が響く。僕が中へ入ると、薄暗いドームの中心で車椅子に座った蟹江翔太教授が、ゆっくりとこちらを振り返った。
「……久しぶりだな、物部君。綾辻教授の元で上手くやっているかね」
「はい。おかげさまで」
僕は静かに頷いた。
僕と教授がこうして二人きりで顔を合わせるのは、あの最後の戦いの後始末が全て終わって以来のことだった。
あの日、僕たちは人類の、いや、この宇宙の禁断の扉を開けてしまった。アンファングの『慣性制御システム』、そしてエンデの『因果律選択システム』。それらのあまりに危険すぎる技術は、PEAAの最も厳重な管理の下、永久に封印されることが決定された。僕自身もそれに異論はなかった。
その決定は、蟹江教授の研究者としての人生そのものを根底から変えてしまった。
彼の研究は常に宇宙のその先の未知なる領域へと手を伸ばすものだった。ブレーンワールド、多世界解釈、因果律への干渉。だがその全てが封印された今、彼は全く新しい研究テーマを自らに課したのだ。
「……見ていきたまえ」
教授はそう言うと、コンソールを操作した。ドームの天井全体が巨大なスクリーンとなり、そこに漆黒の宇宙空間と無数の光の点が映し出される。
「私が静海君たちの力を借りて構築した新たな『目』……『高次元振動観測網』だ。これは宇宙に再びフェーズ・シフターのような高次元からの干渉が起きないか、その微弱な時空の歪みを24時間監視し続けるためのシステムだ」
それは未来を新たに切り開くための研究ではなかった。ただこのか弱く、そして尊い日常という現在を守るためだけの保守的な、そして途方もなく孤独な研究だった。
あの日、教授は自らの研究室に所属する全ての学生を集めた。そして静かに告げたのだ。自分の研究の方向性が180度変わることを。もうここには華々しいノーベル賞級の発見はない、と。
特に僕に対しては、彼は強く研究室を去ることを勧めた。
『君の才能のその根幹であった慣性制御システムの理論は凍結された。私は若い頃から好き放題の限りを尽くしてきた。その代償を払う時が来たということだ。だが、君はまだ若い。私のこの墓守のような研究に付き合わせるわけにはいかない』
僕は反論できなかった。教授の言う通りだったからだ。
僕がこれからどうすべきか迷っていた、そんな時。僕に救いの手を差し伸べてくれたのが、あの西の魔女だった。
『――面白いじゃない、物部くん』
この話を聞きつけた彼女が、こちらに接触してきたのだ。オンライン会議のモニターの向こう側で、綾辻玻璃教授は楽しそうに唇の端を吊り上げた。
『あなたのその物理学の頭脳で、生命という最大の不条理に挑んでみる気はないかしら? 私の理論生物物理学を、あなたの得意な量子力学の視点からハッキングしてみるというのはどう?私は共生生物学の研究に移っちゃうし、この研究を引き継いでくれる人が欲しかったところなのよ』
そして彼女は驚くべき提案をした。
『とはいっても、今のままじゃあなたに京都に来てもらうことになっちゃうわよね。それじゃ、あなたの愛しい美生奈ちゃんとお別れすることになっちゃう。……だから、私が東都へ行ってあげる』
そのあまりに大胆で、そして彼女らしい粋な計らい。
こうして僕は大学院へと進学すると同時に、東都工業大学に新たに移籍してきた綾辻教授の研究室へと籍を移すことになったのだ。
「……君はまだ若い」
ドームの中で蟹江教授は星空を見上げながら静かに言った。
「そんな君を、こんないつ鳴るかも分からぬ警報をただ待ち続けるだけの、灯台守のような仕事に縛り付けておくわけにはいかない。この仕事はこの私一人が背負えばいい」
彼はゆっくりと僕の方へと向き直った。その揺らぐ瞳の中に、確かな師としての温かい光が宿っていた。
「……行きなさい、物部君。君にはまだまだ繋ぐべき未来が残っているのだから」
その言葉に僕はこみ上げてくる何かを必死に堪えた。
この人はいつもそうだ。僕が道に迷った時、いつも僕が進むべき新たな問いを示してくれる。
僕は深く深く頭を下げた。
「……分かりました。後のことはお任せいたします」
