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第1話 余命二年と宣告された朝、彼女は運命の学園に入学した
しおりを挟む目を覚ました瞬間、天井が知らない顔をしていた。
白すぎもしない、古すぎもしない。けれど確かに、昨日まで見上げていたヴァレリア侯爵邸の天井とは違う。過剰な装飾を排した、落ち着いた木目が静かに視界いっぱいに広がっていた。
「……ああ、そうだ」
ここは魔法学園の女子寮だ。今日から、自分はこの場所で生活する。
アイリス・ヴァレリアは胸の奥でその事実を一度だけ確かめてから、小さく息を吸い込んだ。
カーテン越しに差し込む朝日はやわらかく、部屋の空気を淡い金色に染めている。遠くから響く鐘の音は、時間を告げるというより、この学園が積み重ねてきた長い年月を刻むような、重厚な響きだった。
上半身を起こすと、昨夜見た奇妙な夢の断片が喉元まで迫り上がる。真っ白な世界、ふざけた神様、そして「十八歳で死ぬ」という不吉な宣告。
「……いや、そんな簡単に死ぬわけにはいかないし」
アイリスは小さく首を振って、枕元の鏡を手に取った。……そして、思わず顔をしかめる。
「……やっぱり」
鏡の中には、重力に逆らうことを決意したような、見事な寝癖をこしらえた自分がいた。
くすんだ栗色の長い髪は、夜のうちにまとめていたはずなのに、今はあちこちが自由気ままに跳ねている。一本や二本ではない。額に落ちる房はくるりと反り返り、首元の毛先は妙に自己主張をしていた。
「あなた、今日が入学式だって分かってる?」
髪に問いかけても、返事が返ってくるはずはない。指で梳いてみるが、頑固な毛先は素直という言葉を知らないようだった。
アイリス自身の評価では、自分の顔立ちは特別整っているわけではない。けれど、眠気の残る若葉色の瞳は柔らかく、表情一つで印象が変わる顔だと思っている。
時折「弱そうだ」と言われることがあっても、彼女はその中にある芯の強さを自覚していた。
「まあ、後で直せばいいか」
鏡を戻し、アイリスはベッドを降りた。新しい制服に袖を通すと、まだ馴染まない布地が肩にわずかに引っ掛かる。その緊張感を肌で感じながら身支度を整えていると、扉の外から控え目なノック音が響いた。
本来、女子寮は男子禁制だ。入寮初日に寮母が読み上げた規則には、例外を認めないという厳格さがあった。
「お嬢様。起きていらっしゃいますか」
けれど、その声の主には「例外」が認められている。ルイ・キャッツ。彼はアイリスの同級生であると同時に、学園に正式登録された彼女の従者だ。その役目ゆえ、限られた時間のみ出入りが許可されていた。
「あなたの従者、ずいぶんと“猫をかぶるのが上手い”のね」
入寮前、彼と面談した寮母が言った言葉を思い出す。それは褒め言葉か、あるいは有能すぎる少年への皮肉だったのか。
「起きてるわよ、ルイ。どうぞ」
扉が開くと、そこには寸分の乱れもない制服姿のルイが立っていた。さらさらと整えられた黒髪に、鋭いけれどどこか穏やかな黄色い瞳。彼は一瞬だけ部屋を見渡し、アイリスの姿を確認すると、わずかに眉の力を抜いた。
「よかった。初日から寝坊されているかと」
「初日からそれは、さすがにしないわよ」
アイリスが笑うと、ルイは小さく肩をすくめる。
「信用していません」
そんな軽口を交わしながら、ルイは無言で荷物の位置を整え、アイリスの胸元のリボンに指を伸ばした。
「……ここ、少し歪んでいます」
きゅっ、と結び直される。慣れた手つきだ。屋敷にいた頃から、彼はこうした細部に、当人以上にうるさい。
「今度は、なに?」
案の定、ルイは眉を寄せたまま、鏡越しに彼女の髪を見つめていた。
「……寝癖です」
「残念ね。すでに戦った後よ? 勝者は寝癖だったけど」
元気にはねる髪を摘まんで見せると、ルイは呆れたように、けれどどこか安心したように息を吐いた。
「……ハーフアップにしましょう。今日は初日ですから」
「うん、お願い」
ルイはひとつ咳払いをして、ゆっくりと髪をまとめ始めた。指先が髪を梳くたび、癖のある毛が名残惜しそうに跳ねる。けれど彼は気に留めず、丁寧に整えていく。
「完璧です。お嬢様にしては」
「ひどい」
それでも、鏡に映る自分の姿を見て、アイリスは笑った。この距離感は、幼い頃からずっと変わらない、二人だけの空気だった。
寮の玄関には、白髪をきちんとまとめた寮母が立っていた。
「アイリス・ヴァレリア侯爵令嬢、本来であれば遅刻ですよ」
第一声から厳しい声が飛ぶ。
「はい。これからは規則を遵守いたします」
アイリスが敬礼するように元気よく反応すると、寮母は満足そうにうなずきつつ、釘を刺した。
「初日は浮き立つものです。けれど――この学園は、浮き立った者から順に転びます」
