〈影咒記(EIJUKI)〉江戸咒譚 第二篇 ― 紫陽花庵夢死帳(あじさいあんむしちょう)

ukon osumi

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第四章「夢の淵を越えて」

第一話「夢と現の接点」

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 南町奉行所の一角。夕暮れが迫る中、新右衛門は道明とおせんと共に、ひと気のない書院にいた。畳の上に敷かれた絹布の上には、奇妙な形に切られた護符が五枚。中央には、黒墨の筆で描かれた円陣が広がっている。
「これが……夢と現を繋ぐ術式、か」
新右衛門は、円陣を見下ろしながら呟いた。何重にも重なる円と文字。その線の一つ一つに、わずかだが霊的な気のようなものが感じられた。
道明はうなずきながら、護符を手に取る。
「これは“結界渡りの符”じゃ。持つ者の魂を、術式の円陣を通じて、夢の深層に送り出す……簡単に言えばそういうものじゃ。だが、ただの夢見とは違う。現世の肉体を護る準備も必要じゃ」
おせんがそっと新右衛門の隣に座った。まるで実体があるかのように畳にしっかりと座り、彼の袖をつまむ。
「危険、なんでしょう? もしも夢の中で命を奪われたら……」
道明が答えるより先に、新右衛門はおせんの手を取り、静かにうなずいた。
「夢で死ねば……現でも命を落とす。それは、今までの犠牲者たちが証明している」
道明が護符を畳の上に広げた。
「術式は明晩、丑三つ時(午前二時頃)に執り行う。それまでに、心を定めておけ。夢に踏み込むということは、霊の“巣”に入るということ。目覚められなければ、帰れん」
新右衛門は黙って頷いた。
自分にできるのか、と自問する声が内からわいてくる。しかし、これ以上、艶書に蝕まれる者を出すわけにはいかない。藤吉も、あやうく命を落としかけた。そう思えば、選ぶ道は一つだった。
「そろそろ、“夢”の向こうに踏み込む覚悟を決めねえとな」
おせんがそっと微笑んだ。
「夢の中なら、わたしもあなたと並んで歩ける。……霊の力も、ちゃんと使えるわ」
新右衛門は彼女の眼を見つめた。生きていたときと変わらない、強く、澄んだ眼差し。その奥に、静かな決意と、なによりも深い想いが宿っていた。
「……ああ。二人で行こう」
部屋の隅で道明が小さく頷く。
「おぬしらの覚悟は、見届けた。わしも準備に抜かりはせぬ。だが――夢の結界は不安定なもの。明晩の術に至るまで、何が起きてもおかしくはないぞ」
その時、屋敷の外から風が吹き抜けた。障子が微かに揺れ、ふわりとした気配が空気を撫でた。
「風の匂いが……変わったわ」
おせんが低く呟いた。
新右衛門もまた、背筋に何かひやりとした感覚を覚えていた。それは、これまで幾度となく事件の只中で味わった、死の予兆に似ていた。
「念のため、紫陽花庵を見て回っておくか」
新右衛門のその一言に、道明は頷いた。
「それがよい。結界が完全に繋がるまで、艶書の流出が止むとは限らぬ」
新右衛門は立ち上がり、腰の刀に手を添えた。
「行こう、おせん」
彼女は無言で立ち上がり、新右衛門の隣に寄り添う。その姿は人の目には映らぬが、彼にとっては、何よりも心強い相棒であった。
夜の帳が降り始めた江戸の町へ、二人は音もなく歩み出した。彼らの足元には、しとしとと濡れた石畳。雨はまだ降っていないのに、紫陽花の花弁が一枚、風に舞って落ちた。色は淡い青。
その青が、やがて変わることを、新右衛門はまだ知らなかった――。

 紫陽花庵の周囲は、ひと気がなく静まり返っていた。
暮れ六つ(午後七時半頃)の鐘が遠くで鳴り、江戸の町に夜が忍び寄る中、新右衛門はおせんと並んで歩いていた。庵の屋根が見えてくると、胸の内に微かな緊張が走る。あの場所からすべてが始まり、そして今も、艶書の呪いはそこを根として息づいているのだ。
庵の戸は固く閉じられていた。人気もない。だが、そこに“何か”がある気配だけは、確かにあった。
「ここから、夢が滲み出してる……」
おせんがぽつりと呟く。霊の感覚を持つ彼女には、現と夢の境界が染み出すような違和感として伝わるのだろう。
新右衛門は刀の柄に軽く手を添え、庵の周囲を巡った。わずかに歪んだ瓦、枯れかけた紫陽花、風にたなびく暖簾の切れ端。どれも一見、ただの風景だ。だが、眼を凝らせば、そこに“弥一郎”の気配が残っている。
「今も、ここで誰かを待っているのか……」
藤吉が艶書を拾ったのも、ここの裏手だった。
道明の術で命は救われたが、あの恐怖は彼の心に深く刻まれている。新右衛門はふと、藤吉の怯えた目を思い出した。あの目を、これ以上、誰にもさせたくはない。
庵の裏手に回ると、軒下に干されたままの洗いざらしの手拭いが揺れていた。ひとつだけ、刺繍の糸が解けかけたものがある。女の手によるものだろう。お貞か、それとも別の……?
「弥一郎は、夢の中で逢瀬を重ねていたつもりだったのよね」
おせんが静かに言った。
「でも、それは呪いになってしまった。会いたいという気持ちが、誰かの命を奪うものになってしまったなんて……」
新右衛門は何も言わず、ただ庵を見つめた。
“想い”というものが、それほどまでに人を縛るものなのか。人は誰かを愛し、恋し、その念が届かなければ、深い闇へと堕ちていく。
「俺も……同じ道を歩いてるのかもしれねぇな」
その言葉に、おせんがはっとしたように彼を見た。
「違うわ」
強く、確かにそう言った。
「あなたは、私とともにある。でも、あの男は、一人で過去に縋り続けている。そこが決定的に違うの」
おせんの言葉に、新右衛門はわずかに頷いた。
 過去とともに在ることと、過去に囚われること。それは似て非なるものだ。だが、紙一重で隣り合っている。
「……行こう。ここでできることは、もうねえ」
二人は庵を離れた。
背後で、風が紫陽花を揺らした。淡い青が、夜の闇に溶けていく。
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