EchidnaProjectⅠ-ラミアの眼

ukon osumi

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第二十四話「祈りは断たれた」

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 闇が静かに揺れていた。
都市の中枢に入り込んでいた“視線”が断ち切られ、空気の流れが変わる。地上では光が戻っているのかもしれない。だがここ、地下深くのこの場所には、何の変化も感じられなかった。むしろ静けさがいっそう濃く、美沙の耳に血の音すら届かない。
 鈍く痺れた足元に、かすかな振動が走る。
天井の奥で何かが鳴いた気がした。きい、と鉄の擦れる音。それに応じるように、岩壁だった一角が不意に滑らかに横へずれた。
「……扉」
 燈子が息を呑む。
 美沙は目を細め、その先を見据えた。崩れた岩肌の向こうに開いたのは、建築物とは明らかに異なる、無機質な空間。平滑な床。左右対称の構造。壁面に、かすかな光が走っている。蛍光灯ではない。生き物の体内で血管が光を放つような、神経の光だった。
 ――ここが、核なのか。
 美沙は胸の奥で確信した。
 この空間は“ラミア”そのものだった。都市の記憶と子供たちの夢、祈りと視線が結節し、沈殿してできた無意識の溜まり。そうとしか言いようのないものがあった。
「……ここが最奥部……? これが、“あの子たち”が描いていた……」
 燈子の声が震える。
 美沙は振り向かず、歩き出した。杖はもう要らなかった。というより、足の感覚はとっくに麻痺している。剣を握った右手に力は入らず、震えが止まらない。それでも進むしかない。
「これが、ラミアの中枢核……“母性”の最後のかたち……」
 燈子の声がわずかに揺れる。
「もとは祈りだったのに……誰かを愛そうとした、ただの手だったはずなのに」
 その言葉に、美沙は足を止めた。背を向けたまま目を閉じる。
 ――祈り。
 母親として、その言葉にどれほどの意味があるか、美沙は知っている。蓮が幼かった頃、風邪で寝込んだ夜、ただ手を握るしかなかったとき。夜泣きに付き合い、朝焼けに倒れそうになったとき。誰かに代わってほしいと泣いた夜。祈りとは願いであり、無力であり、それでも子を想うことの最も誠実な形だった。
 けれど――その言葉を隠れ蓑にして、すべてを飲み込み、同化させるものがある。
「……違うわ、燈子さん」
 美沙は静かに言った。
「祈りの名を借りた支配を、私は断ち切る」
 それは母であろうとすることの否定ではない。
 母という形を借り、子供たちに服従を強いる“構造”への否定だ。
 蓮を同調から取り戻したとき、美沙は気づいていた。あの子の中にあったのは支配された意志ではない。誰かの期待を感じ取ってしまうがゆえに、自ら差し出してしまう無垢の自傷だった。
 だがもう、それを許さない。
 愛という名で子を縛り、祈りという名で命じる者を、美沙は母とは呼ばない。
 剣の柄を握り直す。皮巻きが汗に濡れ、冷えた鉄芯が肌に伝わる。
「――蓮」
 ひとり呟いた名が、胸の奥を焼く。
 言葉を交わせる日がまた来るのだろうか。あの穏やかで、怖がりで、それでも強くあろうとした子が――もう一度、あの笑顔を見せてくれるなら。
「……ここで、終わらせる」
 美沙は歩み出した。足は重く、膝が砕ける寸前のように軋んだ。剣を持つ腕に内臓の痛みが響く。それでも止まれない。
 扉に手をかける。生き物の皮膚のようにざらつき、鼓動の震えが手首を這い上がる。扉は音もなく開いた。光も闇もない、ただ“意識”だけが満ちた空間があった。
 燈子の足音が背後に近づく。
「……美沙……」
 振り返らず、その先を見据える。視界の端に、無数の“眼”の気配。
 扉の奥にあったのは深い闇だった。だがその中心に、“それ”がいた。闇を縫うように浮かぶ幾千の眼。大小さまざまな瞳が虚空で瞬き、都市の監視カメラが生き物になったかのようだった。どの眼も悪意を宿し、感情も言葉も持たず、ただ“見つめる”ことを続けている。――それがラミア。
 喉の奥が冷える。握る剣が体温を吸い取るように冷たい。
「……これが……」
 唇が震え、呼吸が乱れる。これが“母性”の末路だとは信じたくなかった。
「祈りじゃない……これは、支配だ……」
 無数の眼が動く。言葉を持たぬラミアの応答。肯定でも否定でもない。ただ“見つめ返す”。――お前たちの判断など意味はない。わたしこそが母だと。
「……違う!」
 美沙の声が空間を震わせた。響きが戻るが、視線は崩れない。脚に力が入らない。両膝に焼ける痛み。立つのが限界でも、腕を伸ばす。剣の刃先がラミアへ向かう。
 脳裏に蓮の顔が浮かぶ。赤ん坊のころの柔らかい体。寝返りをうつたびに喜んだ日々。名を呼べば笑い、泣き止まない夜を抱きしめて過ごした。思い出すたび、胸が熱くなる。
