雑草姫、選ばれし花の庭で踏まれて生きる 〜ガラスの靴は、土いじりには不向きです〜

お月見ましろ

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第17話 静寂の温室、共犯のはじまり

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 温室の空気は、湿った土と、野生化したミントの鋭い香りに満ちていた。
 
 傾き始めた陽光が、汚れたガラス屋根を透過して琥珀色の帯となり、温室の隅々を非現実的な黄金色に染め上げている。
 
 ロザリーは無心で土を解いていた。
指先に伝わる冷たさと、ほどよい湿り気。学園の回廊で浴び続けた視線や言葉の残滓が、土に触れるたび、少しずつ薄れていく気がした。
 
「……そんな泥だらけになって、君は本当に飽きないね」
 
 頭上から降ってきたのは、からかうような声だったが、そこに悪意はなかった。鈴の音のように軽やかで、けれどどこか空虚な響きを持った声だった。

「……そんなに根を詰めると、せっかくの綺麗な瞳が曇ってしまうよ。強い光っていうのは、見てるだけで疲れちゃうものだろう?」
 
 ロザリーが顔を上げると、そこには温室の古い棚に背を預けたノアが立っていた。
 第一ボタンを外し、金髪のウルフヘアを夕風に遊ばせている姿は、いつもの「罪深き王子様」そのものだ。だが、その琥珀色の瞳だけは、沈みゆく太陽を反射して、底の知れない深淵のように暗い。
 
「ノア様……。いつからそこに?」
 
「ついさっき。……君があまりに必死に土を叩いているから、声をかけるのを躊躇ってしまったよ」
 
 ノアはくすくすと笑いながら歩み寄り、ロザリーの隣でふわりと屈み込んだ。
 
 彼は手癖のように、自分の長い髪に指を絡める。襟足から伸びた細い三つ編みを、指先で執拗に、愛おしむようになぞる。
 
「僕くらい適当に気を抜かないとね。……そうじゃないと、いざという時に判断が鈍って……本当は守りたかったはずのものを、取りこぼしてしまうかもしれないからね」
 
 その言葉は、いつもの軽薄な響きの中に、鋭いナイフを隠しているようだった。
 
 ノアの指が三つ編みの根元に触れた瞬間、そこに留められた小振りの髪飾りが、夕陽を吸い込んで不気味なほど鮮烈に、怪しく光った。

 ロザリーは、その仕草から目が離せなくなった。
 彼の指先が、その一点にだけ、異様な執着を持って縛り付けられているように見えたからだ。
 
「……貴方って、髪を触る癖があるのね」
「おや、観察されていたのかな。光栄だね」
「……ねぇ。失礼だったらごめんなさい。でも……どうして、そんなに髪を長く伸ばしているの?」
 
 ノアの指先が、一瞬だけ止まった。彼は三つ編みを指に絡め直し、唇の端を吊り上げて、いつもの「作り物」の笑顔を深める。
 
「特に意味はないよ。ただの……そう、昔からの風習でね」
「髪を伸ばす風習? ……もしかして、リヒトシュタインの」
「おっと、それ以上はいけないよ。秘密は多い方がいいからね」
 
 おどけた口調。だが、その言葉の裏側に、触れてはいけない巨大な壁があることをロザリーは感じ取った。
 
 ――どきん。
 なぜか、心臓が不自然な音を立てた。
 彼の軽薄な言葉とは裏腹に、その立ち姿が、まるで見えない鎖でがんじがらめに縛られた囚人のように見えたからだ。

 ふと、ノアの頭に目が留まる。三つ編みの編み込みの隙間に、先ほどロザリーが整理していた枯れ草の破片が、ひとつ、不格好に引っかかっていた。
 
「あ……。ノア様、動かないで」
「え?」
 
 ロザリーは無意識に手を伸ばした。
 泥のついた指を、エプロンで慌てて拭い、彼の黄金の髪に絡まった異物を取り除こうとした、その時だった。

 
「――っ、触るな!!」
 
 次の瞬間、ロザリーの視界が大きく揺れた。
何が起きたのか理解するより早く、手首に焼けるような痛みが走る。ノアの手が、暴力的なまでの速さと力で、ロザリーの手首を弾き飛ばしたのだ。
 
「……っ……」
 
 手首に走る、焼けるような痛み。
 石床に尻餅をついたロザリーが顔を上げると、そこには、これまで一度も見せたことのない「異形の形相」をしたノアが立っていた。
 
 肩で息をし、両手で自らの髪――正確には、その根元にある髪飾りを、狂おしいほどの力で押さえ込んでいる。琥珀色の瞳は極限まで見開かれ、そこにあるのは怒りではない。剥き出しの、震えるような「恐怖」だった。
 
