商い幼女と猫侍

和紗かをる

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第五章 いぬさんのたたかい

いぬさんのたたかい 壱

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第五章「いぬさんのたたかい 壱」
 
 いつもと変わらぬ、いつもの様な生活。
 朝起きて動物の世話をして、屋敷の中をいつ誰が泊まりに来ても良いように掃除をし、たまに野菜等を持ってくる伊増と近況を話し合う。
 そんな静かな生活を送ってすでに六年の歳月が過ぎていた。
 その間に世情は大揺れに揺れて、将軍の代替わりや浪士という名が聞こえてきたり、長州征伐だのと、きな臭い事この上ない。
 久居藩もご他聞に漏れず、あの時以来外国船打ち払いの為に台場を建設したり、藩内に入ってくる脱藩浪人の取締りなど大騒ぎだが、正嗣の住む屋敷周辺では人の世の動き等、まったくといってよいほど変わりが無かった。すでに藩士ではない正嗣にとっては聞こえてくる話のどれもが動物たちの健康状態よりも気になる事はなかった、
 ふたみはあの後に設立したふたみ庵が順調で、伊勢湾で獲れた海産物を加工し京や東海道筋に流したり、蚕の養殖に参入し新たな服を作り京の西陣と協力したり、農家とも話し合い、米以外の農産物を扱う商い等、手広く儲けている。すでに本家である伊勢屋の身代を超えたとは伊増の言葉だ。
 さらに正嗣にとって喜ばしい事は、周辺の迷い犬、迷い猫を保護し、伏見の近くで保護しようとしている事だ。
 儲けにもならない事だが、ふたみはそれを断行すると店子達に宣言し反対も多い中実現に向けて頑張っているみたいである。
 初めて会った時は九つの少女だったが、すでにふたみは十六にもなる。鋭い目つきだけは変わらないが、娘盛りで、婚姻の申し込みも多数あると聞く。娘はいない正嗣だが、ふたみのその様な話を聞くと、嬉しさと寂しさが心に到来する。
 世の親はこのような気持ちなのかと、猫と月を見ながら酒を飲んだりもする。
 動物たちはと言えば、雷鳴丸はすでに亡くなり、今では天丸と地丸を筆頭に闘鶏から引退した鶏たちを引取り、変わらずに裏手の小屋で生活している。
 猫も変わらずそのままで、犬たちは誰も欠けることなく、いつの間にか二十二匹まで増えていた。
 近隣の村からやれ子犬がいるだの、山犬がいるだのの話が何故か正嗣に寄せられ、聞かされた以上は動く事もやぶさかでない正嗣。毎年毎年増えていったという話だ。
 規律正しい行動は今も昔も変わりがない。山狩りをして連れて来られた山犬でさえ群れで三日も生活すると規律正しい犬たちと同じように行動するようになっている。
 別に正嗣が特別なことをしているわけではないのだが、おそらく群れの頭としてミツキが教育を施してくれているのだろうと想像するのみだ。
「おや、誰かきたのか」
 交代で敷地の入り口を見ている犬の一匹が駆けてくる。駆け方に切迫感はないので、おそらく犬たちも知っている者が来たのだろう。伊増か、ふたみか、最近はとんと姿を見せぬ鷹司あたりか、少し予想を外して板野親分の関係者かもしれない。
 闘鶏の鶏を引き取る際に板野親分の手下が数回来た事があるのだ。
「どれどれ、出迎えるとするか」
 今の正嗣は自分では侍とは思っていないので腰に刀は差していない。いつぞや使用した木刀も重くて邪魔なので、今は細い木の棒を差している。何もなければ無いで、腰周りがさびしく感じられるからだ。
 敷地と道を隔てる物は高さ一間ほどの柵だけで、便宜上出入り口としている場所だけ柵が設けていないつくりになっている。鷹司が来た当初は柵さえ無かったが、一応藤原北家の定宿としての体裁を保つために後から正嗣がこつこつと作った物だ。材料は周囲に生えている木の枝と犬や猫の毛を編みこんだ縄で作られている。
 ちなみにこの縄の発想はふたみが教えてくれた。曰く動物の毛と言うものはしなやかで強靭で、雨にも強く腐りにくいとの話で、実際に柵を立ててから交換頻度は普通の縄に比べてかなり少ない。
 さすが物知りなふたみだ、柵を作りながらにやにやとした覚えがある。
