〈影咒記(EIJUKI)〉江戸咒譚 第二篇 ― 紫陽花庵夢死帳(あじさいあんむしちょう)

ukon osumi

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第五章「紫陽花、白く咲きて」

第二話「別れの決意」

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 夜明け前の江戸は、まだ眠りの底にあった。新右衛門は紫陽花庵の前に立ち、朝霧に霞む庭をじっと見つめていた。紫陽花の花弁は薄い白色に変わり、その静かな佇まいが、まるで別れを告げるように見える。
 紫陽花庵の戸口には、お貞が立っていた。彼女の顔はいつになく凛としていて、これからの決断を胸に秘めているのが伝わってくる。長い闘いを終え、執着の霊たちから解放された彼女だが、心の中には複雑な思いが渦巻いていた。
「新右衛門様…」お貞の声は静かだが、決意を感じさせた。「この紫陽花庵は、今日をもって閉じることにいたしました。もう、ここで過去を繰り返すことはできません。」
 新右衛門は静かに頷いた。彼自身もまた、この事件を通して多くのことを学び、傷つき、そして少しだけ成長したのを感じていた。
「それでよい。お貞殿が心の芯を見つけることこそ、何よりだ。」
 その言葉を聞き、お貞の目が一瞬潤んだが、すぐに凛とした表情へ戻った。
 紫陽花の茎には芯がないという話があった。昔から「紫陽花を植えた家は、大黒柱がなくなる」という迷信が江戸の町には根強く伝わっている。しかし、今のお貞にとっては、それが怖れではなく、新たな始まりの象徴に思えた。
「芯がないからこそ、しなやかに生きていけるのです」とお貞は小さく笑った。その言葉には、強さと柔らかさが混じっていた。
 その頃、咲弥は遠い江戸の外れで、荷物をまとめていた。彼女の心は揺れていた。夢の世界と現実の狭間で経験した恐怖と救い、そして新たな決意。
「もう、ここにはいられない」と彼女は呟いた。江戸という街の喧騒から離れ、新たな道を歩むために。
 新右衛門はお貞の背中を見送るため、庵の外へ出た。夜明けの空が薄紅色に染まり、江戸の町に新しい日が訪れようとしていた。
「お前もまた、自分の道を見つける時だ」と新右衛門は静かに思った。
 三人それぞれの心に、過去の影は薄れ、未来への希望がわずかに灯り始めていた。しかし、まだ完全な終わりではない。紫陽花の花のように、彼らの物語もこれからも変化し続けるのだ。

 その日の午後、紫陽花庵では、最後の膳が囲まれていた。道明と藤吉が客人として呼ばれ、咲弥は既に旅支度を終えている。庵の空気には、静かなけじめの匂いが漂っていた。
「咲弥、これからどうするつもりだ?」新右衛門が問うと、咲弥は紫陽花の咲く庭に目をやりながら、淡く微笑んだ。
「まずは母の実家へ……信州です。少し静かなところで、自分を見つめ直したいんです」
 言葉には決意があり、それが新右衛門の胸に沁みた。あれほど動揺し、怯えていた少女が、いまでは見違えるほど落ち着いた表情をしている。
「立派になったな」と、新右衛門は柔らかく言った。
 咲弥は深く頭を下げ、「新さん、本当に……ありがとうございました」と言い、門口で一礼して、静かに去っていった。
 誰も言葉を発せぬまま、咲弥の背中を見送った。
 新右衛門はその背に、ひとつの季節の終わりを感じた。
 座敷に戻ると、お貞が涼やかな白磁の茶器を手に、湯を注いでいた。
 立ちのぼる湯気は細く、初夏の光を受けてかすかに揺れ、彼女の横顔にやわらかく霞をかけていた。
「紫陽花庵は、まもなく壊します」とお貞が告げた。「この場所には、あまりにも多くの想いが積もりました。形を消さなければ、また誰かが呑み込まれてしまう」
 それを聞いて、藤吉が口を尖らせてつぶやいた。
「もったいねぇなあ……こんなに立派なのに」
「藤吉が惜しむとは意外だな」と新右衛門が笑う。「霊が出ると聞いた途端、腰抜かしてたくせに」
「い、いえいえ、出ないなら大丈夫って話ですよ、へい!」
 どこかしら緊張が解けて、座敷に和やかな空気が戻る。そのとき、障子の隙間から風が入り、一枚の白い紫陽花の花弁がふわりと舞い込んできた。
 おせんがふと、その花弁を見つめながら、小声で言った。
「……この場所も、ようやく解かれましたね」
 その姿は新右衛門にしか見えないが、彼女の声音には、どこか安堵と哀しみが混じっていた。
「おせん……おまえは、どう思っている?」
 新右衛門の問いに、おせんは静かに微笑み、頷いた。
「ここへ来て、よかったと思います。人の想いの重さも、優しさも……全部、見えた気がします」
 新右衛門は、彼女の声を深く受け止めるように目を閉じた。そのとき、袖口に何かが触れた気がして、開いた目には、風に揺れる紫陽花の姿が映った。
 庵の裏手では、道明が結界杭を一本ずつ抜いていた。浄火はすでに冷え、焼かれた髪と符は灰となって風に散った。もう、ここには誰も囚われていない。
 夕陽が西の空を赤く染め、紫陽花庵を包む。その静けさの中、新右衛門はひとり、庭先に立っていた。ふと目をやると、咲弥、お貞、弥一郎の面影が白い花々の間に揺れて見えた――まるで、別れを告げるかのように。
(想いは、時を超えて繋がるものか……)
 そんな想いに胸を打たれながら、ひらりと肩に舞い降りた紫陽花の花弁を、そっと摘んで懐にしまい込んだ。
 それは、終わりではなく、ひとつの区切りだった。
(了)
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