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#048 新たなるプレリュード
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綾辻玻璃教授の研究室は、かつて僕が所属していた蟹江研究室とは何もかもが対照的な場所だった。
無機質なコンクリート打ちっぱなしの壁。雑然と積み上げられた物理学の専門書。そして常に微かなオゾンの匂いが漂っていた、あの男臭い空間とは違う。
綾辻研究室は白を基調とした、清潔でミニマルな空間だった。壁一面のガラス張りの窓からは都会の景色が一望でき、部屋の隅には趣味のいい観葉植物が静かに置かれている。そして部屋には常に彼女が愛飲している高級な紅茶の芳醇な香りが漂っていた。
そのあまりに洗練されすぎた空間で、僕の隣でノートパソコンに向かっていた意外な人物がぽつりと呟いた。
「……やっぱり落ち着かないな、ここは……」
その声の主は静海真音だった。
あの九州の静寂の国の天才指揮者。彼は九都大学を卒業すると同時に、なんとこの東都工業大学の大学院へと進学してきたのだ。しかも僕と同じこの綾辻研究室へと。
「……良かったんですか。本当にこの研究室にやってきて」
僕はモニターから目を離さずに尋ねた。彼ほどの才能があれば、音楽家としてもプロのゲーマーとしてもいくらでも道はあったはずだ。
「……いい」
彼は短く答えた。
「音楽の作曲も、ダンスミュージックのトラック制作も休みの日に自分の部屋でいくらでもできる。けど、生物が発するフォノン……格子振動の量子的な振る舞いを、ここまで精密に観測できる実験設備と環境はここにしかないから」
そう。彼がこの研究室を選んだ理由は僕と同じだった。生物という最も複雑で非合理な謎を、物理学という最もシンプルで合理的な言語で解き明かすために。
「……そうですか」
僕がそう短く相槌を打ったその時だった。
「あら~♡嬉しいこと言ってくれるのねぇ、真音くん」
ぬるりと、僕たちの背後から甘く、そして蠱惑的な声がした。振り返るとそこには、完璧な曲線を描く腰に手を当て、妖艶な笑みを浮かべた綾辻教授が立っていた。
彼女は真音の隣にそっと屈み込むと、その豊かな胸を彼の肩に押し付けるようにして、その美しい顔を彼の耳元へと近づけた。
「う……!」
真音の身体が硬直する。彼の顔は瞬時に沸騰したかのように真っ赤に染まった。
「ねぇ~?真音くんは私には興味ないのかしらぁ?この無駄な脂肪が一切ない、ボン・キュッ・ボンの計算され尽くしたナイスバディに♡」
彼女の吐息混じりの甘い囁き。それは真音のようなウブな青年にはあまりに刺激が強すぎた。
「ううっ……!あ、あやつじせんせ……!ち、近いです……!」
「あら、そう?でもシュレディンガー方程式によれば、私たちの身体を構成する陽子と電子の間に存在する空間は99.99999%が空っぽなのよ?つまり私たちはまだ全然近くなんかないわ。ねぇ♡」
そんな無茶苦茶な物理学の応用。真音は涙目で僕の方を助けを求めるように見つめてきた。
(……あ、愛都くん……助けて……なんで僕ばっかりいつも……)
僕はその哀れな視線を完全に無視した。そして自らの研究テーマである、ロスト・エヴォルヴの細胞モデルが量子的な重ね合わせの状態をどう維持しているのかというシミュレーション画面に意識を集中させる。
「……僕には美生奈先輩がいますので」
と、僕はあっさりそれをかわした。
「そういえば、一度その身で味わい尽くしたんだったわよねぇ、あの子の全てを♡」
そのあまりにデリカシーのない直球の言葉。僕はさすがに顔が熱くなるのを感じた。隣で真音が、「え……? え……?」と目を白黒させている。
「彼女に関してはもう私が言うことなんて何もないわ。あの可愛い可愛い子豚ちゃんをその手で一生愛してあげなさいな♡」
その挑発するような、しかしどこか温かい彼女なりのエール。