 そんな出入り口に向かうと、すぐに籠かき四人に運ばれている可愛らしい大きさの籠が見えた。通常ただの町民であれば、見えている籠のような黒漆を使用したり、水銀を使っての朱色などは使えぬのだが、そこは藤原北家ご用達商い人としての看板がそれを公認している。 
 藩の枠を、とうに飛び越えているふたみ庵のご当主様の籠だからだ。
 速さよりも安定して運ぶことを重視した動きでゆったりと籠が正嗣の前に到着する。
 籠かきの手により扉が開けられ、中からは前と段違いに成長したふたみが、これだけは変わらぬ鋭い目でこちらを睨み付けている。補足で言えばこれは機嫌が悪いわけではなく、ふたみの普通の顔である事に正嗣は気づいている。
「やあ、久しぶりだねふたみ、最近は忙しくしていると伊増に聞いていたが、こんな所に来ていいのかい」
 正嗣の屋敷というか、久居藩に於ける藤原北家専用の定宿は久居の町から少し離れている。町の中心地に近い場所にあるふたみ庵から、そうそう気軽にこれる場所ではない。一般的な女子の足なら半日はかかる場所だ。
 ふたみを気遣ったつもりで言った正嗣だったが、即座に失敗に気づく。ふたみの鋭い目が、今度こそ機嫌を損ねたような色を帯びたからだ。ふたみ庵で四年以上番頭をしている者でも気づかないらしいが、正嗣にはすぐに判った。
 人間よりも動物相手が長いせいだろうか。
「まったく、いくつになっても正嗣様は変わりませんね、女子が籠から降りようとしているのに、手も貸してくださらないとは」
 言われてやっと気づいた正嗣はすっと手を出してふたみの手を握り、籠から出してやった。その際、力の入れ方を間違い力強く引っ張ってしまったせいで、ふたみを抱きとめる格好になったのは、これも人間相手よりも動物相手が長いせいだろう。
 たまに犬たちと取っ組み合って遊ぶときの要領で力を入れてしまったのだ。
「きゃっ、っと、もう、これだから正嗣様は」
 どうせ、動物と私と同じように扱ったのだろうと承知のふたみであった。
 後で思い起こして、正嗣様は動物が大好き、それと同じということは正嗣様は私のことが大好き、などと連想させ頬を紅潮させるのだが、それは後での話。
 今は即座に正嗣から離れて、乱れた着物を直すと、すっと正嗣と正対する。
 その間に籠かき達に合図を出し、帰る指示もする。
「すまぬなふたみ、それはそうと今日はどうした」
「どういたしまして正嗣様、まずは立ち話も何ですから、屋敷へ、小虎と小町は息災ですか」
 いつの頃からかふたみは正嗣の猫を小虎、小町と呼ぶようになっていた。名づけは任せると言った手前、それ以来正嗣も自分で呼ぶことはあまり無いが、猫を小虎と小町と認識している。 
「息災だよ、あやつらは寝て起きて、だらだらとして、また寝て起きてのいつも通りだ、小虎など、ここ数年で倍になったんじゃないかって位に太ったが健康だ」
「そうですか、それは楽しみですね、さて中に入りましょう」
 勝手知ったるふたみ庵運営屋敷、ささっと中に入っていくふたみと、それを追うように正嗣も中に入る。犬たちは敷地の入り口と屋敷の入り口に分散、さらにミツキと数匹が縁側に回り外部からの侵入に備える。五年前にふたみを攫われた事から、彼女が来る時はいつでも犬達は厳重警戒態勢だ。
「さて、勝手に来て申し訳ありません、今回はまたになりますが、お願いがありまして」
「気にせんでいいぞふたみ、ここは五年前からふたみの屋敷も同然なんだからな、頼みも問題ない、某がここにいるのはふたみのおかげでもあるからのう」
「有難うございます」
 ふかぶかと頭を下げるふたみ。うなじの白さがまぶしくみえ、すでに少女では無くなっている事に正嗣は気づく。どしても出会った最初の数日の印象が強すぎて、ふたみの成長を言葉では知りながら実感はしてなかった。
「それではお願いなんですけど、実は、私の幼馴染に藤堂継乃介と言う者がおりまして、元々は武家の三男だったんですけど、三男ですから家を継げるわけもなし、お父さんの伊勢屋に預けられ、そこで武芸を磨きながら商いを学んでいたのです、私が分家してからはふたみ庵と伊勢屋双方で仕事をするような立場でした。この度、伏見に犬猫の保養所を作る事になり、ほかの店子は反対したのですが、継乃介は反対することも無く協力を申し出てくれて、それで伏見の検分に遣わせたのですが」
