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第七話「泣く剣」
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雨が上がったばかりの朝、瓦の先に残る雫が、ぽたりと石畳に落ちる。その音だけが、ひどく耳につくように感じられた。
榊原新右衛門は、湯島からの帰路、無意識に足を薬研堀橋の方へ向けていた。夜ごとに続く辻斬り。人を斬るというより、「見れば斬る」――そんな異様な気配に、新右衛門自身も戸惑いを覚えていた。
「……刀が、勝手に斬るだと?」
それが昨夜、道明がぽつりと漏らした言葉だった。新右衛門の頭の中では、それがぐるぐると巡っていた。
おせんの死から、まだ日も浅い。
だがその姿は、今も彼の傍らにあった。
「新右衛門様」
ふと声がする。視線を横にやると、おせんが歩いていた。町娘と変わらぬ風貌、白無垢にも似た着物を着てはいたが、足元には影がない――それだけが、彼女がもはや生者ではない証だった。
「……無理をして、出歩かなくともいい」
「無理なんかしてません。わたし、気になってるんです。あの刀……ただの人斬りじゃない」
おせんの声は、風に乗って耳に柔らかく届いた。
その時だった。近くの長屋から、喧噪が上がる。
「まただ! また人が斬られた!」
新右衛門は駆け出した。通りの先、肩口を斬られ、倒れている男。その顔は土気色で、血は既に止まっていた。まるで命の炎そのものが刀に吸われたようだった。
「これで三人目だな……」
後ろから、道明の声が聞こえた。山伏姿に身を包み、手に持つ錫杖の先を鳴らしながら歩いてくる。
「道明、どういうことだ? 人斬りが霊に取り憑かれてるとでも?」
「いや……違う。あの刀そのものが妖になっておる。刀に、魂がある。しかも、恨みの深い魂だ」
新右衛門は、目を細めた。
「なら、持ち主が誰であれ、刀が人を斬ると?」
「うむ。見れば斬る。“視た”だけで、刀が命を求める。まるで、妖のようにな」
道明は懐から和紙を取り出した。そこには、昨夜新たに記した符がいくつも貼られていた。
「この符……普通の刀には効かぬ。だが、“霊”の気配がある刀には反応する」
道明はその一枚を、斬られた男の傍にかざした。
符が、かすかに揺れた。
「……やはりな。霊気が残っている。この男に恨みがあったわけではない。ただ――“見られた”から、斬られた」
おせんが震えるように言った。
「じゃあ、わたしが斬られたのも……そういうことだったんですか?」
新右衛門は言葉を失った。
道明は静かにうなずく。
「それゆえに、“刀を封じる”しかない。持ち主も、霊も、まとめてな……だが、手段が足りぬ。お主の刀は、刃引きされたままでは、霊を斬れぬ。霊術を施す必要がある」
「……“影を斬る”ということか?」
「そう。“影切りの刀”を打つしかあるまい。わしの術で、刃引きされた刀に、霊を断つ力を宿らせよう」
新右衛門は、自らの腰にある刀を見た。父・伝衛門の形見の一振りだった。
「本当に……霊を斬ることでしか、止められぬのか?」
「今のところ、それが最善。ただ、霊を“成仏”させるのは、また別の話。それは和尚の仕事だ」
おせんが、目を伏せる。
「……斬られるしかない霊が、可哀想」
その言葉に、新右衛門は、深く頷いた。
――この刀が、泣いている。
そう感じた。夜にうごめく殺気。誰かが操っているのではない。ただ、刀が“望んで”斬っている。それは剣を知る者なら、すぐに理解できる異質な感覚だった。
道明は言った。
「明晩、霊雲寺で儀式を行う。お主の刀を、影切りの刀へと変えるために」
新右衛門は、おせんと目を合わせた。
彼女の瞳の奥に、確かな決意が宿っていた。
「必ず……あの刀を止める。それが、あんたのために、できることだから」
新右衛門は、彼女に言った。