僕はノートパソコンの画面から目を離さないまま、静かに、そして力強く答えた。
「…………言われなくとも」
無機質なコンクリート打ちっぱなしの壁。雑然と積み上げられた物理学の専門書。そして常に微かなオゾンの匂いが漂っていた、あの男臭い空間とは違う。
綾辻研究室は白を基調とした、清潔でミニマルな空間だった。壁一面のガラス張りの窓からは都会の景色が一望でき、部屋の隅には趣味のいい観葉植物が静かに置かれている。そして部屋には常に彼女が愛飲している高級な紅茶の芳醇な香りが漂っていた。
そのあまりに洗練されすぎた空間で、僕の隣でノートパソコンに向かっていた意外な人物がぽつりと呟いた。
「……やっぱり落ち着かないな、ここは……」
その声の主は静海真音だった。
あの九州の静寂の国の天才指揮者。彼は九都大学を卒業すると同時に、なんとこの東都工業大学の大学院へと進学してきたのだ。しかも僕と同じこの綾辻研究室へと。
「……良かったんですか。本当にこの研究室にやってきて」
僕はモニターから目を離さずに尋ねた。彼ほどの才能があれば、音楽家としてもプロのゲーマーとしてもいくらでも道はあったはずだ。
「……いい」
彼は短く答えた。
「音楽の作曲も、ダンスミュージックのトラック制作も休みの日に自分の部屋でいくらでもできる。けど、生物が発するフォノン……格子振動の量子的な振る舞いを、ここまで精密に観測できる実験設備と環境はここにしかないから」
そう。彼がこの研究室を選んだ理由は僕と同じだった。生物という最も複雑で非合理な謎を、物理学という最もシンプルで合理的な言語で解き明かすために。
「……そうですか」
僕がそう短く相槌を打ったその時だった。
「あら~♡嬉しいこと言ってくれるのねぇ、真音くん」
ぬるりと、僕たちの背後から甘く、そして蠱惑的な声がした。振り返るとそこには、完璧な曲線を描く腰に手を当て、妖艶な笑みを浮かべた綾辻教授が立っていた。
彼女は真音の隣にそっと屈み込むと、その豊かな胸を彼の肩に押し付けるようにして、その美しい顔を彼の耳元へと近づけた。
「う……!」
真音の身体が硬直する。彼の顔は瞬時に沸騰したかのように真っ赤に染まった。
「ねぇ~?真音くんは私には興味ないのかしらぁ?この無駄な脂肪が一切ない、ボン・キュッ・ボンの計算され尽くしたナイスバディに♡」
彼女の吐息混じりの甘い囁き。それは真音のようなウブな青年にはあまりに刺激が強すぎた。
「ううっ……!あ、あやつじせんせ……!ち、近いです……!」
「あら、そう?でもシュレディンガー方程式によれば、私たちの身体を構成する陽子と電子の間に存在する空間は99.99999%が空っぽなのよ?つまり私たちはまだ全然近くなんかないわ。ねぇ♡」
そんな無茶苦茶な物理学の応用。真音は涙目で僕の方を助けを求めるように見つめてきた。
(……あ、愛都くん……助けて……なんで僕ばっかりいつも……)
僕はその哀れな視線を完全に無視した。そして自らの研究テーマである、ロスト・エヴォルヴの細胞モデルが量子的な重ね合わせの状態をどう維持しているのかというシミュレーション画面に意識を集中させる。
「……僕には美生奈先輩がいますので」
と、僕はあっさりそれをかわした。
「そういえば、一度その身で味わい尽くしたんだったわよねぇ、あの子の全てを♡」
そのあまりにデリカシーのない直球の言葉。僕はさすがに顔が熱くなるのを感じた。隣で真音が、「え……? え……?」と目を白黒させている。
「彼女に関してはもう私が言うことなんて何もないわ。あの可愛い可愛い子豚ちゃんをその手で一生愛してあげなさいな♡」
その挑発するような、しかしどこか温かい彼女なりのエール。
僕はノートパソコンの画面から目を離さないまま、静かに、そして力強く答えた。
「…………言われなくとも」
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