〈影咒記(EIJUKI)〉江戸咒譚 第一篇 ― 明神恋咒変(みょうじんれんじゅへん) ―

ukon osumi

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第十五話「最後の辻斬り」

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 夜の町が静まり返るころ、神田明神裏手の路地は、月光すら届かぬ闇に沈んでいた。

 榊原新右衛門は、腰に佩いた影切りの刀に手を添えながら、ゆっくりと歩を進めていた。足元には湿った落葉が踏みしめられるたびに音を立てる。道明から「今宵、源吾が現れる」と聞かされていた。確かな根拠があるわけではない。ただ霊気の波が強くうねり、町の空気が刺すように痛む。経験則で察したに過ぎぬ予感だ。だが、新右衛門はその直感を信じていた。
 背後から風が追いつき、頬を撫でた。
「新右衛門……」
 微かに響いた声に、男は立ち止まった。振り向けば、そこには、おせんの姿があった。
 淡い月光に照らされたその姿は、町娘そのものに見えた。白じみた着物に紺の帯。
「……来るなと言ったはずだ」
 新右衛門は眉をひそめ、低く言う。
 おせんはそっと首を振り、小さく笑った。「止めようがないんです」
 新右衛門は口を閉ざしたまま、目を伏せた。その一瞬の沈黙に、言葉以上の痛みがにじんでいた。
 ふと、夜の底が震えるような気配が走る。
 新右衛門は即座に身構えた。空気が変わった。寒さではない、肌の内側から冷えるような霊気。橋の向こう、薄闇の中に、黒い影が立っていた。
 村雨源吾――。
 かつて藩の剣術指南役として名を馳せた男。その腕前は一流であり、だが今はただの亡霊。否、妖刀に呑まれ、なおこの世を彷徨う存在だ。
 源吾の姿は、武家の正装のまま。けれど、その顔は人のそれではなかった。眼は虚ろで、口元に笑みが張り付いている。それでも、どこか哀しげな影が見てとれる。人の形をしていながら、人ではない。
「……来たな」
 新右衛門が声を落とす。
 源吾は言葉を返さない。ただ、ゆっくりと刀を抜いた。その刃先から、滲むように霊気が揺れる。まるで斬られた者たちの怨嗟が、波のようにまとわりついていた。
 影切りの刀を抜いた。
 刃引きされたはずのその刀に、道明と天明和尚の符が刻まれたことで、霊の“影”だけを断つ力が宿った。だが、それで霊が成仏するわけではない。斬れば、ただ“消える”。救いではなく、終わりを与えるだけ。
「源吾。おまえは、まだ……」
 言葉の続きを飲み込む。源吾の眼が、新右衛門を射抜いた。言葉なき問いが、そこにあった気がする。
「新右衛門、気をつけて……」
 おせんの声が、震えていた。
 次の瞬間、源吾が動いた。
 疾風のような踏み込み、斬り下ろし――。
 新右衛門は反射的に交わし、影切りの刀で刃を受ける。金属音はせず、空気だけが裂ける。霊の刀は実体を持たぬ。だが、影切りの刀は、その“存在”を確かに捉えた。
 二人の男が、闇の中で斬り結んだ。
 だが、その戦いは、剣術の技量だけではなかった。互いの魂が剣に乗る。源吾の動きには迷いがなかったが、それは理性を失っているがゆえ。動物的な本能と、刀の記憶だけが、彼を操っている。
 やがて新右衛門は、源吾の背に回り込む。刹那――刀を振り抜く。
 刃が、霊の影を斬った。
 空気が震え、源吾の体がぶれたように見えた。その姿が一瞬、かつての人間の輪郭を取り戻す。
「――っ……」
 声にならない声が、源吾の唇からこぼれた。
 新右衛門は、思わず足を止めた。
 その眼に、ただの哀しみがあった。
 斬り伏せられた源吾の霊が、闇に消えかける。その瞬間、新右衛門の耳に、かすかな音が届いた。――泣いていた。誰かが、どこかで。
 それは源吾のものか、それとも――刀の、記憶か。