「行方不明にでもなったか?」
 昨今は世情が怪しい。京周辺は特に騒がしく、伏見も浪士騒ぎが耐えないと聞く。新撰組とか言う半農半士の隊が大きな旅籠を襲ったとの話もある。それらに巻き込まれれば田舎武士の三男では太刀打ちできまい。
「いえ、行方不明ならば、諦めるしかないのですが、それより少し話は複雑で、さらに言いますと、五年前のあの時に繋がります、正嗣様、正之助様に弟さんがいた事はご存知ですか?」
 正之助とはそれなりに長い時間の付き合いがあった筈だが、正之助の弟の事など聞いていない。いや、弟どころか家族の一人も聞いたことが無い。
 動物の事ばかりで、まったく反省してもしきれぬな。
「その弟がどうしたのだ?」
「は、はい、その弟さん、えっと、名前は藤堂平乃助さんですが、実はあの時以来姿をくらまして、最近ひょんな所からお名前が出たのです、あの京を騒がしくさせている新撰組の一員にいらっしゃるとの事、なんで知ったかと言えば、継乃介を探させた所、その藤堂平乃助さんと一緒にいるという話なのです」
 つまりおのぼりさんとして伏見に向かった継乃介が、何かに巻き込まれ、新撰組にたまたまいた同姓の藤堂平乃助を頼り、一緒に行動する様になったという事か。
 新撰組。
 最近この界隈でも名前が出る。
 江戸から大樹が上洛してきた際に護衛役として一緒に京に入り、京都守護職会津藩公預かりとして、見廻組と共に京を闊歩しているらしい。
 長州や薩摩から蛇蝎の様に嫌われ、不倶戴天の敵として睨み合っているとも聞いている。
 武士階級以外の者も多く、上級武士からは嫌われているが、下級武士や町民からは大人気で、憧れの対象でもあるようだ。田舎武士が新撰組に入るには、縁故がなければ非常に厳しい試験もあると聞く。
「それは、おだやかな話ではないな、新撰組といえば英雄視するものも居れば、ただの人斬りの無頼集団とも言う者もいる、継乃介と言う者も無事が案じられるな、それに・・・」
 いまの久居藩は形の上では幕府に従う姿勢を見せているが、尊皇攘夷の浪士にたいして厳しい取り締まりをしている訳でもない、つまり旗幟を不明瞭にすることによりどちらにでも進めるよう両端を持している訳だ。そこで藩士の一人が完全な幕府側勢力の新撰組に参加したとなれば、今後の藩の評価にも繋がる。昨今はやりの脱藩でもしていれば、言い訳もたつのであろうが
「え、ええ、そうです、継乃介はまだ藩士の一員ですし、何がどうにかなったら、藩からの追討をうけるかも、そうなったら私の責任なんです、連れ帰ろうにも今の京は私一人が行ってどうにかなる場所じゃないらしく」
「そこで某が京に行き、その継乃介を連れ帰って欲しいと、そういう話だな」
 たまにしか久居の町に行かない正嗣でさえ、浪士に対してよい感情は持っていない。目をぎらぎらと光らせて、汚れた服で町を闊歩し、町衆に迷惑をかける。取り締まりの若い藩士が来れば逆に大上段から口論を吹っかけ小銭をせびる。
 京であれば、さらに酷い事になっているのかもしれないし、確かにふたみを行かせるには不安がある。用心棒と一緒であってもだ。
「はっ、はい、お願いします、もちろん私も一緒に行きますから」
「むっなんだと、それは危険というものだ」
「わ、わかってます、でも庵主としての責任もありますし、それにそれに、もし継乃介が戻らないとなったら伏見の保養所の差配が出来るのは私しかいません、正嗣様にそれはお願いできませんから」
 確かに。正嗣に新たな施設の場所選定、現地との交渉、建設の指示など出来る事ではない。
「しかしなぁ」
「今を逃せば、保養所の話は流れてしまいそうなんです、反対する人も多くて、それで、私が行こうって思った時に継乃介が自分が替わりに行くって行ってくれたんです」
 鎮痛な表情を浮かべるふたみの膝に小虎と小町が心配するように、慰めるようにじゃれ付き、ふたみが両手でそれぞれをやさしく撫でる。
「そうか、そのあたりは某からは何も言えぬ、言えるのは願いは聞き届けたということだけだ、留守は」
「はっはい、もうそのあたりの手配りは伊増さんにお願いしてあります、道中の旅籠の手配も馬宿の手配も終わっています、よろしくお願いいたします」