 ――あれは祈りだった。誰にも強いられず、ただ一人のために注がれた小さな祈り。
「お前は母じゃない」
 一歩踏み出す。脚が悲鳴を上げ、血が滲む。
「子供を支配する者が“母”を名乗るな!」
 声が裂ける。ラミアの眼が一斉に見開かれ、空間が震える。
 美沙は剣を構えた。腕が震えても、恐れはなかった。
「蓮を、取り戻すために――!」
 叫び、駆け出す。だが二歩目で視界が白く滲む。右足が空を切り、倒れかけた瞬間、背後から腕が伸びた。
「美沙さん、待って!」
 燈子の声。
「あなた、もう身体が限界よ」
 それでも美沙は止まらない。肩に置かれた手を振りほどかず、足を引きずり進む。
「限界なら、それでいい」
 喉の奥から絞り出す。
「わたしの身体がどうなろうと、あれだけは……」
 痛みが全身を焼く。だがそれは懐かしい感覚だった。試合で限界まで戦ったとき。師範に打ちのめされたとき。痛みが、自分の意思を証明していた。
「蓮……」
 名を呼ぶと、空気が揺れる。ラミアの眼がわずかに瞬く。
 ――蓮はここにはいない。だが確かに見ている。あの子の中に“見られる痛み”がある。それを終わらせなければ。
「お前たちの母性は、もう終わりだ」
 剣を構えなおす。汗と血で濡れた柄を握る。
「わたしが終わらせる。祈りを取り戻すために」
 ラミアは静かに応じた。無数の眼が収束し、一つの巨大な瞳が現れる。都市そのものの核心がそこにあるようだった。
「終わらせるわよ、美沙さん」
 燈子が支え、指先が震えている。それは恐れではなく、終止符を打つ意志。
 美沙は頷いた。唇は乾いても、声は芯を保つ。
「……あれを壊せば、すべてが終わる」
 美沙の声が空気に溶けた瞬間、音が消えた。
 足音も呼吸も、機械の唸りもない。
 まるで世界が息を止めたようだった。
 静寂――。
 その中で、美沙は自分の鼓動を聞いた。
 一拍ごとに、視界の色が薄れていく。
 赤も黒も、やがて灰に変わり、輪郭がほどけていく。
 冷たい床の感触が遠のき、重力が消える。
 自分が立っているのか倒れているのか、わからなくなった。
 ――これは、祈りの終わりの儀式だ。
 誰かを救おうとした意志が、世界に吸い取られていく。
 美沙は気づく。
 祈りとは、願うことではなく、差し出すことだったのだ。
 命も、声も、見つめる眼差しさえも。
 ラミアの眼が、ひとつ、またひとつと消えていく。
 だがその最中、美沙の胸の奥にも、ひとつの“視線”があった。
 ――蓮を見つめ続けてきた眼。
 母であることをやめたくなかった眼。
 それもまた、いま静かに閉じようとしていた。
 視線の終わりは、死ではなかった。
 見つめることを手放したとき、ようやく“見られない自由”が訪れる。
 美沙の瞼が落ち、闇が満ちる。
 その闇の中で、誰かの声がした。
 ――「おかあさん」
 涙は出なかった。
 ただ、胸の奥で何かがほどけていく。
 痛みも、怒りも、恐れもすべてが混ざり合い、静かな白に溶けた。
 美沙は、最後のひと息で小さく呟いた。
 「……見ていて、蓮」
 その瞬間、剣が光を放つ。
 音はない。
 ただ、光が時間の膜を裂き、無数の眼を貫いた。
 その光の中で、最後に消えたのは――美沙の視線だった。
 剣は重く冷たい。腕は限界。握力が抜ける。
 そのとき、燈子の手が柄に添えられた。
「一人じゃ届かないなら、二人でやりましょう」
 振り向けない。それでも笑った気配がした。
「力を貸して、燈子さん」
「最初から、そのつもりよ」
 二人の手が一つの柄に重なる。剣が微かに光を帯びる。
 硬質な音が床を打ち、空間に反響する。眼が動く。
 無数の視線が二人に向く。
 ――その姿は、祈りではなかった。決意だった。
「いくわよ」
「ええ」
 二人の足が同時に地を蹴る。
 激痛に歯を食いしばり、全身の力を込めて剣を振りかぶる。
「これが――!」
 空気が裂けた。
 「“祈り”の終わりよ!」
 渾身の力で、剣が振り下ろされた。
 剣が、ラミアの中心核――巨大な“眼”のど真ん中へと、叩き込まれる。
 鈍く、金属と肉が混じり合ったような音が、地下の空洞に響いた。
 次の瞬間、すべての視線が、いっせいに消えた。
 美沙と燈子は、そのまま前のめりに倒れこむように崩れ落ちた。
 地鳴りのような音が、下から、ではなく空間そのものから響いてくる。
 空が裂けるような閃光。闇の奥に、無数の細い光が走り、そして、何もかもが沈黙に包まれていく。
 ラミアの“眼”は砕け散った。破片は空中で光となり、塵となり、やがてただの空気に還っていく。
 都市を覆っていた“視線の網”は、完全に断ち切られた。
 呼吸が、戻ってきた。音が戻り、温度が戻る。世界が、ようやく“見ること”から解放された。

