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第四話「恋の護り火」
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夕闇迫る榊原邸の玄関先、新右衛門が式台に腰かけ、草履を整えていた。疲れの残る足を揺らしながら、ふいに「藤吉が来ました」との声が障子を越えて届く。中間の小平次だった。
新右衛門は草履を履き替えながら「わかった、すぐ行く」と返答し、障子をくぐって奥庭へと出た。
藤吉は挙動不審に辺りを見回しながら立っていた。
「旦那、何か、この辺、薄気味悪い感じがしやせんか? 夕暮れの市中ってもんじゃねぇ」
「そんな鬼瓦みてえな顔していても、幽霊は怖いのか?」
新右衛門は肩越しに皮肉を放ちつつも、自らの草履に視線を落とした。
「いや……旦那ぁ、幽霊云々より、あの橋のそばにいた気配がまだ残ってて……」
藤吉が震える声で答える。新右衛門は台所裏へと抜けていく。
奥庭を跨ぐようにして屋敷裏に出ると、そこから続く小路が、江戸の闇をゆるやかに呑みこみ始めていた。いつものように人通りはあるものの、薄暮の中に潜む気配は、どこかねじれた違和感を帯びている。
げん、と庭先を蹴ってしまいそうな勢いで歩く藤吉を前に、新右衛門は静かにつぶやいた。
「藤吉、すぐ――そこの角を曲がったら、『駒込の祠』に寄って、祈祷用の線香と護符を確保しておいてくれ。必要になるかもしれん」
藤吉はあっさり頷くと、藤の紋袴をキリリと整えて駆け出していった。
坂道を歩くうち、ふいに石畳に灯が溶け入った。
そこに、見覚えのある人物が立っていた。山伏姿の男──道明だ。
「道明! お前、江戸に舞い戻ってきやがったか。上方は生に会わなかったか?」
足を止めた道明は、穏やかながらも鋭い目で新右衛門を見据える。
「榊原殿……去年の二月、上方で留守を預かると言って出かけたはずなんでやすが……。色々と“噂”を耳にしましてな」
道明は袂を翻すと、小さな札束を取り出した。
「てめえが橋で出会ったアレ――この辺りにも飛び火するかと、不安でな」
札は不動明王の梵字が描かれ、山伏としての符術の象徴を宿していた。
新右衛門はその札に触れながら頷いた。
「ありがとな、道明。怪しげな霊が動き出してる。どうにも…ただの辻斬りじゃ済まなそうだ」
道明は黙って頷き、杖を一本取り出す。
「護符と呪い返しの準備が必要でしょう。今夜は――」
そのとき、おせんが駆け寄ってきた。
「旦那、お帰りなさい!」
いつもの気さくな声に、新右衛門の胸が少し緩んだ。だがすぐに強い視線が戻ってくる。おせんは、大きな陰気さに抗うように線香を真剣そうに差し出している。
「ありがとう、おせん」
いつもの口調より低い声だった。
火渡り橋の袂に差し掛かれば、周囲の気配が急に鋭くなる。子どもの笑い声が浮かぶようだったが、橋の上には無人だった。
橋をかすめて渡りきろうとしたそのとき、暗闇の向こうに――女の姿が。
先日の“足のない女”ではない。白い袖口だけがそっと揺れ、顔も全体像も見えない。それでも、深い悲しみが新右衛門の胸を締めつけた。
おせんが一歩叫ぼうとして、ひらりと立ち止まる。
「おせん……離れろ!」
その瞬間、女の霊は橙色の霧となって消え、代わりに喝だれの気配が、橋を清めた。
道明は符をどこから取り出しか、鐘の音を鳴らす。周囲の空気が一瞬洗われたように、透明になる。
藤吉は震えたまま、新右衛門に駆け寄る。
「旦那、あの……、こいつを見てはならない気がしました。深く悲しげで……何か、言いたげで……」
