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第14話 白い手袋の慈悲
しおりを挟むレオンハルト・ヴァルディアが「あの日」を境に変節したことは、本人に自覚がなくとも、学園という名の閉ざされた水槽の中では致命的な波紋となって広がっていた。
かつての彼は、ロザリー・エヴァレットという存在を、踏みつけてはね除けるべき不純物として扱っていた。だが今の彼の視線は、鋭い拒絶ではなく、解きがたい謎を追うような、あるいは目を離せば消えてしまう幻影を繋ぎ止めようとするような、熱を帯びた「観察」へと変質していた。
王子の瞳が、路傍の雑草に固定される。その事実だけで、学園のヒエラルキーは音を立てて軋み始めた。
ロザリーは、その変化を何よりも敏感に、そして忌々しく感じていた。
回廊ですれ違うたび、背中に突き刺さる熱視線。図書室の片隅で、彼がわざわざ隣の机に陣取って、何も言わずにこちらを凝視している時の、あの居心地の悪さ。
彼にとっては「歩み寄り」のつもりなのかもしれないが、ロザリーにとっては、身を隠すための泥を剥ぎ取られ、強烈な投光器の下に晒されるような、暴力的な露出でしかなかった。
そして、その投光器の光は、同時に影を濃く、深くした。
「……あら、手が滑ってしまいましたわ」
学園の回廊。窓外から差し込む午後の光が、惨めに砕けたインク瓶を照らし出した。
ロザリーが大切に抱えていた教科書と、労働の対価でようやく買い求めた羊皮紙が、どす黒い染みに飲み込まれていく。
犯人である令嬢たちは、扇で口元を隠し、冷え切った愉悦を瞳に宿して見下ろしていた。
「エヴァレット様、お可哀想に。お育ちが悪いから、インクの持ち方もご存知ないのかしら」
「こんなに汚れてしまっては、もう読めませんわね。……ふふ、でも貴女なら、道端の草でも煎じて新しいインクをお作りになればよろしいのではなくて?」
ロザリーは何も答えなかった。
膝を突き、冷たい石畳の上で広がる黒い海を、ただ静かに見つめていた。唇を噛み締めることもしない。怒りを露わにすることも、ましてや涙を流すことも。感情を殺し、ただの「作業」として、汚れを拭うための端切れを取り出す。
ここで折れれば、彼女たちの思うツボだ。
雑草は踏まれることに慣れている。慣れているからこそ、どの角度で力を逃がせば、根っこを守れるかを知っていた。
だが、その日、波紋を打ち消したのはロザリーの忍耐ではなかった。
「――そこまでに、なさい」
凛とした、けれど鋼のような硬度を持った声が、回廊の空気を凍らせた。
嘲笑っていた令嬢たちの顔から、一瞬で血の気が引く。彼女たちが慌てて道を空け、深々と頭を下げるその先から、ゆっくりと一人の少女が歩み寄ってきた。
公爵令嬢、エララ・フォン・ロシュフォール。
ヴァルディア王国の四大公爵家の一つ、ロシュフォール家の長女であり、レオンハルトの婚約者候補として筆頭に数えられる、学園の裏の支配者。
彼女が纏う空気は、他の令嬢たちのような刺々しい悪意とは無縁だった。ただそこに存在するだけで、周囲を平伏させる圧倒的な気品。白磁のような肌と、深い森の湖を思わせる冷ややかな瞳。彼女の歩みに合わせて、揺れるシルクの擦れる音だけが、不気味なほど鮮明に響いた。
「エ、エララ様。これは、その……この者が、あまりに不作法な振る舞いをいたしましたので、私たちが教育を……」
令嬢の一人が震えながら弁明する。エララは彼女に視線を向けることすらなく、ただ、膝をついたままのロザリーを静かに見つめていた。
「公衆の面前でインクをぶちまけることが、貴方たちの仰る『教育』なの? ……ロシュフォール家の名において、そのような醜聞を私の視界に入れることは許しません。下がりなさい。二度と、私の前でこのような『不作法』を見せないように」
エララの言葉は鋭く、そして絶対的だった。
令嬢たちは、まるで追い立てられるようにその場を去っていった。回廊に残されたのは、静寂と、汚れた床と、そして二人の令嬢だけだった。
「……エヴァレット様。お怪我は、なくて?」
エララが、そっと手を差し伸べた。
完璧に手入れされた、絹のように滑らかな白い手。ロザリーはその手と、自分の泥とインクで汚れた指先を見比べ、迷った末に、その手を借りずに自力で立ち上がった。
「……ご配慮、感謝いたします。ロシュフォール公爵令嬢」
ロザリーの言葉には、最大限の礼節と、同時に消えない警戒心が籠もっていた。
学園の頂点に君臨する者が、なぜ最底辺の自分を助けるのか。この世界において、無償の慈悲ほど恐ろしいものはない。
エララは拒絶された手をごく自然に引き、困ったような、けれど柔らかな微笑みを浮かべた。その表情は、まるで長年連れ添った友人に向けられるもののように温かく、そしてどこか、寂しげだった。
「警戒されるのも無理はありませんわ」
ロザリーの背筋に、冷たいものが走る。
「……殿下は、貴女のことを『誇り高い』と仰っていました。私にとっても、貴女のその生き方は……眩しすぎて、直視できないほど」
エララは、窓の外の庭園に視線を移した。
「私たち貴族は、血筋からは逃げられない、鉢植えの花ですわ。どんなに美しく咲いても、誰かに水を与えられ、愛でられなければ枯れてしまう。……でも貴女は違う。どんな環境でも、自分の意志で根を張っている」
その声には、確かな熱量と、嘘偽りのない「渇望」が混じっているように聞こえた。
ロザリーは、エララの横顔を盗み見た。
完璧なまでの美貌。けれど、その睫毛の陰に、自分の「家」という巨大な重圧に押し潰されそうな少女の影が、一瞬だけ透けて見えたような気がした。
(……この人も、戦っているの)
ロザリーの胸の中にあった鉄の門が、ほんの数ミリだけ、音を立てずに開いた。
公爵令嬢という肩書き。それを「完璧」を演じ続け、レオンハルトという太陽の隣に立つことを運命づけられた少女。彼女が抱える孤独は、自分の「貧困」とは形こそ違えど、本質的な痛みは同じなのではないか。
「……私には、貴方のような高貴な方に差し上げられる言葉も、教養もございません。……ただ、インクで汚れたこの床を拭うことしか」
「いいえ。……今はこの静寂を、貴女と分け合えるだけで十分ですわ」
エララはロザリーの隣に並び、ただ静かに、汚れた羊皮紙を見つめた。
彼女が差し出したのは、銀色の刺繍が施された、真っ白なハンカチだった。
ロザリーはそれを、しばらくの間受け取ることができなかった。その白さが、自分たちのこれからの運命を暗示しているような気がして。
「エヴァレット様。私を、ただのエララと呼んでくださらない? ……この閉ざされた学園で、貴女だけは、私の理解者でいてくれるような気がするのです」
エララの瞳に、ロザリーの姿が映り込む。
それは、深い湖の底に沈んだ、救いを求める者の眼差し――けれどその奥で、何かがゆっくりと光ったような気もした。
ロザリーは、迷いながらも、その白いハンカチの端を握りしめた。
それが、巧妙に仕組まれた毒入りの蜜であることなど、今はまだ、知る由もなかった。
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