〈影咒記(EIJUKI)〉江戸咒譚 第一篇 ― 明神恋咒変(みょうじんれんじゅへん) ―

ukon osumi

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第八話「声を遺して」

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 神田明神裏手の橋。その上に、今宵も霧が流れていた。
 川面から立ち昇る白い気が、まるで亡者の嘆きのように、ゆらゆらと揺れていた。提灯を手にした新右衛門は、静かに橋を渡りながら、辺りに気を張っていた。その傍には、風も水も感じぬまま佇む、おせんの姿がある。夜更け、霊だけが生きる刻――“見える”存在となったおせんの眼が、何かを探していた。
「……来ませんね」
 ぽつりと、おせんが言う。その声音には、どこか安堵と不安が混じっていた。
「出ない方が、よかろう」
 新右衛門は低く呟いたが、その手は影斬り刀の柄に自然と伸びていた。未だ一度も斬ったことのない“霊”という存在。その恐ろしさは、未知であるがゆえに深い。
「でも、あの声……まだ、聞こえるんです」
 おせんは橋の上、夜気に耳を澄ませるようにして立ち止まった。
 ――しゃらん……しゃらん……
 かすかに、鈴の音が響いた。橋の下から、否、何処からともなく湧くようにして。
 そして、見えた。
 白い霧の中から、ゆらりと浮かぶ影。それは、髪を垂らし、白い小袖をまとった女の姿だった。だが、足がない。まるで橋の上を滑るように、女はこちらに向かっていた。
「……また、出たな」
 新右衛門が影斬り刀に手をかけると、おせんがすっと彼の袖をつかんだ。
「待って……斬らないで。……この人は、怒っていない」
「なに?」
「ただ、泣いてる……助けを、求めてる」
 おせんの声は真摯だった。新右衛門は影斬り刀から手を離し、橋の中央へと足を進める。だが、女の霊はまた、すうと霧と共に姿を消していった。
「まるで……跡を残さない」
 呆然と立ち尽くす新右衛門の背に、おせんの声が重なった。
「声だけは……残ってます。『あの男が、斬った』って……」
 その瞬間、新右衛門の背筋に氷のような感触が走った。
 辻斬り――妖刀に取り憑かれたあの男が、この女を斬ったのだ。

  翌日、霊雲寺。天明和尚は、古い巻物を前に額に皺を刻んでいた。
「成仏させる儀式じゃと……。ただ斬ればよいというものではない」
「斬っても、霊は消えるだけで成仏はしない……。影切りの刀も……“送る”ためのものではないのだな」
 新右衛門の問いに、和尚は静かに頷いた。
「魂を救うには、霊の“叫び”を聞かねばならん。願いを汲み、心を解き、そして結び直す。おせんどの、霊の声を聞くことはできるか?」
 おせんは頷いた。
「はい。……でも、それは、胸が裂けるような声です」
 天明和尚は目を閉じた。
「ならば、やるしかない。我らの務めよ」
 その言葉に、新右衛門は静かに拳を握る。
「どこで儀式を?」
「橋の上じゃ。あの霊が現れる、その場所にこそ、魂の結び目がある」

 その夜――再び、神田明神裏の橋。
 竹の結界が張られ、五芒星が描かれた紙が橋の四隅に据えられていた。和尚は低く経を唱え、火皿にくべた香が、淡い煙を立てていた。
「……来るわ」
 おせんが言った。
 霧が、濃くなった。闇が震え、女の姿が浮かび上がった。今度は、はっきりと見えた。顔は泣き腫らし、白粉のような白い肌がかすかに光っている。だが、その唇は動かず、声だけが、響いてきた。
 ――なぜ、わたしを……
 ――帰りたかった……
 ――あの人に、会いたかった……
 おせんの目から、涙がこぼれた。
「……この人、誰かを……待ってたんです……」
 和尚が頷き、手を合わせる。
「魂よ、願いを解き放て。憤りを、捨て去り、ただ、在れ」
 だが――。
 そのとき、女の霊が突然苦悶の表情に変わった。
 ――斬られた。背から――いきなり……
 ――黒い刃……白刃ではない……血が、出ない……
 そして、女は叫んだ。
 ――まだ、あの刀が、町にある……!
「新右衛門どの! これは……!」
 和尚の言葉に、新右衛門は頷いた。
「まだ、“何か”がこの町に生きている」
 女の霊は、再び霧とともに消えた。儀式は、失敗だったのか。それとも、叫びを伝えるためだったのか。
「おせん。聞こえたか?」
「……はい。でも、終わっていません。この人……まだ、行けてない」
 風が、冷たく吹いた。
 その音は、まるで「剣の唸り」のようだった。

