【完結保証】余命宣告された侯爵令嬢は、卒業までに恋をして世界を救うことになりました 〜選択の先に、運命が待っています〜

月見ましろ

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第3話 教室の窓辺と、距離の余韻

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 教室に足を踏み入れた瞬間、空気がわずかに揺れた。音がしたわけではない。ただ、無数の視線が一斉に自分へと収束するのが肌で分かった。

(……ああ、こういう感じね)

 学園に入学して、まだ二日目。十六歳になったばかりの春は、思っていたよりもずっと騒がしい。アイリスは内心で小さく溜息をつき、何事もなかったかのように自分の席へ向かった。背中に刺さる視線は、好奇と警戒、そしてわずかな困惑が混ざり合っている。

「昨日の事故、聞いた?」
「あの根の魔法……侯爵令嬢が、咄嗟にあんなものを」
「危うく大惨事だったっていうじゃない」

 ひそひそとした囁きが、さざ波のように教室の端まで広がっていく。昨日の魔法事故の噂は、一夜明ける間に驚くべき速さで、そして尾ひれをつけて学園中に広まっていた。

「お嬢様」

 隣を歩くルイが、周囲に悟られないよう極めて低い声で告げた。

「目立ちすぎです」

 ルイは前を見据えたまま、表情を崩さずに言った。一歳年下の十五歳とは思えないほど、その声は落ち着き払っている。

 従者として厳しく育てられた歳月が、彼の精神を実年齢よりもずっと先へ押し進めてしまったのだろう。こういう時、彼はいつも守護者のような、大人びた顔をする。

「この場所で目立つことは、必ずしも幸運を招きません。特に……」
「わかってるわ、でも」

 アイリスは歩みを止めずに、あっさりと言い切った。

「見て見ぬふりは、嫌だったの」

 アイリスの言葉にルイはそれ以上、何も言わなかった。けれど、並んで歩く彼の歩幅が、一瞬だけわずかに乱れたのをアイリスは見逃さなかった。

 
 午前の授業は、延々と続く座学だった。
 魔法理論、属性相関、魔力制御と感情の相関性。教壇に立つ教師の声は淡々としているが、その内容は初心者の域を優に超えている。板書の文字を追いながら、アイリスは小さく眉を寄せた。

(理屈は分かるんだけど……どうしてかしら)

 理解できないわけではない。けれど、いざ魔法を使おうとすると、理論と実感がどうしても噛み合わなくなる。

(頭で考えれば考えるほど、反応が遅れる。魔法って、もっとこう……直感的なものじゃないの)

 そんな悩みを抱えながらふと視線を向けると、教室の端で異質な空気を放つ存在がいた。
 
 相変わらずだぼだぼの制服に身を包んだ彼は、ノートを広げてはいるものの、そこに書かれているのは板書とは似ても似似つかぬ幾何学模様だった。魔法陣のようにも見えるし、ただの落書きにも見える。