そして顔を上げると、僕がずっと言えなかった言葉を口にした。
「……今まで、教授には本当にたくさんのことを学ばせていただきました。……本当にありがとうございました」
僕の精一杯の感謝の言葉に、教授はただ少しだけ寂しそうに、そしてどこか誇らしげに微笑んだ。
僕は一礼するとその場を後にした。
「……ああ。行ってくるがいい。未来を背負う若人よ」
僕はもう振り返らなかった。
ただ前を向いて歩き出す。
僕の新しい問いが、そして僕が守り抜くと誓った大切な人たちが待つ場所へと。
東都工業大学の地下研究施設。その最も奥まった一角にある巨大な球形のドーム。そこはかつて僕の全てであった『慣性制御システム』の理論が生まれた場所であり、そして今は、この星の静かな平和を見守る新たな目が設置された場所だった。
『入りたまえ』
スピーカーから変わらない静謐な声が響く。僕が中へ入ると、薄暗いドームの中心で車椅子に座った蟹江翔太教授が、ゆっくりとこちらを振り返った。
「……久しぶりだな、物部君。綾辻教授の元で上手くやっているかね」
「はい。おかげさまで」
僕は静かに頷いた。
僕と教授がこうして二人きりで顔を合わせるのは、あの最後の戦いの後始末が全て終わって以来のことだった。
あの日、僕たちは人類の、いや、この宇宙の禁断の扉を開けてしまった。アンファングの『慣性制御システム』、そしてエンデの『因果律選択システム』。それらのあまりに危険すぎる技術は、PEAAの最も厳重な管理の下、永久に封印されることが決定された。僕自身もそれに異論はなかった。
その決定は、蟹江教授の研究者としての人生そのものを根底から変えてしまった。
彼の研究は常に宇宙のその先の未知なる領域へと手を伸ばすものだった。ブレーンワールド、多世界解釈、因果律への干渉。だがその全てが封印された今、彼は全く新しい研究テーマを自らに課したのだ。
「……見ていきたまえ」
教授はそう言うと、コンソールを操作した。ドームの天井全体が巨大なスクリーンとなり、そこに漆黒の宇宙空間と無数の光の点が映し出される。
「私が静海君たちの力を借りて構築した新たな『目』……『高次元振動観測網』だ。これは宇宙に再びフェーズ・シフターのような高次元からの干渉が起きないか、その微弱な時空の歪みを24時間監視し続けるためのシステムだ」
それは未来を新たに切り開くための研究ではなかった。ただこのか弱く、そして尊い日常という現在を守るためだけの保守的な、そして途方もなく孤独な研究だった。
あの日、教授は自らの研究室に所属する全ての学生を集めた。そして静かに告げたのだ。自分の研究の方向性が180度変わることを。もうここには華々しいノーベル賞級の発見はない、と。
特に僕に対しては、彼は強く研究室を去ることを勧めた。
『君の才能のその根幹であった慣性制御システムの理論は凍結された。私は若い頃から好き放題の限りを尽くしてきた。その代償を払う時が来たということだ。だが、君はまだ若い。私のこの墓守のような研究に付き合わせるわけにはいかない』
僕は反論できなかった。教授の言う通りだったからだ。
僕がこれからどうすべきか迷っていた、そんな時。僕に救いの手を差し伸べてくれたのが、あの西の魔女だった。
『――面白いじゃない、物部くん』
この話を聞きつけた彼女が、こちらに接触してきたのだ。オンライン会議のモニターの向こう側で、綾辻玻璃教授は楽しそうに唇の端を吊り上げた。
『あなたのその物理学の頭脳で、生命という最大の不条理に挑んでみる気はないかしら? 私の理論生物物理学を、あなたの得意な量子力学の視点からハッキングしてみるというのはどう?私は共生生物学の研究に移っちゃうし、この研究を引き継いでくれる人が欲しかったところなのよ』
そして彼女は驚くべき提案をした。
『とはいっても、今のままじゃあなたに京都に来てもらうことになっちゃうわよね。それじゃ、あなたの愛しい美生奈ちゃんとお別れすることになっちゃう。……だから、私が東都へ行ってあげる』
そのあまりに大胆で、そして彼女らしい粋な計らい。
