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第48話 静かな朝に、十八歳
しおりを挟む目が覚めると、カーテン越しの光がいつもより少しだけ明るかった。朝の空気は澄んでいて、部屋の中もまだ静かだ。
アイリスは上体を起こし、ぼんやりと瞬きをする。
今日は――と考えかけて、深く思い至る前に、窓の外で小鳥がさえずる声が聞こえた。
十八歳。貴族としては大人として扱われる年齢だ。けれど、ベッドから降りて踏みしめた床の冷たさも、窓から見える景色も、昨日と何も変わっていない。
顔を洗い、冷たい水で肌を引き締めてから、糊のきいたブラウスに袖を通す。ボタンをひとつずつ留めるたび、意識がゆっくりと覚醒していく。
鏡の前に座り、櫛を手に取った。癖のある髪を丁寧に梳かし、サイドの髪を慣れた手つきで掬い上げる。指先が覚えた角度でバレッタを留めると、パチン、と小さな金属音が静かな部屋に響いた。
仕上げに、襟元のリボンに指をかけた。鏡を見なくても、指先が勝手に綺麗な結び目を作っていく。
ふと、鏡の中の自分と目が合った。
少しだけ大人びて見えるだろうか。そんな期待を込めて覗き込んでみるけれど、そこにいるのは、昨日と同じ制服姿の自分だけだ。
「……よし」
短く息を吐いて、革の鞄を手に取る。ずしりとした教科書の重みも、使い慣れた持ち手の感触も、そのままだ。
いつも通りの朝。
そう思って、アイリスは部屋の扉を開けた。
「おはようございます、お嬢様」
開けた瞬間、声が降ってきた。
廊下の壁に背を預け、まるでアイリスが出てくる時間を秒単位で知っていたかのように、ルイが立っていた。その呼吸は整っていて、ずっと前からそこで待っていた気配がある。
「おはよう、ルイ。早いのね」
「いいえ。ちょうど今、来たところです」
嘘だ、とアイリスは思う。
けれど、それを追及するのは野暮というものだろう。
ルイは自然な動作でアイリスから鞄を受け取ると、歩き出しながら、背中越しに言った。
「……十八歳のお誕生日、おめでとうございます」
特別な抑揚も、飾った言い方もない。
アイリスは少しだけ笑って、背中を追いかける。
「ありがとう」
それで十分だった。
廊下を歩く間、ルイはいつも通り少し後ろに立ち、歩調を合わせてくる。
距離も、所作も、昨日までと変わらない。
ただ、祝う言葉だけが、少し早かった。
時計を見る必要もなく、確認するでもなく。
今日がそういう日だと、最初から分かっていたみたいに。そして、誰よりも早くその言葉を渡すために、扉の前で待っていたのだ。
アイリスはそれを重いとは思わなかった。
いつもの朝に、いつもの声があって、少しだけ言葉が添えられただけ。
「今日も、よろしくね」
「はい。いつも通りで」
ルイはそう答え、視線を伏せたまま微笑んだ。
朝は、何事もなかったように進んでいく。
けれどその日の「最初の言葉」だけは、もう、確かに渡されていた。
朝のざわめきが落ち着いたころ、アイリスは教室に入った。
席に着く前に、いくつかの視線が向く。驚くほどではないが、いつもより少しだけ、意識されている感じがあった。
「おはよう」
声をかけられて、返した直後。
「そういえばさ」
「今日だよね?」
ひそひそとした声が、確信に変わる。
「お誕生日。おめでとう」
「もう十八歳なんだね」
言われて、アイリスは一瞬だけ瞬きをした。
「あ、ありがとう」
大げさな拍手も、冷やかしもない。
代わりに、小さな笑顔と、軽い相槌がいくつか返ってくる。
「これ、使ってたよね?」
差し出されたのは、新しい羽根ペンだった。
持ち手が少しだけ細くて、手に馴染みそうなもの。
「インク、切れかけてたでしょ」
「よく見てるね……」
思わず笑う。別の友人からは、書き留め用の小さなノート。表紙は地味で、装飾もない。
「特別な日だからって、派手なのは似合わないと思って」
「それ、どういう意味?」
軽口が飛び交う。教室の空気は、いつも通りだ。
