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第三話 足のない女
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夕刻、空に薄暮が滲むころ、榊原新右衛門は神田明神の裏手を歩いていた。
薄桃色に染まった空の下、町のざわめきも徐々に静まっていく。商家の帳が下ろされ、軒先では油紙の灯籠が揺れはじめていた。そんななか、新右衛門の足取りは重い。件の辻斬りについて、今日も新たな報せが入ったのだ。
「薬研堀橋の傍で斬られた男、足が……なかったとか」
「どういうことだ」
「死体じゃなくて、幽霊ですよ。足のない女が、血の跡もないのにふわりと……消えたって」
怪談と現実のあわいに落ちたような話だった。藤吉が顔を引きつらせて口にしたその噂は、既に町の茶屋や酒場でも語られ始めている。中には“辻斬りの被害者が戻ってきた”とまで言う者もいた。
「幽霊に足がないのは常かも知れんが……斬られた場所が同じというのが気になるな」
夜が深まる前に、確かめておかねばならない。新右衛門は「明神そば」の前で足を止めた。
暖簾をくぐると、香ばしい出汁の匂いが鼻をくすぐる。中ではおせんが手ぬぐいで手を拭きながら客を見送っていた。
「あら、新右衛門さま。今夜はお蕎麦にしますか? それとも――」
「薬研堀橋へ行く。おまえ、ついて来るなよ」
「あら、橋の幽霊、見に行くんでしょう?」
おせんはあっけらかんと言う。気丈で、どこか抜けているようで、芯が強い。だが新右衛門にはわかっていた。彼女がこうして強がるのは、ただ心配だからだ。
「見物じゃない」
「じゃあ、私も見張りってことで」
「だめだ。辻斬りに遭ったらどうする」
「そしたら――今度こそ、あのお守りが効いてくれるかもね」
「もう、お守りは……持ってる」
「じゃあ、そのお守り、効くかどうか、試してきてくださいな」
言い終えると、おせんはくすりと笑って、湯桶を片づけに戻っていった。蕎麦屋では、蕎麦湯を湯桶(ゆとう)と呼ばれる容器に入れて提供されることが一般的で、江戸時代には丸型の湯桶が主流だった。
新右衛門は、何も言えず、ただその背中を見送った。
新右衛門が戸口を出て、夜の通りへと足を踏み出したときだった。
「待ってくださいまし」
静かな声が背後から追いかけてくる。振り返ると、提灯を手にしたおせんが、湯桶を片づけたはずの格好のまま、そそと立っていた。
「ひとりで試すなんて、危ないでしょう。私も一緒に行きます」
その瞳は真剣だった。新右衛門は一瞬戸惑いかけたが、やがて小さく頷いた。
「……ついて来るなとは、言えそうにないな」
そうして二人は並んで夜の道へと歩き出す。薬研堀橋へと続く薄暗い坂道に、提灯の灯りがふたつ、静かに揺れていた。
その夜、橋を離れた新右衛門たちは、店に戻る間も気が気でなかった。
「…この気持ち、どうしたものか」
おせんが不安そうに呟く。橋の女を案じての言葉に、新右衛門はそっと頷いた。
「おせんはよく見えなかったか?」
「ええ。霧で見えたのは…白い影がちらりと見えただけ。あの女が辻斬りと絡んでいるなんて、どうしてわかるんですか?」
新右衛門は遠く橋を思い浮かべ、言葉を選ぶ。
「あれは霊というより…辻斬りの“斬り損ない”に引きずられた怨念の残滓だった。橋の上で止まり、だけど足がない…あり得ない話だが」
おせんは不安げに眉を寄せた。
「怨念の“残滓”って、どういうこと?」
「刀で斬られた体の一部が消え…その“残人”が、魂だけで周りに引きずられて現れただけかもしれん」
――新右衛門は確信に酔うように、続けた。
「ただ、この残滓が毎夜戻ってきているなら…辻斬りがまだ生きているということだ。人を殺すつもりでやっているんじゃないのかもしれない」
