ストロベリームーン・セレナーデ

ukon osumi

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第22話「影を映さない夜」

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 静まり返った控室に、ファンの回る低い音だけが漂っていた。
天井の蛍光灯が壁に映す影が、ほんのわずかに揺れている。
ヨウジは書類を一枚ずつ重ね直していた。証言メモ、星表、観測記録――これまで集めた断片が、今ようやく一本の線になろうとしていた。
 机の上にあるのは、単なる紙束ではない。これは、嘘の上に積まれた積木を崩し、真実の形を露わにするための道具だ。
 扉がノックもなく開き、ようこが入ってきた。彼女の表情には、迷いも疲れもなかった。
「準備、できてる?」
「ああ。……これで、勝てると思う」
 ヨウジは星表の一ページを指さした。
「この夜、午後九時。石田さんが“サリーを見た”と言ってる時間、月は南西の低い位置にある。
 彼の証言の方角とは、まったく合わない。つまり……彼は、見ていない」
「じゃあ、なぜ“見た”って言ったの?」
「たぶん、自分の意思じゃない。あくまで、誰かに頼まれて。……証言そのものが、仕組まれてたんだ」
 ようこは小さく眉を寄せた。
「その“誰か”って……」
「わからない。ただ――俺たちが踏み込むとすれば、今しかない」
 ヨウジは書類をひとまとめにし、立ち上がった。
「行こう。そろそろ事情聴取が始まる」
 会議室にはすでに石田が通されていた。
 落ち着かない様子で椅子に座り、時折、手を膝に乗せ直している。
 隣には亮二。表情は硬く、ヨウジとようこを見ても、目を逸らすことはなかった。
 刑事がひと通りの導入を終えた後、改めて口を開いた。
「石田さん。事件当夜、午後九時頃の状況について、再度確認させてください。
 あなたは“サリーさんが男と歩いていた”と証言されていますが――その時刻に間違いは?」
「……ありません。たしかにその時間です。顔も、はっきり見えました」
 石田の声には、迷いと苛立ちが入り混じっていた。
 だがその言葉の中に、“確信”の色はなかった。
 ヨウジがゆっくりと手元の紙を広げる。
「では、確認させてください。
 この夜、午後九時の天文データ。ハワイでは月はすでに沈みかけており、あなたが見たという方向には、月は存在しませんでした」
 石田の瞳が揺れた。
「それは……でも、光は……」
 その声に、ようこが静かに問い返す。
「光? 月のことですか?」
 石田は、ぎこちなくうなずいた。
「……そう、です。見えたんです」
 ヨウジは、黙って手元の資料に目を落とした。
 2025年6月8日、ハワイ時間。
 月齢11.2、満月の三日前。
 月は午後3時すぎに東の空から昇り、午後9時には南東の空にあったが、まだそれほど高くはなかった。
 夜が深まるにつれて、ゆっくりと南の空を昇っていった。6月の満月を”ストロベリームーン”と呼ぶことがある。

