〈影咒記(EIJUKI)〉江戸咒譚 第一篇 ― 明神恋咒変(みょうじんれんじゅへん) ―

ukon osumi

文字の大きさ
15 / 17

第十五話「最後の辻斬り」

しおりを挟む
 夜の町が静まり返るころ、神田明神裏手の路地は、月光すら届かぬ闇に沈んでいた。

 榊原新右衛門は、腰に佩いた影切りの刀に手を添えながら、ゆっくりと歩を進めていた。足元には湿った落葉が踏みしめられるたびに音を立てる。道明から「今宵、源吾が現れる」と聞かされていた。確かな根拠があるわけではない。ただ霊気の波が強くうねり、町の空気が刺すように痛む。経験則で察したに過ぎぬ予感だ。だが、新右衛門はその直感を信じていた。
 背後から風が追いつき、頬を撫でた。
「新右衛門……」
 微かに響いた声に、男は立ち止まった。振り向けば、そこには、おせんの姿があった。
 淡い月光に照らされたその姿は、町娘そのものに見えた。白じみた着物に紺の帯。
「……来るなと言ったはずだ」
 新右衛門は眉をひそめ、低く言う。
 おせんはそっと首を振り、小さく笑った。「止めようがないんです」
 新右衛門は口を閉ざしたまま、目を伏せた。その一瞬の沈黙に、言葉以上の痛みがにじんでいた。
 ふと、夜の底が震えるような気配が走る。
 新右衛門は即座に身構えた。空気が変わった。寒さではない、肌の内側から冷えるような霊気。橋の向こう、薄闇の中に、黒い影が立っていた。
 村雨源吾――。
 かつて藩の剣術指南役として名を馳せた男。その腕前は一流であり、だが今はただの亡霊。否、妖刀に呑まれ、なおこの世を彷徨う存在だ。
 源吾の姿は、武家の正装のまま。けれど、その顔は人のそれではなかった。眼は虚ろで、口元に笑みが張り付いている。それでも、どこか哀しげな影が見てとれる。人の形をしていながら、人ではない。
「……来たな」
 新右衛門が声を落とす。
 源吾は言葉を返さない。ただ、ゆっくりと刀を抜いた。その刃先から、滲むように霊気が揺れる。まるで斬られた者たちの怨嗟が、波のようにまとわりついていた。
 影切りの刀を抜いた。
 刃引きされたはずのその刀に、道明と天明和尚の符が刻まれたことで、霊の“影”だけを断つ力が宿った。だが、それで霊が成仏するわけではない。斬れば、ただ“消える”。救いではなく、終わりを与えるだけ。
「源吾。おまえは、まだ……」
 言葉の続きを飲み込む。源吾の眼が、新右衛門を射抜いた。言葉なき問いが、そこにあった気がする。
「新右衛門、気をつけて……」
 おせんの声が、震えていた。
 次の瞬間、源吾が動いた。
 疾風のような踏み込み、斬り下ろし――。
 新右衛門は反射的に交わし、影切りの刀で刃を受ける。金属音はせず、空気だけが裂ける。霊の刀は実体を持たぬ。だが、影切りの刀は、その“存在”を確かに捉えた。
 二人の男が、闇の中で斬り結んだ。
 だが、その戦いは、剣術の技量だけではなかった。互いの魂が剣に乗る。源吾の動きには迷いがなかったが、それは理性を失っているがゆえ。動物的な本能と、刀の記憶だけが、彼を操っている。
 やがて新右衛門は、源吾の背に回り込む。刹那――刀を振り抜く。
 刃が、霊の影を斬った。
 空気が震え、源吾の体がぶれたように見えた。その姿が一瞬、かつての人間の輪郭を取り戻す。
「――っ……」
 声にならない声が、源吾の唇からこぼれた。
 新右衛門は、思わず足を止めた。
 その眼に、ただの哀しみがあった。
 斬り伏せられた源吾の霊が、闇に消えかける。その瞬間、新右衛門の耳に、かすかな音が届いた。――泣いていた。誰かが、どこかで。
 それは源吾のものか、それとも――刀の、記憶か。