 こいつめ、最初から断られるとは思ってなかったな。
 まぁらしいと言えば、ふたみらしいのだが。
「承知した」 
 と答えることにした。
 その後、泊まっていこうとするふたみを説得し、ふたみ庵まで送って屋敷まで帰った正嗣は、ふたみ庵で留守の打ち合わせをした際に、伊増から聞いた話を思い返していた。
「お嬢はよ、どうもあの若僧を慕ってるってのが店子達のうわさでな、まっ俺から見たら慕ってるのはお嬢じゃなくて若僧の方だがよ、慕っている相手に良いところ見せようとして伏見に出て、そこで新撰組なんてものに関わったからこれはまずい、男みせてやるってなったんじゃないかってな、若気の至りですめばいいんだがな」
 伊増の推測には頷ける。自分が京に居たと時も、少なからず道場で名を上げてやると考えていた自分が居た。ひとかどの剣客になり藩に戻ると語り合った者達もいた。
「あんがい難儀な話になるかもなぁ」
 膝の小町を撫でながら、夜を過ごす正嗣であった。



 早速次の日に、ふたみの手配で久居を出る。
 しっかりと別れを告げた動物たちだったが、どうしてもミツキとスズランの犬二匹は離れようとせず、ずっと付いてくる。馬で行く正嗣に併走してくるので、みかねたふたみが自分の籠に乗せてしまい、結局同行させる事になった。
 伊勢街道から信楽を越えて大津へ。
 旅は順調すぎる程に進んだ。古くからの伊勢参りの参道でもあるし街道はしっかりと整備されている。宿場町もまだまだ博徒の親分衆たちの統制が取れており、治安は保たれていた。
 近畿の親分衆でふたみ庵に手を出す者は居ないのだ。
 そんな条件が揃い、旅路は長閑に過ぎ、瀬田の唐橋を越えて京に入った。
「これは・・・」
 今までの長閑な旅路が嘘の様に、京の町民たちはぴりぴりとしていて、周囲をあるく者をきつい目で睨んでいる。客引きの声も聞こえず、人は多くいるのにそれほどの喧騒はない。
 ここが天朝様のお膝元、西の大都の姿であろうかと、想像との違いに驚きを覚えてしまう。山科から京に入り、豊臣秀吉婦人が亡くなった場所として有名な高台寺を横に見て、二条のお城の手前を左に折れて、本日の宿を目指す。
 以前正嗣が京で通った道場は今出川通り沿いなので、方向としては離れることになる。だが京にいれば訪れる事もあるだろうと思いつつ、今は周囲の警戒を怠らない。京まで一緒だった馬は山科の馬宿に預けた。京の町中を馬で走るというのは危ないし、京童に嫌われると考えてのことだ。
 同じように考える他藩の者は多いようで、山科周辺の馬宿はどこも繁盛していた。集まった数百の馬に正嗣は思わず息をのみ、ふらふらと近づこうとしてしまったが、ふたみにたしなめられなんとか自制した。動物好きな正嗣にとって見たこともない数百の馬の存在は垂涎物なのだった。
「えらい、遠い所から来はったんどすな~、伊勢とはまた神々しいところからいらはりまして、ずいぶんと騒がしい事ですけど、ゆっくりしはってなぁ」
 あいその良い女将に案内され、正嗣は伊勢屋の娘、ふたみの姉が嫁いでいる大和屋ご用達の宿、香味屋に泊まることになった。
 大和屋は上方の商い人としては中流で、そこそこの規模とそこそこの歴史を持つ店だ。京、奈良、大阪、神戸に支店があり、扱いは農産物や筆記具や仏具などを手がけているらしい。四年前にふたみの姉、いちのが輿入れし、伊勢屋ともふたみ庵とも親戚付き合いをしている。
「正嗣様、やっと京まで着きましたがどう見ますか」
 宿についたらすぐに声をかけて来るかとおもっていたが、ふたみが正嗣を誘い、話をし始めたのは夕餉の後であった。
 さすがに京の旅籠、狭いながらも風呂があり、夕餉も京野菜を中心に、豆腐、味噌汁、香の物と豪勢であったが、正嗣は酒を控えてふたみからの誘いを待っていたのだ。
「なにやら町民だけでなく、京の町自体が何かに怯え、焦りとも恐怖ともつかない不思議な空気に包まれておるようだ、昼であれならばこれからの時間はもっと危ない、人斬りが出てもおかしくないだろうな」
