〈影咒記(EIJUKI)〉江戸咒譚 第二篇 ― 紫陽花庵夢死帳(あじさいあんむしちょう)

ukon osumi

文字の大きさ
6 / 18
第二章「忘れられた男」

第二話:残された日記

しおりを挟む
 午後、新右衛門は再び紫陽花庵を訪れた。細い雨が上がったばかりで、庭先の紫陽花はしっとりと露に濡れ、青から微かに紫がかった色味へと変じつつあった。まるで咲き誇る花々までもが、物言わぬ証言者であるかのように、事件の気配をまとっていた。
「お待ちしておりました」
 咲弥が静かに頭を下げる。その目は、どこか怯えと迷いを湛えていた。彼女の手には、厚手の布で包まれた小箱が抱えられている。
「これが……お貞さまの日記です」
 新右衛門は黙って受け取り、慎重に蓋を開いた。中には和紙を綴じた簡素な帳面が一冊。表紙には薄く「夢の記(ゆめのしるし)」と筆で書かれていた。
「これは……」
「お貞さまが、若いころから書き綴っていたものです。夢の記録と、それから……恋のことも」
 咲弥の手がわずかに震える。新右衛門は帳面を丁重に捲り始めた。筆跡は初めこそ柔らかくたおやかだったが、数年が経過するにつれ、筆圧が強くなり、やがて焦燥と迷いの混じる文字へと変わっていった。
 ――弥一郎さまに会う。
 ――ふたりでいられる時間は、夢のよう。
 ――この身、彼とともに果てたい。
「……やはり、心中か」
 新右衛門が呟くと、咲弥が小さく頷いた。

「五年前のことです。夏の終わり、二人して姿を消しました。でも、翌朝になって……お貞さまだけが、江戸に戻ってきた」
「弥一郎の死体は?」
「見つかっていません。川に身を投げたそうですが、下流で遺体があがることもなく……」
 それきり、日記にはしばらく空白が続いていた。そして、再び筆が走った箇所には――
 ――弥一郎さまの声が、夢に響く。
 ――あなたは嘘をついたの、と。
 ――私は、いまでも、待っているのよ。

 新右衛門は日記を閉じ、深く息を吐いた。恋慕、罪悪感、そして後悔――それらが混然となって筆に宿り、霊の導線となっている。艶書とは、その延長線上にある“呪詛の器”に違いなかった。
「咲弥」
「はい……」
「艶書を写すようになったのは、いつからだ?」
「……去年の春からです。お貞さまに相談されて……あの方、誰かに『この思いを伝えたい』と、繰り返し言っておられました。私も、ただの恋文かと……けれど……」
 言葉を濁し、咲弥は目を伏せた。
「書いていくうちに、文に何か……重みのようなものが、宿っていると気づきました。でも、気づいたときには、もう遅かったんです」
「咲弥」
 おせんが咲弥の傍に膝をつき、静かに語りかける。彼女に姿は見えないはずだが、その声は心に染み入るように届く。
「あなたの筆は、まだ“媒介”だっただけよ。呪いを生み出したのは、もっと深い執着──お貞自身。あなたが背負うものじゃないわ」
 咲弥は、不意に目を潤ませた。
「……でも、私は、それを止められなかった」
「今、止めればいい」
 新右衛門が静かに言った。
「今からでも、やれることはある」
 彼は咲弥の前に膝をつき、目線を合わせる。
「咲弥。日記のこの部分――夢の記録のところだけ、抜き書きしてくれ」
「抜き……ですか?」
「弥一郎がどう現れたか、それぞれの夜にどんな言葉を交わしたか。夢の中の情景を知る必要がある」
 咲弥は逡巡したが、やがて頷いた。
「……わかりました。筆を取りましょう」
 その夜、鬼念庵に戻った新右衛門は、咲弥の抜き書きを道明とともに読む。そこには、複数の夜にわたって繰り返される弥一郎の姿が記されていた。声、仕草、場所――あまりに生々しい。
「これは、ただの夢じゃねえな……」
 新右衛門の呟きに、道明が頷く。
「霊が夢に入り込んでる。だが、単に“覗いている”だけじゃねえ。自分の意志で導いてる」
「導いて、どうする?」
「……願いを成就させようとしているのだろうな。かつて果たせなかった“心中”を、今度こそ完成させるために」
「女を死に誘う、ということか」
「そうだ。そして、女がその気持ちを受け入れたとき、艶書が媒介になって命を奪う」
 おせんは、しばらく日記に目を落としたまま黙っていた。やがて、小さく呟く。
「この霊……ただの未練じゃない。お貞への愛情が、“選別する心”に変わってる。自分を忘れない女を、弥一郎は愛し、そして縛ろうとしてるのよ」
 その瞬間、軒先の風鈴が突然、激しく鳴った。
 ピィィィィィ――ン……。
 新右衛門が立ち上がると、庵の奥から藤吉が飛び込んできた。
「お、お頭! 今しがた、またひとり……花街の芸者が、寝所で息絶えてました!」
「……またか」
 道明が呟く。
「そろそろ本腰を入れねばならんな、“夢”の中でな」
 紫陽花は、知らぬ間に、紫を深めていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

