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最終話 運命は、歩き出す
しおりを挟む卒業式の朝。
目を覚ますと、部屋の空気が、いつもより澄んでいた。春はまだ浅いけれど、夜は確かに短くなり、朝の光はやわらかくなっている。
カーテン越しに射し込む淡い日差しが、床に細い影を落としていた。
窓際の椅子に、見覚えのない箱が置かれている。――違う、見覚えは、あった。
あの夜。紫色の空の下で交わした、静かな言葉。あのキャンディと同じ、魔法みたいな気配。
こんなことができるのは、ひとりしかいない。
淡い紫の包み紙。飾りは控えめで、けれど、目を逸らせない不思議な存在感があった。
そっと紐を解き、蓋を開ける。
中に収められていたのは、薄紫のシフォンドレスだった。軽い。触れた指先の熱だけで、形が変わってしまいそうなほど繊細な作り。淡いシフォンが幾重にも重なり、アイリスの花びらみたいに、静かに揺れる。
華美ではない。けれど、はっきりと「特別」だと分かる。
紫のアイリスの花言葉は――知恵。
そして、あなたを大切にします。
送り主の名は、どこにも書かれていなかった。けれど、考える必要はない。
アイリスは、そっと箱を閉じた。
深く息を吸って、吐く。胸の奥にあった迷いが、朝靄のように晴れていくのを感じた。
卒業式は、予定通り始まった。
長い校長の話。形式ばった祝辞。入学式のときと同じ流れのはずなのに、耳に届く言葉の重みは、あの頃とは違っていた。
式の途中。重厚な扉が、静かに開く。
一瞬、空気が揺れた。遅れて入ってきたのは、ひとりの生徒だった。ざわめきが広がるよりも先に、その姿は自然と視線を集める。
ギルバート・ラカル・ルクレール。
背筋を伸ばし、歩幅を崩さず、まっすぐに進んでくる。以前のような硬さはない。けれど、軽さもなかった。その歩き方は、王族のそれだった。
立場を背負うことから逃げない者の、静かな覚悟が滲んでいる。彼は一度も周囲を見回さなかった。探すような視線も、迷いもない。ただ、前を見ていた。
――過去ではなく。悔いでもなく。
これから先、自分が進むべき場所を。
彼はもう立ち止まらない。誰かの選択に、自分の価値を預けない。彼は、彼自身の未来を選んだのだ。
その背中を見送りながら、アイリスは静かに息を吐いた。それは別れではなく、終わりでもなく、次の場所へ向かうための、確かな区切りだった。
卒業式が終わると、生徒たちは別れを惜しむ暇もなく、次に向けての準備を行う。
卒業生からみれば、卒業式よりも、この後の卒業パーティーの方が大イベントだ。なぜならば、それは学生として最後に全力で楽しむことができるお祭りだったから。
笑い声が飛び交う賑やかな控え室。女子生徒たちがメイドたちの手によって、あっという間に大人へと変身していく。まるで、魔法みたいだ。
幾重にも重なる布の感触。指先をすり抜けるリボン。いつもより丁寧に整えられた化粧は、鏡の中の自分を、少しだけ知らない顔にしていた。
最後の仕上げをする為に、ゆっくりと扉が開く。その視線の先にはルイがいた。
いつもと同じ従者服。それは彼自身が選んだ、日常のままの姿だった。
ルイは何も言わず、櫛を取る。後ろに立つ距離も、手を伸ばす角度も、すべてが慣れている。けれど、その手つきは、いつもよりわずかに丁寧だった。
髪をすくい、整え、余分な一本を指先で払う。まるで、最後に形を確かめるように。
「……そろそろ」
低く、落ち着いた声。
「お嬢様も、一人で髪を整えられるようにならないといけませんね」
冗談めかした調子でも、逃げるような軽さでもない淡々とした、事実を述べる声だった。鏡の中で、ふたつの視線が重なる。
混乱はない。怯えも、縋りも、もうそこにはなかった。
少し生意気で、真面目で、どこか不器用な――アイリスがよく知っている、ルイの目だった。
二人は、同時に小さく笑う。
言葉は交わさない。必要がなかった。
彼はもう、アイリスという鳥籠の外で生きる準備を終えている。
髪が整い、櫛が置かれる。
それは完成の合図だった。
アイリスはゆっくりと、呼吸を整える。心拍は、穏やかだった。
会場へ向かう長い回廊。アイリスをエスコートして歩くルイの前に、一人の影が落ちた。
金色の太陽のように眩しい姿。正装を纏った彼は、すでに次期国王の貫禄を漂わせている。
「殿下」
アイリスとルイ、双方が静かに頭を下げる。
「それが、お前の答えなんだな」
ギルバートはアイリスに短く視線を向け、穏やかに微笑んだ。その瞳には、もう未練の色はない。そして、視線をルイに移す。
「それなら、お前の大切な黒猫は、俺が貰うぞ」
唐突で、けれど確信に満ちた言葉。
それは命令であり、提案であり、そしてかつての恋敵への最大の信頼の証だった。
品行方正な、優秀な闇属性の使い手。その能力を正当に評価し、守れる場所は――王の懐刀しかない。
予想もしていなかったギルバートの言葉に、ルイは一瞬だけ目を丸くしたが、それから深く、深く頭を下げた。
「……光栄です」
その声は震えていなかった。新しい主を見つけた者の、清々しい響きがあった。
ギルバートは満足げに頷き、踵を返す。
ルイは一度だけアイリスを振り返り、優しく背中を押した。
「いってらっしゃいませ、お嬢様」
それが、彼らとの本当の別れだった。
卒業パーティーの会場は、春を迎える準備をしているみたいだ。高い天井から落ちる光は柔らかく、窓辺には淡い花々が飾られている。
音楽はまだ主張しすぎず、人の気配だけが、少しずつ温度を持ちはじめていた。
誰もが、ここに「答え」を持って来ているわけじゃない。けれど――それぞれが、それぞれの未来へ踏み出す覚悟だけは、確かに胸に抱いている。
アイリスは、静かに息を吸った。
胸元に、視線が留まる。若葉色のポケットチーフ。冬を越えたばかりの葉の色。まだ柔らかく、けれど確かに生きている色。
その人は、そこにいた。
誰よりも目立つわけでもなく、誰よりも遠いわけでもない。ただ、自然に。この場に溶け込むように立っている。
――ふと、思う。
その人は、孤独な人だった。
静寂を選んだのではない。
優しさゆえに、静寂を受け入れてきた人。見守ることを選び、手を伸ばさないことを選び、それでも、決して目を逸らさなかった人。
私の選択が、世界の崩壊を招いたとしても。
私の答えが、間違っていたとしても。
きっと、その人は受け入れる。
――だから。
私も、その選択を受け入れる。
世界がどうなっても。未来が、どんな形になっても。この人を、ひとりにしない。
音楽が、遠くなる。
賑やかな話し声も、グラスが触れ合う音も、溢れるような色彩も。視界の端から、ゆっくりと輪郭が滲み、甘やかな夜に溶けていく。
花びらが蕾に戻るように。あるいは、カメラのレンズが大切な被写体だけを捉えるように。それぞれの決断が、それぞれの歩幅で、二人を包む円の中に収束していく。
まるで、世界の絞りが静かに閉じられていくようだった。そこに、恐怖はない。
迷いも、喧騒も、もういらない。
無数にあった可能性のすべてを視界の外へ追いやって、彼女は今、たったひとつの真実だけに焦点を合わせていた。
閉じゆく円形の視界。
その中心で、彼だけが痛いほど鮮やかに輝いている。
世界は終わるのではない。
ここから、彼女たちの物語が始まるのだ。
アイリスは、一歩踏み出した。
ドレスの裾を翻し、迷うことなく。
残された光の円の中へ。
自ら選び、愛すると決めた、眩しい「今」の向こう側へと。そして、運命は歩き出す。
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