「そうですか、やはり正嗣様の目から見てもそうですよね、実はまだ内密にしておいて頂きたいのですが、実は宿の主人から聞いた話ですと。大樹公がなにやら天朝様に対し奉り、幕府を返上したとの噂が飛び交っております、もしこれが本当であれば京のこの雰囲気も当然と言えるでしょう」
「なっなんだと、大樹公自らだと、なんと言うことを、それでは幕府は」
 この数百年、幕府とは武士の遥か上にある、一介の武士からは仏の国の様な場所の事だった。常に存在を身近には感じないが、たまに仏罰が下されたり、施しがあったりと、自分たちの上には幕府が厳然としてあるものだと言う思いが強い。
 空に浮かぶ太陽や雲の様に、手は届かないが、その動きで自身に雨や日差しなどの影響を与える物と言う感覚だ。
「幕府返上となっても京都守護職の会津様はいらっしゃいますし、会津公預かりの新撰組もまた京にいるそうです、新撰組は壬生の寺から屯所を移したとは聞いていますが、でも明日にも何もかもがひっくり返るという事ではなさそうです」
「ふうむ、すでに藩士ではない某も衝撃を受けたのだ、久居藩もそうであろうな」
 徳川幕府の終焉ともなれば幕藩体制の今後は誰にも判らなくなる。武士は将軍たる大樹公に奉公して土地を貰っている形なのだ。間に藩主がいることはいるが、最終的な武士の保証人は徳川幕府の将軍、つまり大樹公なのだ。それが雲散霧消となれば大混乱になるだろう。
「久居藩に限らず複数の藩は様子見だそうですよ、いきなり幕府返上と聞いてもどうなるかわからないのが当然ですから、ただ薩摩、長州、土佐、越前あたりは動きを活発化させているようです」
 続けざまにいわれる情報にせっして正嗣は頭から熱が出そうな感覚に陥った。驚天動地の事で理解が追いつかないのだ。動物と刀のことしか考えてこなかった人生で、いきなり幕府がなくなる等といわれても、ふたみとは違い冷静に判断できる男ではない。
「某も同じよ、だから如何するなどという思案は浮かばぬ、本来武家としてもはなはだ怪しげな某、まずはふたみの願いを叶えるために動くくらいしかできぬな」
 難しい事を考えて頭を熱くさせてもなるようにしかならんと、早々に正嗣は諦めた。
 新撰組と行動を共にしている継乃介の身柄を確保し、久居に連れ帰れば良いだけの事。伊増の話からすれば、ふたみの良い人になるかも知れぬ男だ。一肌も二肌も脱ぐつもりで正嗣はここに来たのだから。
 そんな正嗣に呼応するかのようにミツキとスズランが小さく吼えた。旅で汚れた毛並みは先ほど正嗣と一緒に風呂に入り輝きを取り戻している。女将には大層嫌がられたがふたみが間に入り交渉してくれて事なきを得た。正嗣だけであったら追い出されていただろう。
「ふふふっ、そうですね、わたしたちが出来る事は手の届く範囲内だけ、ですよね正嗣様、少し大きすぎる話を聞いて私もちょっぴり気が大きくなったのかもしれません、これでは皆に笑われてしまいます」
 そう言うとふたみは、こればかりはまったく変わらない鋭い目のままで、愛おしそうにミツキを撫でた。ミツキはその手の感触に目を細めて気持ちよさそうだ。
「考えすぎても良くは無い、出来る所から始めるとしよう、明日は壬生に行ってみて新撰組の新たな屯所を探して、見つかれば訪ねても見よう、それに昔の道場を訪ねてみれば何か情報があるかもしれん」
「私は大和屋さん経由で二条のお城に関わる商い人を紹介させていただく予定です、伏見奉行所にも行かねばならないとは思っていますが、相手もある事ですから、すぐにうまくいくとはかぎりません」
 お互いの行動を確認する。大和屋との会合は昼で、相手がこの香味屋に来るそうだから護衛役の正嗣はいなくても大丈夫だ。
「そういえばふたみよ」
「はっ、はい?」
「少し耳に挟んだ事柄があるのだがな、聞いてもよいかな」
「正嗣様に聞かれて答えないと言う事はないです、なんでも聞いてください」
「そうか」
 気持ちを整える様に、スズランを撫でながら正嗣は聞いた。
「一応確認なのだが、その、な、ふたみは、あの、継乃介を慕っていたりするのか?だからここまで来たという事なら、情はありすぎると暴走するとも聞くし、な」
「なっ、なんですかっ、そんな、そんな事はありません、もう、酷いです正嗣様、そんな事はしりません」
 あわあわとしながら、ふたみは部屋を出て行ってしまった。続いてミツキとスズランもふたみと同じくらいの鋭い目で正嗣を睨んで出て行ってしまった。