 にもかかわらず――
 “サリーが月明かりの下を誰かと歩いていた”という証言。
 しかも、目撃された場所は岩場の北東側。
 つまり、月とはまったく逆方向。
 北東に月の光が届くはずもない。
 ヨウジはゆっくりと顔を上げ、はっきりと言った。
「……月が、そこにあったはずがない」
 石田の表情が凍りついた。
「つまり、月はその場所にいなかった。あなたの証言は成立しません」
静かな声が、石田の前に刃のように差し出される。
「石田さん。あなたは、見ていないことを“見た”と言いましたね。なぜ、そんな嘘を?」
「……」
 沈黙が落ちた。
 ようこが、その隙間にそっと言葉を置いた。
「誰かに、“そう言ってほしい”って頼まれたんじゃありませんか?」
 石田が顔を上げた。目の奥に、何かが崩れる音がした。
「……君島さんに、言われたんです。
 “この時間にサリーがいたって、証言してくれませんか?”って。
 “私が彼女の代役になるには、それが必要なんです”って」
「それで、言うことを聞いた?」
 ヨウジの問いに、石田はうつむいたまま、何度もうなずいた。
「……あの人のためなら、って、思ってた。俺なんか、ただの現場の端っこにいるだけの人間だけど、でも……」
 その言葉の先は、もう形にならなかった。
 亮二は、黙っていた。
 だが、手のひらが震えていたことを、ヨウジは見逃さなかった。
「亮二さん。あなたは、石田さんの証言が嘘だと知っていたのでは?」
「……関係ない」
 絞り出すような声だった。
「そうですね。石田さんとつるんでいたわけじゃない。
 でも、君島葵さんとあなたが繋がっていたことは、すでに確認されています」
「……」
「じゃあ、聞かせてください。
 あなたは、君島葵さんに、何を頼まれたんですか?」
 その問いに、亮二は何も答えなかった。
 ただ、拳を握りしめたまま、唇を噛んでいる。
 その横顔に浮かぶ影は、どこか諦めに似ていた。
 亮二の沈黙が、部屋全体にじわじわと染み渡っていく。
 彼の呼吸は浅く、口元をぴくりと動かすたびに、内側で膨れ上がる何かと格闘しているのがわかった。
 刑事はそれを見極めるように、静かな声で言った。
「高崎亮二さん。あなたは被害者の横沢サリーさんと交際関係にあり、事件当夜、現場近くでの目撃証言も確認されています。
 そのうえでお聞きします。石田さんの“虚偽証言”が、あなたにとって都合のいいものであったことを、どう説明されますか?」
「……俺は、」
 ようやく漏れた声は、かすれていた。
「俺は、ただ……あいつに言われたんだよ」
 亮二は顔を上げた。
 その目の奥に、怒りとも、悔いともつかぬ、濁った光があった。
「“サリーがいなくなれば、あなたは全部手に入る”って。
 “彼女がいなければ、主演も、注目も、未来もあなたのものになる”って……葵が、そう言ったんだ」
 ようこが小さく息を呑んだ。
 ヨウジは無言のまま、それを受け止める。
 亮二の肩が、わずかに震える。
「最初はただ、彼女に言い寄られてただけだった。俺は、断ってた……でも、サリーとの関係がうまくいかなくなってて……。
 そんなときに、あいつが、“殺せ”って言ったわけじゃない。そんなはっきりした言い方じゃなかった。
 でも……」
 彼は言葉を切った。
「“事故でもいいんですよ”って……笑ってたんだ」
 沈黙が落ちた。
 石田は目を伏せたまま、ひとことも発しない。
 彼の顔は、あのときとはまるで別人のように乾いていた。
 葵の名前が出てもなお、反論もしない。ただ、苦しむように唇を結び、視線をテーブルの一点に固定している。
 ――みんなが、葵に動かされていた。
 ヨウジは思った。
 亮二も、石田も、それぞれの立場と感情で、彼女にとって“都合のいい駒”にされていた。
 けれど、誰もそれを止めなかった。
 誰も、「これは間違っている」と口にしなかった。
 刑事が立ち上がり、沈んだ空気を断ち切るように、逮捕状を読み上げた。
「高崎亮二、あなたを殺人の容疑で逮捕します。
 石田浩一、証拠隠滅および虚偽証言の疑いにより、同様に身柄を拘束します。
 今後の供述は、正規の場で行っていただきます」
 手錠が、金属音を立てて二人の手首にかけられていく。
 亮二は、もう抵抗しなかった。ただ無言のまま、席を立ち、連行されるのを受け入れた。
 石田は、最後にようこへ一度だけ視線を向けた。
 その目には、悔恨とも諦めともつかぬ、深い影が宿っていた。
 何かを言おうとしたが、言葉にはならなかった。
 二人が連れ出され、扉が閉じられる。
 部屋に残されたのは、ヨウジとようこだけだった。
 しばらくのあいだ、二人とも口を開かなかった。
 ただ、その場に立ち尽くしていた。
「……終わった、のかな」
 ようこが、ぽつりと言った。
「事件は、な」
 ヨウジは小さく答える。
「でも、“彼女”は、まだ何も言っていない」
 君島葵――
 事件の最奥に立つ女。
 何も語らず、ただ微笑んでいたあの女優の姿が、脳裏に浮かぶ。
 彼女の動機も、計算も、演技も――まだ、何一つ解かれてはいない。
「……明日、彼女に会いに行こう」
 ヨウジの言葉に、ようこはうなずいた。
 風のような静けさのなかで、ふたりの視線がひとつに交わる。
 影はもう、光に照らされていない。
 だが、まだ闇の中に残っているものがある。
 それを見極めるまで、この事件は終わらない。
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