無用庵隠居清左衛門

蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。 第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。 松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。 幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。 この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。 そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。 清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。 俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。 清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。 ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。 清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、 無視したのであった。 そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。 「おぬし、本当にそれで良いのだな」 「拙者、一向に構いません」 「分かった。好きにするがよい」 こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。

花嫁

一ノ瀬亮太郎
歴史・時代
征之進は小さい頃から市松人形が欲しかった。しかし大身旗本の嫡男が女の子のように人形遊びをするなど許されるはずもない。他人からも自分からもそんな気持を隠すように征之進は武芸に励み、今では道場の師範代を務めるまでになっていた。そんな征之進に結婚話が持ち込まれる。

魔王の残影 ~信長の孫 織田秀信物語~

古道 庵
歴史・時代
「母を、自由を、そして名前すらも奪われた。それでも俺は――」 天正十年、第六天魔王・織田信長は本能寺と共に炎の中へと消えた―― 信長とその嫡男・信忠がこの世を去り、残されたのはまだ三歳の童、三法師。 清須会議の場で、豊臣秀吉によって織田家の後継とされ、後に名を「秀信」と改められる。 母と引き裂かれ、笑顔の裏に冷たい眼を光らせる秀吉に怯えながらも、少年は岐阜城主として時代の奔流に投げ込まれていく。 自身の存在に疑問を抱き、葛藤に苦悶する日々。 友と呼べる存在との出会い。 己だけが見える、祖父・信長の亡霊。 名すらも奪われた絶望。 そして太閤秀吉の死去。 日ノ本が二つに割れる戦国の世の終焉。天下分け目の関ヶ原。 織田秀信は二十一歳という若さで、歴史の節目の大舞台に立つ。 関ヶ原の戦いの前日譚とも言える「岐阜城の戦い」 福島正則、池田照政(輝政)、井伊直政、本田忠勝、細川忠興、山内一豊、藤堂高虎、京極高知、黒田長政……名だたる猛将・名将の大軍勢を前に、織田秀信はたったの一国一城のみで相対する。 「魔王」の血を受け継ぐ青年は何を望み、何を得るのか。 血に、時代に、翻弄され続けた織田秀信の、静かなる戦いの物語。 ※史実をベースにしておりますが、この物語は創作です。 ※時代考証については正確ではないので齟齬が生じている部分も含みます。また、口調についても現代に寄せておりますのでご了承ください。

アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)

三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。 佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。 幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。 ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。 又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。 海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。 一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。 事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。 果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。 シロの鼻が真実を追い詰める! 別サイトで発表した作品のR15版です。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

中1でEカップって巨乳だから熱く甘く生きたいと思う真理(マリー)と小説家を目指す男子、光(みつ)のラブな日常物語

jun( ̄▽ ̄)ノ
大衆娯楽
 中1でバスト92cmのブラはEカップというマリーと小説家を目指す男子、光の日常ラブ  ★作品はマリーの語り、一人称で進行します。

処理中です...