 残された正嗣は首をかしげ、何か失敗したかと悩む姿が夜更けまで続いたという。



 次の日。朝餉をそうそうに取ると、壬生寺に向かって歩く。
 朝餉の時、ふたみは左右に犬を侍らせて、正嗣以外の誰が見ても機嫌が悪い顔をしていて、ろくろく挨拶も出来ない内に、大和屋を迎える準備と言い、犬たちを連れて奥に行ってしまった。
 まったく、何を機嫌を悪くしておるのか、全然わからん。物の書物で読む限り、慕う相手が居ると旨く感情が働かず大きな失敗を招く恐れがあると書いてある。そうなってはいかぬと思い聞いただけなのに。
「まったく困ったものだ」
 壬生寺周辺は静かで二条周辺と比べるまでも無い。人通りは疎らで、店も出ていない。
 今にも浪士と新撰組が斬りあいを演じそうな空気がある。
 しかし、こうひっそりとしていて静かだと人に聞くのも難儀だぞ。
 綾小路通から右に曲がると、壬生寺の大きな門が見える。つい数ヶ月前までこの門に会津藩預かり新撰組屯所と大書された看板がかかっていたそうだが、今はなにも無い。門をくぐると境内が見渡せ、正面に大きな本堂がずっしりとした佇まいを見せている。
 しかし、どうしたものか、境内で寺人が出てくるのを待つのも手ではあろうが、いつ出てくるのかもわからない。境内は外と同じように静かだった。
「もし、貴殿、ここに何か用事でもあるのか」
 背後からいきなり声をかけられた。気を抜いていた訳ではないのだが、声をかけられるまでまったく気づかなかった。
「いっいや、少し人を探していてな、ここに居るらしいと聞いたが、これでは嘘をつかまされたのかも知れぬ」
 背後を振り返ると、やや前傾姿勢の武士の姿があった。一目で上物と判る着物とぴりっとした雰囲気で、かなりの武士だと判る。京に来て初めて見る武士らしい武士だ。
「ここに人探しとなると、貴殿は新撰組の関係者か、それとも新撰組に斬られた攘夷志士の仇討ちにはるばる京にきたものかな」
 鋭い殺気を感じて正嗣は後方に飛び、同時に草鞋を脱ぎ捨て刀に手をかける。
「それがしは伊勢の住人で、渡会正嗣と言う主無き侍だ、人探しと言うも商い人に頼まれての事、某自身は新撰組自体に思うところはない」
「ほほう、伊勢と言えば津藩か久居藩のお身内というところかな、商い人に頼まれての人情話など、語りとしては面白いが誰もだませぬぞ」
 男が一歩二歩前に出てくる。
 まだ、刀は抜かずに余裕を見せている、人を斬った経験があるのだろう。ふと相手が視線を正嗣から外し、懐かしそうな表情を一時みせると、境内の隅にある大きな杓杖を手に取った。
「これはな、ここで我が稽古をつけていた時に、襲われたら直ぐに対応できるように境内のあちこちに用意していたものだ、まだあるという事は奴等も視野が狭くなったものよ」
「ん、ちょっと待て、貴殿はもしやっ」
 正嗣が言い切るより前に男が中段に構えた杓杖を横に大きく振り、その勢いのまま上段に構え、間髪入れずに振り下ろしてきた。
 ぶおん、という不吉な音を発しながら振り下ろされる杓杖。斬るか、避けるか、考えるよりも早く正嗣は動いていた。
 刀を抜くことなく、鞘ごと持ち上げ、柄頭で杓杖を弾く。
「くっそっ」
「ほほうやるな貴殿、刀を抜けば間に合わず肩の骨を折られていただろうし、避ければ二撃目で腹を打たれていただろうよ」
「それは、褒められて、いると、言う事かな」
 一瞬の交錯であったが、ぶわっと汗が出てくる、それだけの殺気の中での立会いだ。
「ふむ、まぁ我も今や新鮮組を追われた身、義理立てするのはこの辺りで良いかな、失礼した、我は元新撰組で松原というものだ、少し気になる事があったのでな」
 松原は杓杖を境内に放り投げ一礼してくる。
 先ほどまで襲ってきた相手だが、礼儀正しく一礼されれば正嗣はつい応じてしまう。
「うむ、面白い男だの、先ごろ新鮮組を裏切った御陵衛士なる輩が新撰組から逸れた者を斬っているという噂があっての、ついつい警戒してしまったわ、それで、渡会氏、誰を探しているのだ」
 新撰組が割れて、御陵衛士なる新たな組織が出来た事などもちろん正嗣は知らない。だから素直に聞いてしまった。