 刃を振るった直後、新右衛門は刀を下ろしたまま動けずにいた。
 源吾の姿がゆっくりと揺らぎ、闇に還ろうとしている。その輪郭はもう朧げで、もはや人とも霊ともつかない。だが、その瞳だけは、まっすぐこちらを見ていた。どこまでも深く、哀しみに沈んだ色だった。
 新右衛門の脳裏に、ふとよぎったものがあった。
 源吾は、自ら剣を極め、藩の指南役まで務めた誇り高き男だった。だが、あるときその剣が、主命によって無辜の民を斬ることとなった??。
 そして、返り血を浴びたその刀が、呪いの器となったのだ。
 妖刀は血を好む。持ち主の心を蝕み、意志を奪い、斬ることでしか己を保てぬ存在にしてしまう。
 源吾は、それを知りながら、なお斬ることを選んだ。
 あるいは、それしか道がなかったのかもしれない。
 ――その過去に、今の自分が、どれだけ近づいているのか。
 新右衛門は、影切りの刀を見つめた。自らの意思で振るったはずのそれが、重く、冷たい。
 源吾の霊が、最後のひと息を残すように口を開く。
「……すまぬ」
 その声は風のように微かで、耳ではなく心の内に届いた。次の瞬間、源吾の影は完全に消え、辺りには風の通り抜ける音だけが残った。
 おせんが、傍らに立っていた。
「……斬って、よかったんですよね?」
 新右衛門の問いに、答えはなかった。
 おせんはただ、小さく頷いた。だがその顔は、少しだけ寂しそうだった。

 翌日、霊雲寺の一室。
 新右衛門は、影切りの刀を床に置き、正座していた。その前に道明と天明和尚が並び、儀式の進行を整えていた。
「源吾は消えたが、まだ“刀”は残っている」
 道明が低く言う。
 源吾を蝕んだ妖刀――それ自体は、この世に現れたままだ。霊は斬れても、器は残る。今は姿を潜めているが、再び別の誰かに拾われれば、また同じ悲劇が繰り返される。
「……封じねばなるまいな」
 和尚の声は深く、重かった。
 おせんが、ひとつ前に出た。
「和尚。もし、その刀にまだ、声が宿っているのなら……」
 新右衛門が、はっとしておせんを見る。
「まだ、誰かが……“斬られた側”が、あの刀にすがっているなら。私、話を聞きます」
 おせんの姿は、霊とは思えぬほど凛としていた。
「……あの人たちの声を、残したくないんです。消えるとしても、苦しんだままじゃ、嫌なんです」
 和尚と道明が、静かに頷いた。

 その夜、封じの儀式が行われた。
 薬研堀橋の袂にある古い祠の前。そこが、源吾が最初に妖刀を帯びた場であり、多くの犠牲者が最初に出た場所でもある。
 儀式は道明の法力と、天明和尚の符術で構成された。
 その中心に、おせんが立つ。
 霊としてこの世にとどまりながらも、彼女は新右衛門との“絆”の力で、自我を保っていた。彼女にしか、聞こえぬ声がある。
 封じの刀を前に、おせんはゆっくりと語りかけた。
「……ねぇ。あなたたちは、何を伝えたかったの?」
 風が、ざわりと木立を揺らした。
 おせんの耳に、いくつもの声が届いた。斬られた者たちの断末魔、絶望、無念、叫び??そして、かすかな、祈り。
「助けて」「忘れないで」「誰かに……」
 そのひとつひとつが、胸に響いた。
 涙が、頬を伝う。
「……わかりました。私が、伝えます。もう、誰にも言われなくてもいいように。もう、斬られなくても、いいように」
 風が止まった。
 道明が印を切り、天明和尚が封印の札を投げる。
 妖刀は、音もなく、崩れた。
 砂鉄のように細かく、地に溶けていく。
 新右衛門は、それを見届けながら、目を閉じた。
「……これで、終わったのか?」
 おせんは静かに言った。
「いいえ。まだ、あたしたちは“途中”です」
 新右衛門は、その言葉に救われる思いがした。
 終わりではなく、始まり。
 この夜、また一つの影が、江戸の町から消えていった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

