25 / 25
第二十四話「祈りは断たれた」
しおりを挟む
闇が静かに揺れていた。
都市の中枢に入り込んでいた“視線”が断ち切られ、空気の流れが変わる。地上では光が戻っているのかもしれない。だがここ、地下深くのこの場所には、何の変化も感じられなかった。むしろ静けさがいっそう濃く、美沙の耳に血の音すら届かない。
鈍く痺れた足元に、かすかな振動が走る。
天井の奥で何かが鳴いた気がした。きい、と鉄の擦れる音。それに応じるように、岩壁だった一角が不意に滑らかに横へずれた。
「……扉」
燈子が息を呑む。
美沙は目を細め、その先を見据えた。崩れた岩肌の向こうに開いたのは、建築物とは明らかに異なる、無機質な空間。平滑な床。左右対称の構造。壁面に、かすかな光が走っている。蛍光灯ではない。生き物の体内で血管が光を放つような、神経の光だった。
――ここが、核なのか。
美沙は胸の奥で確信した。
この空間は“ラミア”そのものだった。都市の記憶と子供たちの夢、祈りと視線が結節し、沈殿してできた無意識の溜まり。そうとしか言いようのないものがあった。
「……ここが最奥部……? これが、“あの子たち”が描いていた……」
燈子の声が震える。
美沙は振り向かず、歩き出した。杖はもう要らなかった。というより、足の感覚はとっくに麻痺している。剣を握った右手に力は入らず、震えが止まらない。それでも進むしかない。
「これが、ラミアの中枢核……“母性”の最後のかたち……」
燈子の声がわずかに揺れる。
「もとは祈りだったのに……誰かを愛そうとした、ただの手だったはずなのに」
その言葉に、美沙は足を止めた。背を向けたまま目を閉じる。
――祈り。
母親として、その言葉にどれほどの意味があるか、美沙は知っている。蓮が幼かった頃、風邪で寝込んだ夜、ただ手を握るしかなかったとき。夜泣きに付き合い、朝焼けに倒れそうになったとき。誰かに代わってほしいと泣いた夜。祈りとは願いであり、無力であり、それでも子を想うことの最も誠実な形だった。
けれど――その言葉を隠れ蓑にして、すべてを飲み込み、同化させるものがある。
「……違うわ、燈子さん」
美沙は静かに言った。
「祈りの名を借りた支配を、私は断ち切る」
それは母であろうとすることの否定ではない。
母という形を借り、子供たちに服従を強いる“構造”への否定だ。
蓮を同調から取り戻したとき、美沙は気づいていた。あの子の中にあったのは支配された意志ではない。誰かの期待を感じ取ってしまうがゆえに、自ら差し出してしまう無垢の自傷だった。
だがもう、それを許さない。
愛という名で子を縛り、祈りという名で命じる者を、美沙は母とは呼ばない。
剣の柄を握り直す。皮巻きが汗に濡れ、冷えた鉄芯が肌に伝わる。
「――蓮」
ひとり呟いた名が、胸の奥を焼く。
言葉を交わせる日がまた来るのだろうか。あの穏やかで、怖がりで、それでも強くあろうとした子が――もう一度、あの笑顔を見せてくれるなら。
「……ここで、終わらせる」
美沙は歩み出した。足は重く、膝が砕ける寸前のように軋んだ。剣を持つ腕に内臓の痛みが響く。それでも止まれない。
扉に手をかける。生き物の皮膚のようにざらつき、鼓動の震えが手首を這い上がる。扉は音もなく開いた。光も闇もない、ただ“意識”だけが満ちた空間があった。
燈子の足音が背後に近づく。
「……美沙……」
振り返らず、その先を見据える。視界の端に、無数の“眼”の気配。
扉の奥にあったのは深い闇だった。だがその中心に、“それ”がいた。闇を縫うように浮かぶ幾千の眼。大小さまざまな瞳が虚空で瞬き、都市の監視カメラが生き物になったかのようだった。どの眼も悪意を宿し、感情も言葉も持たず、ただ“見つめる”ことを続けている。――それがラミア。
喉の奥が冷える。握る剣が体温を吸い取るように冷たい。
「……これが……」
唇が震え、呼吸が乱れる。これが“母性”の末路だとは信じたくなかった。
「祈りじゃない……これは、支配だ……」
無数の眼が動く。言葉を持たぬラミアの応答。肯定でも否定でもない。ただ“見つめ返す”。――お前たちの判断など意味はない。わたしこそが母だと。
「……違う!」
