19 / 37
第18話 肯定という名の毒
しおりを挟む王都の下町、庶民の胃袋を支える大衆酒場『黄金の麦穂亭』。夜の帳が下りる頃、店内は煮込み料理の濃い湯気と、安エールの泡立つ音に満ちていた。煤けたランプの灯りが、仕事終わりの男たちの顔を橙色に染め、笑い声と罵声が入り混じって、低い天井の下を跳ね回っている。
テーブルの隙間を縫うように、人の熱と酒の匂いが渦を巻いていた。
「はいはい、エール三つと子豚の甘酢焼きね。……ちょっと、もうその辺でやめておきなさい。明日、後悔するわよ」
ロザリーは、いつも通り実家の古着を動きやすく仕立て直した給仕服を纏い、いくつものジョッキを片腕に抱えたまま、慣れた足取りで客の間をすり抜けていく。
学園で見せる静かな気品は、ここでは必要ない。代わりに無駄のない動きと肝の据わった声が前に出ていた。
酔客の軽口を受け流し、注文を拾い、空いた皿を下げる。その一つ一つが、日々を繋ぐための確かな作業だった。生きるために手を汚すことを、彼女は一度も恥じたことがなかった。それは意識して得た強さではなく、気づけば身についていた癖のようなものだった。――雑草のような強さが、自然と彼女の背に宿っている。
(……ここには嘘も偽りもないもんね)
額に張り付いた銀色の髪を、腕の甲で乱暴に払いながら、ロザリーは息を整える。特待生という立場も、傾いた家も、妹の未来も。すべてはこの労働の延長線上にあった。
媚びずに立っていられる理由は、ただ一つ――自分の稼ぎで立っているという事実だけだ。
そのとき、店の重い木扉が、場の熱気を押し分けるように、きしりと音を立てて開いた。
一人の客が、音もなく滑り込むように入り込んできた。
深い紺色のマントを目深に被り、素顔を影に沈めたその人物は、この場所には似つかわしくないほど、音の少ない気配を纏っていた。
怒号と笑い声が渦巻いていたはずの店内が、その人物の進路だけを避けるように、さざなみを引く。無意識のうちに、男たちの声が半音、低くなった。本能が、そこに「異物」があることを察知していた。
ロザリーの指先が、ほんの一瞬だけ強張る。ジョッキの重みも、床にこびりついた油の感触も、その瞬間だけが遠のくような感覚。
その人物は、迷うことなく店の最奥へと進み、煤けた壁に囲まれた角の席に腰を下ろした。背を預けるでもなく、ただそこに「選んで」座ったという事実だけが、周囲の空気を重く支配している。
ロザリーは喉の奥に固まった動悸を嚥下し、努めて「看板娘」の無機質な顔を作って近づいた。
「……ご注文は」
いつもと変わらない、乾いた声。
けれど、その言葉が届くより早く、フードの奥から視線が持ち上がる。深い森の湖を思わせる、静謐な瞳。
エララ・フォン・ロシュフォール。
王国の頂点に君臨する公爵令嬢が、煤と汗の匂いが染み付いたこの場所で、ひどく場違いに、けれど慈しむように微笑んでいた。
「……エヴァレット様。この場所で一番、貴女が大切にしている飲み物をいただけますか?」
ロザリーは言葉を失った。
――まずい。
その言葉が、ロザリーの頭の中で乾いた音を立てた。
給仕姿を見られた。この匂い、この喧騒、この場所。
学園では決して語られない「もう一つの生活」を、公爵令嬢に知られてしまった。
これは流石に、軽蔑されても仕方がないかもしれない。
同情という名の見下しを向けられるかもしれない。
――あるいは、学園に伝えられるかもしれない。
特待生という立場は、紙一枚よりも脆い。貴族社会の「ふさわしくない」という一言で、簡単に剥ぎ取られる。
ロザリーは、それ以上考える前に、踵を返した。
急いで厨房へ下がり、自分たちで摘んだハーブを煎じた茶を用意する。蜂蜜などない、喉を焼くような苦味のある茶。それを運ぶ手が、自分でも驚くほど小刻みに震えていた。
(……大丈夫。私は、ただの給仕。ここでは、それでいい)
深呼吸ひとつ。
ロザリーは、カップを両手で持ち、奥の席へ戻った。
テーブルに置いた瞬間、質素な陶器を、エララは白い指先でそっと包み込んだ。まるで、それが壊れやすい宝物であるかのように。
「……不躾なことをしたと、分かっていますわ」
エララの声は低く、柔らかい。
「でも、どうしても貴女が守ろうとしている、この『世界』を、私も見てみたかったの」
エララは、周囲を見渡した。