「――おまえが斬られたこと、まだ許せてはいない。だが、あの刀が、おまえの命を奪ったのなら、俺は……この手で、終わらせる」
夜の帳が落ち始めていた。
だが、明日という日が、確かな決着の夜になると、誰もが感じていた――。
夜が深まるにつれ、江戸の町は静けさを取り戻していた。だがその静寂は、安らぎではなく、どこか押し殺した怨嗟のような重さを孕んでいた。榊原新右衛門は、霊雲寺の本堂の縁側に腰を下ろし、柄に手を添えたまま、膝の上に置かれた己の刀を見つめていた。
その刀は、今まさに新たな役目を担おうとしていた――影切りの刀。
道明は本堂の中に籠り、霊符と祭具を使って儀式の準備をしている。障子の向こうからは、時折、鈴の音と呪の声が混じって聞こえてきた。天明和尚も奥に入ってからは姿を見せず、寺内にはただ、蝋燭の明かりと焚香の煙が満ちていた。
おせんの霊は、縁側の反対側に座っていた。白無垢にも似た着物姿は夜の空気に溶け込むようで、だがその存在は不思議と温かみを帯びていた。
「……この刀で、本当に霊を斬れるのですか?」
おせんの声は静かだった。新右衛門は短く頷いた。
「道明の術がうまくいけば、だがな。霊を斬っても、救うことはできん。成仏させるには、和尚の力が要る。だが……まずは止めねばならぬ」
「はい……」
おせんは俯いた。新右衛門はふと、彼女の足元を見た。影が、やはりそこにはなかった。だが、新右衛門の目には、彼女の存在ははっきりと映っていた。どこまでも、町娘のおせんのままで。
「おれの目に、おまえが見える理由……それも、和尚が解いてくれるだろう」
「……恋符の、せいですね」
おせんは小さく笑った。
「“死んでも一緒にいられる符”……そんなの、わたし、お願いしてませんのに」
「おれも、受け取った覚えはねぇんだがな」
二人は笑い合った。束の間の会話は、今までにないほど穏やかだった。
だが、そこに――
「旦那ぁ!」
息を切らせて、藤吉が飛び込んできた。鬼瓦のような顔が、焦りと恐怖に歪んでいる。
「また、出ましたぜ。橋の袂で、誰かが斬られたって!」
「どこの橋だ」
「……薬研堀橋です!」
その名を聞いた瞬間、新右衛門の体は自然と立ち上がっていた。おせんもまた、表情を引き締めていた。
「道明!」
新右衛門が声を張ると、障子がぴしゃりと開き、白装束の道明が現れた。手には、完成したばかりの影切りの刀を包む布を抱えていた。
「……行くか」
「行く」
夜の薬研堀橋に、濃い霧が立ちこめていた。提灯の明かりが、まるで水中に沈んだように、ぼんやりと揺れている。倒れていたのは町人風の男。目は見開かれたままで、胸元に一筋の血の線――いや、それすら浅い。命そのものが、吸い取られていた。
「気をつけろ、新右衛門。あの刀は、人の姿を借りて彷徨っている。次に来るのは……」
言葉の終わらぬうちに、風が止んだ。
そして、現れた。
男の姿をした何か。顔は見えない。だが、右手には一振りの妖しく光る刀。抜かれた刃からは、ほのかに煙のようなものが立ちのぼっていた。
「……来たか」
新右衛門は、影切りの刀を構えた。道明がうなずく。
「この一撃で、霊を断て。刀の“影”を、消せ」
妖刀を持つ男が動いた。音もなく、霧の中を滑るように。
新右衛門は正面から受けた。鋭い金属音――だが、実体のないもの同士の斬り合いは、誰の目にも映らなかった。霊が、霊を斬る。影が、影を斬る。
やがて、刀の霊が呻いた。霧が震え、闇が揺らぐ。
そして――影切りの刀が、妖刀の霊を裂いた。
一瞬、妖刀が甲高く泣いたように鳴った。
霧の中に、何かが消える音がした。
男の姿も、刀も、跡形もなく。
新右衛門は息を吐いた。
「……終わった、のか」
おせんが、そっと新右衛門の背に手を置いた。
「まだ、魂は残っています。だけど……もう、斬られる人はいない」
道明が、静かに言った。