 教師は彼を注意しようとしない。すでに諦めているのか、あるいは――彼が書いている内容が、教師の理解さえ超えているのか。

 授業が終わり、ざわめく廊下へ出た。窓から差し込む午後の光は穏やかで、昨日の殺伐とした空気が嘘のようだ。

「おい」

 背後から飛んできた短い声。その独特の重みに、アイリスは反射的に足を止めた。
 
 振り返ると、そこに立っていたのは――
 寸分の乱れもない制服。周囲を圧するような揺るぎない立ち姿。アイリスは無意識のうちに背筋を伸ばしていた。

「……お呼びでしょうか」

 機嫌を損ねれば即処刑。
 ルイが「絶対に関わるな」と言っていた要注意人物。

 ギルバート・ラカル・ルクレール。

 この国の第二皇太子。眩しい金髪と、燃えるような赤い瞳。王家の象徴を体現したような彼を前に、アイリスは内心で「終わった……」と絶望に近い苦笑を漏らした。

 隣では、ルイが音もなく半歩前に出ている。従者として、主を守るための無意識の防御姿勢。

 ギルバートはそれを一瞥した。咎めも制止もしないが、極めて無機質な視線だった。

「昨日のことだ」

 その一言で、廊下の空気が氷結した。
 周囲の生徒たちが、波が引くようにさりげなく距離を取る。露骨ではないが、誰もが好奇心を隠せずにこちらを伺っていた。

「無茶だろう」

 短い言葉。声を荒らげるわけでも、感情を剥き出しにするわけでもない。けれど、否定の意図だけは明白だった。

「無茶……だった、でしょうか」

 アイリスは緊張に喉を鳴らしながらも、少しだけ首をかしげた。即座に謝罪するのではなく、自分の中の正義を言葉にしようと間を置く。

「確かに……危険ではありましたけれど」

 言葉を選びながら、ゆっくりと。

「できることが、ありましたから……あ、いえ」

 途中で敬語が崩れ、慌てて言い直す。

「できる範囲で、やっただけです」

 言い訳のように聞こえるかもしれない。
 それでも――嘘は言っていなかった。
 
 ギルバートは沈黙したまま、アイリスを見つめ返した。その鋭い眼光は、彼女の心の奥まで暴こうとしているかのようだ。

「普通は、逃げる」

 それは冷徹な断定だった。

「……そうですね。私も、怖かったです。正直、今思い出しても足が震えるくらいには」

 アイリスは素直に認め、ふっと肩の力を抜いた。
 
「でも。あそこで放っておくほうが、もっと怖かった……だから、後悔はしていません」

 それは、明確な意志の提示だった。
 一瞬、奇妙な沈黙が二人の間に落ちる。廊下の喧騒が遠のき、ただ互いの視線だけが交差する。

 そしてギルバートは目を細めた。値踏みするようでいて、どこか深く考え込むような鋭い視線。

「……その考えが秩序を乱す。弱い者が、安易に行動するな」

 その言葉に、アイリスの胸の奥がちくりと痛んだ。否定できない事実だからこそ、刃のように刺さる。けれど、不思議と腹は立たなかった。

「弱くて何が悪いの。それが、見て見ぬ振りをする理由になるとは思えません」

 思わず、素の言葉が溢れた。自分が弱いことは、自分が一番よく知っている。けれど、それが「何もしないこと」の言い訳にならないことも、彼女は知っていた。

「あ」

 遅れて、相手が王族であることを思い出し、アイリスは慌てて口元を押さえた。取り繕ってももう遅いだろうか。身構える彼女の前で、ギルバートの眉がわずかに動いた。咎めるでもなく、叱責するでもなく――ただ、彼女を見つめている。

「弱くて何が悪い、か」

 低い声音。評価なのか、呆れなのか、判別はつかない。

「……次は、命を賭ける前に周りを見ろ」

 振り返って投げられたその言葉は、命令というより、不器用な忠告に近い響きを帯びていた。

「はい」

 即答する。反射的だったが、嘘ではない。

「努力いたします――たぶん」

 最後の一言をわざと軽くしたのは、完璧な約束などできないという、彼女なりの正直さだった。ギルバートの口角が、ほんの一瞬だけ上がったように見えた。気のせいだと思おうとしても、その印象はなぜか鮮烈に胸に残った。
 
 彼が去ったあと、張り詰めていた空気がようやく緩んだ。と同時に、アイリスは真っ青になって隣のルイを振り返った。

「ねえ、ルイ。今のは不敬罪? 私、今の発言で即処刑されちゃうかな!?」

「……お嬢様。それを言うなら、口元を押さえる前に気付いていただきたかったのですが」

「だって、思わず! ああ、どうしよう。十六歳にして私の人生、入学二日目で幕を閉じちゃうの?」

 ルイの呆れを含んだ溜息についた。「きっと大丈夫ですよ」と、返すその声音はいつもよりどこか力が弱かった。

 彼は守る側の人間だ。主人の安全を何よりも優先する彼にとって、今のアイリスの危うさは到底看過できるものではなかったのだろう。

「次からは、こんなことに巻き込まれないでください」
 
 笑って誤魔化そうとしたアイリスに、ルイの黄色い瞳が真っ直ぐに刺さる。そこに宿る感情の重さに、アイリスは言葉を失った。ルイはそこで、小さく一歩、後ろに引いた。

「……次の授業の準備がありますので。失礼します」

 それとない理由を口にして、彼は距離を置いた。名名残惜しそうな素振りも見せず、いつもの端正な歩幅で人の流れの中へ溶けていく。その背中を見送りながら、アイリスは胸の奥に小さな重みを感じて、小さく息を吐いた。

 ざわつく廊下を避けるように、彼女は中庭へ続く回廊へと足を向けた。石畳の先、木々の影が落ちる場所。風が吹き抜け、まとわりついていた視線や噂をさらっていく。

「アイリスちゃん」

 不意に、背後から木漏れ日のような柔らかな声が降ってきた。振り返ると、そこに彼はいた。最初から影と同化していたのか、今この瞬間に現れたのか。不思議と驚きはなかった。

「昨日の、根の魔法」

 彼は一歩も近づかず、けれど逃げる距離でもない場所で言った。

「綺麗だったよ。特に、あの根の出方が」

 褒め言葉のはずなのに、評価というより、冷徹な観測に近い響きだった。

「ありがとう……ございます?」
 
 戸惑いながら返すアイリスに、彼はくすりと笑った。
 
「どういたしまして」

 それで終わりだった。理由も、感想の続きもない。

 ロイド・ウィステリア。
 彼もまた、学園が定めた平穏を脅かす、絶対に関わってはいけない人物の一人だった。
 
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