「十八歳って言っても、急に何か変わるわけじゃないよね」
「うん。昨日と同じ」
「明日も同じ、たぶん」
誰かがそう言って、話題はすぐに別のことへ移っていく。
次の授業の課題だとか、昼食の話だとか。
アイリスは、もらったものを大切に鞄の中へとしまいながら、ふっと息をついた。
(……十八歳、か)
言葉にすると少しだけ区切りがある。けれど、今のところ実感は薄い。特別扱いされすぎないことが、むしろ心地よかった。誕生日は、あくまで今日の中の一つの要素でしかない。
鐘が鳴り、教室が静まる。
いつもの授業が始まる。いつもの一日が、少しだけ記念日を含んだまま、進んでいく。
アイリスは、机に向き直った。
――まだ、日常の側にいる。
午後のざわめきが、少しずつ落ち着いていく。授業の合間に交わされる軽い祝いも途切れ、学園全体が夕方の気配を帯び始めた頃だった。
中庭の縁で、アイリスは足を止める。
噴水の水音が、昼よりも柔らかく響いている。
「……久しぶりだな」
声をかけてきたのは、ギルバートだった。
いつものように周囲に人はいるが、互いに向き合う距離だけが、自然と確保されている。
「うん。ちゃんと話すのは、久しぶりかも」
それだけで、十分だった。
後夜祭のことを持ち出す必要もない。あの夜から続いていた、ぎこちなさが、少しだけ緩む。
「誕生日だそうだな」
「うん。気づいたら、だったけど」
他愛ない言葉が、間を埋める。責める気配も、踏み込む気配もない。
夕暮れの光が、中庭を斜めに染めていく。ギルバートの髪が、光の中に溶けるように色を変えた。
「おめでとう」
短くて、飾りのない言葉。
けれど、きちんとした声音だった。
「ありがとう」
それだけで、胸の奥に引っかかっていたものが、少しほどける。沈黙が落ちる。
気まずさが、完全に消えたわけではない。
けれど、避け合うほどの距離でもない。
「……これからも、友人として話せるといい」
視線を逸らしたままの言葉。
それには約束も、未来の話も、含まれていない。
「じゃあ」
ギルバートは一歩引き、いつもの礼儀正しい動きで背を向ける。
「またな、アイリス」
「うん。またね」
彼の背中が、中庭の出口へ向かっていく。夕暮れの中に、静かに紛れていくように。アイリスは、その姿を見送りながら思った。――少しだけ、戻れた。
それで、今は十分だった。
放課後、大好物のチェリーパイをご馳走され、部屋に戻る頃にはあたりは暗くなっていた。
少しだけ開いた窓から夜風が入り込み、カーテンの端が静かに揺れている。閉め忘れた覚えはないのだが、とアイリスは首を傾げながら、窓辺に近づいた。
小さな窓枠の内側に、白い包みがひとつ置かれている。
目立たない。けれど、見落とすほど雑でもない。
包みを開くと、中にはキャンディが数粒。色も形も揃っていない、どこか不揃いな甘い菓子だった。市販品のはずなのに、わざわざ選んだ気配が残っている。それに――こんな置き方ができる人物は、一人しか思い浮かばない。
(……これは勇気がでる、おまじないかな)
名前は書かれていない。おめでとう、の言葉もない。
キャンディをひとつ口に含むと、ゆっくりと甘さが広がる。強すぎず、残りすぎず、静かに消えていく味。
今日一日を思い返す。特別なことは、ほとんどなかった。祝われすぎることもなく、大きな選択を迫られることもない。
何も選ばなかった。何も失っていない。
その事実が、今は少しだけ心地よかった。
窓の外では、夜が深まっていく。星は少なく、月も薄い。
十八歳になった実感は、最後まで曖昧なままだった。けれど、確かに、ひとつの区切りは越えた気がする。
アイリスはキャンディの包みを大切に畳み、机の隅に置いた。それから窓を閉め、灯りを落とす。
静かな夜だった。あまりにも、穏やかで。
だからこそ――この先に何かが待っていることだけは、分かってしまう夜だった。
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