 風が変わった。 
 霊雲寺の境内に、どこからともなく冷たい気が漂ってくる。蝋燭の火が、ゆら、と揺れた。新右衛門は静かに影斬り刀の柄に手を添えたが、抜くつもりはなかった。それは“斬る”ためではない。“怯え”を隠すための所作に過ぎない。
 天明和尚の唱える経文が本堂に満ちていた。香煙は高く上がり、おせんの姿は、和尚のすぐ傍らに佇んでいる。彼女は背筋を伸ばし、まるでこの場の一員として当然のように儀式に加わっていた。 
「……現れます、ぞ」
 道明の低い声が響いたとき、境内の中央、結界をなす塩の円の中に、一陣の霧が立ち上った。その中から、女の姿が現れる――片袖をはだけた遊女の装い。肌は青白く、髪は乱れ、唇からは血のような赤が垂れていた。
 その足元は、やはり……なかった。
「……あの橋で……あたしを……呼んだのは……だれ……?」
 女の霊の声は、風のようにかすれていた。だが、確かに聞こえる。新右衛門は静かに一歩踏み出し、背後からおせんがその袖をそっと掴んだ。
「新右衛門様……あの方、まだ、何か……」
 女の霊は、天明和尚の声に反応するように首を傾けたが、次の瞬間、ぎし、と骨が軋むような音を立てて顔を歪めた。
「違う……違う……あたし、待ってたの……待ってたのに……!」
 女の霊が叫ぶと、結界が軋んだ。円の外にまで瘴気が及び、影斬り刀の柄が勝手に熱を帯びる。
 新右衛門は足を踏ん張り、霊に声をかける。
「……待っていたのは……誰だ?」
 女の霊は、はっとして、その目を新右衛門に向けた。赤く濁った眼に、何かが宿った。
「……あの人……あの人が、来るって……“あの夜”に、来るって……信じてたのに……!」
 “あの夜”。それが、辻斬りに斬られた夜か。
 おせんがぽつりと言った。
「……その人は……来なかったんですね」
 女の霊は唇を噛み、首を左右に振った。
「違う……来てた……でも、私の声、届かなかった……! 私、そこで――」
 女の声が悲鳴に変わる。
「そこで……斬られたの! 誰かが……刀を振り上げて……!」
 霊の身体が膨張し、髪が逆立ち、口が耳まで裂けるように開いた。怨念が臨界に達している――新右衛門は、即座に影斬り刀の柄から手を離した。
 斬ってはいけない。滅してしまえば、何も残らない。そう、道明が言っていた。
「おせん!」
 新右衛門の呼びかけに、おせんが前に出る。彼女の表情は恐れよりも、悲しみに満ちていた。
「――聞こえますか」
 おせんは、女の霊に向けて語りかける。
「あなたの声、私たちが……受け取りました。ずっと、ずっと、誰にも届かなかったんですね。でも……今は、違う。もう……ひとりじゃ、ない」
 霊の身体が、少しだけ、震えた。
「私たちは、あなたが叫び続けてきた、その想いを……忘れません。だから、どうか」
 そのとき、天明和尚が経を一際強く唱え、結界の灯が一つ、強く燃え上がる。霊の身体から、黒い煙が抜け出すように立ち昇り、女の姿が少しずつ、輪郭を失っていく。
 霊の唇が、動いた。
「……ありがとう」
 その言葉だけを残し、女の霊は静かに、霧と共に消えていった。
 境内の空気が、ふっと軽くなる。風が流れ、灯明の火が揺れる。結界の塩が風に散り、白い線はあとかたもなくなった。
 おせんがそっと目を閉じる。
「声が……消えました」
 新右衛門は、影斬り刀の柄から手を離し、深く息を吐いた。未だ胸の奥に渦巻くものがあった。――救えたのか? 滅したのではないか? 
 天明和尚が、静かに言った。
「声は、届いた。だが、残るものもある」
 「残るもの……?」
「願いは、成仏をもってしても、すべて癒えるわけではない。けれど、聞かれた声は、確かに“ここ”に残るのだ」
 和尚は胸元を指差した。
 新右衛門は、言葉に詰まったまま、空を見上げた。
 そこには、何もなかった。ただ、夜の闇が静かに広がっているだけだった。
 しかし、不思議とその闇は、怖くなかった。
 ――その夜、おせんは一言も喋らず、新右衛門の傍に寄り添っていた。
 まるで、自分の言葉もまた、誰かに届くよう願っているかのように。

 霊雲寺の本堂には、ふだんより多くの蝋燭が灯されていた。天明和尚の経文が低く、重く響く。新右衛門は堂内の奥、結界の外に立ち、影斬り刀を脇に置いた。斬るために来たのではない。送るために、ここにいる。
 塩で描かれた円の中心に、遊女の霊が姿を現す。絹のような髪が濡れ、脚は足首から先がなかった。夜霧をまとい、虚空をさまようように漂っている。
 和尚が唱える声に重ねるように、おせんが霊に話しかける。
「あなたのことを、私たちは知りました。誰にも気づかれず、声も届かず、闇の中にいたあなたのことを……」
 霊の顔がわずかに揺れる。
「きっと、誰かを……待っていたんですね。迎えに来るはずだった、その人を」
 その瞬間、霊の目が見開かれた。
「……来なかった。あの人、来なかったの」
 声は、涙のように震えていた。おせんは一歩、霊へ近づく。
「それでも、あなたは待ち続けた。その想いは、ここに届いています。もう、ひとりじゃない」
 結界の塩が風に舞い、霊の周囲をゆっくり回る。天明和尚がさらに一節を唱え上げると、霊の身体から黒い瘴気が抜け始めた。
 霊の姿が、少しずつ、透明になっていく。
「……ありがとう」
 最後にそう言い残して、霊は空へと還っていった。
 静寂のあと、風がふわりと境内を吹き抜けた。塩の輪は消え、蝋燭の灯がふたつ、ふっと消えた。
 新右衛門は黙ったまま、影斬り刀に手を伸ばすことなく、それを見つめていた。
 おせんが隣に立ち、そっと口を開いた。
「声が……届いたんですね」
「……いや、届いたのは俺たちのほうかもしれん」
 新右衛門はそう答えながらも、確かに胸の奥で、何かがほどけていくのを感じていた。
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