そのとき、橋から響いたような“薄い霧音”に皆が息を呑んだ。
「また…ですか?」
藤吉が恐る恐る言う。
「いや、もう帰ろう」
新右衛門は即決した。直感が、事態は既に危険圏に入っていると告げていた。
翌朝。気配を消すように目覚めた新右衛門は、あの橋を再訪しようとしていたところだったが、店でおせんと出くわした。
「ごめんね、昨夜は心配かけて……でも、話せる人がいないと……」
おせんの声に心を揺らされながらも、新右衛門は決意を固めて答えた。
「あの橋の上にいるのは……怨念か何かじゃないかと思うんだ。俺一人じゃ見逃してしまうかもしれない。だから……教えてほしい」
「どういうことですか?」
おせんが真剣に見つめる。その瞳には恐怖が滲んでいた。
「霊とか霊的なものに詳しいわけではないが、おまえの存在はいつも俺の支えになる。どうか一緒に来てほしい」
おせんは一瞬息を飲んだが、すぐに小さく頷いた。
「わかりました、榊原様……怖いけど、手伝います」
二人はその夜、再び薬研堀橋へと向かった。
霧深い川面を見下ろす欄干に立つおせんは、初めて見る怪異に顔を青ざめさせたが、恐れるような仕草はしなかった。
「足のない女……消えた、って言いましたよね」
その問いに新右衛門は頷いた。
「ああ。今夜は……俺も見えなかったが、ただ何もないのにこの橋には異様な息苦しさが漂っている」
おせんはゆっくりと息を吸い込み、答えた。
「やっぱり……何かがいるってことですよね」
新右衛門はおせんの手をそっと握った。
「医者も役人も、この橋には用がない。しかし俺には使命がある。見届けなければならない。例え、斬らなくても…命を救うために。」
その言葉に、おせんはほんの少し笑ったが、その表情は震えていた。
「はい…でも、どうか無理はしないでくださいね」
新右衛門は腕を軽く振り解き、深く頷く。
大丈夫、絶対に…おまえを守るから」
そして橋に向かって歩き出す。石畳に小さく足音が響く。薬研堀の水の流れがざわめくなか、二人の影は静かにその先を見つめていた。
――夜の橋には、まだ何かが潜んでいる。
薄桃色に染まった空の下、町のざわめきも徐々に静まっていく。商家の帳が下ろされ、軒先では油紙の灯籠が揺れはじめていた。そんななか、新右衛門の足取りは重い。件の辻斬りについて、今日も新たな報せが入ったのだ。
「薬研堀橋の傍で斬られた男、足が……なかったとか」
「どういうことだ」
「死体じゃなくて、幽霊ですよ。足のない女が、血の跡もないのにふわりと……消えたって」
怪談と現実のあわいに落ちたような話だった。藤吉が顔を引きつらせて口にしたその噂は、既に町の茶屋や酒場でも語られ始めている。中には“辻斬りの被害者が戻ってきた”とまで言う者もいた。
「幽霊に足がないのは常かも知れんが……斬られた場所が同じというのが気になるな」
夜が深まる前に、確かめておかねばならない。新右衛門は「明神そば」の前で足を止めた。
暖簾をくぐると、香ばしい出汁の匂いが鼻をくすぐる。中ではおせんが手ぬぐいで手を拭きながら客を見送っていた。
「あら、新右衛門さま。今夜はお蕎麦にしますか? それとも――」
「薬研堀橋へ行く。おまえ、ついて来るなよ」
「あら、橋の幽霊、見に行くんでしょう?」
おせんはあっけらかんと言う。気丈で、どこか抜けているようで、芯が強い。だが新右衛門にはわかっていた。彼女がこうして強がるのは、ただ心配だからだ。
「見物じゃない」
「じゃあ、私も見張りってことで」
「だめだ。辻斬りに遭ったらどうする」
「そしたら――今度こそ、あのお守りが効いてくれるかもね」
「もう、お守りは……持ってる」
「じゃあ、そのお守り、効くかどうか、試してきてくださいな」
言い終えると、おせんはくすりと笑って、湯桶を片づけに戻っていった。蕎麦屋では、蕎麦湯を湯桶(ゆとう)と呼ばれる容器に入れて提供されることが一般的で、江戸時代には丸型の湯桶が主流だった。
