雑草姫、選ばれし花の庭で踏まれて生きる 〜ガラスの靴は、土いじりには不向きです〜

お月見ましろ

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第18話 肯定という名の毒

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 王都の下町、庶民の胃袋を支える大衆酒場『黄金の麦穂亭』。夜の帳が下りる頃、店内は煮込み料理の濃い湯気と、安エールの泡立つ音に満ちていた。煤けたランプの灯りが、仕事終わりの男たちの顔を橙色に染め、笑い声と罵声が入り混じって、低い天井の下を跳ね回っている。
 
 テーブルの隙間を縫うように、人の熱と酒の匂いが渦を巻いていた。

「はいはい、エール三つと子豚の甘酢焼きね。……ちょっと、もうその辺でやめておきなさい。明日、後悔するわよ」

 ロザリーは、いつも通り実家の古着を動きやすく仕立て直した給仕服を纏い、いくつものジョッキを片腕に抱えたまま、慣れた足取りで客の間をすり抜けていく。

 学園で見せる静かな気品は、ここでは必要ない。代わりに無駄のない動きと肝の据わった声が前に出ていた。

 酔客の軽口を受け流し、注文を拾い、空いた皿を下げる。その一つ一つが、日々を繋ぐための確かな作業だった。生きるために手を汚すことを、彼女は一度も恥じたことがなかった。それは意識して得た強さではなく、気づけば身についていた癖のようなものだった。――雑草のような強さが、自然と彼女の背に宿っている。

(……ここには嘘も偽りもないもんね)

 額に張り付いた銀色の髪を、腕の甲で乱暴に払いながら、ロザリーは息を整える。特待生という立場も、傾いた家も、妹の未来も。すべてはこの労働の延長線上にあった。
 
 媚びずに立っていられる理由は、ただ一つ――自分の稼ぎで立っているという事実だけだ。

 そのとき、店の重い木扉が、場の熱気を押し分けるように、きしりと音を立てて開いた。

 一人の客が、音もなく滑り込むように入り込んできた。
 
 深い紺色のマントを目深に被り、素顔を影に沈めたその人物は、この場所には似つかわしくないほど、音の少ない気配を纏っていた。
 
 怒号と笑い声が渦巻いていたはずの店内が、その人物の進路だけを避けるように、さざなみを引く。無意識のうちに、男たちの声が半音、低くなった。本能が、そこに「異物」があることを察知していた。
 
 ロザリーの指先が、ほんの一瞬だけ強張る。ジョッキの重みも、床にこびりついた油の感触も、その瞬間だけが遠のくような感覚。
 
 その人物は、迷うことなく店の最奥へと進み、煤けた壁に囲まれた角の席に腰を下ろした。背を預けるでもなく、ただそこに「選んで」座ったという事実だけが、周囲の空気を重く支配している。
 ロザリーは喉の奥に固まった動悸を嚥下し、努めて「看板娘」の無機質な顔を作って近づいた。
 
「……ご注文は」
 
 いつもと変わらない、乾いた声。
 
 けれど、その言葉が届くより早く、フードの奥から視線が持ち上がる。深い森の湖を思わせる、静謐な瞳。

 エララ・フォン・ロシュフォール。

 王国の頂点に君臨する公爵令嬢が、煤と汗の匂いが染み付いたこの場所で、ひどく場違いに、けれど慈しむように微笑んでいた。
 
「……エヴァレット様。この場所で一番、貴女が大切にしている飲み物をいただけますか?」
 
 ロザリーは言葉を失った。

  ――まずい。
 
 その言葉が、ロザリーの頭の中で乾いた音を立てた。
 
 給仕姿を見られた。この匂い、この喧騒、この場所。
 学園では決して語られない「もう一つの生活」を、公爵令嬢に知られてしまった。
 
 これは流石に、軽蔑されても仕方がないかもしれない。
 同情という名の見下しを向けられるかもしれない。
 ――あるいは、学園に伝えられるかもしれない。
 
 特待生という立場は、紙一枚よりも脆い。貴族社会の「ふさわしくない」という一言で、簡単に剥ぎ取られる。
 
 ロザリーは、それ以上考える前に、踵を返した。

 急いで厨房へ下がり、自分たちで摘んだハーブを煎じた茶を用意する。蜂蜜などない、喉を焼くような苦味のある茶。それを運ぶ手が、自分でも驚くほど小刻みに震えていた。

(……大丈夫。私は、ただの給仕。ここでは、それでいい)
 
 深呼吸ひとつ。
 ロザリーは、カップを両手で持ち、奥の席へ戻った。

 テーブルに置いた瞬間、質素な陶器を、エララは白い指先でそっと包み込んだ。まるで、それが壊れやすい宝物であるかのように。
 
「……不躾なことをしたと、分かっていますわ」

エララの声は低く、柔らかい。
 
「でも、どうしても貴女が守ろうとしている、この『世界』を、私も見てみたかったの」

 エララは、周囲を見渡した。
 怒鳴り合いながらカードに興じる男たち、酔い潰れて机に突っ伏した老人、煤けたランプの光。彼女はそのすべてを、汚らわしいものを見る目ではなく、まるで未知の聖域を眺めるような、純粋な渇望を込めて見つめていた。
 
「……ここは、貴女のような方が来る場所ではありませんわ」

「……学園の回廊で、蜂蜜をたっぷり入れたお茶を飲んでいるときよりも、今の私はずっと、息がしやすいの。……ここでは、貴女がいるから」
 
 エララは苦い茶を一口啜り、ゆっくりと目を閉じた。
 
「……私、本当は、ずっと貴女のようでありたかったのよ」
 
 エララの声は、酒場の喧騒に掻き消されそうなほど小さかった。
 
 その言葉の重みが、ロザリーの胸の奥にあった何かを、静かに、けれど確実に揺らした。

 これまで、誰にも言えなかった。
 この労働が、どれほど誇らしいものであると同時に、どれほど孤独で、周囲に隠し続けなければならない傷でもあったか。
 
 レオンハルトならここを「家畜小屋」と蔑み、ノアなら「退屈しのぎ」として嘲笑うだろう。そして、フィンは何も言わずに、ただその手を包む。
 
 だが、エララだけは。この、泥にまみれた、けれど必死に繋ぎ止めている生活を「世界」と呼び、肯定したのだ。

 それは、これまで一人で歯を食いしばり、雑草のように踏まれても立ち上がってきた彼女が、初めて受け取った「理解」という名の蜜だった。
 
 自分の隠し通してきた醜い現実が、彼女の目には「美しき闘争」として映っている。その事実が、凍えていたロザリーの心を、どんな蜂蜜よりも甘く、暴力的に溶かしていった。
 
「……長居は、なさらないでください。ここは、貴女のドレスを汚すには十分なほど、煤に満ちていますから」
 
「ええ。……でも、この煤の匂いを、私は一生忘れないでしょう。貴女がここで、何を守っているのかを」
 
 エララは立ち上がり、マントの裾を翻した。
 去り際に彼女がテーブルに置いたのは、金貨一枚と、そっと折られた一輪の、どこにでも咲いているような野の花だった。
 
 ロザリーは、彼女が去った後の扉を、長い間見つめていた。
 
 手の中の野の花は、学園の温室に咲く、どんな豪華な薔薇よりも色鮮やかに見えた。
 
 扉の向こう側、冷たい夜気に包まれたエララは、マントの下で、獲物を仕留めた猟師のような冷徹な笑みを浮かべていた。その瞳には、達成感すらなかった。
 
「肯定」という形をした毒。それは、どんな罵倒や暴力よりも静かに、確実に、根を腐らせていく。
 
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