黎明のアンファング

あさみこと

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#047 消えた道と紡ぐ道

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 その日、僕は久しぶりにかつての師が待つ部屋のドアをノックした。
 東都工業大学の地下研究施設。その最も奥まった一角にある巨大な球形のドーム。そこはかつて僕の全てであった『慣性制御システム』の理論が生まれた場所であり、そして今は、この星の静かな平和を見守る新たな目が設置された場所だった。
『入りたまえ』
 スピーカーから変わらない静謐な声が響く。僕が中へ入ると、薄暗いドームの中心で車椅子に座った蟹江翔太教授が、ゆっくりとこちらを振り返った。
「……久しぶりだな、物部君。綾辻教授の元で上手くやっているかね」
「はい。おかげさまで」
 僕は静かに頷いた。
 僕と教授がこうして二人きりで顔を合わせるのは、あの最後の戦いの後始末が全て終わって以来のことだった。
 あの日、僕たちは人類の、いや、この宇宙の禁断の扉を開けてしまった。アンファングの『慣性制御システム』、そしてエンデの『因果律選択システム』。それらのあまりに危険すぎる技術は、PEAAの最も厳重な管理の下、永久に封印されることが決定された。僕自身もそれに異論はなかった。
 その決定は、蟹江教授の研究者としての人生そのものを根底から変えてしまった。
 彼の研究は常に宇宙のその先の未知なる領域へと手を伸ばすものだった。ブレーンワールド、多世界解釈、因果律への干渉。だがその全てが封印された今、彼は全く新しい研究テーマを自らに課したのだ。
「……見ていきたまえ」
 教授はそう言うと、コンソールを操作した。ドームの天井全体が巨大なスクリーンとなり、そこに漆黒の宇宙空間と無数の光の点が映し出される。
「私が静海君たちの力を借りて構築した新たな『目』……『高次元振動観測網ブレーン・テレスコープ』だ。これは宇宙に再びフェーズ・シフターのような高次元からの干渉が起きないか、その微弱な時空の歪みを24時間監視し続けるためのシステムだ」
 それは未来を新たに切り開くための研究ではなかった。ただこのか弱く、そして尊い日常という現在を守るためだけの保守的な、そして途方もなく孤独な研究だった。

 あの日、教授は自らの研究室に所属する全ての学生を集めた。そして静かに告げたのだ。自分の研究の方向性が180度変わることを。もうここには華々しいノーベル賞級の発見はない、と。
 特に僕に対しては、彼は強く研究室を去ることを勧めた。
『君の才能のその根幹であった慣性制御システムの理論は凍結された。私は若い頃から好き放題の限りを尽くしてきた。その代償を払う時が来たということだ。だが、君はまだ若い。私のこの墓守のような研究に付き合わせるわけにはいかない』
 僕は反論できなかった。教授の言う通りだったからだ。
 僕がこれからどうすべきか迷っていた、そんな時。僕に救いの手を差し伸べてくれたのが、あの西の魔女だった。
『――面白いじゃない、物部くん』
 この話を聞きつけた彼女が、こちらに接触してきたのだ。オンライン会議のモニターの向こう側で、綾辻玻璃教授は楽しそうに唇の端を吊り上げた。
『あなたのその物理学の頭脳で、生命という最大の不条理に挑んでみる気はないかしら? 私の理論生物物理学を、あなたの得意な量子力学の視点からハッキングしてみるというのはどう?私は共生生物学の研究に移っちゃうし、この研究を引き継いでくれる人が欲しかったところなのよ』
 そして彼女は驚くべき提案をした。
『とはいっても、今のままじゃあなたに京都に来てもらうことになっちゃうわよね。それじゃ、あなたの愛しい美生奈ちゃんとお別れすることになっちゃう。……だから、私が東都へ行ってあげる』
 そのあまりに大胆で、そして彼女らしい粋な計らい。
 こうして僕は大学院へと進学すると同時に、東都工業大学に新たに移籍してきた綾辻教授の研究室へと籍を移すことになったのだ。

「……君はまだ若い」
 ドームの中で蟹江教授は星空を見上げながら静かに言った。
「そんな君を、こんないつ鳴るかも分からぬ警報をただ待ち続けるだけの、灯台守のような仕事に縛り付けておくわけにはいかない。この仕事はこの私一人が背負えばいい」
 彼はゆっくりと僕の方へと向き直った。その揺らぐ瞳の中に、確かな師としての温かい光が宿っていた。
「……行きなさい、物部君。君にはまだまだ繋ぐべき未来が残っているのだから」
 その言葉に僕はこみ上げてくる何かを必死に堪えた。
 この人はいつもそうだ。僕が道に迷った時、いつも僕が進むべき新たな問いを示してくれる。
 僕は深く深く頭を下げた。
「……分かりました。後のことはお任せいたします」
 そして顔を上げると、僕がずっと言えなかった言葉を口にした。
「……今まで、教授には本当にたくさんのことを学ばせていただきました。……本当にありがとうございました」
 僕の精一杯の感謝の言葉に、教授はただ少しだけ寂しそうに、そしてどこか誇らしげに微笑んだ。
 僕は一礼するとその場を後にした。
「……ああ。行ってくるがいい。未来を背負う若人よ」
 僕はもう振り返らなかった。
 ただ前を向いて歩き出す。
 僕の新しい問いが、そして僕が守り抜くと誓った大切な人たちが待つ場所へと。
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