雑草姫、選ばれし花の庭で踏まれて生きる 〜ガラスの靴は、土いじりには不向きです〜

お月見ましろ

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第34話 愛情と執着は紙一重

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 月明かりの静寂の中で、ロザリーの肩が大きく揺れた。
 
 ノアの口元から滴る鮮血、そして不自然なほど赤く腫れ上がったその頬。レオンハルトの拳がいかに容赦のないものであったかを物語る無残な光景に、彼女は思わず息を呑んだ。
 
「……殿下、本当に殴ったんですか?」
 
 ロザリーは信じられないものを見る目でレオンハルトを仰ぎ見た。あの日、彼が言っていた言葉は、せいぜい「横面を引っぱたく」程度の比喩だと思っていたのだ。まさか、ここまで完膚なきまでの一発とは。
 
「有言実行だと言っただろう。あいつのその面の皮を叩き割らなければ、俺の気が済まなかった」
 
 レオンハルトは拳の痛みを逃がすように指を鳴らし、相変わらず傲岸不遜な態度で鼻を鳴らした。ロザリーは「なんて野蛮な……」と小さく毒づきながら、ドレスの隠しポケットにねじ込んでいた、使い古した、けれど清潔な木綿のハンカチを取り出した。
 
「……じっとしていてください。痛いでしょ」
 
 ロザリーは膝を折り、床に座り込んだままのノアの口元に、そっとハンカチを重ねた。
 ノアは、その瞬間、目を見開いた。
 
 柔らかい布の感触、そしてロザリーの指先から伝わる、自分を心底案じるひたむきな熱。彼女のドレスは泥に汚れ、髪には葉が刺さっている。完璧な夜会の「毒」をすべて払い除けて、自分を叱り、案じるために走ってきた少女。
 
「……あ」
 
 ノアの喉から、掠れた声が漏れた。
 
 自分は彼女を絶望から遠ざけるために、自ら毒を飲み、彼女を突き放した。けれど、彼女はその毒の海を自力で泳ぎ切り、今、こうして目の前で憤り、そして優しく触れている。
 
 呪縛が、完全に解けた。
 
「……やっぱり、君はとても綺麗だね」
 
 ノアは、傷の痛みなど忘れたように、熱っぽい吐息を漏らした。
 次の瞬間、彼は膝をついたままのロザリーを、壊れ物を扱うような、けれど決して離さないという執着を込めて、強く抱き寄せた。
 
「えっ……!? ちょ、ちょっと待ってください、ノア、離して!」
 
 突然の抱擁に、ロザリーは真っ赤になって抗議した。何より、そのすぐ傍らには、この茶番を仕組んだ張本人が仁王立ちしているのだ。
 
「殿下が、レオンハルト殿下が見てますから……!」
 
 恥ずかしさのあまり消え入りそうな声で訴えるロザリーだったが、レオンハルトは止めるどころか、満足げに口角を吊り上げていた。
 
「気にするな。俺が見せたかったのは、お前のその無様な敗北宣言と、そいつの覚悟だ」
 
 レオンハルトは腕を組み、二人を見下ろして不敵に笑う。その瞳には、親友をどん底から引きずり出した達成感と、自分が見込んだ「雑草」の底力への確信が宿っていた。
 
 その時、雲の切れ間から満月が姿を現した。
 テラスに差し込む月の光が一段と強く輝き、泥だらけの靴を履いた少女と、血を流しながらも光を取り戻した王子を、神聖なほど白く照らし出す。
 
 
 背後の重厚な扉が開き、王妃カタリナの、氷点下まで凍りついた気配がテラスに溢れ出した。
 
 ノアは、抱きしめていたロザリーの肩を名残惜しそうに離し、ゆっくりと立ち上がった。腫れ上がった頬をさすることもなく、血のついたハンカチを握りしめたまま、彼は背後に控える「母親」という名の絶対的な絶望へと向き直る。
 
 その横顔には、もう怯えはない。
 ノアは隣でまだ戸惑っているロザリーを、守るように、そして自分自身を鼓舞するように見つめた。
 
「……攫いに来てくれた君に、これ以上格好悪いところは見せられないからね」
 
 ノアは、冷徹な王妃の視線を真っ向から受け止める。その琥珀色の瞳には、誰にも汚せない一人の男としての意志が灯っていた。
 
「僕も、きちんと頑張らないと。……君と、対等な場所で笑い合えるようになるために」
 
 夜会はまだ終わらない。むしろ、本当の戦いはここから始まるのだ。
 

 テラスの平穏は、背後の扉が叩きつけられるように開いた衝撃で、無惨に砕け散った。
 
 溢れ出したのは、狂気にも似た苛烈な拒絶の気配。王妃カタリナは、宝石を散りばめた扇を握りしめ、かつて誰も見たことがないほど形相を崩してそこに立っていた。
 
「……誰よ、その女は!」
 
 その声は、高貴な王妃のそれではなく、喉を掻き切るような絶叫だった。
 
「ノア! 貴方、そんな泥棒猫に騙されて……! どうしてそんな怪我をしているの! 誰が貴方を傷つけたの、その汚らしい女が貴方を唆したのね!? 貴方は、私の目の届く場所にいなきゃいけないのよ! なんで! どうして私の言うことが聞けないの! 貴方は私なの、貴方は私の体の一部なのよ!」
 
