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第8話 お邪魔します、雑草の庭
しおりを挟む学園の喧騒から完全に隔絶された北温室は、時が止まったような静謐に満ちていた。
歪んだ硝子越しに差し込む陽光が、宙をたゆたう埃の粒子を金色に染め上げている。ロザリーは一人、湿った土の匂いの中にいた。ここは彼女が己の知恵と執念で勝ち取った、誰にも侵されない聖域――のはずだった。
「……っ、」
高所の棚にある、長年放置された鉢へ手を伸ばした時だった。背後で重い扉が軋んだ音を立て、不意の気配にロザリーの肩が跳ねる。古びた脚立がガタりと揺れ、重心を失った彼女の体が宙に浮いた。
「おっと。危ないね」
衝撃に備えて目を閉じたロザリーを、しなやかな腕が受け止める。
香水の甘い香りと、温かな体温。恐る恐る目を開けると、そこには至近距離でこちらを覗き込むノアの顔があった。
「……ノア様」
「そんなに慌てなくても、僕は逃げないよ。それとも、僕の顔を見てそんなに驚いちゃったかな?」
軽薄な笑みを浮かべるノアだったが、ロザリーは彼が自分を支えた際、その白磁のように滑らかな制服の袖が、湿った鉢の泥をまともに掠めていたことに気づく。純白の生地に、無惨な焦げ茶色の筋が引かれていた。
「申し訳ありません、お袖が……」
「ん? ああ、これくらい気にしないで。……それより、やっぱりここにいたんだ。君、本当に土と仲良しなんだね」
二人の間に、脚立がきしむ音だけが残った。ほんの数秒。けれど、温室の空気が元に戻るには、十分な時間だった。
ノアは彼女を地面に下ろすと、何事もなかったかのように温室の奥へと歩を進めた。三つ編みの金髪を揺らし、第一ボタンを外した姿は、相変わらずこの煤けた場所には不釣り合いなほど眩しい。
「ここなら、誰の目も届かないと思ったのですが。どうして場所が分かったのですか?」
「土の匂いが、ここからしていたからかな……僕を邪魔者扱いにするなんて、この学園で君くらいだよ」
ロザリーは深くため息をつき、膝の土を払った。
「他の子なら、悲鳴を上げて喜ぶところなんだけど」
「あいにく、悲鳴を上げる体力はすべて耕すことに使ってしまいました。……それで、ノア様。わざわざこのような場所まで、一体何の御用ですか?」
ロザリーが問いかけると、ノアは汚れた袖を気にする素振りも見せず、ふっと悪戯っぽく目を細めた。
「薄情だな。あの日、噴水の前で約束したじゃないか。君の面白そうなお弁当――『雑草料理』に、僕は興味があるって」
「……本気で仰っていたのですか。あれは、その場の空気を変えるための冗談だと……」
「僕の言葉にいつだって冗談は混じらないよ」
ノアの視線が、ベンチに置かれた小さな麻布の包みに注がれた。
「もしかして、これが君のお手製オヤツなのかな?」
ロザリーは図星を指され、僅かに言葉を詰まらせた。
それは昨夜、リリーのために煎じた薬草の余りを、わずかな穀物と練り上げたものだ。栄養素はお墨付きだ。だがその見た目は美食家が愛でるような色艶はなく、濃い緑色が凝縮されたその塊は、宝石というよりは剥き出しの土塊に近い。
「……そうです。これは私の作業用のおやつ。ただ、香辛料を贅沢に使った毒見役が卒倒するような、滋味ばかりが強い代物ですわ。お勧めはしません」
「毒見なら、もう自分でお腹いっぱいやってきたよ」
ノアはそう言うと、吸い寄せられるようにベンチへ近づいた。
「……食べてもいい?」
その問いに、揶揄うような響きはなかった。
ロザリーが戸惑う間に、ノアは細い指先でその無骨な、圧縮された植物の繊維そのもののような塊を摘み上げた。洗練された香水と、温室を揺らす雨上がりのような青い匂いが、一瞬だけ交差する。
彼は一切の迷いなく、それを口に運んだ。
……沈黙が流れる。
硝子越しに差し込む陽光が、ノアの伏せられた睫毛を金色に染めている。ロザリーは、彼がすぐに顔をしかめるのを待っていた。あるいは、喉に詰まらせて吐き出すのを。
ノアはゆっくりと時間をかけて咀嚼し、静かに飲み込んだ。
「…………」
ノアのハニーアンバーの瞳が、僅かに揺れる。
それは、砂糖や油で塗り固められたものとは程遠い、ただひたすらに鋭く、命を直接胃に流し込むような、切実な「真実の味」だった。
「……ああ。美味しいなんて言ったら、嘘っぽくなるかな。でも、喉を通りやすいよ」
ノアはふっと肩の力を抜いた。
いつも令嬢たちを熱狂させる、あの非の打ち所がないほど完成された微笑みが、砂の城が崩れるように消えていく。代わりに現れたのは、感情の読み取れない、どこか空虚で穏やかな……真昼の月のような横顔だった。
ロザリーは、その数秒を、逃さなかった。
「ノア様」
「ん?」
「……貴方は、笑っていない時の方が、ずっと息がしやすそうね」
一歩引いた、断定しない観察。
ノアの瞳の奥で、光が爆ぜた。
これまで彼に向けて投じられた無数の視線は、羨望か、愛への期待、あるいは彼という存在をどう利用するかという打算に満ちたものばかりだった。彼がどんな仮面を被っていようと、誰もがその表面の美しさを消費するだけで、その裏側に潜む肺の苦しさなど、透明な風のように誰も気にも留めなかったのだ。
「…………」
ノアは答えず、ただ静かに、ミントの香りが漂う温室の天井を見上げた。
「……君は、変な子だね。どうして、そうやって土の中に隠している根っこばかり見つけようとするんだ?」
「草木を育てる者は、花の色より先に根の深さを測るものですから。……私にとって、貴方の笑顔は眩しすぎて、直視すると目が眩んでしまうだけです。でも、今の貴方なら、隣にいても疲れなさそう」
ロザリーはそう言うと、再びスコップを手に取り、地面に向き直った。一人の「息苦しそうな人間」が、自分の庭で少しだけ呼吸を整えた。それだけで、彼女にとっては十分だった。
「……あはは。やっぱり、君は面白いね」
ノアの笑い声が、先ほどまでの「偽り」とは違う、どこか掠れた体温の宿った響きに変わる。
「ねえ、銀の君。僕も少し、その土いじりとやらを手伝ってもいい? 豪華な絨毯の上でダンスをするよりは、ずっと実りがありそうだ」
「お洋服が汚れますわよ。最高級の羊毛でしょう?」
ロザリーが窘めるように言うと、ノアはさきほど彼女を助けた際についた袖口の泥を一瞥し、悪戯っぽく肩をすくめた。
「さっき君を助けた時に、もう汚れているからね。今さら心配なんて必要ないさ」
そう言ってノアは、最高級の制服の袖をさらに躊躇いなく捲り上げた。
「それから、手伝っていただくなら、私の指示には絶対に従っていただきます。お貴族様のお遊びに付き合えるほど、私は暇ではありませんから」
「いいよ。ここでは、君が一番だ」
ノアの中で、ロザリーという存在の位置が、いつの間にか、静かに変わっていく。硝子に反射する陽光が、二人の影を長く、静かに温室の床に落としていた。
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