新右衛門は何も返さず、ただ橋を振り返った。
そこには、なにもなかった。
──ただ、ただ、闇が深まっているだけ。
そして、新右衛門は其処に、一つの固い決意を胸に宿した。
おせんを、護るために。辻斬りだけじゃなく、その呪いを断つために。
夕暮れ時の湯島聖堂裏、赤く染まる空がゆっくりと夜の帳に変わっていく。
「旦那、あれ、火じゃねぇですかい……?」
藤吉が小声で言った。視線の先、橋のたもとで揺れるように、灯りがひとつ、またひとつと現れていた。鬼火――。江戸の町に語り継がれる怪異の兆しだった。
新右衛門は言葉を飲み込む。橋の向こう、ひときわ強く光る炎の中に、女の影が立っていた。白い小袖に、濡れたような髪。……足が、ない。まるで宙に浮かぶように、女は橋を渡ってくる。
「……あれは、先日のおんな……」
囁くようにおせんが呟いた。藤吉は腰を抜かしかけ、石垣にしがみついている。
新右衛門は柄に手をかけたが、刀を抜けなかった。――斬っても意味がない。斬れぬものを、斬ろうとするのはただの無謀だった。
だが、そのとき、闇の向こうから、鋭い風が吹き抜けた。
「退けっ!」
低く唸るような声とともに、祓いの札が風を裂いて舞った。橋のたもとに山伏姿の男――道明が現れていた。
「おぬしら、無事か!」
「道明……! 戻ってきてたのか」
「ま、そういうことだ。あいかわらず、変なのに好かれてるな、おまえさんは」
道明の投じた札が女の霊の足元に落ちると、たしかに霊の姿がゆらぎ、霧のように橋の上からかき消えていった。
「……今のは、やっぱり足のない女か?」
新右衛門の問いに、道明は頷いた。
「断片だ。あれは“斬られた者の記憶”が、まだこの地に滞っている。あの橋、あの時間、あの姿……きっかけは何か、あるはずだ」
新右衛門はしばらく考え込んだ。斬られた女の亡霊が出る時間、そしてその場所……。
「もしかして、辻斬りに遭ったのか?」
「可能性は高い。だが、“刀”が何かを抱えているのかもしれぬ。ただの人斬りではない」
道明の声は重い。まるで霧のようにまとわりつく気配が、どこか別の力を示しているようだった。
その夜、新右衛門は眠れなかった。
おせんもまた、店の裏手で一人、提灯の火を見つめていた。
「……死んだ人の声が、聞こえたことはないけれど、あのときだけは……女の人が、“わたしはここにいる”って……」
その言葉が、どこか新右衛門の胸の奥に刺さった。
翌朝。
道明は霊雲寺の天明和尚を訪ねていた。
「例の辻斬り、どうやら刀が祟っているようで」
「ふむ……妖刀、ということか?」
和尚は目を細めた。棚の奥から、古びた巻物を一つ取り出す。
「“人を斬ることで魂を喰う”……そういう性質をもった刀が、かつてあったそうじゃ。おそらく、それに近いものだろうな」
道明は巻物を覗き込みながら、軽く頷いた。
「となれば、斬られた者の怨念も、刀の中に留まる……足のない女も、その一人というわけか」
そのとき、寺の門が開いた。
新右衛門が、静かに姿を見せた。
「……その刀。どうすれば、止められる?」
「“影切りの刀”を使うしかあるまいな。ただし、それだけでは霊を救えん」
和尚は、巻物をとじる。
「成仏には、別の方法が必要じゃ。おせんの護符――いや、“恋符”が関わってくるやもしれん」
新右衛門の目がわずかに揺れた。
「おせん……?」
和尚は、目を細める。
「お主に渡した符は、二つあったろう?」
新右衛門は、懐の中に手を入れ、小さな袋を取り出した。
一つは身代わりの護符。そしてもう一つは――
「思う者に持たせることで願いが成る符じゃ。あの娘の願いが、いずれお主を守る日が来るかもしれぬぞ」