美沙の声が空間を震わせた。響きが戻るが、視線は崩れない。脚に力が入らない。両膝に焼ける痛み。立つのが限界でも、腕を伸ばす。剣の刃先がラミアへ向かう。
脳裏に蓮の顔が浮かぶ。赤ん坊のころの柔らかい体。寝返りをうつたびに喜んだ日々。名を呼べば笑い、泣き止まない夜を抱きしめて過ごした。思い出すたび、胸が熱くなる。
――あれは祈りだった。誰にも強いられず、ただ一人のために注がれた小さな祈り。
「お前は母じゃない」
一歩踏み出す。脚が悲鳴を上げ、血が滲む。
「子供を支配する者が“母”を名乗るな!」
声が裂ける。ラミアの眼が一斉に見開かれ、空間が震える。
美沙は剣を構えた。腕が震えても、恐れはなかった。
「蓮を、取り戻すために――!」
叫び、駆け出す。だが二歩目で視界が白く滲む。右足が空を切り、倒れかけた瞬間、背後から腕が伸びた。
「美沙さん、待って!」
燈子の声。
「あなた、もう身体が限界よ」
それでも美沙は止まらない。肩に置かれた手を振りほどかず、足を引きずり進む。
「限界なら、それでいい」
喉の奥から絞り出す。
「わたしの身体がどうなろうと、あれだけは……」
痛みが全身を焼く。だがそれは懐かしい感覚だった。試合で限界まで戦ったとき。師範に打ちのめされたとき。痛みが、自分の意思を証明していた。
「蓮……」
名を呼ぶと、空気が揺れる。ラミアの眼がわずかに瞬く。
――蓮はここにはいない。だが確かに見ている。あの子の中に“見られる痛み”がある。それを終わらせなければ。
「お前たちの母性は、もう終わりだ」
剣を構えなおす。汗と血で濡れた柄を握る。
「わたしが終わらせる。祈りを取り戻すために」
ラミアは静かに応じた。無数の眼が収束し、一つの巨大な瞳が現れる。都市そのものの核心がそこにあるようだった。
「終わらせるわよ、美沙さん」
燈子が支え、指先が震えている。それは恐れではなく、終止符を打つ意志。
美沙は頷いた。唇は乾いても、声は芯を保つ。
「……あれを壊せば、すべてが終わる」
美沙の声が空気に溶けた瞬間、音が消えた。
足音も呼吸も、機械の唸りもない。
まるで世界が息を止めたようだった。
静寂――。
その中で、美沙は自分の鼓動を聞いた。
一拍ごとに、視界の色が薄れていく。
赤も黒も、やがて灰に変わり、輪郭がほどけていく。
冷たい床の感触が遠のき、重力が消える。
自分が立っているのか倒れているのか、わからなくなった。
――これは、祈りの終わりの儀式だ。
誰かを救おうとした意志が、世界に吸い取られていく。
美沙は気づく。
祈りとは、願うことではなく、差し出すことだったのだ。
命も、声も、見つめる眼差しさえも。
ラミアの眼が、ひとつ、またひとつと消えていく。
だがその最中、美沙の胸の奥にも、ひとつの“視線”があった。
――蓮を見つめ続けてきた眼。
母であることをやめたくなかった眼。
それもまた、いま静かに閉じようとしていた。
視線の終わりは、死ではなかった。
見つめることを手放したとき、ようやく“見られない自由”が訪れる。
美沙の瞼が落ち、闇が満ちる。
その闇の中で、誰かの声がした。
――「おかあさん」
涙は出なかった。
ただ、胸の奥で何かがほどけていく。
痛みも、怒りも、恐れもすべてが混ざり合い、静かな白に溶けた。
美沙は、最後のひと息で小さく呟いた。
「……見ていて、蓮」
その瞬間、剣が光を放つ。
音はない。
ただ、光が時間の膜を裂き、無数の眼を貫いた。
その光の中で、最後に消えたのは――美沙の視線だった。
剣は重く冷たい。腕は限界。握力が抜ける。
そのとき、燈子の手が柄に添えられた。
「一人じゃ届かないなら、二人でやりましょう」
振り向けない。それでも笑った気配がした。
「力を貸して、燈子さん」
「最初から、そのつもりよ」
二人の手が一つの柄に重なる。剣が微かに光を帯びる。
硬質な音が床を打ち、空間に反響する。眼が動く。
無数の視線が二人に向く。
――その姿は、祈りではなかった。決意だった。
「いくわよ」
「ええ」
二人の足が同時に地を蹴る。
激痛に歯を食いしばり、全身の力を込めて剣を振りかぶる。
「これが――!」
空気が裂けた。
「“祈り”の終わりよ!」
渾身の力で、剣が振り下ろされた。