「某の探し人は藤堂と言う名である、直接会った事は無いが商い人の知り人でな」
「会ってどうする・・・」
 先ほど消えかけた殺気がまた高まってくる。それに気づきつつも、正嗣には素直に答えることしか出来ない。
「会えば、新撰組に関わらずに一回久居に連れ帰り申す、そやつが与えられた物をしっかりとこなさせた上で、後は自由にさせる所存、某はあくまで頼まれただけなのでな」
「貴殿の探し人、まさか藤堂平助ではあるまいな」
「藤堂は藤堂だが、継乃介と言う名だ、平助はまあ知らない男ではなさそうだが、こちらからなにか用事がある訳ではない」
 再度、殺気が薄れる。男は両手を見えるようにして近づいてくる。
「そうかそうか、あの真面目一本家で融通の効かぬ継乃介のほうか、刀も柔術もそれほどでは無いが、若いくせに稽古も欠かさず出ていたかわいい小僧だったな」
「松原殿は継乃介を知っているのか、今はどこにおるのだ」
「おお知ってるとも、まぁだがこんな所で立ち話もなんだ、本来であれば我が家にと言いたいところだが、それはさすがに警戒もするだろう、だから貴殿の旅籠ででも話すといたそうぞ。」
 と、そういう事になった。
 壬生寺から香味屋までの間に松原は、聞きもせずのに己の身の上を語って来た。
 新撰組の中核を成す試衛館という道場出身者ではないが、初期募集に応じて新撰組に参加。隊士に技を教える師範代となったが、ある時、斬りあった浪士の未亡人にほれてしまい、通う内に隊の中で尊王志士の密偵と噂され、激高し切腹しようとしたが、周囲に体を張って止められ、仕方なくひっそりと新撰組を去ったのだそうだ。近藤局長、土方副長ら幹部は松原を病死とする事で放免したとのことだ。今は壬生寺近くの小さな家でその時の未亡人と所帯を持ち静かに暮らしているが、時勢柄いてもたってもいられずに怪しい男を見つけては喧嘩を仕掛けているらしい。
「なんというか、それのすべてがここ数年の出来事なのか、すさまじき生ですな」
「そうさな、田舎から思いだけで出てきて駆け抜けた数年だったわい、生きている自分が恨めしくもある、死んでいった仲間も多く、むなしくもなる、だがな、我はこのまま朽ちるのは好かぬのだ、新撰組とは一線を離れたが、それでも攘夷攘夷と騒ぐだけの輩はまったくもって許せぬでな」
 正嗣は、この松原という男の数年と自らの数年を比べてみた。緩やかな時を生き、動物たちと幸せな生活を送ってきた自分と、激動の世に出て何事かなさんと戦い続けた男との違い。
 それは眩しくもあり、また、恐ろしくもあった。
 自分はそこまでの生をかけて時に挑むことは出来ぬと。
「おっあちらかね、良いとこではないか、これは久しぶりにうまい酒にありつけるな、新撰組を去ってからは安酒をちびりとやるくらいだったのでな」
 もしやこの男、それが目的だったかと正嗣は勘ぐってしまった。新撰組の話も、浪士の未亡人の話もうまい酒目当ての嘘ではないだろうな、と。
「おっと、なにやら揉めている様だぞ渡会氏」
 はっと、みれば香味屋の前で数人の男たちが騒いでいる。相手はあの気丈な女将だ。
「天朝様ご公認の我等御陵衛士がもったいなくもその方らに、ご用金を命じておるのだ、さっさと用意せねば夷狄に通ずる物として旅籠ごと焼き払ってしまうぞ」
「あいつらは何を言ってるんだ?」
 天朝様公認の輩が金貸しではなく、ただの旅籠に金を出せとはどういう意味だかわからない正嗣である。藩士経験も借財経験もある正嗣からみたら狂人の類にしか見えない。
「何言うてんのや、天朝様やて、恐れ多いのはどっちや、賢くも天朝様が私らみたいな貧乏旅籠にお命じになったんか、あほくさい、商いの邪魔やさかい、とっとと消えてくれなっせ」
 なにやら色々な言葉で言い放つ女将、接客用の京言葉ではないが、あれが女将の地なのだろう。
「なんだと、天朝様の命を疑うというのか、もう黙っておれんぞ、見せしめに斬ってやる」
 男が太刀を抜き放つ。それまでは気丈に振舞っていた女将だったが、太刀の輝きを見て顔面蒼白だ。
 まずいな。思って飛び出そうとした正嗣だったがそれより先に聞きなれた声が響いた。