怒鳴り合いながらカードに興じる男たち、酔い潰れて机に突っ伏した老人、煤けたランプの光。彼女はそのすべてを、汚らわしいものを見る目ではなく、まるで未知の聖域を眺めるような、純粋な渇望を込めて見つめていた。
「……ここは、貴女のような方が来る場所ではありませんわ」
「……学園の回廊で、蜂蜜をたっぷり入れたお茶を飲んでいるときよりも、今の私はずっと、息がしやすいの。……ここでは、貴女がいるから」
エララは苦い茶を一口啜り、ゆっくりと目を閉じた。
「……私、本当は、ずっと貴女のようでありたかったのよ」
エララの声は、酒場の喧騒に掻き消されそうなほど小さかった。
その言葉の重みが、ロザリーの胸の奥にあった何かを、静かに、けれど確実に揺らした。
これまで、誰にも言えなかった。
この労働が、どれほど誇らしいものであると同時に、どれほど孤独で、周囲に隠し続けなければならない傷でもあったか。
レオンハルトならここを「家畜小屋」と蔑み、ノアなら「退屈しのぎ」として嘲笑うだろう。そして、フィンは何も言わずに、ただその手を包む。
だが、エララだけは。この、泥にまみれた、けれど必死に繋ぎ止めている生活を「世界」と呼び、肯定したのだ。
それは、これまで一人で歯を食いしばり、雑草のように踏まれても立ち上がってきた彼女が、初めて受け取った「理解」という名の蜜だった。
自分の隠し通してきた醜い現実が、彼女の目には「美しき闘争」として映っている。その事実が、凍えていたロザリーの心を、どんな蜂蜜よりも甘く、暴力的に溶かしていった。
「……長居は、なさらないでください。ここは、貴女のドレスを汚すには十分なほど、煤に満ちていますから」
「ええ。……でも、この煤の匂いを、私は一生忘れないでしょう。貴女がここで、何を守っているのかを」
エララは立ち上がり、マントの裾を翻した。
去り際に彼女がテーブルに置いたのは、金貨一枚と、そっと折られた一輪の、どこにでも咲いているような野の花だった。
ロザリーは、彼女が去った後の扉を、長い間見つめていた。
手の中の野の花は、学園の温室に咲く、どんな豪華な薔薇よりも色鮮やかに見えた。
扉の向こう側、冷たい夜気に包まれたエララは、マントの下で、獲物を仕留めた猟師のような冷徹な笑みを浮かべていた。その瞳には、達成感すらなかった。
「肯定」という形をした毒。それは、どんな罵倒や暴力よりも静かに、確実に、根を腐らせていく。
0
あなたにおすすめの小説
英雄の可愛い幼馴染は、彼の真っ黒な本性を知らない
百門一新
恋愛
男の子の恰好で走り回る元気な平民の少女、ティーゼには、見目麗しい完璧な幼馴染がいる。彼は幼少の頃、ティーゼが女の子だと知らず、怪我をしてしまった事で責任を感じている優しすぎる少し年上の幼馴染だ――と、ティーゼ自身はずっと思っていた。
幼馴染が半魔族の王を倒して、英雄として戻って来た。彼が旅に出て戻って来た目的も知らぬまま、ティーゼは心配症な幼馴染離れをしようと考えていたのだが、……ついでとばかりに引き受けた仕事の先で、彼女は、恋に悩む優しい魔王と、ちっとも優しくないその宰相に巻き込まれました。
※「小説家になろう」「ベリーズカフェ」「ノベマ!」「カクヨム」にも掲載しています。
十年越しの幼馴染は今や冷徹な国王でした
柴田はつみ
恋愛
侯爵令嬢エラナは、父親の命令で突然、10歳年上の国王アレンと結婚することに。
幼馴染みだったものの、年の差と疎遠だった期間のせいですっかり他人行儀な二人の新婚生活は、どこかギクシャクしていました。エラナは国王の冷たい態度に心を閉ざし、離婚を決意します。
そんなある日、国王と聖女マリアが親密に話している姿を頻繁に目撃したエラナは、二人の関係を不審に思い始めます。
護衛騎士レオナルドの協力を得て真相を突き止めることにしますが、逆に国王からはレオナルドとの仲を疑われてしまい、事態は思わぬ方向に進んでいきます。
靴屋の娘と三人のお兄様
こじまき
恋愛
靴屋の看板娘だったデイジーは、母親の再婚によってホークボロー伯爵令嬢になった。ホークボロー伯爵家の三兄弟、長男でいかにも堅物な軍人のアレン、次男でほとんど喋らない魔法使いのイーライ、三男でチャラい画家のカラバスはいずれ劣らぬキラッキラのイケメン揃い。平民出身のにわか伯爵令嬢とお兄様たちとのひとつ屋根の下生活。何も起こらないはずがない!?