その日、風はまだ冷たかったが、新右衛門の胸の奥に、なにかあたたかいものが灯るのを感じていた。
――おせんが、くれたもの。
ただの恋ではない。命をかけて、想ってくれていたという事実が。
辻斬り事件はまだ終わっていなかったが、新右衛門の歩みは、少しだけ軽くなっていた。
新右衛門は草履を履き替えながら「わかった、すぐ行く」と返答し、障子をくぐって奥庭へと出た。
藤吉は挙動不審に辺りを見回しながら立っていた。
「旦那、何か、この辺、薄気味悪い感じがしやせんか? 夕暮れの市中ってもんじゃねぇ」
「そんな鬼瓦みてえな顔していても、幽霊は怖いのか?」
新右衛門は肩越しに皮肉を放ちつつも、自らの草履に視線を落とした。
「いや……旦那ぁ、幽霊云々より、あの橋のそばにいた気配がまだ残ってて……」
藤吉が震える声で答える。新右衛門は台所裏へと抜けていく。
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げん、と庭先を蹴ってしまいそうな勢いで歩く藤吉を前に、新右衛門は静かにつぶやいた。
「藤吉、すぐ――そこの角を曲がったら、『駒込の祠』に寄って、祈祷用の線香と護符を確保しておいてくれ。必要になるかもしれん」
藤吉はあっさり頷くと、藤の紋袴をキリリと整えて駆け出していった。
坂道を歩くうち、ふいに石畳に灯が溶け入った。
そこに、見覚えのある人物が立っていた。山伏姿の男──道明だ。
「道明! お前、江戸に舞い戻ってきやがったか。上方は生に会わなかったか?」
足を止めた道明は、穏やかながらも鋭い目で新右衛門を見据える。
「榊原殿……去年の二月、上方で留守を預かると言って出かけたはずなんでやすが……。色々と“噂”を耳にしましてな」
道明は袂を翻すと、小さな札束を取り出した。
「てめえが橋で出会ったアレ――この辺りにも飛び火するかと、不安でな」
札は不動明王の梵字が描かれ、山伏としての符術の象徴を宿していた。
新右衛門はその札に触れながら頷いた。
「ありがとな、道明。怪しげな霊が動き出してる。どうにも…ただの辻斬りじゃ済まなそうだ」
道明は黙って頷き、杖を一本取り出す。
「護符と呪い返しの準備が必要でしょう。今夜は――」
そのとき、おせんが駆け寄ってきた。
「旦那、お帰りなさい!」
いつもの気さくな声に、新右衛門の胸が少し緩んだ。だがすぐに強い視線が戻ってくる。おせんは、大きな陰気さに抗うように線香を真剣そうに差し出している。
「ありがとう、おせん」
いつもの口調より低い声だった。
火渡り橋の袂に差し掛かれば、周囲の気配が急に鋭くなる。子どもの笑い声が浮かぶようだったが、橋の上には無人だった。
橋をかすめて渡りきろうとしたそのとき、暗闇の向こうに――女の姿が。
先日の“足のない女”ではない。白い袖口だけがそっと揺れ、顔も全体像も見えない。それでも、深い悲しみが新右衛門の胸を締めつけた。
おせんが一歩叫ぼうとして、ひらりと立ち止まる。
「おせん……離れろ!」
その瞬間、女の霊は橙色の霧となって消え、代わりに喝だれの気配が、橋を清めた。
道明は符をどこから取り出しか、鐘の音を鳴らす。周囲の空気が一瞬洗われたように、透明になる。
藤吉は震えたまま、新右衛門に駆け寄る。
「旦那、あの……、こいつを見てはならない気がしました。深く悲しげで……何か、言いたげで……」
新右衛門は何も返さず、ただ橋を振り返った。
そこには、なにもなかった。
──ただ、ただ、闇が深まっているだけ。
そして、新右衛門は其処に、一つの固い決意を胸に宿した。
おせんを、護るために。辻斬りだけじゃなく、その呪いを断つために。
