〈影咒記(EIJUKI)〉江戸咒譚 第一篇 ― 明神恋咒変(みょうじんれんじゅへん) ―

ukon osumi

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第十一話「命を奪う刀」

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 湯島の裏手、霧の溜まる道筋にて、新右衛門はかすかな血の匂いを感じ取った。
 ――また、斬られた。
 足元の土は湿り、踏むたびにじくじくと音を立てる。夜更け、わずかに灯された行灯の光が、通りの角をぼんやりと染める。その下に、かすかな布の擦れる音が交じった。
「……道明!」
 叫んだ声に応えるように、横路の石段からずるりと何かが落ちてきた。
 その塊は人で、しかも見覚えのある山伏装束。
 新右衛門は駆け寄り、道明の体を抱き起こした。
 血――否、霊力に灼かれた痕のような焦げ跡が、彼の左肩から胸にかけて広がっていた。
「こ、こいつ……もう、人間じゃねぇ……」
 かすれた道明の声。眼差しは虚ろで、彼の周囲の空気がざわついているようだった。
 息も絶え絶えの彼から、かろうじて聞き取れたのは「斬られた、いや……喰われたのかも……」という言葉。
 辻斬り――いや、それに憑いた霊。
 影切りの刀は腰にある。だが、あれは「滅する」ためのもの。今、斬るべきはその“霊”か、それともその“刀”か――。
 判断がつかぬまま、新右衛門はその場で道明を背負い、霊雲寺へと急いだ。
 山門に着く頃には、道明の意識はかすかに戻っていた。
「和尚……。和尚を……」
 新右衛門は本堂に入るとすぐ、奥の襖を叩いた。
 夜更けにもかかわらず、天明和尚は起きていた。小柄な体に白の法衣をまとい、手に数珠を持って出てきた。
「これは……まさか、また霊刀の……?」
 和尚の言葉に新右衛門は頷いた。
「今度の辻斬りは、人ではなかった。目には映らぬが……刀の主が、人ではなくなっているのだ」
 天明和尚は唇を引き結び、道明の傷を見た。霊力の灼熱による焼痕、それは霊術による浄化以外には治しようのないものだった。
 おせんが現れたのはその時だった。
「新右衛門さま……道明さま……!」
 彼女の姿は、まるで町娘そのものだった。
 天明和尚は微かに眼を細め、彼女の存在に気づくと、深く頭を垂れた。
「やはり、おまえが“残って”しまったか」
 新右衛門の胸に、名状しがたい罪悪感が渦巻いた。
 “添い遂げられる”はずだった符。
 その奇跡が、結果として彼女をこの世に縛りつけてしまった。
 だが――今、彼女がいることに救われてもいるのだった。
「わたし……見ました。あの刀、夜の道を独りで歩いてた。……まるで、生き物みたいに……」
 おせんの声には、震えがあった。
「刃が、あたかも血を欲しているように。……空っぽなんです。血と恨みだけで動いているみたいでした」
 天明和尚がぽつりと呟いた。
「憑かれたのではなく……刀に“なった”者よ。あるいは、刀が喰った者。そこまで成れば、もう魂を抜くこともできぬ」
 新右衛門は、懐の刀に手を置いた。
 影切りの刀。霊の“影”のみを断つ術で作られた刃引きの刀。
「和尚、あの刀をどうにか……封じる手はないのか」
 天明和尚は首を振った。
「今はまだ、霊刀とその宿主の“名”が分からぬ限り、儀式は組めぬ。だが、見当はある」
 和尚は巻物を開いた。墨で記された古文書には、江戸初期の刀鍛冶の記録が並んでいる。
「これは、“村雨”の名を持つ刀……いや、元は武家の家宝だったという。ところが戦を経て、血に染まり、心ある者を次々に呑んだ。近き世にて行方知れずだったが……」
 それが今、また“現れた”。
 新右衛門の背に、ぞっと冷たいものが走った。
「このまま放っておけば、また、誰かが」
 言葉を継げなかった。
 その時、外から鐘の音が響いた。
 ――訃報を告げる鐘。
 また一人、斬られたのだ。

 道明の傷は深かった。だが血はほとんど流れていない。天明和尚の祈祷と符の加持で何とか命は繋がったが、意識は戻らぬままだった。
 新右衛門は霊雲寺の奥、障子を背に黙座していた。夜はすでに更け、外では風が梢を揺らしている。横には、静かに佇むおせんの姿。
「旦那……」
 ふと、障子の向こうから藤吉の声。
「また、やられました。今度は、白壁町の裏手にて……」
 新右衛門は立ち上がった。藤吉の表情が暗い。
「被害者は?」
「若い男です。見回りの者でした。首筋に一閃。だが、やっぱり血は出てないそうで……」
 妖刀の仕業だ。斬られた痕だけが、まるで墨の筆で撫でたように残り、体から熱と命が奪われていく。あの刀は、斬るという行為そのものに霊を宿している――。
「現場に案内しろ」
 新右衛門は裃を羽織り、腰に影切りの刀を差した。
「……おせん、来るか?」
「もちろんです」
 そう応えた彼女は、夜風にまぎれぬ気配で、するりと彼の背に寄り添った。

 現場は静まり返っていた。遠巻きに町人たちが不安そうに目を光らせ、同心たちが柵を設けている。死体はすでに運ばれた後だったが、地面には黒い影のような跡が残っていた。燃えたような、濡れたような、判然としない痕。
「斬られたのは……ここだな」
「ええ」
 おせんが指さす。その指先、夜の霧の向こうに、何かが動いた。
 ――きぃ、と音を立てるようにして、闇が一部、裂ける。
「藤吉、引っ込んでろ!」
 新右衛門はとっさに影切りの刀を抜く。そこには、人のようで人でない、形ばかりを保った何者かがいた。右手には刀――黒く波打つような鍔のない異形の刃。
「……あれが、辻斬りの“中身”……」
 おせんが震える声で呟いた。
 だが、姿はすぐに消える。霧が深まり、目の前の景色が塗り潰された。
「追うぞ!」
 霧の中、新右衛門は走り出す。だが、追いすがる者の姿はどこにもなかった。道は続き、夜は深く、ただ刀を抜いた手だけがじっとりと汗に濡れていた。

 戻った霊雲寺の座敷で、道明が目を覚ましたのは夜明け近くだった。
「……道明!」
「……あれ……は……」
 掠れた声でそう言い、彼は片腕を動かした。
「……目が、赤かった……いや、刀の……奥から……見ていた。斬ってるのは、刀だ……持ってる男じゃない……」
「どういうことだ?」
 ……持ち主が変わっても、斬る。あの刀は、人の意志を喰らって……自分の手で血を求めて……」
 天明和尚がそっと横に座り、頷く。
「この世に未練を持つ霊ではない。“武”そのものに呑まれたものよ。剣の念だ」
 新右衛門は目を伏せた。
「……それでも、斬らなきゃならねぇ。こっちも影切りの刀がある。なら……」
「斬っても、救えぬぞ。その霊を、滅するだけじゃ……」
「分かってる」
 新右衛門は腰の刀を見た。――霊を消すだけの刃。
 おせんが、静かに彼の傍に寄った。
「でも、止めなければ……また、誰かが……」
「そうだな」
 ゆっくりと立ち上がる。
「止めてやる。あれ以上、泣く者を増やさないために」
 その夜、新右衛門は再び、町に出た。
 灯籠が風に揺れている。霧が立ちこめる小道の先、おせんの影なき足音が続く。
 まだ終わらぬ。だが、始まったのだ。霊を斬る者としての、己の役目が――。
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