※小説家になろうにも投稿しています。
前世で私を嫌っていた番の彼が何故か迫って来ます!
ハルン
恋愛
私には前世の記憶がある。
前世では犬の獣人だった私。
私の番は幼馴染の人間だった。自身の番が愛おしくて仕方なかった。しかし、人間の彼には獣人の番への感情が理解出来ず嫌われていた。それでも諦めずに彼に好きだと告げる日々。
そんな時、とある出来事で命を落とした私。
彼に会えなくなるのは悲しいがこれでもう彼に迷惑をかけなくて済む…。そう思いながら私の人生は幕を閉じた……筈だった。
王太子妃専属侍女の結婚事情
蒼あかり
恋愛
伯爵家の令嬢シンシアは、ラドフォード王国 王太子妃の専属侍女だ。
未だ婚約者のいない彼女のために、王太子と王太子妃の命で見合いをすることに。
相手は王太子の側近セドリック。
ところが、幼い見た目とは裏腹に令嬢らしからぬはっきりとした物言いのキツイ性格のシンシアは、それが元でお見合いをこじらせてしまうことに。
そんな二人の行く末は......。
☆恋愛色は薄めです。
☆完結、予約投稿済み。
新年一作目は頑張ってハッピーエンドにしてみました。
ふたりの喧嘩のような言い合いを楽しんでいただければと思います。
そこまで激しくはないですが、そういうのが苦手な方はご遠慮ください。
よろしくお願いいたします。
ブサイク令嬢は、眼鏡を外せば国一番の美女でして。
みこと。
恋愛
伯爵家のひとり娘、アルドンサ・リブレは"人の死期"がわかる。
死が近づいた人間の体が、色あせて見えるからだ。
母に気味悪がれた彼女は、「眼鏡をかけていれば見えない」と主張し、大きな眼鏡を外さなくなった。
無骨な眼鏡で"ブサ令嬢"と蔑まれるアルドンサだが、そんな彼女にも憧れの人がいた。
王女の婚約者、公爵家次男のファビアン公子である。彼に助けられて以降、想いを密かに閉じ込めて、ただ姿が見れるだけで満足していたある日、ファビアンの全身が薄く見え?
「ファビアン様に死期が迫ってる!」
王女に新しい恋人が出来たため、ファビアンとの仲が危ぶまれる昨今。まさか王女に断罪される? それとも失恋を嘆いて命を絶つ?
慌てるアルドンサだったが、さらに彼女の目は、とんでもないものをとらえてしまう──。
不思議な力に悩まされてきた令嬢が、初恋相手と結ばれるハッピーエンドな物語。
幸せな結末を、ぜひご確認ください!!
(※本編はヒロイン視点、全5話完結)
(※番外編は第6話から、他のキャラ視点でお届けします)
※この作品は「小説家になろう」様でも掲載しています。第6~12話は「なろう」様では『浅はかな王女の末路』、第13~15話『「わたくしは身勝手な第一王女なの」〜ざまぁ後王女の見た景色〜』、第16~17話『氷砂糖の王女様』というタイトルです。
思い出さなければ良かったのに
田沢みん
恋愛
「お前の29歳の誕生日には絶対に帰って来るから」そう言い残して3年後、彼は私の誕生日に帰って来た。
大事なことを忘れたまま。
*本編完結済。不定期で番外編を更新中です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる