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第十七話「影咒記、始まる」
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江戸の町に、春が近づいていた。けれど、風はまだ冷たく、肌を刺すような冷気を街路に残していた。新右衛門は、その風をまともに受けながら、静かに歩を進めていた。
薬研堀橋を越え、川沿いの道を歩く。彼の腰には、かつての刃引きの同心刀ではなく、今や異なる意味を帯びた刀――影切りの刀が、重みをもって下がっていた。
それは霊を斬るためだけの刀。斬れば、成仏も救済もない。ただ、消し去るのみ。呪いと怨念に満ちた存在を、この世から消す。それが今の新右衛門の務めだった。
「新右衛門さま、今日は、あったかいですね」
背後から、柔らかな声が聞こえる。
振り返らずとも、それが誰の声かはわかっていた。
おせんだった。
彼女は、かつて「明神そば」の看板娘だった。だが、もう生者ではない。辻斬りの妖刀に斬られ、命を落とした。だが、その時に持たされていた“誤った”符――「死しても添い遂げられる符」が、彼女をこの世に縛りつけた。
……いや、縛ったのではない。新右衛門は、最近になってそう思うようになっていた。
彼女は、選んだのだ。自らの意思で。
「もう、寒くないか?」
ふと、そう尋ねた自分に、新右衛門は少し驚いた。
彼女は笑って、「ええ、もう。寒さは、気にはなりません。でも……」と言いかけて、そっと黙った。
「でも、なんだ?」
「あなたが、寒いのを見るのが、少し辛いんです」
その声は、ただの優しさだった。恋慕でも情念でもなく、もっと深い、人としての想い。
それが、なおさら彼の胸を締めつけた。
二人はしばらく言葉なく歩いた。
やがて、新右衛門は足を止める。そこは、辻斬りが最後に姿を現した場所――寺町裏の古い塀の前だった。源吾――妖刀に憑かれたかつての剣客――が姿を消した場所。
ここには、まだ霊気が漂っていた。刀の呪いは断ち切られ、源吾の姿もすでに消えたが、斬られた者たちの“記憶”は、なおこの場に染みついていた。
「ここで、あなたは……」
新右衛門は、言いかけてやめた。彼女を失ったあの夜を、言葉にするのはまだ難しかった。
「すまなかった」
そう呟くと、おせんは首を振った。
「違います。……あなたがいてくれたから、今もこうして、ここにいられる」
しばらくの沈黙ののち、新右衛門はゆっくりと視線を前に戻した。
かつての自分なら、「斬って、護る」ことしか知らなかった。だが、源吾との戦いを経て、「斬って、送る」という意味を知った。そして今は、そのどちらでもない、別の在り方を探していた。
おせんの存在が、それを教えてくれた。
彼女は、ただの霊ではない。生きる想いが、残されている。だから見える。そして、話せる。
「これが……“生の代替”なのかもしれぬな」
新右衛門が呟くと、おせんは驚いたように見開き、微笑んだ。
「“代わり”ではありません。私は、今も、ここに“居る”んです」
その声が、春の風に混ざって、町の石畳に溶けていく。
夜の町は、どこか清められたように静かだった。数刻前まで、そこには人ならぬものの咆哮があり、斬られた者たちの呻きがあった。けれど、今は違う。辻斬りの妖刀は儀式により封じられ、狂気の連鎖はようやく終わりを告げた。
霊雲寺の境内に、小さな灯がともる。道明が組んだ祭壇の火が、風にゆらゆらと揺れ、夜気にほのかに白煙を立ちのぼらせている。
「……終わったな」
新右衛門は刀をおさめ、火の前にしゃがみ込んだ。肩で息をし、まだ刀を握る右手にはわずかに震えが残っていた。
おせんが、そっと彼の隣に腰を下ろす。彼女の身にまとう霊気は、以前よりも透明に、穏やかに感じられた。
「新右衛門さま……本当に、ありがとうございました」
その言葉に、新右衛門は首を横に振る。
「違う。助けたのは、拙者ではない。……おぬしの言葉だ。あの声が、斬られた者たちに届いた。そうだろう」
おせんはふと目を伏せると、小さく頷いた。
「……彼らは、みんな、恐ろしくて、悔しくて、悲しくて。けれど、忘れられるのがいちばん……寂しいんです」
「忘れられる、か……」
新右衛門は炎を見つめた。その揺らぎのなかに、かすかに人影のようなものが見える気がした。男、女、老人、若者――皆、辻斬りに斬られた者たちだ。
彼らはもう声をあげることはない。ただ、炎の向こうで、微笑んでいるようにさえ見えた。
「皆……行けたのか?」
「はい。きっと。最後に、ありがとうって言ってました」
「そうか……」
新右衛門の声はかすれていた。
火は、燃え尽きようとしていた。白煙が立ち上がるなか、道明がそっと近づいてきた。すでに法衣はすすけ、汗に濡れている。だが、その顔には安堵が浮かんでいた。
「うむ。……あれほど濃かった怨念が、すっかり鎮まったようだ。見事だったぞ、新右衛門殿」
「道明……拙者は……」
「おぬしが斬ったもの、それはただの霊ではない。想いだ。未練や怒りに囚われた想いが、人を、刀を蝕んでいた。……それを断ったのは、おぬしの心の刃だ」
新右衛門は何も言わなかった。ただ、火の前から立ち上がり、夜空を見上げる。
江戸の空は、深い藍に染まっていた。
そのときだった。
「――ねえ、新右衛門さま」
おせんの声が、背後から届いた。
「このまま、わたし……どうなるんでしょうか」
新右衛門は振り返る。
「……おぬしはこの世に留まり続ける。だが、それは……生きているということとは違う」
おせんは、静かに微笑んだ。
「わかっています。けれど、いまは……こうして、そばにいられるだけで、いい」
その声には、もう迷いはなかった。
「新右衛門さまは、これからも、霊と人との間を歩いていくんですよね」
「……ああ」
「じゃあ、わたしも、そばにいます。姿が見えるのがあなただけなら、それで十分です」
しばらく、二人のあいだに言葉はなかった。ただ、遠くで聞こえる水音が夜に溶けていった。
やがて、新右衛門は腰の刀に手をやった。それは、道明によって霊を斬るために造られた特別な刀――《影切りの刀》。だが今、その刀には仄かに紅の装飾が施されていた。火を象る焔の意匠。
「影を斬る刃にして、想いを灯す刀。……斬ることで、癒すこともある」
新右衛門は、静かにその柄を握った。重みはある。だが、不思議と手に馴染んだ。
「……行こう」
「どこへ?」
おせんが問いかけると、新右衛門は夜の町を見つめた。
「どこでもよいさ。今日の江戸も、何かが泣いている。拙者たちの出番かもしれぬ」
おせんはくすりと笑った。
「では、あなたの影に、ついていきます」
そして二人は、ゆっくりと歩き出した。まだ夜は明けないが、その足元には、確かに一本の道が続いていた。
道明が背を向け、祭壇の火を吹き消す。
風が、過ぎる。
その風のなかに、誰かの笑い声が混じっていた。
それが霊のものか、人のものか――誰にも、わからなかった。
(了)
祈りをこめて。
読んでくれて、ありがとう。
――影咒記
薬研堀橋を越え、川沿いの道を歩く。彼の腰には、かつての刃引きの同心刀ではなく、今や異なる意味を帯びた刀――影切りの刀が、重みをもって下がっていた。
それは霊を斬るためだけの刀。斬れば、成仏も救済もない。ただ、消し去るのみ。呪いと怨念に満ちた存在を、この世から消す。それが今の新右衛門の務めだった。
「新右衛門さま、今日は、あったかいですね」
背後から、柔らかな声が聞こえる。
振り返らずとも、それが誰の声かはわかっていた。
おせんだった。
彼女は、かつて「明神そば」の看板娘だった。だが、もう生者ではない。辻斬りの妖刀に斬られ、命を落とした。だが、その時に持たされていた“誤った”符――「死しても添い遂げられる符」が、彼女をこの世に縛りつけた。
……いや、縛ったのではない。新右衛門は、最近になってそう思うようになっていた。
彼女は、選んだのだ。自らの意思で。
「もう、寒くないか?」
ふと、そう尋ねた自分に、新右衛門は少し驚いた。
彼女は笑って、「ええ、もう。寒さは、気にはなりません。でも……」と言いかけて、そっと黙った。
「でも、なんだ?」
「あなたが、寒いのを見るのが、少し辛いんです」
その声は、ただの優しさだった。恋慕でも情念でもなく、もっと深い、人としての想い。
それが、なおさら彼の胸を締めつけた。
二人はしばらく言葉なく歩いた。
やがて、新右衛門は足を止める。そこは、辻斬りが最後に姿を現した場所――寺町裏の古い塀の前だった。源吾――妖刀に憑かれたかつての剣客――が姿を消した場所。
ここには、まだ霊気が漂っていた。刀の呪いは断ち切られ、源吾の姿もすでに消えたが、斬られた者たちの“記憶”は、なおこの場に染みついていた。
「ここで、あなたは……」
新右衛門は、言いかけてやめた。彼女を失ったあの夜を、言葉にするのはまだ難しかった。
「すまなかった」
そう呟くと、おせんは首を振った。
「違います。……あなたがいてくれたから、今もこうして、ここにいられる」
しばらくの沈黙ののち、新右衛門はゆっくりと視線を前に戻した。
