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第32話 氷の王子
王都の喧騒から隔絶された別邸は、今夜、一つの巨大な光の檻と化していた。
門扉から玄関へと続くアプローチには、主を待つ馬車が列をなし、吐き出される貴婦人たちの絹擦れの音が、霧雨の夜に密やかなさざ波を立てている。
会場の扉が開かれた瞬間、招かれた者たちは、その圧倒的な「美」に気圧され、言葉を失った。
正面の玉座に並ぶのは、リヒトシュタイン王妃とその息子。
王妃カタリナは、深紅のベルベットを纏い、威厳に満ちた笑みを湛えていた。だが、その瞳に宿る光は温かみとは無縁で、獲物を品定めする鷲のような鋭さがある。彼女が扇を動かすたび、その場にいるすべての令嬢たちは、己の血筋と価値を透かされているような、得体の知れない恐怖に背筋を凍らせた。
「……お美しい。けれど、あのような方に睨まれたら、命がいくつあっても足りないわ」
壁際で控える中堅貴族の夫人たちが、震える声で囁き交わす。
そしてその隣、微塵の乱れもなく整えられた礼装に身を包んでいるのが、この夜会の真の主役――隣国の王太子である。
「あれが……リヒトシュタインの『幻の君』……」
琥珀色の瞳は極限まで冷え切り、窓の外に広がる闇よりも深い虚無を湛えている。彫刻のように整った貌は、もはや生身の人間というよりは、冷徹な法と秩序を体現した工芸品のようだった。
彼は隣に立つ母の言葉に機械的に頷き、誰とも視線を合わせない。その端麗すぎる横顔は、見守る令嬢たちに溜息をつかせる一方で、決して触れることのできない「拒絶」を周囲に振り撒いていた。
「あんなに冷ややかでいらっしゃるのに、どうしてあんなに目を引くのかしら。まるで、氷で作られた宝石のようだわ……」
そんな感嘆の声が漏れる中、会場が一段と大きく波打った。
重厚な扉を押し開け、この国の覇者として現れた男――レオンハルト・ヴァルディア。
黒髪を潔くかき上げ、真紅の瞳で会場を一蹴する姿は、まさに若き獅子そのものだった。
リヒトシュタインの王太子が「静」の恐怖なら、レオンハルトは「動」の威圧。彼が歩むごとに周囲の令嬢たちが波を分かつように道を開け、憧憬の眼差しを注ぐ。
「やはり、レオンハルト様もかっこいいわぁ……。あの強引なまでの自信、見ているだけで吸い込まれそう」
「見て、あの王太子殿下の冷たい視線を、正面から受け止めていらっしゃる。あんな不敵に笑えるのは、この国で殿下だけだわ」
二人の「王子」が視線を交わした瞬間、会場の空気が火花を散らすように張り詰める。王妃の満足げな眼差し、王太子の死んだ瞳、そしてレオンハルトの不遜な微笑。
祝祭の音楽が止み、王妃カタリナが優雅に立ち上がった。
会場のすべてが、その一挙手一投足に注目する。扇を閉じ、大理石の床にコツリと杖を突く音だけが響いた。それは、この場にいる全員の意思を縛り上げる、無言の合図だった。
「皆様、今夜この良き日に、我が息子、ノアの輝かしい未来を分かち合えることを嬉しく思います」
王妃の声は、夜の静寂を切り裂くほどに澄み渡っていた。しかし、その後に続いた名は、会場に集った貴族たちの期待を、氷点下の驚愕へと叩き落とした。
「リヒトシュタインの次期国王たるノアの伴侶として、ミレニア・フォン・ガウザー公女との婚約をここに発表いたします」
一瞬の沈黙。その後、さざ波のような動揺が広がった。
ガウザー公女。その名を聞いて、眉をひそめない者はいなかった。彼女はノアよりも一回りも歳上で、過去に二度の破談を経験している。社交界では、その苛烈な性格と、王妃の実家の忠実な「猟犬」としての悪名が絶えない人物だった。
「……正気か? 殿下に、あの公女を?」
「王妃様は、殿下を支える妃が欲しいのではない。殿下を自分の手元に縛り付けておくための、『鎖』が欲しいのよ……」
ノアは、その言葉を隣で聞きながら、ただ前を見据えていた。琥珀色の瞳は光を反射することもなく、深い沼のように沈んでいる。彼は、自身の価値がどのように切り売りされようと、もはや関心がないかのようだった。
その光景を、最前列で誰よりも不機嫌そうに眺めている男がいた。
レオンハルトは声を荒らげることも、王妃の言葉を遮ることもなかった。ただ、組んだ腕に力を込め、煮えくり返るような不快感を隠そうともせず、壇上のノアを冷めた赤い瞳で射抜いていた。
(……薄汚いやり口だ)
レオンハルトは、低く鼻で笑った。
ノアは王妃に促されるまま、死んだ魚のような瞳で肯定の意を示し、そのまま形式的なダンスへと駆り出されていく。相手は、毒々しいまでの厚化粧を施したガウザー公女だ。
音楽が再開され、着飾った令嬢たちの輪の中に、隣国の王太子が消えていく。
彼は、壁に背を預け、シャンパンのグラスを弄びながらその様子を眺めていた。自分に媚を売ろうと近づいてくる令嬢たちには目もくれず、ただ、人形のように踊るノアの姿を、ヘドが出るほど「気に食わない」という顔で見つめている。
あの雨の日、一人の少女を泥の中に置き去りにしてまで、こいつが守りたかった「王子の座」がこれか。
自分の意志も、誇りも、愛したかもしれない女への未練さえも、すべてこの豪華な檻の中に埋めて、腐った公女の手を取る。それがこいつの選んだ道か。
「……反吐が出る」
独り言は、華やかな旋律に掻き消された。
レオンハルトの脳裏には、いまだに自分があの日貸し与えた外套を、震える手で握りしめていた「雑草」の姿が焼き付いている。
夜会は滞りなく進んでいるように見えた。
誰もが、このまま予定された絶望が完成すると信じて疑わない。
けれど、レオンハルトの瞳には、まだ火が消えていなかった。彼は、この後に訪れるはずの「嵐」を待っている。
ダンスの輪が広がり、ノアが会場の隅へと移動した、その時。
レオンハルトは静かにグラスを置き、誰にも気づかれぬような足取りで、親友を追い詰めるために影へと動いた。
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