 カタリナは錯乱したように叫びながら、自身の腕を掻きむしり、その目は血走って焦点が合わない。王妃としての気品は、息子を制御できないという恐怖の前に、音を立てて瓦解していた。
 
「貴方が……貴方が、私の宝石を汚したのね……っ! 許さない、絶対に許さない! 泥に塗れた下賤な足で、私の大切なものを触らないで!」
 
 カタリナは、重いドレスの裾を翻して突進した。振り上げられたのは、鈍い光を放つ宝石がびっしりと埋め込まれた扇。それはもはや優雅な装飾品ではなく、娘の顔を切り裂くための凶器だった。
 
「――母上!」
 
 ノアは迷うことなく、ロザリーの肩を抱き寄せ、自らの背中でその狂気を遮った。
 だが、振り下ろされるはずだった衝撃は、届かなかった。
 
「……そこまでだ、王妃殿下」
 
 低く、地を這うような声。
 
 レオンハルトが、王妃の細い手首を鉄の万力のような力で掴み止めていた。その真紅の瞳には、かつてないほど冷徹な光が宿っている。
 
「離しなさい! 離して! これは我が国の、親子の問題よ! この女を殺さなきゃ、ノアが、私のノアが壊れてしまう!」
 
 泡を吹かんばかりに叫ぶカタリナを、レオンハルトは氷のような視線で一蹴する。
 
「いいや。俺の国の、俺の民に手を出そうってんなら、それはもう『親子の問題』じゃ済まない。国際問題だ。あんたのその扇が彼女に触れた瞬間、ヴァルディアはリヒトシュタインに宣戦布告することになるぞ。それでもやるか?」
 
 レオンハルトの殺気を含んだ脅しに、王妃はひきつけを起こしたように喘ぎ、視線を息子へと向けた。
 
「ノア、ノア……! 貴方は私の一部でしょう?  貴方がいなければ、私は完成しないのよ!  私がどれだけ貴方を愛して、どれだけ心を砕いてきたか、分かっているはずよ!」
 
 縋るような、湿った懇願。
 しかし、ロザリーを腕の中に守ったまま、ノアはゆっくりと振り返った。その琥珀色の瞳は、もはや恐怖に揺れてはいなかった。
 
「……母上は、僕を愛しているのではない。僕の中にいる『自分自身』を愛していただけだ」
 
 ノアは、空いた手で、自らの三つ編みを結んでいた金色の髪飾りに触れた。母が「自分の一部」である証として彼に強いてきた、呪縛の象徴。
 
「僕の心は、誰にも選ばせない。母上、貴方であってもだ」
 
 ノアは躊躇なく指先を動かし、その髪飾りを外した。
 ハラリと解かれた金髪が夜風に踊り、ノアの輪郭を自由にする。彼は、その髪飾りを慈しむように見つめた後、そっと大理石の床へ置いた。
 
「もう、貴方の身代わり(人形)として生きる夜は終わりだ。僕は、僕の意志で」

 足元に落ちた髪飾りは、月光を反射して虚しく輝いた。
 目の前にいる王妃は、もはや自分の命を支配する巨大な怪物ではなく、ただ過去の執着に縋るだけの、哀れな一人の女性に過ぎなかった。
 
 レオンハルトは、隣に立つ男のその横顔を凝視した。
 呪縛を自ら引きちぎり、誰かの陰に隠れることをやめた男。
 
(……なるほどな)
 
 レオンハルトの視線が、ノアの腕の中で呆然としているロザリーへと移る。
 
 泥だらけの靴を履き、自分自身の足でこの絶望の淵まで駆けつけてきた、不屈の少女。
 
「……守るべき存在、か。訂正する」
 
 レオンハルトは不敵に口角を上げた。その瞳に宿ったのは、一人の男としての、剥き出しの独占欲だった。
 
「お前は、奪い合いたいと思うほどに、価値のある女だったようだ」
 
 夜会を包んでいた虚飾の魔法が解けていく。
 月の光は、動き出した彼らの運命を、どこまでも鮮やかに照らし出していた。
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