滝川家の人びと

卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。 生きるために走る者は、 傷を負いながらも、歩みを止めない。 戦国という時代の只中で、 彼らは何を失い、 走り続けたのか。 滝川一益と、その郎党。 これは、勝者の物語ではない。 生き延びた者たちの記録である。

偽夫婦お家騒動始末記

紫紺
歴史・時代
【第10回歴史時代大賞、奨励賞受賞しました!】 故郷を捨て、江戸で寺子屋の先生を生業として暮らす篠宮隼(しのみやはやて)は、ある夜、茶屋から足抜けしてきた陰間と出会う。 紫音(しおん)という若い男との奇妙な共同生活が始まるのだが。 隼には胸に秘めた決意があり、紫音との生活はそれを遂げるための策の一つだ。だが、紫音の方にも実は裏があって……。 江戸を舞台に様々な陰謀が駆け巡る。敢えて裏街道を走る隼に、念願を叶える日はくるのだろうか。 そして、拾った陰間、紫音の正体は。 活劇と謎解き、そして恋心の長編エンタメ時代小説です。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~

橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。 記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。 これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語 ※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります

輿乗(よじょう)の敵 ~ 新史 桶狭間 ~

四谷軒
歴史・時代
【あらすじ】 美濃の戦国大名、斎藤道三の娘・帰蝶(きちょう)は、隣国尾張の織田信長に嫁ぐことになった。信長の父・信秀、信長の傅役(もりやく)・平手政秀など、さまざまな人々と出会い、別れ……やがて信長と帰蝶は尾張の国盗りに成功する。しかし、道三は嫡男の義龍に殺され、義龍は「一色」と称して、織田の敵に回る。一方、三河の方からは、駿河の国主・今川義元が、大軍を率いて尾張へと向かって来ていた……。 【登場人物】 帰蝶(きちょう):美濃の戦国大名、斎藤道三の娘。通称、濃姫(のうひめ)。 織田信長:尾張の戦国大名。父・信秀の跡を継いで、尾張を制した。通称、三郎(さぶろう)。 斎藤道三:下剋上(げこくじょう)により美濃の国主にのし上がった男。俗名、利政。 一色義龍:道三の息子。帰蝶の兄。道三を倒して、美濃の国主になる。幕府から、名門「一色家」を名乗る許しを得る。 今川義元:駿河の戦国大名。名門「今川家」の当主であるが、国盗りによって駿河の国主となり、「海道一の弓取り」の異名を持つ。 斯波義銀(しばよしかね):尾張の国主の家系、名門「斯波家」の当主。ただし、実力はなく、形だけの国主として、信長が「臣従」している。 【参考資料】 「国盗り物語」 司馬遼太郎 新潮社 「地図と読む 現代語訳 信長公記」 太田 牛一 (著) 中川太古 (翻訳)  KADOKAWA 東浦町観光協会ホームページ Wikipedia 【表紙画像】 歌川豊宣, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で

(完)百合短編集 

南條 綾
恋愛
ジャンルは沢山の百合小説の短編集を沢山入れました。

楽将伝

九情承太郎
歴史・時代
三人の天下人と、最も遊んだ楽将・金森長近(ながちか)のスチャラカ戦国物語 織田信長の親衛隊は 気楽な稼業と きたもんだ(嘘) 戦国史上、最もブラックな職場 「織田信長の親衛隊」 そこで働きながらも、マイペースを貫く、趣味の人がいた 金森可近(ありちか)、後の長近(ながちか) 天下人さえ遊びに来る、趣味の達人の物語を、ご賞味ください!!

処理中です...