〈影咒記(EIJUKI)〉江戸咒譚 第一篇 ― 明神恋咒変(みょうじんれんじゅへん) ―

ukon osumi

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第十六話「添い遂げたい」

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 空が鈍く曇っていた。夕餉時の鐘が遠くで鳴っているが、新右衛門の耳には届かぬように思えた。
 ――この刀で、何が護れるというのか。
 影切りの刀。その刃には人を救う力はない。だが霊の“影”――存在の残滓を断ち切る。まるでこの世にしがみつく爪先を、容赦なく切り落とすように。
 源吾の霊を斬ったときの、あの感触は今も脳裏にこびりついて離れない。手応えはあった。だが、それは生き物の肉でも、敵意でもなかった。もっと深く、凍てついたような……哀しみだった。
「源吾……」
 ぽつりと名を呟いた新右衛門の背に、薄い衣擦れの音が寄り添った。
「新右衛門様……」
 ふと振り返ると、そこにおせんが立っていた。白無垢にも似た淡い着物を身にまとい、どこか町娘らしい装いを保っている。霧のような存在になって久しい。
「来てくれたのか」
「……はい。でも、もう、長くは――」
 声がかすれていた。
「新右衛門様……」
 おせんの声が、やわらかく響いた。
 ふと、新右衛門は気づいた。彼女の輪郭が、また少し薄くなっていることに。
「……おせん……」
「もう少しだけ、傍にいさせてください」
 新右衛門は頷いた。自分の背に、すっと寄り添う霊のぬくもりを、幻ではなく、確かに感じながら。
 夜が、静かに更けていった。

 夜の帳が下りる頃、江戸の町に、ひとつ、またひとつと灯がともる。神田明神の裏手にある小さな橋のたもとには、湿った空気とともに、奇妙な静寂が漂っていた。
 榊原新右衛門は、その場に立ち尽くしていた。
 目の前に、おせんがいる。たしかに、彼女の姿がある。髪が風にそよぎ、白地に藍の柄が入った着物が、ほんの少し揺れている。だがその足元には――影がなかった。
「新右衛門さま……」
 おせんの声は、風の音と重なって、かすかに耳に届いた。けれどその音は、何よりも深く、心に染み込んできた。
「おせん……おまえ……」
 新右衛門は言葉を探すように唇を動かしたが、うまく出てこない。すぐそばにいるのに、手を伸ばしても届かぬような、その現実の非現実さに、ただ立ち尽くすしかなかった。
 おせんの顔に、微かな笑みが浮かぶ。
「見えるのですね、やはり。……よかった」
 その声が、確信に満ちていたことに、新右衛門は僅かに胸を衝かれる。だが、それ以上に、彼の心を揺るがしたのは、次の言葉だった。
「でも……もう、長くはないようです」
「なに?」
 おせんは自分の両手を見つめ、続けた。
「私、自分の身体が薄れていくのが分かるんです。あの符のおかげで、あなたのそばにいられたけれど、その力も……きっと尽きかけているんですね」
 新右衛門は、ぐっと拳を握り締めた。何か言おうとしたが、喉が詰まるようで声が出なかった。
 そこへ、ひとつの足音が近づいてきた。
「間に合ったかのう」
 丸い体に丸い顔、そしてくりくりとした目をした男――霊雲寺の天明和尚である。彼の背には、山伏装束の道明がついていた。
「和尚……」
「話は道明から聞いた。来てよかった。いや、来ねばならなんだな」
 和尚はおせんの姿を一瞥し、眉をわずかに寄せた。
「なるほど、これは……“恋符”の力が、奇跡の形をとって現れたものじゃな」
 新右衛門が目を見開く。
「和尚、どういうことだ」
「“恋愛成就の符”には、本来、生者同士の心を結ぶ力しかない。しかし、今回は……おそらく“思い”の強さと、“間違って渡された”符が重なった結果、死してなお、恋を貫く力として働いておる」
 おせんは、はっと顔を上げた。
「……私の想いが……?」
「そうじゃ。おぬしの想い、新右衛門殿への想いが、符を“ただの霊符”ではなく、“生の代替”にまで変えてしまった。まこと稀なることよ」
「じゃあ……私は、このまま……?」
 和尚は首を横に振った。
「それは、おぬしら次第じゃ。符の力は長くは持たぬ。だが、“この世にいてよい”という強い“許し”と“願い”があれば……ただの霊ではなく、在り方を持った“者”として、ここに留まることもできる」
 新右衛門はゆっくりと歩み寄り、目の前にいるおせんを見据えた。
「……俺は、ここにいるおまえを、見えるおまえを……信じている」
「……新右衛門さま」
「生きているとか、死んでいるとか……もう、どうでもいい。俺は、おまえがいてくれるだけで、それでいい。ここに、おまえがいる。それだけで、俺は……」
 言葉が途切れた。だが、それだけで十分だった。
 おせんの瞳に、涙が浮かぶ。けれどその涙は、地に落ちることなく、光となって消えていった。
 天明和尚がゆっくりと頷く。
「……これで、道は開けたようじゃ。共に在りたいと願う心があれば、この“在り方”は許される」
 道明が、手にした数珠を握りしめながら小さく呟いた。
「それが“咒”の力じゃ。恋の咒(まじない)は、生と死をも越えるんだな」
 その夜――江戸の空には、雲ひとつなく月が冴えていた。
 静かな夜の町に、おせんの足音は響かない。けれど、彼女は確かにいた。新右衛門の隣に、町の片隅に、静かに――。
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