「この先は、和尚の務めだ。儀式をもって、霊を送らねばならぬ」
提灯の明かりが少しだけ明るくなった。霧は、少しずつ晴れていった。薬研堀橋の水面に、月が揺れていた。
この夜、江戸の町に泣く刀の音が消えた――。
榊原新右衛門は、湯島からの帰路、無意識に足を薬研堀橋の方へ向けていた。夜ごとに続く辻斬り。人を斬るというより、「見れば斬る」――そんな異様な気配に、新右衛門自身も戸惑いを覚えていた。
「……刀が、勝手に斬るだと?」
それが昨夜、道明がぽつりと漏らした言葉だった。新右衛門の頭の中では、それがぐるぐると巡っていた。
おせんの死から、まだ日も浅い。
だがその姿は、今も彼の傍らにあった。
「新右衛門様」
ふと声がする。視線を横にやると、おせんが歩いていた。町娘と変わらぬ風貌、白無垢にも似た着物を着てはいたが、足元には影がない――それだけが、彼女がもはや生者ではない証だった。
「……無理をして、出歩かなくともいい」
「無理なんかしてません。わたし、気になってるんです。あの刀……ただの人斬りじゃない」
おせんの声は、風に乗って耳に柔らかく届いた。
その時だった。近くの長屋から、喧噪が上がる。
「まただ! また人が斬られた!」
新右衛門は駆け出した。通りの先、肩口を斬られ、倒れている男。その顔は土気色で、血は既に止まっていた。まるで命の炎そのものが刀に吸われたようだった。
「これで三人目だな……」
後ろから、道明の声が聞こえた。山伏姿に身を包み、手に持つ錫杖の先を鳴らしながら歩いてくる。
「道明、どういうことだ? 人斬りが霊に取り憑かれてるとでも?」
「いや……違う。あの刀そのものが妖になっておる。刀に、魂がある。しかも、恨みの深い魂だ」
新右衛門は、目を細めた。
「なら、持ち主が誰であれ、刀が人を斬ると?」
「うむ。見れば斬る。“視た”だけで、刀が命を求める。まるで、妖のようにな」
道明は懐から和紙を取り出した。そこには、昨夜新たに記した符がいくつも貼られていた。
「この符……普通の刀には効かぬ。だが、“霊”の気配がある刀には反応する」
道明はその一枚を、斬られた男の傍にかざした。
符が、かすかに揺れた。
「……やはりな。霊気が残っている。この男に恨みがあったわけではない。ただ――“見られた”から、斬られた」
おせんが震えるように言った。
「じゃあ、わたしが斬られたのも……そういうことだったんですか?」
新右衛門は言葉を失った。
道明は静かにうなずく。
「それゆえに、“刀を封じる”しかない。持ち主も、霊も、まとめてな……だが、手段が足りぬ。お主の刀は、刃引きされたままでは、霊を斬れぬ。霊術を施す必要がある」
「……“影を斬る”ということか?」
「そう。“影切りの刀”を打つしかあるまい。わしの術で、刃引きされた刀に、霊を断つ力を宿らせよう」
新右衛門は、自らの腰にある刀を見た。父・伝衛門の形見の一振りだった。
「本当に……霊を斬ることでしか、止められぬのか?」
「今のところ、それが最善。ただ、霊を“成仏”させるのは、また別の話。それは和尚の仕事だ」
おせんが、目を伏せる。
「……斬られるしかない霊が、可哀想」
その言葉に、新右衛門は、深く頷いた。
――この刀が、泣いている。
そう感じた。夜にうごめく殺気。誰かが操っているのではない。ただ、刀が“望んで”斬っている。それは剣を知る者なら、すぐに理解できる異質な感覚だった。
道明は言った。
「明晩、霊雲寺で儀式を行う。お主の刀を、影切りの刀へと変えるために」
新右衛門は、おせんと目を合わせた。
彼女の瞳の奥に、確かな決意が宿っていた。
「必ず……あの刀を止める。それが、あんたのために、できることだから」
新右衛門は、彼女に言った。
「――おまえが斬られたこと、まだ許せてはいない。だが、あの刀が、おまえの命を奪ったのなら、俺は……この手で、終わらせる」
夜の帳が落ち始めていた。