「…………あ」
 
 ノアは、自分の荒い呼吸の音で、ようやく我に返ったようだった。彼は自分の手を見つめ、それから床に座り込んだままのロザリーを見て、顔色を紙のように白くした。
 
「……いや。……すまない。……髪飾りに、触れられそうな気がして……ごめん。……大丈夫、だったかな」
 
 謝罪の言葉は、継ぎ接ぎだらけで脆かった。
 いつも完璧に調律されていた彼の声が、今にも壊れそうな楽器のように震えている。
 
 ロザリーは、痺れる手首をさすりながら、静かに立ち上がった。
 
 謝られたことへの怒りも、乱暴に扱われたことへの不満も湧かなかった。ただ、目の前で今にも崩れ落ちそうな少年を、見捨てることなどできなかった。
 
「……綺麗なものほど、脆いものね」
 
 ロザリーの静かな声が、夕闇の迫る温室に染み込んでいく。
 
「…………なんて?」

「髪飾り。…… それを守ろうとしている、貴方が……あまりに必死で.…そんなに壊れやすいものには、見えなかったから」

 ノアの瞳が、琥珀色の火花を散らすように大きく揺れた。
 
 核心。彼がこれまでの人生で、誰にも――あの人にさえ――触れさせなかった「恐怖」の在り処を、この泥だらけの令嬢は、言葉一つで撫でてしまった。
 
「…………はは」
 
 ノアは、力なく笑った。
 
 それは淑女を誘惑する甘い微笑ではなく、子供が泣き止んだ後のような、ひどく無防備で、惨めな笑いだった。
 
 彼は膝の力が抜けたように、そのまま温室の隅、石畳の床にずるずると腰を下ろした。高級な羊毛の制服が、土や埃に汚れるのも構わずに。
 
「……君は、本当に可愛げがないな。そうだよね、簡単には壊れないよね」
 
 三つ編みの根元にある、あの人の形見。
 それは彼にとっての誇りではなく、彼を縛り付ける「選ばれるための条件」という名の呪縛そのものだった。これをつけていなければ、自分は誰にも愛されない。そう刷り込まれてきた重みが、彼の肩を細く見せた。

「……でもね、これがない僕に、何が残るのか、分からなくなるんだ」
「それなら、大切にしないといけませんね」
 
 そう言ってロザリーは、彼の隣にそっと腰を下ろした。
肩が触れるほど近い距離だったが、どちらもそれを気にしなかった。泥だらけの作業服と、黄金の髪の貴公子。場違いな二人の影が、西日に長く引き伸ばされ、石床の上で重なり合う。
 
「僕と二人でいるところ、見られたら大変だよ? ……今の僕は、君の『お友達』の公爵令嬢みたいに、優雅な庇護を与えてあげる余裕なんてないからね」
 
「別にいいわ。……いまさら他人の噂なんて、気にしませんもの。それに、私を庇護したいなら、このハーブの苗に水をやるのを手伝ってくださいな」
 
「……ねえ、ノア様」
 
「ん?」
 
「……貴方、本当は女遊びなんて、好きじゃないでしょう?」
 
 温室の空気が、一瞬だけ止まった。
 
 ノアは細めた琥珀色の瞳で、隣に座る少女を、初めて「対等な一人の人間」として見据えた。
 
「……ああ。……嫌いでたまらない。愛を囁くのも、着飾るのも、そのすべてが……ヘドが出るほど、毒に見える」
 
 仮面が、音もなく剥がれ落ちた。
 そこには、軽薄な遊び人ではなく、泥の中で息を潜める、傷だらけの「雑草」と同じ魂を持った少年がいた。
 
「……そう。なら、ここにいる間だけは、笑わなくていいわ。……私も、貴方のその『仮面の笑顔』には、もう飽き飽きしていましたから」
 
 ロザリーは再び、手元の土に向き直る。
 ノアは呆れたように、けれど救われたような深い溜息をつくと、汚れるのを厭わずに、ロザリーの作業を黙って手伝い始めた。華やかな学園の喧騒から切り離された、朽ちかけの温室。

 泥にまみれた二人の間に、言葉よりも重い、静かな「共犯関係」が結ばれた瞬間だった。
 
「身分とか気にしないで、僕のことはノアって呼んで、ねぇ、ロザリー」
「ノア……貴方は一体なんなの?」
「……君の隣にいる間だけは。……僕は、僕でいてもいいかな」
「どうぞ。……ただし、肥料を運ぶのくらいは、手伝ってもらいますわよ?」
 
 琥珀色の光が、低く差し込み、二人の背中をやさしく包み込んでいく。ふと、ノアが顔を上げ、影の濃くなった温室の入り口の方を見つめた。
 
「やっぱり、君がその『太陽』に根を焼かれて、枯れていく姿を見るのは、僕の趣味じゃないんだ。……そんなの、ちっとも面白くないからね」
 
 それが、これから始まる嵐の前の、束の間の安らぎであることを、二人はまだ知る由もなかった。
 
 
 
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