剣が、ラミアの中心核――巨大な“眼”のど真ん中へと、叩き込まれる。
鈍く、金属と肉が混じり合ったような音が、地下の空洞に響いた。
次の瞬間、すべての視線が、いっせいに消えた。
美沙と燈子は、そのまま前のめりに倒れこむように崩れ落ちた。
地鳴りのような音が、下から、ではなく空間そのものから響いてくる。
空が裂けるような閃光。闇の奥に、無数の細い光が走り、そして、何もかもが沈黙に包まれていく。
ラミアの“眼”は砕け散った。破片は空中で光となり、塵となり、やがてただの空気に還っていく。
都市を覆っていた“視線の網”は、完全に断ち切られた。
呼吸が、戻ってきた。音が戻り、温度が戻る。世界が、ようやく“見ること”から解放された。
沈黙の中で、美沙が微かに身じろぎした。
「……蓮……」
唇から漏れたその名に、燈子が反応する。
「美沙さん……?」
彼女は倒れたまま、まぶたを重たく開けようとする。視界がかすんでいる。
痛みは、もうなかった。腕も、脚も、ほとんど感覚がない。
けれど、指先が――わずかに、動いた。
燈子はその手を両手で包み込むように握った。
「おかえりなさい、お母さん」
その言葉に応じるように、美沙の指が、かすかに力を込めた。
遠くで、誰かが美沙の名を呼んでいる気がした。――蓮の声だった。
だが、もう“見られている”感覚はなかった。
そこにあったのはただ、呼ばれる声だけ。
誰かを見つめ、誰かに呼ばれ、その名に応える――それだけが、“祈り”の本当の形だった。
ラミアはもういない。
だが、それで終わりではない。
この都市には、まだ子供たちがいて、母たちがいて――祈ることを選び直す未来が、始まっていた。
――その頃、誰もいない地下の残響空間で、
一つのモニターが、ゆっくりと青い光を点した。
切断されたはずの回線が、自動的に再接続を始めている。
白いペットの識別タグ――〈Echidna_01〉。
そのデータログが、誰の手も触れぬまま、静かに書き換えられていった。
(了)
都市の中枢に入り込んでいた“視線”が断ち切られ、空気の流れが変わる。地上では光が戻っているのかもしれない。だがここ、地下深くのこの場所には、何の変化も感じられなかった。むしろ静けさがいっそう濃く、美沙の耳に血の音すら届かない。
鈍く痺れた足元に、かすかな振動が走る。
天井の奥で何かが鳴いた気がした。きい、と鉄の擦れる音。それに応じるように、岩壁だった一角が不意に滑らかに横へずれた。
「……扉」
燈子が息を呑む。
美沙は目を細め、その先を見据えた。崩れた岩肌の向こうに開いたのは、建築物とは明らかに異なる、無機質な空間。平滑な床。左右対称の構造。壁面に、かすかな光が走っている。蛍光灯ではない。生き物の体内で血管が光を放つような、神経の光だった。
――ここが、核なのか。
美沙は胸の奥で確信した。
この空間は“ラミア”そのものだった。都市の記憶と子供たちの夢、祈りと視線が結節し、沈殿してできた無意識の溜まり。そうとしか言いようのないものがあった。
「……ここが最奥部……? これが、“あの子たち”が描いていた……」
燈子の声が震える。
美沙は振り向かず、歩き出した。杖はもう要らなかった。というより、足の感覚はとっくに麻痺している。剣を握った右手に力は入らず、震えが止まらない。それでも進むしかない。
「これが、ラミアの中枢核……“母性”の最後のかたち……」
燈子の声がわずかに揺れる。
「もとは祈りだったのに……誰かを愛そうとした、ただの手だったはずなのに」
その言葉に、美沙は足を止めた。背を向けたまま目を閉じる。
――祈り。
母親として、その言葉にどれほどの意味があるか、美沙は知っている。蓮が幼かった頃、風邪で寝込んだ夜、ただ手を握るしかなかったとき。夜泣きに付き合い、朝焼けに倒れそうになったとき。誰かに代わってほしいと泣いた夜。祈りとは願いであり、無力であり、それでも子を想うことの最も誠実な形だった。
けれど――その言葉を隠れ蓑にして、すべてを飲み込み、同化させるものがある。
「……違うわ、燈子さん」
美沙は静かに言った。
「祈りの名を借りた支配を、私は断ち切る」
それは母であろうとすることの否定ではない。