かつての自分なら、「斬って、護る」ことしか知らなかった。だが、源吾との戦いを経て、「斬って、送る」という意味を知った。そして今は、そのどちらでもない、別の在り方を探していた。
おせんの存在が、それを教えてくれた。
彼女は、ただの霊ではない。生きる想いが、残されている。だから見える。そして、話せる。
「これが……“生の代替”なのかもしれぬな」
新右衛門が呟くと、おせんは驚いたように見開き、微笑んだ。
「“代わり”ではありません。私は、今も、ここに“居る”んです」
その声が、春の風に混ざって、町の石畳に溶けていく。
夜の町は、どこか清められたように静かだった。数刻前まで、そこには人ならぬものの咆哮があり、斬られた者たちの呻きがあった。けれど、今は違う。辻斬りの妖刀は儀式により封じられ、狂気の連鎖はようやく終わりを告げた。
霊雲寺の境内に、小さな灯がともる。道明が組んだ祭壇の火が、風にゆらゆらと揺れ、夜気にほのかに白煙を立ちのぼらせている。
「……終わったな」
新右衛門は刀をおさめ、火の前にしゃがみ込んだ。肩で息をし、まだ刀を握る右手にはわずかに震えが残っていた。
おせんが、そっと彼の隣に腰を下ろす。彼女の身にまとう霊気は、以前よりも透明に、穏やかに感じられた。
「新右衛門さま……本当に、ありがとうございました」
その言葉に、新右衛門は首を横に振る。
「違う。助けたのは、拙者ではない。……おぬしの言葉だ。あの声が、斬られた者たちに届いた。そうだろう」
おせんはふと目を伏せると、小さく頷いた。
「……彼らは、みんな、恐ろしくて、悔しくて、悲しくて。けれど、忘れられるのがいちばん……寂しいんです」
「忘れられる、か……」
新右衛門は炎を見つめた。その揺らぎのなかに、かすかに人影のようなものが見える気がした。男、女、老人、若者――皆、辻斬りに斬られた者たちだ。
彼らはもう声をあげることはない。ただ、炎の向こうで、微笑んでいるようにさえ見えた。
「皆……行けたのか?」
「はい。きっと。最後に、ありがとうって言ってました」
「そうか……」
新右衛門の声はかすれていた。
火は、燃え尽きようとしていた。白煙が立ち上がるなか、道明がそっと近づいてきた。すでに法衣はすすけ、汗に濡れている。だが、その顔には安堵が浮かんでいた。
「うむ。……あれほど濃かった怨念が、すっかり鎮まったようだ。見事だったぞ、新右衛門殿」
「道明……拙者は……」
「おぬしが斬ったもの、それはただの霊ではない。想いだ。未練や怒りに囚われた想いが、人を、刀を蝕んでいた。……それを断ったのは、おぬしの心の刃だ」
新右衛門は何も言わなかった。ただ、火の前から立ち上がり、夜空を見上げる。
江戸の空は、深い藍に染まっていた。
そのときだった。
「――ねえ、新右衛門さま」
おせんの声が、背後から届いた。
「このまま、わたし……どうなるんでしょうか」
新右衛門は振り返る。
「……おぬしはこの世に留まり続ける。だが、それは……生きているということとは違う」
おせんは、静かに微笑んだ。
「わかっています。けれど、いまは……こうして、そばにいられるだけで、いい」
その声には、もう迷いはなかった。
「新右衛門さまは、これからも、霊と人との間を歩いていくんですよね」
「……ああ」
「じゃあ、わたしも、そばにいます。姿が見えるのがあなただけなら、それで十分です」
しばらく、二人のあいだに言葉はなかった。ただ、遠くで聞こえる水音が夜に溶けていった。
やがて、新右衛門は腰の刀に手をやった。それは、道明によって霊を斬るために造られた特別な刀――《影切りの刀》。だが今、その刀には仄かに紅の装飾が施されていた。火を象る焔の意匠。
「影を斬る刃にして、想いを灯す刀。……斬ることで、癒すこともある」
新右衛門は、静かにその柄を握った。重みはある。だが、不思議と手に馴染んだ。
「……行こう」
「どこへ?」
おせんが問いかけると、新右衛門は夜の町を見つめた。
「どこでもよいさ。今日の江戸も、何かが泣いている。拙者たちの出番かもしれぬ」
おせんはくすりと笑った。
「では、あなたの影に、ついていきます」
そして二人は、ゆっくりと歩き出した。まだ夜は明けないが、その足元には、確かに一本の道が続いていた。
道明が背を向け、祭壇の火を吹き消す。
風が、過ぎる。
その風のなかに、誰かの笑い声が混じっていた。
それが霊のものか、人のものか――誰にも、わからなかった。
(了)
祈りをこめて。
読んでくれて、ありがとう。
――影咒記
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