夕暮れ時の湯島聖堂裏、赤く染まる空がゆっくりと夜の帳に変わっていく。
「旦那、あれ、火じゃねぇですかい……?」
藤吉が小声で言った。視線の先、橋のたもとで揺れるように、灯りがひとつ、またひとつと現れていた。鬼火――。江戸の町に語り継がれる怪異の兆しだった。
新右衛門は言葉を飲み込む。橋の向こう、ひときわ強く光る炎の中に、女の影が立っていた。白い小袖に、濡れたような髪。……足が、ない。まるで宙に浮かぶように、女は橋を渡ってくる。
「……あれは、先日のおんな……」
囁くようにおせんが呟いた。藤吉は腰を抜かしかけ、石垣にしがみついている。
新右衛門は柄に手をかけたが、刀を抜けなかった。――斬っても意味がない。斬れぬものを、斬ろうとするのはただの無謀だった。
だが、そのとき、闇の向こうから、鋭い風が吹き抜けた。
「退けっ!」
低く唸るような声とともに、祓いの札が風を裂いて舞った。橋のたもとに山伏姿の男――道明が現れていた。
「おぬしら、無事か!」
「道明……! 戻ってきてたのか」
「ま、そういうことだ。あいかわらず、変なのに好かれてるな、おまえさんは」
道明の投じた札が女の霊の足元に落ちると、たしかに霊の姿がゆらぎ、霧のように橋の上からかき消えていった。
「……今のは、やっぱり足のない女か?」
新右衛門の問いに、道明は頷いた。
「断片だ。あれは“斬られた者の記憶”が、まだこの地に滞っている。あの橋、あの時間、あの姿……きっかけは何か、あるはずだ」
新右衛門はしばらく考え込んだ。斬られた女の亡霊が出る時間、そしてその場所……。
「もしかして、辻斬りに遭ったのか?」
「可能性は高い。だが、“刀”が何かを抱えているのかもしれぬ。ただの人斬りではない」
道明の声は重い。まるで霧のようにまとわりつく気配が、どこか別の力を示しているようだった。
その夜、新右衛門は眠れなかった。
おせんもまた、店の裏手で一人、提灯の火を見つめていた。
「……死んだ人の声が、聞こえたことはないけれど、あのときだけは……女の人が、“わたしはここにいる”って……」
その言葉が、どこか新右衛門の胸の奥に刺さった。
翌朝。
道明は霊雲寺の天明和尚を訪ねていた。
「例の辻斬り、どうやら刀が祟っているようで」
「ふむ……妖刀、ということか?」
和尚は目を細めた。棚の奥から、古びた巻物を一つ取り出す。
「“人を斬ることで魂を喰う”……そういう性質をもった刀が、かつてあったそうじゃ。おそらく、それに近いものだろうな」
道明は巻物を覗き込みながら、軽く頷いた。
「となれば、斬られた者の怨念も、刀の中に留まる……足のない女も、その一人というわけか」
そのとき、寺の門が開いた。
新右衛門が、静かに姿を見せた。
「……その刀。どうすれば、止められる?」
「“影切りの刀”を使うしかあるまいな。ただし、それだけでは霊を救えん」
和尚は、巻物をとじる。
「成仏には、別の方法が必要じゃ。おせんの護符――いや、“恋符”が関わってくるやもしれん」
新右衛門の目がわずかに揺れた。
「おせん……?」
和尚は、目を細める。
「お主に渡した符は、二つあったろう?」
新右衛門は、懐の中に手を入れ、小さな袋を取り出した。
一つは身代わりの護符。そしてもう一つは――
「思う者に持たせることで願いが成る符じゃ。あの娘の願いが、いずれお主を守る日が来るかもしれぬぞ」
その日、風はまだ冷たかったが、新右衛門の胸の奥に、なにかあたたかいものが灯るのを感じていた。
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