神様、恋をすれば世界は救われるのですか? 〜余命二年の侯爵令嬢が、選ばれなかった未来の先で最愛を見つける物語〜

お月見ましろ

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第50話 その一歩を踏み出す前に

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 あの日の怪我は、大したことはなかった。

 事故自体は大きなものだったらしい。運良くロイドが魔法陣の処理をしてくれたおかげで、被害は大きくはならなかった。魔法学校での事故は珍しいことではない。事故での怪我も治療魔法ですぐに塞がり、医師からも「痕は残らないでしょう」と言われた。

 それでも――その言葉を信じるかどうかは、別の話だったらしい。

 あの事件から、アイリスはほとんど屋敷の外へ出ていない。

「寒いですし」
「転びやすい季節ですから」
「まだ万全とは言えませんので」

 理由はいくらでも用意された。どれももっともで、反論するほどのことでもない。結果として、冬休みを迎えても、朝から晩まで、彼女の行動範囲は屋敷の中だけに収まっていた。

 窓辺に立つと、庭はすっかり冬の色をしている。葉を落とした木々の向こうで、使用人たちが静かに行き来しているのが見えた。

「……暇だなぁ」

 ぽつりと漏らすと、すぐ近くから声が返ってくる。

「でしたら、お茶をお持ちしますか」

 ルイだった。いつもより、少し距離が近い。いつもより、視線を外さない。

「うん、お願い」

 そう答えると、彼はすぐに動いた。早すぎるくらいの反応だった。

 あの日以来、ルイは変わった――というほどではない。態度は丁寧で、言葉遣いも変わらない。ただ、こちらが何かを言う前に察し、こちらが動く前に先回りする。

 過剰、というほどでもない。
 けれど、以前より確実に、“守る”という意識が前に出ている。いや、それは守護というより、柔らかな鳥籠を作る作業に似ていた。

 ソファに座り直しながら、アイリスは小さく息を吐いた。

(……みんな、心配しすぎだと思うんだけど)

 そう思いながらも、強く否定する気にはなれない。心配される理由に、覚えがありすぎた。

 額に残る、触れても分からないほどの薄い傷跡。
 あのときの衝撃と、視界が白くなった感覚。
 そして――

(ロイド……)

 あの日から、会っていない。

 冬休み直前の出来事だったから、学園に戻る機会もなく、そのまま時間だけが流れている。手紙も、伝言も、特にない。

 ただ、ふと思い出す。

 魔法陣が暴発したあの場で、初めて見た、ロイドの表情。
 いつも余裕そうで、どこか他人事みたいな彼が、はっきりと焦りを滲ませていた。

(あんな顔、初めてだったな)

 理由は、分からない。
 分からないまま、問い直すこともできていない。
 窓の外では、日が傾き始めている。冬の夕暮れは早く、光はあっという間に薄くなる。

「お茶をお持ちしました」

 ルイが、いつも通りの、少し甘さを含んだ声音で言う。

「ありがとう」

 カップを受け取りながら、アイリスは小さく笑った。

 何も起きていない冬休み。静かで、安全で、守られた時間。それが、嵐の前の静けさだと気づくには、まだ少しだけ、時間が必要だった。


 そして、冬休みが、ようやく終わる。

 屋敷の門を出るのは久しぶりだった。

 冷たい空気が頬に触れて、アイリスは思わず息を吸い込む。家の中にこもっていた時間が長かったせいか、冬の朝の匂いが少しだけ新鮮に感じられた。

(……外、寒い)

 それだけのことなのに、どこかほっとする。過保護なくらい付き添われていた日々が嘘みたいに、道は静かで、足元は自由だった。

 学園へ向かう馬車の中、窓の外を流れる景色を眺めながら、アイリスは小さく息を吐く。

 冬休み最終日を迎えても、家族も使用人も、最後まで心配そうな顔を崩さなかった。寮に帰る事も許されず、結局、ギリギリまで屋敷に引き留められた。

 学園に降り立った瞬間、聞き慣れた声や足音が耳に戻ってきた。生徒たちの話し声。冬の制服が擦れる音。

 いつも通りの、はずの日常。

「久しぶりだね、アイリス」

 声をかけられて、笑顔で返す。心配されたり、軽く事情を聞かれたり。どれも想定の範囲だった。

 ――けれど。
 人混みの向こうに見えた金色の髪に、アイリスは一瞬、足を止めた。

 ギルバートだった。
 立ち姿はいつもと同じ。背筋は伸び、視線は前を向いている。けれど、その空気だけが、どこか違う。

 他生徒に向ける声はいつも通り低く、落ち着いている。言葉遣いも、視線の高さも、何ひとつ変わらない。

 それなのに、胸の奥に小さな引っかかりが残る。

 ギルバートは、常に周囲を見ている人だ。王族としての自覚も、責任も、背負うことを避けない。その分、感情を外に出すことは少ない。

 けれど今日は、その「張り詰め」が、いつもより強い。
 理由は分からない。ただ。近づきがたい、と直感が告げていた。

 焦っているような。張り詰めているような。何かを、決めきれないまま抱えている人の背中だった。


 昼休みが終わりに近づく頃、人気の少ない回廊で、アイリスはギルバートと並んで歩いていた。

 偶然だ。少なくとも、どちらもそういう顔をしている。
 冬の光は低く、窓から差し込む日差しは長い影を床に落としている。足音が響くたび、影が揺れた。

 沈黙が続いていた。

 気まずい、というほどではない。けれど、以前のような自然さもない。

 話題を探そうとして、やめる。今は、軽い言葉を投げていい空気じゃない――そんな感覚だけが、はっきりしていた。

「……怪我は、もういいのか」

 先に口を開いたのは、ギルバートだった。
 声は低く、事務的で、必要最低限。

「うん。もう平気だよ」
「そうか」

 それだけで、会話は終わる。歩調は合っている。距離も、遠くない。それなのに、どこか噛み合っていない。

 ギルバートは、何度か口を開きかけては、閉じていた。
 言葉を選んでいる、というより――決めきれずにいるように見える。

 アイリスは、その横顔を盗み見る。張り詰めた表情。眉間に寄った、わずかな皺。いつもなら、隠しているはずの迷いが、そのまま残っている。

「……何か、言いかけてた?」

 思い切って、そう聞いた。
 ギルバートは、ほんの一瞬だけ足を止めた。
 すぐに歩き出しながら、短く息を吐く。

「いや」

 即答だった。
 それから、少しだけ間を置いて、続ける。

「……なんでもない」

 理由は言わない。説明もしない。ただ、それ以上踏み込まない、という選択だけが、はっきりしていた。

 アイリスは、立ち止まらない。引き止めもしない。

「そっか」

 それだけ返す。納得したわけじゃない。けれど、今はそれでいい気がした。ギルバートは、横目で一度だけこちらを見て、視線を前に戻す。

「……またな」
「うん、またね」

 すれ違うように、別れる。
 背中が遠ざかっていくのを見送りながら、アイリスは胸の奥に、小さな引っかかりを覚えた。

 言わなかった、というより。言えなかった、という感じ。声に出すほどの不安じゃない。でも、見過ごせない違和感だった。


 一方で、ギルバートは回廊を曲がりながら、奥歯を噛みしめていた。

 背後に残してきたアイリスの気配が、痛いほど愛おしく、そして遠い。今、言えば――きっと、縋ってしまう。

 「俺を選んでくれ」と、王族としてではなく、一人の弱い男として、判断を預けてしまう。

 それだけは、避けたかった。
 彼女を、俺のエゴの巻き添えにするわけにはいかない。

 このまま何も言わなければ、彼女は自由なままだ。

 たとえ、その自由の先に、自分がいないとしても。その予感だけが、冷たいまま、胸の内に残っていた。
 

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