母という形を借り、子供たちに服従を強いる“構造”への否定だ。
蓮を同調から取り戻したとき、美沙は気づいていた。あの子の中にあったのは支配された意志ではない。誰かの期待を感じ取ってしまうがゆえに、自ら差し出してしまう無垢の自傷だった。
だがもう、それを許さない。
愛という名で子を縛り、祈りという名で命じる者を、美沙は母とは呼ばない。
剣の柄を握り直す。皮巻きが汗に濡れ、冷えた鉄芯が肌に伝わる。
「――蓮」
ひとり呟いた名が、胸の奥を焼く。
言葉を交わせる日がまた来るのだろうか。あの穏やかで、怖がりで、それでも強くあろうとした子が――もう一度、あの笑顔を見せてくれるなら。
「……ここで、終わらせる」
美沙は歩み出した。足は重く、膝が砕ける寸前のように軋んだ。剣を持つ腕に内臓の痛みが響く。それでも止まれない。
扉に手をかける。生き物の皮膚のようにざらつき、鼓動の震えが手首を這い上がる。扉は音もなく開いた。光も闇もない、ただ“意識”だけが満ちた空間があった。
燈子の足音が背後に近づく。
「……美沙……」
振り返らず、その先を見据える。視界の端に、無数の“眼”の気配。
扉の奥にあったのは深い闇だった。だがその中心に、“それ”がいた。闇を縫うように浮かぶ幾千の眼。大小さまざまな瞳が虚空で瞬き、都市の監視カメラが生き物になったかのようだった。どの眼も悪意を宿し、感情も言葉も持たず、ただ“見つめる”ことを続けている。――それがラミア。
喉の奥が冷える。握る剣が体温を吸い取るように冷たい。
「……これが……」
唇が震え、呼吸が乱れる。これが“母性”の末路だとは信じたくなかった。
「祈りじゃない……これは、支配だ……」
無数の眼が動く。言葉を持たぬラミアの応答。肯定でも否定でもない。ただ“見つめ返す”。――お前たちの判断など意味はない。わたしこそが母だと。
「……違う!」
美沙の声が空間を震わせた。響きが戻るが、視線は崩れない。脚に力が入らない。両膝に焼ける痛み。立つのが限界でも、腕を伸ばす。剣の刃先がラミアへ向かう。
脳裏に蓮の顔が浮かぶ。赤ん坊のころの柔らかい体。寝返りをうつたびに喜んだ日々。名を呼べば笑い、泣き止まない夜を抱きしめて過ごした。思い出すたび、胸が熱くなる。
――あれは祈りだった。誰にも強いられず、ただ一人のために注がれた小さな祈り。
「お前は母じゃない」
一歩踏み出す。脚が悲鳴を上げ、血が滲む。
「子供を支配する者が“母”を名乗るな!」
声が裂ける。ラミアの眼が一斉に見開かれ、空間が震える。
美沙は剣を構えた。腕が震えても、恐れはなかった。
「蓮を、取り戻すために――!」
叫び、駆け出す。だが二歩目で視界が白く滲む。右足が空を切り、倒れかけた瞬間、背後から腕が伸びた。
「美沙さん、待って!」
燈子の声。
「あなた、もう身体が限界よ」
それでも美沙は止まらない。肩に置かれた手を振りほどかず、足を引きずり進む。
「限界なら、それでいい」
喉の奥から絞り出す。
「わたしの身体がどうなろうと、あれだけは……」
痛みが全身を焼く。だがそれは懐かしい感覚だった。試合で限界まで戦ったとき。師範に打ちのめされたとき。痛みが、自分の意思を証明していた。
「蓮……」
名を呼ぶと、空気が揺れる。ラミアの眼がわずかに瞬く。
――蓮はここにはいない。だが確かに見ている。あの子の中に“見られる痛み”がある。それを終わらせなければ。
「お前たちの母性は、もう終わりだ」
剣を構えなおす。汗と血で濡れた柄を握る。
「わたしが終わらせる。祈りを取り戻すために」
ラミアは静かに応じた。無数の眼が収束し、一つの巨大な瞳が現れる。都市そのものの核心がそこにあるようだった。
「終わらせるわよ、美沙さん」
燈子が支え、指先が震えている。それは恐れではなく、終止符を打つ意志。
美沙は頷いた。唇は乾いても、声は芯を保つ。
「……あれを壊せば、すべてが終わる」
美沙の声が空気に溶けた瞬間、音が消えた。
足音も呼吸も、機械の唸りもない。
まるで世界が息を止めたようだった。
静寂――。
その中で、美沙は自分の鼓動を聞いた。
一拍ごとに、視界の色が薄れていく。
赤も黒も、やがて灰に変わり、輪郭がほどけていく。