新右衛門は、何も言えず、ただその背中を見送った。
新右衛門が戸口を出て、夜の通りへと足を踏み出したときだった。
「待ってくださいまし」
静かな声が背後から追いかけてくる。振り返ると、提灯を手にしたおせんが、湯桶を片づけたはずの格好のまま、そそと立っていた。
「ひとりで試すなんて、危ないでしょう。私も一緒に行きます」
その瞳は真剣だった。新右衛門は一瞬戸惑いかけたが、やがて小さく頷いた。
「……ついて来るなとは、言えそうにないな」
そうして二人は並んで夜の道へと歩き出す。薬研堀橋へと続く薄暗い坂道に、提灯の灯りがふたつ、静かに揺れていた。
その夜、橋を離れた新右衛門たちは、店に戻る間も気が気でなかった。
「…この気持ち、どうしたものか」
おせんが不安そうに呟く。橋の女を案じての言葉に、新右衛門はそっと頷いた。
「おせんはよく見えなかったか?」
「ええ。霧で見えたのは…白い影がちらりと見えただけ。あの女が辻斬りと絡んでいるなんて、どうしてわかるんですか?」
新右衛門は遠く橋を思い浮かべ、言葉を選ぶ。
「あれは霊というより…辻斬りの“斬り損ない”に引きずられた怨念の残滓だった。橋の上で止まり、だけど足がない…あり得ない話だが」
おせんは不安げに眉を寄せた。
「怨念の“残滓”って、どういうこと?」
「刀で斬られた体の一部が消え…その“残人”が、魂だけで周りに引きずられて現れただけかもしれん」
――新右衛門は確信に酔うように、続けた。
「ただ、この残滓が毎夜戻ってきているなら…辻斬りがまだ生きているということだ。人を殺すつもりでやっているんじゃないのかもしれない」
そのとき、橋から響いたような“薄い霧音”に皆が息を呑んだ。
「また…ですか?」
藤吉が恐る恐る言う。
「いや、もう帰ろう」
新右衛門は即決した。直感が、事態は既に危険圏に入っていると告げていた。
翌朝。気配を消すように目覚めた新右衛門は、あの橋を再訪しようとしていたところだったが、店でおせんと出くわした。
「ごめんね、昨夜は心配かけて……でも、話せる人がいないと……」
おせんの声に心を揺らされながらも、新右衛門は決意を固めて答えた。
「あの橋の上にいるのは……怨念か何かじゃないかと思うんだ。俺一人じゃ見逃してしまうかもしれない。だから……教えてほしい」
「どういうことですか?」
おせんが真剣に見つめる。その瞳には恐怖が滲んでいた。
「霊とか霊的なものに詳しいわけではないが、おまえの存在はいつも俺の支えになる。どうか一緒に来てほしい」
おせんは一瞬息を飲んだが、すぐに小さく頷いた。
「わかりました、榊原様……怖いけど、手伝います」
二人はその夜、再び薬研堀橋へと向かった。
霧深い川面を見下ろす欄干に立つおせんは、初めて見る怪異に顔を青ざめさせたが、恐れるような仕草はしなかった。
「足のない女……消えた、って言いましたよね」
その問いに新右衛門は頷いた。
「ああ。今夜は……俺も見えなかったが、ただ何もないのにこの橋には異様な息苦しさが漂っている」
おせんはゆっくりと息を吸い込み、答えた。
「やっぱり……何かがいるってことですよね」
新右衛門はおせんの手をそっと握った。
「医者も役人も、この橋には用がない。しかし俺には使命がある。見届けなければならない。例え、斬らなくても…命を救うために。」
その言葉に、おせんはほんの少し笑ったが、その表情は震えていた。
「はい…でも、どうか無理はしないでくださいね」
新右衛門は腕を軽く振り解き、深く頷く。
大丈夫、絶対に…おまえを守るから」
そして橋に向かって歩き出す。石畳に小さく足音が響く。薬研堀の水の流れがざわめくなか、二人の影は静かにその先を見つめていた。
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