それは脅しではなく、経験に基づいた忠告だった。アイリスは一瞬だけ考えてから、にこりと笑う。
「転んだら……また起き上がりますので」
寮母の眉がわずかに動いた。
「……そう。起き上がれるなら、結構」
学園の正門へ向かう道には、すでに生徒たちの列ができている。色とりどりの髪、装飾品、家紋。家柄も価値観も違う子どもたちが、一斉に同じ場所を目指して歩いていた。
その中でもアイリスの装いは、決して見劣りするものではないが、他の名家に比べれば派手さはない。身につけているアクセサリーも、家族が「入学式だから」と贈ってくれた、実用的で愛情の詰まった控えめなものだ。
「……みんな、すごいね」
思わず呟きが漏れる。周囲の令嬢たちが身に纏う宝飾は、朝日を浴びて激しく光を主張していた。彼女たちの笑い声すら、反射した光のようにきらきらと眩しい。さすがは大陸中から資産家が集まる魔法学校だ。
「見てはいけません」
「なんで?」
「目がくらみます。贅沢はいけません」
ルイの冷静すぎる突っ込みに、アイリスはつい苦笑する。ヴァレリア家は不自由ない暮らしこそしているが、宝石一つを見て「これで何ヶ月生活できるかしら」と考えてしまうような、庶民的で堅実な感覚を大切にしている。
「贅沢は敵ってことね。ルイこそ、財布の紐を締めすぎて私を餓死させないでね?」
「努力します」
華やかな香水の匂い。ひそひそとした声。硬い靴音。貴族の子女が集まる場所特有の、少し張りつめた空気が漂っている。
そしていつしか視線が集まる。
アイリス・ヴァレリア侯爵令嬢。
その視線を、彼女はもう慣れたものとして受け止めていた。ただし――慣れても、心地よいわけではない。人の視線はいつだって少し重い。
けれども、その視線はルイにも同じように向けられていた。
「ルイ、大丈夫」
この学園では従者を連れている生徒は珍しくない。ただ、ルイの立場をあまりよくは思わない生徒もいる。
「問題ありません」
「何かあったら私にまかせてね」
ルイは一瞬、言葉に詰まり、小さく息を吐いた。
「……本当に、お嬢様は変わりませんね」
「それって、褒めてる?」
正門をくぐり、大ホールが見えてくると、ルイの声がさらに低くなった。
「お嬢様、いいですか。この学園には絶対に関わってはいけない人がいます」
商売敵の家門や、夜の噂が絶えない不届き者、そして「引きこもり公爵」……。ルイは小声で次々と注意すべき人物を挙げていく。
「そして、この方には絶対に関わらないでください。最悪の場合、不敬罪で即処刑です」
ルイが告げたその「最悪の事態」に、アイリスは背筋が凍る思いがした。
「不敬罪で即処刑……。分かった、絶対に関わらない」
入学式を前に処刑されるなんて、夢の「十八歳で死ぬ」よりもずっと展開が早すぎる。アイリスは心の中で、強く自分に言い聞かせた。
式典の会場である大ホールは、ステンドグラスから差し込む光が床に鮮やかな模様を描き、神聖な空気に包まれていた。席に着くと、周囲からは家名を囁き合う声や宝石が触れ合う音がさざ波のように聞こえてくる。
壇上に立った校長は、深い皺の刻まれた顔にいたずら小僧のような目を輝かせて言った。
「新入生諸君。ここは――楽しい。しかし同時に、ここは――面倒だ」
その率直な言葉に、会場に小さな笑いが広がる。
「面倒というのは、つまり、君たちには“選ぶ”ことが増えるということだ。友を選べ。学びを選べ。信じるものを選べ。そして――自分自身を選べ」
その言葉が、不思議と熱を持ってアイリスの胸に落ちた。夢の中で神様が言った「恋をしなさい」という言葉。それは「死なないために誰かを選ぶ」ということではなく、「自分自身のために、誰かを愛することを選ぶ」ということなのだろうか。
式が終わり、人波が動き出す。
出口へ向かう途中、ふと、金色の髪と燃えるような赤い瞳を持つ少年が視界を掠めた。圧倒的な威圧感。アイリスは本能的に、彼がルイの言っていた「近づいてはいけない人」であることを察する。
壁際では、藤色の髪をした青年が、喧騒から切り離されたような静寂を纏って立っていた。そしてその少し前には、誰よりも必死に、完璧に従者としての表情を作り、この場に馴染もうとしている黒髪の少年――ルイがいる。
アイリスは、胸の内で小さく息を吐いた。
ここから始まるのだ。
何が待っているのかは、まだ分からない。
けれど、自分の気持ちだけには嘘をつきたくない。運命だとか惨劇だとか、不穏な言葉が頭をよぎっても、これからの日々を自らの意志で選んでいこうと決めた。
十六歳の春。彼女は、運命の学園にその一歩を刻んだ。
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