だが、明日という日が、確かな決着の夜になると、誰もが感じていた――。
夜が深まるにつれ、江戸の町は静けさを取り戻していた。だがその静寂は、安らぎではなく、どこか押し殺した怨嗟のような重さを孕んでいた。榊原新右衛門は、霊雲寺の本堂の縁側に腰を下ろし、柄に手を添えたまま、膝の上に置かれた己の刀を見つめていた。
その刀は、今まさに新たな役目を担おうとしていた――影切りの刀。
道明は本堂の中に籠り、霊符と祭具を使って儀式の準備をしている。障子の向こうからは、時折、鈴の音と呪の声が混じって聞こえてきた。天明和尚も奥に入ってからは姿を見せず、寺内にはただ、蝋燭の明かりと焚香の煙が満ちていた。
おせんの霊は、縁側の反対側に座っていた。白無垢にも似た着物姿は夜の空気に溶け込むようで、だがその存在は不思議と温かみを帯びていた。
「……この刀で、本当に霊を斬れるのですか?」
おせんの声は静かだった。新右衛門は短く頷いた。
「道明の術がうまくいけば、だがな。霊を斬っても、救うことはできん。成仏させるには、和尚の力が要る。だが……まずは止めねばならぬ」
「はい……」
おせんは俯いた。新右衛門はふと、彼女の足元を見た。影が、やはりそこにはなかった。だが、新右衛門の目には、彼女の存在ははっきりと映っていた。どこまでも、町娘のおせんのままで。
「おれの目に、おまえが見える理由……それも、和尚が解いてくれるだろう」
「……恋符の、せいですね」
おせんは小さく笑った。
「“死んでも一緒にいられる符”……そんなの、わたし、お願いしてませんのに」
「おれも、受け取った覚えはねぇんだがな」
二人は笑い合った。束の間の会話は、今までにないほど穏やかだった。
だが、そこに――
「旦那ぁ!」
息を切らせて、藤吉が飛び込んできた。鬼瓦のような顔が、焦りと恐怖に歪んでいる。
「また、出ましたぜ。橋の袂で、誰かが斬られたって!」
「どこの橋だ」
「……薬研堀橋です!」
その名を聞いた瞬間、新右衛門の体は自然と立ち上がっていた。おせんもまた、表情を引き締めていた。
「道明!」
新右衛門が声を張ると、障子がぴしゃりと開き、白装束の道明が現れた。手には、完成したばかりの影切りの刀を包む布を抱えていた。
「……行くか」
「行く」
夜の薬研堀橋に、濃い霧が立ちこめていた。提灯の明かりが、まるで水中に沈んだように、ぼんやりと揺れている。倒れていたのは町人風の男。目は見開かれたままで、胸元に一筋の血の線――いや、それすら浅い。命そのものが、吸い取られていた。
「気をつけろ、新右衛門。あの刀は、人の姿を借りて彷徨っている。次に来るのは……」
言葉の終わらぬうちに、風が止んだ。
そして、現れた。
男の姿をした何か。顔は見えない。だが、右手には一振りの妖しく光る刀。抜かれた刃からは、ほのかに煙のようなものが立ちのぼっていた。
「……来たか」
新右衛門は、影切りの刀を構えた。道明がうなずく。
「この一撃で、霊を断て。刀の“影”を、消せ」
妖刀を持つ男が動いた。音もなく、霧の中を滑るように。
新右衛門は正面から受けた。鋭い金属音――だが、実体のないもの同士の斬り合いは、誰の目にも映らなかった。霊が、霊を斬る。影が、影を斬る。
やがて、刀の霊が呻いた。霧が震え、闇が揺らぐ。
そして――影切りの刀が、妖刀の霊を裂いた。
一瞬、妖刀が甲高く泣いたように鳴った。
霧の中に、何かが消える音がした。
男の姿も、刀も、跡形もなく。
新右衛門は息を吐いた。
「……終わった、のか」
おせんが、そっと新右衛門の背に手を置いた。
「まだ、魂は残っています。だけど……もう、斬られる人はいない」
道明が、静かに言った。
「この先は、和尚の務めだ。儀式をもって、霊を送らねばならぬ」
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