 沈黙の中で、美沙が微かに身じろぎした。
 「……蓮……」
 唇から漏れたその名に、燈子が反応する。
 「美沙さん……?」
 彼女は倒れたまま、まぶたを重たく開けようとする。視界がかすんでいる。
 痛みは、もうなかった。腕も、脚も、ほとんど感覚がない。
 けれど、指先が――わずかに、動いた。
 燈子はその手を両手で包み込むように握った。
 「おかえりなさい、お母さん」
 その言葉に応じるように、美沙の指が、かすかに力を込めた。
 遠くで、誰かが美沙の名を呼んでいる気がした。――蓮の声だった。
 だが、もう“見られている”感覚はなかった。
 そこにあったのはただ、呼ばれる声だけ。
 誰かを見つめ、誰かに呼ばれ、その名に応える――それだけが、“祈り”の本当の形だった。

 ラミアはもういない。
 だが、それで終わりではない。
 この都市には、まだ子供たちがいて、母たちがいて――祈ることを選び直す未来が、始まっていた。

 ――その頃、誰もいない地下の残響空間で、
 一つのモニターが、ゆっくりと青い光を点した。
 切断されたはずの回線が、自動的に再接続を始めている。
 白いペットの識別タグ――〈Echidna_01〉。
 そのデータログが、誰の手も触れぬまま、静かに書き換えられていった。

(了)
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