「お武家さん、ここは天下の京の町ですよ、そんな白刃持って押しかける場所ではないでしょう、それこそ天朝様に向かってはしたない事にはなりませぬか、皆様にもご迷惑ですから、ここは穏便に願います」
 ふたみだった。鋭い視線はそのままに顔面蒼白な女将に代わって余裕を見せて応対している。背後には初老の男がいて、なにやら騒ぐ男に紙で包んだ物を渡している。
 それをちらりと見た男だったが、その内容に納得がいかなかったのか、またすぐに騒ぎ出す。
「こんなもので引き下がれると思うのか、もう我慢ならん、娘!こっちに来い」
 騒ぐ男が手をふたみに伸ばす、その手がふたみの着物を掴もうとしたが、地面から影が飛んだ。
「わっ、この、なんだ、こいつは」
 ミツキとスズランが男の両手首に噛み付いたのだ。本気のミツキの噛み付きは、人の骨をたやすく折ることが出来る。ふたみを守るためなら犬たちは全力だろう。
「このっ」
 騒いでいた男だけでなく、その取り巻き連中も刀を抜き、ふたみと犬たちを囲む。近づこうと焦る正嗣だったが、通りが狭い上に野次馬の町民が壁になりうまく前に出れない。
「斬り捨てちまえ」
 男達が襲い掛かる。犬も応戦するが二匹でふたみを守護したままでは厳しい。ついにはスズランの体に刀があたりそうなその時、斬ろうとしていた男がその場でぐるりと回転し、大地に叩き付けられる。
 一人、二人三人と、騒いでいた男の取り巻きたちが次々と叩き付けられ、六人まで数えた段階で、その仕業をしかけた人物、松原が騒いでいた主犯格の男に相対した。
「ずいぶんと偉そうな物言いになったじゃねぇか佐原よ、鉄の掟を破って今は天朝様の名を語るたかりかよ、おもしろくもねぇな」
「なんだお前は、どこの博徒崩れだ、このっ」
 佐原と呼ばれた男が太刀を振りかぶるが、振り下ろす前に松原が懐に飛び込み手首をつかみ投げてしまう。
 不恰好な状態で投げられた佐原は、太刀もどこかに飛んでいきほうほうの態だ。
「この業はもしや、いやまさか、切腹したと聞いていたぞ」
「あいにく局中法度に違背したわけじゃねぇんでなぁ、まだ生けてるんだよ俺は」
「く、来るな、勘弁してくれ松原先生、我等は先生とやり合うつもりはないんだ」
「うるさいねぇ、こちとら新撰組でもなんでもねぇ、ただのはぐれた壬生狼さ、黙って命をさしだせや」
 刀も抜かずに無手のまま佐原を追い詰める松原。佐原は立つことも出来ずに座り込んだ姿勢のまま尻だけで後ずさる。
「あの世で、死んだ誠の男たちに詫びてくるんだな」
 松原の蹴りが正面から佐原の喉に向かって繰り出される。勢いと狙いの正確さから、まともに受ければ松原の言ったようにあの世いきだ。
「ま、待って、待ちなさい、その人を殺してはなりません」
 ふたみが声を出す。その声を合図に正嗣はつい見入ってしまっていた状況に飛び出し、松原の鋭く重い蹴りを両手で受け止める。
 ずっしりと重い感触の後に来る打撃に吹き飛ばされそうになるが、下半身に力を入れてなんとか受けきる。
「邪魔はしないでくれよ渡会の、これはこっちの話だ、守らなければならない誠の道ってやつなんだよ」
「くっ」
 最初に会ったときとは段違いの殺気を浴びせてくる松原。背後ではひぃっと情けない声を上げて佐原が気絶する。
「お武家様、殺すよりも使い道がありまする、なにやら私怨もあるのでしょうが、ここは私と正嗣様に免じて一時だけお時間を頂戴いただけませんか」
 松原の背後に来たふたみが地面にひざを付き、深く頭を下げる。その両側には牙をむき出し殺気に警戒する犬たちの姿。
「松原殿、頼む」
 正嗣も渡会家独特の片膝をついた形で頭を下げる。
 正面に正嗣、背面にふたみと、二つの頭を下げられた松原は、ふぅとため息を吐くと、仕方なさそうに力を抜き、正嗣を立たせようと手を差し出してくる。
「ありがたい、松原殿」
「うるせいや、まったくこんな小娘に土下座させたとあっちゃあ嫁に蹴られちまう、それが誠の武士がやることかってな、こちらこそすまんね、気を使わせちまったな」
 その後、気絶した佐原を簀巻きにして香味屋の一室に放り込み、犬たちに見張りをさせて、ふたみと正嗣、松原は三人で話し合うことになった。

  
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