 刃を振るった直後、新右衛門は刀を下ろしたまま動けずにいた。
 源吾の姿がゆっくりと揺らぎ、闇に還ろうとしている。その輪郭はもう朧げで、もはや人とも霊ともつかない。だが、その瞳だけは、まっすぐこちらを見ていた。どこまでも深く、哀しみに沈んだ色だった。
 新右衛門の脳裏に、ふとよぎったものがあった。
 源吾は、自ら剣を極め、藩の指南役まで務めた誇り高き男だった。だが、あるときその剣が、主命によって無辜の民を斬ることとなった??。
 そして、返り血を浴びたその刀が、呪いの器となったのだ。
 妖刀は血を好む。持ち主の心を蝕み、意志を奪い、斬ることでしか己を保てぬ存在にしてしまう。
 源吾は、それを知りながら、なお斬ることを選んだ。
 あるいは、それしか道がなかったのかもしれない。
 ――その過去に、今の自分が、どれだけ近づいているのか。
 新右衛門は、影切りの刀を見つめた。自らの意思で振るったはずのそれが、重く、冷たい。
 源吾の霊が、最後のひと息を残すように口を開く。
「……すまぬ」
 その声は風のように微かで、耳ではなく心の内に届いた。次の瞬間、源吾の影は完全に消え、辺りには風の通り抜ける音だけが残った。
 おせんが、傍らに立っていた。
「……斬って、よかったんですよね?」
 新右衛門の問いに、答えはなかった。
 おせんはただ、小さく頷いた。だがその顔は、少しだけ寂しそうだった。

 翌日、霊雲寺の一室。
 新右衛門は、影切りの刀を床に置き、正座していた。その前に道明と天明和尚が並び、儀式の進行を整えていた。
「源吾は消えたが、まだ“刀”は残っている」
 道明が低く言う。
 源吾を蝕んだ妖刀――それ自体は、この世に現れたままだ。霊は斬れても、器は残る。今は姿を潜めているが、再び別の誰かに拾われれば、また同じ悲劇が繰り返される。
「……封じねばなるまいな」
 和尚の声は深く、重かった。
 おせんが、ひとつ前に出た。
「和尚。もし、その刀にまだ、声が宿っているのなら……」
 新右衛門が、はっとしておせんを見る。
「まだ、誰かが……“斬られた側”が、あの刀にすがっているなら。私、話を聞きます」
 おせんの姿は、霊とは思えぬほど凛としていた。
「……あの人たちの声を、残したくないんです。消えるとしても、苦しんだままじゃ、嫌なんです」
 和尚と道明が、静かに頷いた。

 その夜、封じの儀式が行われた。
 薬研堀橋の袂にある古い祠の前。そこが、源吾が最初に妖刀を帯びた場であり、多くの犠牲者が最初に出た場所でもある。
 儀式は道明の法力と、天明和尚の符術で構成された。
 その中心に、おせんが立つ。
 霊としてこの世にとどまりながらも、彼女は新右衛門との“絆”の力で、自我を保っていた。彼女にしか、聞こえぬ声がある。
 封じの刀を前に、おせんはゆっくりと語りかけた。
「……ねぇ。あなたたちは、何を伝えたかったの?」
 風が、ざわりと木立を揺らした。
 おせんの耳に、いくつもの声が届いた。斬られた者たちの断末魔、絶望、無念、叫び??そして、かすかな、祈り。
「助けて」「忘れないで」「誰かに……」
 そのひとつひとつが、胸に響いた。
 涙が、頬を伝う。
「……わかりました。私が、伝えます。もう、誰にも言われなくてもいいように。もう、斬られなくても、いいように」
 風が止まった。
 道明が印を切り、天明和尚が封印の札を投げる。
 妖刀は、音もなく、崩れた。
 砂鉄のように細かく、地に溶けていく。
 新右衛門は、それを見届けながら、目を閉じた。
「……これで、終わったのか?」
 おせんは静かに言った。
「いいえ。まだ、あたしたちは“途中”です」
 新右衛門は、その言葉に救われる思いがした。
 終わりではなく、始まり。
 この夜、また一つの影が、江戸の町から消えていった。
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