雑草姫、選ばれし花の庭で踏まれて生きる 〜ガラスの靴は、土いじりには不向きです〜

お月見ましろ

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第24話 笑ってほしいと願った夜

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 嵐のような罵声と嘲笑が遠ざかり、重厚な石造りのテラスには、ただ夜風の鳴る音だけが残されていた。
 
 ロザリーの肩には、依然としてレオンハルトの上着が掛けられている。金糸の刺繍が施された厚手の絹は、王族の体温を逃さず閉じ込め、驚くほど重い。その重みはそのまま、彼が背負う地位と権力の重圧となって、ロザリーの細い肩に食い込んでいた。
 
「……落ち着いたか」
 
 レオンハルトの声は、先ほどまでの荒々しい咆哮とは打って変わって、静かで、どこか祈るような響きを帯びていた。
 
 ロザリーは小さく頷く。視界はまだ涙で滲み、熱を持った頬を夜風が撫でるたびに、自分が晒した醜態の記憶が、焼けた鉄を押し当てられたように疼いた。
 
 肩を震わせ、声を殺して泣きじゃくった後。情けないほどに無防備になった彼女を、レオンハルトはただ黙って、強い腕で抱きとめていた。彼の胸元から漂う気品ある香水の匂いが、先ほどまで自分を包囲していた安酒と泥の匂いを、暴力的なまでに上書きしていく。
 
「……ロザリー」
 
 レオンハルトが、彼女の肩を掴んで自分の方を向かせた。月明かりを反射する真紅の瞳。そこには、歪んだ欲望も、支配欲もなかった。ただ、痛ましいものを見つめるような、純粋で真っ直ぐな、そして圧倒的な「正しさ」だけが宿っている。
 
「今夜のことは、俺の責任だ。あのような出来事……お前を危険な場所に放置していた、俺の過失だ」
 
 ロザリーは反論しようと唇を動かしたが、言葉が出てこなかった。
 
 彼の言うことは、残酷なまでに正しい。
 自分がどれほど「自分一人で立っている」と自負しても、一歩、牙を剥いた悪意の世界に放り込まれれば、泥を塗られ、服を剥ぎ取られ、ただ蹲るしかできない無力な少女でしかない。今夜、もし彼が割って入らなければ、自分はどうなっていただろうか。それを想像するだけで、指先が凍りついたように冷たくなる。
 

「もう、認めろ。お前の『誇り』とやらは、あまりに危うい。……一度、好いた女を、あんな薄汚れた酒場に、これ以上戻すことはできない。俺が、お前のすべてを背負う。だから――」

 泣かないでくれ。
 どうか、笑っていてほしい。

 言葉にされなかった願いが、熱となってロザリーの胸を打つ。

「新しい屋敷を用意しよう。妹と共に移り住め。……嫌なら、あの屋敷を修復してもいい。妹には、最高の家庭教師と医者をつける。貴様はもう、雑草を摘む必要も、酔客に罵られる必要もない。……俺の側で、ただ笑っていればいい」

 それは、逃げ道のないほどに完璧な――
 究極の救済だった。――けれど、それは同時に、彼女がこれまで必死に積み上げてきた時間を、すべて「無駄だった」と断じる救済でもあった。

 耐えてきた夜も、泥にまみれた指先も、雑草を摘みながら守ってきた誇りも。それらを必要なかったものとして覆い隠すほど、この光は、あまりにも強すぎる。
 
 これを受け入れれば、明日の食費を案じて眠れぬ夜を過ごすことも、手の指が荒れるまで土を掘ることもなくなる。リリーに、まともな令嬢としての人生を与えてやれる。
 
 彼には、悪意など微塵もない。彼は本気で、この世のあらゆる苦しみから、彼女を遠ざけたいと願っているのだ。その純粋さが、その「善意」の輝きが、ロザリーにはあまりにも眩しすぎて、直視できなかった。
 
(……怖い)

  それは、守られることへの恐怖ではない。“守られてしまえば、二度と戻れなくなる”ことへの、恐怖だった。
 
 彼が近づけば近づくほど、彼が優しくなればなるほど、自分の輪郭が霧散していくような恐怖。
 
 どんな状況でも、どんな環境でも、絶対に諦めなかった。踏まれても、引き抜かれても、自分の根で大地を掴んでいた。その自負こそが、彼女を彼女たらしめていた唯一の背骨だった。
 
 レオンハルトの差し出した手を取れば、その背骨は、柔らかいベッドの上で優しく溶けてしまうだろう。
 
「殿下……。貴方の御心は、痛いほどにわかります。貴方の言葉が、正しいことも」
 
 ロザリーは、絞り出すような声で言った。
 肩に掛けられた上着を、そっと掴む。
 
「でも……その正しさが、今の私には、眩しすぎて苦しい」

 レオンハルトの眉間に、僅かに影が落ちる。理解できない、という顔だ。
 
 彼にとって、弱き者を強き者が守るのは世界の理であり、愛の証明だった。それを「苦しい」と拒む彼女の心が、どうしても彼には掴めない。

「貴方の隣にいたら、私は……私ではなくなってしまう。  
 ――それでも私は“いままでの私”を、捨てたくないのです。  ……お願いです。今は、これ以上近づかないで」
 
 
 ロザリーは、彼の熱を振り払うように一歩後ずさった。
 彼との距離が、物理的に離れる。その瞬間、夜の冷気がロザリーの肌を刺した。
 
 心細さが、全身を駆け抜ける。それでも、彼女はこの孤独な冷たさの中に、自分の居場所を見出すしかなかった。
 
「……待て。俺は、貴様を傷つけるつもりなど――」
「わかっています。……だからこそ、怖いのです」
 
 レオンハルトは、差し伸べた手を空中で止めたまま、立ち尽くした。
 
 自分たちは、これほど近くに立っていながら、まるで見ている宇宙が違うかのように、言葉が噛み合わない。
 
 ロザリーは、彼の返答を待たずに、翻した裾を夜風に躍らせて走り出した。
 
 重厚な上着を彼に返すことさえ忘れ、ただそれが、誰にも与えられたものではなく、自分で掴み続けてきたものだと――忘れないために。
 
 向かう先は、学園の端に沈む、あの朽ちかけた北温室。
 
 レオンハルトの太陽が、自分の誇りを蒸発させてしまう前に。泥の匂いと、静かな月明かりだけが許される場所へ、彼女は逃げ込んだ。
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