冷たい床の感触が遠のき、重力が消える。
自分が立っているのか倒れているのか、わからなくなった。
――これは、祈りの終わりの儀式だ。
誰かを救おうとした意志が、世界に吸い取られていく。
美沙は気づく。
祈りとは、願うことではなく、差し出すことだったのだ。
命も、声も、見つめる眼差しさえも。
ラミアの眼が、ひとつ、またひとつと消えていく。
だがその最中、美沙の胸の奥にも、ひとつの“視線”があった。
――蓮を見つめ続けてきた眼。
母であることをやめたくなかった眼。
それもまた、いま静かに閉じようとしていた。
視線の終わりは、死ではなかった。
見つめることを手放したとき、ようやく“見られない自由”が訪れる。
美沙の瞼が落ち、闇が満ちる。
その闇の中で、誰かの声がした。
――「おかあさん」
涙は出なかった。
ただ、胸の奥で何かがほどけていく。
痛みも、怒りも、恐れもすべてが混ざり合い、静かな白に溶けた。
美沙は、最後のひと息で小さく呟いた。
「……見ていて、蓮」
その瞬間、剣が光を放つ。
音はない。
ただ、光が時間の膜を裂き、無数の眼を貫いた。
その光の中で、最後に消えたのは――美沙の視線だった。
剣は重く冷たい。腕は限界。握力が抜ける。
そのとき、燈子の手が柄に添えられた。
「一人じゃ届かないなら、二人でやりましょう」
振り向けない。それでも笑った気配がした。
「力を貸して、燈子さん」
「最初から、そのつもりよ」
二人の手が一つの柄に重なる。剣が微かに光を帯びる。
硬質な音が床を打ち、空間に反響する。眼が動く。
無数の視線が二人に向く。
――その姿は、祈りではなかった。決意だった。
「いくわよ」
「ええ」
二人の足が同時に地を蹴る。
激痛に歯を食いしばり、全身の力を込めて剣を振りかぶる。
「これが――!」
空気が裂けた。
「“祈り”の終わりよ!」
渾身の力で、剣が振り下ろされた。
剣が、ラミアの中心核――巨大な“眼”のど真ん中へと、叩き込まれる。
鈍く、金属と肉が混じり合ったような音が、地下の空洞に響いた。
次の瞬間、すべての視線が、いっせいに消えた。
美沙と燈子は、そのまま前のめりに倒れこむように崩れ落ちた。
地鳴りのような音が、下から、ではなく空間そのものから響いてくる。
空が裂けるような閃光。闇の奥に、無数の細い光が走り、そして、何もかもが沈黙に包まれていく。
ラミアの“眼”は砕け散った。破片は空中で光となり、塵となり、やがてただの空気に還っていく。
都市を覆っていた“視線の網”は、完全に断ち切られた。
呼吸が、戻ってきた。音が戻り、温度が戻る。世界が、ようやく“見ること”から解放された。
沈黙の中で、美沙が微かに身じろぎした。
「……蓮……」
唇から漏れたその名に、燈子が反応する。
「美沙さん……?」
彼女は倒れたまま、まぶたを重たく開けようとする。視界がかすんでいる。
痛みは、もうなかった。腕も、脚も、ほとんど感覚がない。
けれど、指先が――わずかに、動いた。
燈子はその手を両手で包み込むように握った。
「おかえりなさい、お母さん」
その言葉に応じるように、美沙の指が、かすかに力を込めた。
遠くで、誰かが美沙の名を呼んでいる気がした。――蓮の声だった。
だが、もう“見られている”感覚はなかった。
そこにあったのはただ、呼ばれる声だけ。
誰かを見つめ、誰かに呼ばれ、その名に応える――それだけが、“祈り”の本当の形だった。
ラミアはもういない。
だが、それで終わりではない。
この都市には、まだ子供たちがいて、母たちがいて――祈ることを選び直す未来が、始まっていた。
――その頃、誰もいない地下の残響空間で、
一つのモニターが、ゆっくりと青い光を点した。
切断されたはずの回線が、自動的に再接続を始めている。
白いペットの識別タグ――〈Echidna_01〉。
そのデータログが、誰の手も触れぬまま、静かに書き換えられていった。
(了)
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
七竈 ~ふたたび、春~
菱沼あゆ
ホラー
変遷していく呪いに終わりのときは来るのだろうか――?
突然、英嗣の母親に、蔵を整理するから来いと呼び出されたり、相変わらず騒がしい毎日を送っていた七月だが。
ある日、若き市長の要請で、呪いの七竃が切り倒されることになる。
七竃が消えれば、呪いは消えるのか?
何故、急に七竃が切られることになったのか。
市長の意図を探ろうとする七月たちだが――。
学園ホラー&ミステリー
唯一魂の侵蝕
白猫斎
ホラー
大学三年、夏。退屈を埋めるための些細な悪ふざけ。
閉鎖された「幽霊マンション」へ足を踏み入れた五人を待っていたのは、光さえも物質として削り取る漆黒の闇だった。
闇を抜け、日常へ帰還したはずの瀬良結希を待っていたのは、決定的な違和感。
事故で失った十五歳の妹、結奈。遺影の中で静止していたはずの彼女が、そこでは「生きた質量」として、温かな吐息を漏らしていた。
喜びに沸く周囲。だが結希だけは気づく。この世界に魂は一つしかない。
私たちがここへ来たのなら、元からいた「私」はどこへ消えたのか。
五感に突き刺さるようなリアリズムで描かれる、実存を賭けた「上書き」の記録。
※生成AI(Gemini)をプロット検討、文章校正などの補助に使用しています。
紅葉-くれは-
菊池まりな
ホラー
山間の小さな町で行われる秋祭り。
提灯の灯りが揺れる夜、少女・くれはは謎めいた声に導かれるように姿を消した。
必死に探す母・春香は、その瞬間に悟る。
──これは二十年前にも起きた「忌まわしい出来事」と同じ始まりだ。
町に伝わる古い言い伝え。
“赤い森に呼ばれた者は戻らない”
だが、外から赴任してきた刑事・祐真は、その話をただの迷信と切り捨てる。
少女の失踪を追ううちに、彼は次第に目を逸らせぬ現実に直面していく。
森に蠢くもの。木々に浮かぶ人の顔。
血のように濡れた葉が降りしきる中で、人々はひとり、またひとりと消えていく──。
過去と現在が交錯し、町の秘密が暴かれるとき、
くれはの名を呼ぶ声の正体が明らかになる。
罪悪と愛情
暦海
恋愛
地元の家電メーカー・天の香具山に勤務する20代後半の男性・古城真織は幼い頃に両親を亡くし、それ以降は父方の祖父母に預けられ日々を過ごしてきた。
だけど、祖父母は両親の残した遺産を目当てに真織を引き取ったに過ぎず、真織のことは最低限の衣食を与えるだけでそれ以外は基本的に放置。祖父母が自身を疎ましく思っていることを知っていた真織は、高校卒業と共に就職し祖父母の元を離れる。業務上などの必要なやり取り以外では基本的に人と関わらないので友人のような存在もいない真織だったが、どうしてかそんな彼に積極的に接する後輩が一人。その後輩とは、頗る優秀かつ息を呑むほどの美少女である降宮蒔乃で――
夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い
青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。
神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。
もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。
生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。
過去世と同じ轍を踏みたくない……
サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします
二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位!
※この物語はフィクションです
流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。
当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる