風の魔導師はおとなしくしてくれない

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序章 リーゲンス国にて

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 城はパニックになった。港町フルクトアトに海の国の使者が現れたらしい。自国の人間を虐殺されたことで激怒しており、リーゲンス王すなわちサルヴァトを呼んで話をするよう求めているそうだ。

 使者は少数だが兵隊を帯同しており、かなり険悪な様子とのことだった。すでに海の中には大軍が控えていてこちらが出向いたところを襲ってくると考える者も多かった。

 ルイは宮宰たちと話し合い、彼らの要求通り王であるルイ自身がフルクトアトに出向くことを決めた。サルヴァトは処刑されて王が変わり、もう二度と海の国に危害を加えないということを説明しなければならない。せめて手土産をたくさん持っていき、ルイが誠意を見せるしかなかった。力を重んじる海の国の人間に小細工など通用しないが、話が通じないわけではない。

 フルクトアトに出発するルイをイオンが見送った。だいぶ体調のよくなったイオンは、涙をこらえてルイの手を痛いほど握りしめた。

「わざわざ港町に行くなんて危険だわ……海の国のすぐそばじゃない……」
「でも俺が行かなきゃだめですから。俺にできることは、リーゲンス国が海の国と敵対したいわけじゃないことを説明して謝罪することくらいです。姉上はここで安全にお過ごしいただくことが重要です。どうかご自分の身を第一にお考えください」
「ルイ……ごめんね……気をつけてね。無事を祈っているわ」

 イオンはちらりとルイの後ろに立つライオルを見上げた。フルクトアトに向かうルイとヴルスラグナを警護するのは、リーゲンス城奪還の際にルイとイオンを守った実績のある手練れの兵士たちだ。

「ルイを頼みましたよ」

 イオンはライオルに向かって言った。

「はい。必ずお守りいたします」

 ライオルは胸に手を当てて答えた。ルイはイオンを抱きしめた。イオンもルイを抱きしめ返した。

「大丈夫だから。そんなに心配するなよ」
「うん」
「行ってくるね、イオン」

 ルイはイオンに手を振って馬車に乗りこみ、港町フルクトアトを目指した。



 フルクトアトは王都アウロラの東を流れる川を下った先にある港町で、貿易拠点として古くから栄えている大きな町だ。港には近隣諸国からやってくる船舶が常に停泊していて、荷運びをする船乗りの大声が一日中響き渡っている。そんな騒がしい港の一画に、海の国の商人たちとやり取りをするための海中屋敷につながる入り口があった。

 海の国にはエラスム泡という丈夫な泡が存在する。この特殊な泡は人や物が通り抜けても破れず、強度を上げれば石のように固くもなる。海の国の人たちはこのエラスム泡を加工して海の底に作った町全体を覆い、空気の層を作ってその中で生活している。海の人間は海中でも呼吸できるが、空気のある場所でないと話せないし、快適な生活は送れない。

 フルクトアトの海中屋敷もこのエラスム泡で作られている。海底に拠点を構えると地上の人間が行き来しにくいので、硬度を上げたエラスム泡で高い足場を設け、その上にエラスム泡の屋敷が乗せられている。魚の視点からだと、海中に透明な家がぽっかり浮かんでいるように見えるだろう。

 一行は海から突き出た石造りの入り口をくぐり、エラスム泡の玄関扉を通り抜けた。ひんやりした水に突っこんだような一瞬の感触のあと、静かなエラスム泡内部に入った。貿易の品を乗せて運ぶための通路なので、横に五人並んで歩けるほど広い。なだらかな坂道を、ルイたちはゆっくりと下っていった。

 通路の外側は海の中で、頭上に見える水面は寄せては返す波で白くきらきら泡立っている。ルイは通路の外側にはりついている奇妙な形の生き物を眺めて、気持ちを落ち着かせようとしていた。

「大丈夫ですよ、陛下。そんなに怖い顔をしないでください」

 隣を歩くライオルに言われて、ルイはこわばった顔を両手でもんだ。

「うん、いつも通りにしているよ」
「俺がお守りしますから。そばから離れないでくださいよ」
「わかってる」

 逆隣を歩くヴルスラグナも、安心させるようにルイに笑いかけた。

「陛下、みんな共におりますから。自信をお持ちください」
「ありがとう」

 そうこうするうちに、ルイたちは通路を抜けて海中屋敷に到着した。屋敷の一階はだだっ広い広間で、貿易品が壁際に山と積み上げられている。広間の奥は海につながる海の国側の出入り口となっていて、そこを背にして海の国の使者たちがずらりと並んでいた。全員青い軍服を着ていて、緊張がいやというほど伝わってくる。

 ルイは気おくれして見えないようによどみなく歩みを進め、広間の中央付近で足を止めた。床もエラスム泡でできているので、青い海が透けて見えている。護衛兵がルイの左右と後ろを固めると、ヴルスラグナは一歩前に進み出て使者たちに一礼した。

「私はヴルスラグナ・コーゼル侯爵、リーゲンス王家に仕える者です。こちらに我らの新しい王、ルーウェン・エレオノ・リーゲンス様をお連れしました。どうか我らの話をお聞きください」

 ルイは向かいあう使者一行の中央に、一人だけ軍服の意匠が違う男を見つけていた。茶髪の中年の兵士で、ルイを見据える目に一分の隙もない。おそらく彼が発言権を持つ使者だ。

「海の国の使者殿、私からの書簡は受け取られましたか。あなたがたに起きた悲劇の顛末について、仔細をご説明申し上げた。我ら共通の敵である簒奪者サルヴァトとその一派は、私たちの手で捕らえ処刑しました。すでにあなたがたの敵はおりません。我々は海の国の尊い犠牲を悼んでいます。どうか、我らが敵ではないということをご理解いただきたい」

 ルイが使者らしき男をまっすぐに見つめてそう言うと、男も口を開いた。

「私は海王軍軍司令官のオヴェンです。お目にかかれて光栄です、陛下。よくぞ代理を立てずご自身でここまで来てくださった」
「直接お会いして、我らに敵意のないことを誤解なきようお伝えしたかったのです。今日は我が国で採掘された黒金鉱と、最高級の絹を三百ナッサと、以前行われる予定だった取引でご所望だった品々を持ってまいりました。どうぞお納めください」
「……それをいただく前に、こちらの要求をお伝えしましょう」

 ルイは黙って続きを促した。オヴェンは口を開いたまま少し考えこんだ。ルイはじっと彼の言葉を待った。

 ふと、隣に立つライオルがルイのほうへ一歩足を踏み出した。ルイは床がぐにゃりと崩れたのを感じ、ぎょっとして下を向いた。ライオルの足先から白い光が伸び、ルイの足元に刻みこまれた紋章につながっている。魔導師が描くことのできる魔力のこもった紋章だった。その紋章が固いエラスム泡の床を溶かしている。足を動かすひまもなく、ルイは柔くなった床を突き破って海の中に転落した。

 いきなり冷たい海中に放り出され、ルイはなにがなんだかわからなくなった。泳いで海中屋敷に戻ろうとしたが、海水を吸った服が重たくてどんどん沈んでいってしまう。口から泡が漏れ出ていき、頭が真っ白になっていった。

 水をかこうと前に突き出した腕を誰かが握った。ルイはその力強い手に引き寄せられた。この手に引っ張られるのはこれで二回目だ。

 ライオルはルイを引き寄せ、ルイの口を自分の口で覆った。息を吹きこまれると、呼吸することができた。海の国の人間は海中で呼吸できるし、他人を呼吸させることもできる。ライオルが海の国の人間だったとは、予想だにしていなかった。

 ルイは咳きこみたいのを我慢して必死にライオルにしがみついた。口ごしにライオルの口角がつり上がったのがわかった。

 ライオルはルイを抱えて素早く泳ぎ、エラスム泡を突き破って海中屋敷に戻った。ルイは勢いで海水を吸いこんでしまい、床に転がったまま背中を丸めてげほげほと咳きこんだ。

「へ……陛下!」

 ヴルスラグナの悲鳴じみた声が少し遠くから聞こえてきた。海水にしみる目をこすって周囲を見ると、ルイが転がっているのはオヴェンの足元で、青い軍服の兵士たちに取り囲まれていた。そして、すぐそばにライオルが立っていた。いつもの紺色の髪の毛が濡れたせいで青く変わっている。

 ライオルの後ろからもう一人、ルイの護衛だった兵士が海から上がってきた。ライオルの部下だと言っていた、ライオルと同じくらいの年ごろの兵士だった。彼もまた、こげ茶色の髪が濡れて金色に変わっている。海の国の人間は濡れると頭髪の色が変わるようだ。

「……最初からこのために……」

 ルイは座りこんだまま呆然とライオルを見上げた。ライオルは濡れた髪をかき上げてにやりと笑った。

「ほらよ、軍司令官どの。約束のリーゲンス王の首だ!」

 オヴェンは微妙な表情でルイとライオルを交互に見た。

「……よくぞご無事で戻られました。しかし、首とおっしゃいますが、まだつながっているように見えるのですが」
「だから、手紙に書いただろ。こいつは風の魔導師だ。使えるから連れて帰るんだよ。海の中に行ってしまえば地上の人間に帰るすべはないし、死んだも同然だろ。……おっと全員動くな!」

 ライオルはヴルスラグナが指示を出しているのを見とがめて叫んだ。

「お前らの足元すべてに床を壊す紋章が描かれてる! こっちは今すぐお前ら全員海に落とせるぞ! それがいやなら一歩も動くな! 俺はお前らが海に落ちても助けないからな!」
「……この裏切り者が」

 ヴルスラグナは憤懣やるかたない様子でライオルをののしった。ライオルはそれを無視して再びオヴェンに向き直った。

「サルヴァトは俺たちの手で処刑させた。だからこいつはなんの関係もない、ただの風の魔導師として連れていくことにする。そう王に伝えてくれ」
「……ご立派な考えです。しかし本来こんな腐った王家は存続させたくありません。若き王が有用ならあなたの言う通りにいたしましょう。だめなら予定通り死んでもらいます」
「それでいい」

 ライオルはルイのそばにしゃがんでルイの腰から剣を引き抜き、背後の出入り口から海に捨てた。

「立てますか、陛下?」

 ライオルは今までと変わらず優しくルイに問いかけた。ルイはなすすべなくよろよろと立ち上がった。広間の反対側では、ついさっきまで一緒だったリーゲンス一行がルイを人質にとられて動けずにいる。ライオルはヴルスラグナに向かって言った。

「だましていて悪かったな。俺はサルヴァトを殺すために来た海の国の人間だ。エディーズ商会の従業員とエディーズ地方軍守衛師団の兵士らを殺害した罪は、サルヴァトの命とルーウェンの身柄をもって償いとさせてもらう。もしまたリーゲンス国が海の国に危害を加えるなら、今度こそ王家は解体されるだろう。ルーウェンはリーゲンスを守るため気高い犠牲となる道を選んだと、美談にするといい」

 沈黙がおりた。ライオルはオヴェンに目配せをした。オヴェンは小さくうなずき、青い軍服の兵士たちに帰還するよう告げた。ルイは隣に立つライオルに肩を組むように両肩をつかまれて歩かされた。

「……待て! そのような勝手は許されない!」

 出し抜けにヴルスラグナが叫び、オヴェンは足を止めた。ルイはオヴェンがなにか言う前に慌てて後ろを振り向いた。

「やめて! なにもしないでくれ!」

 広間の向こう側に立つヴルスラグナは、右腕を振り上げたままぴたりと動きを止めた。ヴルスラグナは今にも泣きだしそうに見えた。昔から城でルイを見てきた書記官長は、冷遇されていたルイにいつも同情的だった。

「この人たちの言う通りにして。もう争いごとは勘弁してくれ」

 ルイは否応なく歩かされ、海の国側の出入り口まで来た。

「俺のことはいいから、イオンを頼むよ……」

 きっとイオンは泣くだろう。そう思うと胸が痛んだ。でもイオンは明るく誰にも好かれる性格だから、周りが助けになってくれるに違いない。

 ルイはライオルと一緒に出入り口を通り抜け、リーゲンス国から姿を消した。
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