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第33話 凍えた心と、紅い夜
しおりを挟むバルコニーを吹き抜ける夜風は、階下の狂乱を遠い世界の出来事のように追いやっていく。
ノアは手摺りに縋るように立ち、ただ一点、暗い庭園を見つめていた。その琥珀色の瞳は、もはや何も映していない。王妃が宣告した「婚約」という名の鎖が、彼の輪郭を内側から食い破っていた。
「……何の真似だ、レオ。親友の門出を祝うにしては、随分と無作法じゃないか」
ノアの口から漏れたのは、乾ききった、形ばかりの言葉だった。
レオンハルトは答えなかった。ただ、数歩の距離を詰め、猛獣のような静けさでノアの正面に立つ。その赤い瞳には、憐れみなど微塵もなく、ただ煮えくり返るような不快感だけが沈殿していた。
「門出、か」
レオンハルトの声が、低く、地を這う。
「お前が守りたかったのは、その程度の、吐き気のするようなものだったのか」
「君に何がわかる」
ノアの声が震える。
「そうまでして手に入れたいのが、年増の公女の犬になる権利だったのかと聞いているんだ?」
「違う……。あの子を遠ざけることが、僕にできる唯一の……」
「――いい加減にしろ」
不意に、肉を打つ鈍い音が響いた。
階下の楽団が奏でる甘ったるい円舞曲にかき消されるほど、それは小さく、しかし確実な破壊の音だった。
レオンハルトの拳が、ノアの端麗な顔を容赦なく捉えた。
床に崩れ落ちたノアの瞳――いつもは軽薄な色気で周囲を煙に巻いていたハニーアンバーが、今は光を失い、澱んだ泥水のように暗く濁っている。
レオンハルトの拳は、彼自身の信じる「正しさ」ゆえに、あまりに重く、鋭かった。その真紅の瞳は、友に裏切られたことへの怒りと、何よりロザリーという尊厳を汚されたことへの憤怒で、静かに燃え上がっている。
「……絶望する彼女を笑って捨てた貴様に、王を名乗る資格はない」
吐き捨てられた言葉は、氷の楔となってノアを射抜いた。
ノアの切れた唇から溢れ出した血が、大理石の床に鮮烈な紅を広げていく。それは、王妃が今夜の主役のために用意したどんな宝石よりも、生々しく、そして痛々しく輝いていた。
ノアは、流れ落ちる血を拭おうともしなかった。
ただ、床に手をつき、自分に向けられた軽蔑を全身で受け止めるように、力なく笑った。
「……これで、良かったんだ」
その自嘲の響きに、レオンハルトの眉がぴくりと動く。
「……そうしなければ、母上は彼女の妹を事故に見せかけて殺していただろう」
ノアの喉の奥から、乾いた砂のような声が漏れる。
視線は虚空を彷徨い、その瞳に映っているのはここではない、王妃という名の巨大な影だった。
「彼女を……ロザリーを拒絶しなければ、母上はきっと、彼女のすべてを焼き尽くすんだ。あの子の尊厳も、家族も、命も……すべて。僕があの子を切り裂くことでしか、あの子を守る術はなかった。……あんな泥の中で泣かせておくのが、僕にできる唯一の救いだったんだよ」
絞り出された告白は、雨の日のあの残酷な拒絶が、不器用すぎるほどに必死な、命懸けの自己犠牲であったことを物語っていた。彼は、自分自身の魂を汚し、ロザリーの心を壊してでも、彼女の命を繋ぎ止めることを選んだのだ。
レオンハルトは、掴みかけたノアの襟から手を離した。
二人の間に、再び刺すような静寂が戻る。
ノアの絶望的な献身と、レオンハルトの独善的な正義が、冷たい月光の下で激しく衝突し、火花を散らす。
その時だった。
テラスへ続く庭園の階段から、迷いのない足音が聞こえてきた。ノアが守ろうとし、レオンハルトが焚き付けた、その「光」そのものが現れる。
闇を裂いて姿を見せたロザリーは、血を流して倒れるノアと、拳を握りしめたまま立ち尽くすレオンハルトの姿を、その灰緑の瞳で真っ直ぐに見据えていた。
彼女の姿は、この豪華な夜会の「完璧」を冒涜するほどに歪で、そして鮮烈だった。
レオンハルトが強引に用意させたのであろう最高級のドレスを纏い、プロの手によって施されたメイクは彼女の気品を恐ろしいほどに引き立てている。しかし、その銀髪の結い目には、庭園を駆け抜けてきた証拠である枯れ葉が、場違いな勲章のように引っかかっていた。
何より異様なのは、その足元だ。繊細な裾から覗くのは、泥を跳ね上げた踵の低い、履き潰した仕事用の靴。
「お前……! その姿、その靴はどうした!」
思わず声を上げたのはレオンハルトだった。用意させたはずのガラスの靴はどこへ捨ててきたのか。
ロザリーは息を切らしながらも、冷たい夜風を胸いっぱいに吸い込み、不敵に言い放った。
「踵の高い靴は走りにくいので、王子様を攫うには不向きでしょ」
その言葉に、床に伏したままのノアが顔を上げた。
唇から滴る鮮血、澱んだ瞳。自分を救うために自分を殺そうとしていた男の惨めな姿を、ロザリーは容赦なく射抜く。
「ノア様! 私は、そんな死んだような瞳の貴方を好きになったわけじゃない!」
ロザリーは一歩、泥だらけの靴で大理石を踏みしめ、距離を詰めた。
ノアが彼女の家族を守るために、どれほど孤独な地獄を歩む決意をしたか、彼女はまだ知らない。知らないからこそ、その叱咤は混じりけのない「個」としての怒りだった。
「私の幸せは、私が決めるの。だから、人のために犠牲になるなんて……そんな自分勝手なことはやめなさい!」
「ロザリー……君は、わかっていない。母上が、君に何をしようと……」
「絶望するのは勝手だけど、私のこと、舐めないでくれる?」
遮られた言葉。ノアの琥珀色の瞳が、驚愕に揺れる。
ロザリーの瞳は、どんな暴力にも、どんな特権にも屈しない光を湛えていた。それは彼女がこれまでの人生で、誰に頼ることもなく「雑草」として根を張ってきたという、絶対的な自負の現れだった。
「私は諦めない。貴方を攫う準備なんて、いつでもできているんだから」
その瞬間、ノアの澱んでいた瞳に、一条の光が戻った。
幼い頃から、母の歪んだ愛情という名の支配に晒されてきた。選ばれるために自分を削り、壊されないために仮面を被ってきた。一度だって得られなかったもの。
目の前の少女は、彼を「守るべき哀れな王子」としても、「支配すべき道具」としても見ていない。ただ対等に、一人の人間として、その弱さを叱り、その魂を尊重していた。
その対等な叱咤こそが、王妃の呪縛を、宝石で飾られた鎖を、音を立てて引きちぎっていく。
ノアは、自らの血を手の甲で無造作に拭った。初めて、その瞳に「人間」としての意志が宿る。
レオンハルトは、拳を解き、皮肉な笑みを浮かべてその光景を眺めていた。
「聞いたか、ノア。攫ってくれるそうだぞ。……お前の惨めな自己犠牲など、この雑草には通用しないらしい」
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