こうして僕は大学院へと進学すると同時に、東都工業大学に新たに移籍してきた綾辻教授の研究室へと籍を移すことになったのだ。
「……君はまだ若い」
ドームの中で蟹江教授は星空を見上げながら静かに言った。
「そんな君を、こんないつ鳴るかも分からぬ警報をただ待ち続けるだけの、灯台守のような仕事に縛り付けておくわけにはいかない。この仕事はこの私一人が背負えばいい」
彼はゆっくりと僕の方へと向き直った。その揺らぐ瞳の中に、確かな師としての温かい光が宿っていた。
「……行きなさい、物部君。君にはまだまだ繋ぐべき未来が残っているのだから」
その言葉に僕はこみ上げてくる何かを必死に堪えた。
この人はいつもそうだ。僕が道に迷った時、いつも僕が進むべき新たな問いを示してくれる。
僕は深く深く頭を下げた。
「……分かりました。後のことはお任せいたします」
そして顔を上げると、僕がずっと言えなかった言葉を口にした。
「……今まで、教授には本当にたくさんのことを学ばせていただきました。……本当にありがとうございました」
僕の精一杯の感謝の言葉に、教授はただ少しだけ寂しそうに、そしてどこか誇らしげに微笑んだ。
僕は一礼するとその場を後にした。
「……ああ。行ってくるがいい。未来を背負う若人よ」
僕はもう振り返らなかった。
ただ前を向いて歩き出す。
僕の新しい問いが、そして僕が守り抜くと誓った大切な人たちが待つ場所へと。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
サイレント・サブマリン ―虚構の海―
来栖とむ
SF
彼女が追った真実は、国家が仕組んだ最大の嘘だった。
科学技術雑誌の記者・前田香里奈は、謎の科学者失踪事件を追っていた。
電磁推進システムの研究者・水嶋総。彼の技術は、完全無音で航行できる革命的な潜水艦を可能にする。
小与島の秘密施設、広島の地下工事、呉の巨大な格納庫—— 断片的な情報を繋ぎ合わせ、前田は確信する。
「日本政府は、秘密裏に新型潜水艦を開発している」
しかし、その真実を暴こうとする前田に、次々と圧力がかかる。
謎の男・安藤。突然現れた協力者・森川。 彼らは敵か、味方か——
そして8月の夜、前田は目撃する。 海に下ろされる巨大な「何か」を。
記者が追った真実は、国家が仕組んだ壮大な虚構だった。 疑念こそが武器となり、嘘が現実を変える——
これは、情報戦の時代に問う、現代SF政治サスペンス。
【全17話完結】
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
アガルタ・クライシス ―接点―
来栖とむ
SF
神話や物語で語られる異世界は、空想上の世界ではなかった。
九州で発見され盗難された古代の石板には、異世界につながる何かが記されていた。
同時に発見された古い指輪に偶然触れた瞬間、平凡な高校生・結衣は不思議な力に目覚める。
不審な動きをする他国の艦船と怪しい組織。そんな中、異世界からの来訪者が現れる。政府の秘密組織も行動を開始する。
古代から権力者たちによって秘密にされてきた異世界との関係。地球とアガルタ、二つの世界を巻き込む陰謀の渦中で、古代の謎が解き明かされていく。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
冤罪で辺境に幽閉された第4王子
satomi
ファンタジー
主人公・アンドリュート=ラルラは冤罪で辺境に幽閉されることになったわけだが…。
「辺境に幽閉とは、辺境で生きている人間を何だと思っているんだ!辺境は不要な人間を送る場所じゃない!」と、辺境伯は怒っているし当然のことだろう。元から辺境で暮している方々は決して不要な方ではないし、‘辺境に幽閉’というのはなんとも辺境に暮らしている方々にしてみれば、喧嘩売ってんの?となる。
辺境伯の娘さんと婚約という話だから辺境伯の主人公へのあたりも結構なものだけど、娘さんは美人だから万事OK。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる