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うつろな夜に
住処
しおりを挟むそれでも、わたしは引き返そうという気にはならなかった。少しでも海の近くへ行きたい。わたしが彼に近付ける限界があの地点。もうとっくにおばあちゃんの顔より見慣れてしまった、二つの岩のある場所へ。
ようやく海岸に到着する頃には息が切れていた。まさか、一日のうちに二回もあの岩に向かう舟を漕ぐことになろうとは。彼には会えもしないのに。ちょうど二つの岩の真ん中に小舟を着ける。彼と過ごすときは六角形の岩を眺める形になるので、いつもとは違う位置だ。待ち合わせをしていないときも、彼が来たらいいなという願いを込めて所定の位置に着けている。わざとそうしたわけではない。常ならぬ事態に狼狽し、角の取れた六角形をひたすらに目指した結果だ。
平らな岩に降り立つ事もせず、アンカーを打っても不安定な小舟の上で、大岩の威容を味わう。いつもよりほんの少し近いだけで、慣れ親しんだこの自然物が全然違うものに思えてくるのは、なぜだろう。夜間はあまり海へ寄り付かなかったせいもあるだろうか。しかし、粘土のような香りだけは変わらない。この先、六角形を保てなくなる日が来たとしても、潮風がわたしにこの香りを届けてくれるなら、大丈夫。
だんだんと気持ちが落ち着いてきたわたしは、急いで舞い戻って正解だったと考えられるまでに回復した。
別に困る事はなにもない。圧倒的におばあちゃんの家に滞在していた時間のほうが長いとはいえ、生活していたのは粗末なアパートのほうだった。あそこで食事や睡眠を取ろうとは思わなかったからだ。元は生活空間だったとしても、自分があそこをなにと定めたのか忘れるほど愚かではない。到底使い切れない金額の資産だって家にある。
さぁ、帰ろう。美術館ではなく、正真正銘、わたしの住処へ。
独り暮らしには十分なそのアパートの一室は、文字どおりダイニングとキッチンなどの設備以外の居室が一室のみの、必要なものが必要なだけある空間だった。散らかっているわけでもなければ、片付いているというわけでもない。特に安らげもしないが、雨風凌げる有難みだけは常日頃から感じている。こんなにズタズタな状態でも気にせずに過ごせるのは、ここだけだ。
今日はもう寝てしまおう。シャワーを浴びる元気もない。それどころか簡易ベッドを広げる気にもなれなくて、ミニテーブルに突っ伏した。
翌日、起床したら正午を過ぎていたが、ちっとも寝た気がしない。横着せずにベッドで体を休めるべきだった。とりあえず、海風に長時間さらされてパリパリになった髪と服をなんとかしなければ。重い腰を上げてお湯を沸かしに行く。
この国の水は硬度が高く、冷たいままでは洗剤の消費量が嵩んでしまったり、うまく汚れが落ちなかったりするため、洗濯にも必要不可欠なのだ。どこの国でもそういうものだとばかり思っていたが、おばあちゃんに教えてもらったから知っている。
おばあちゃん……会いたいなぁ。わたしは随分、自分の行動に助けられていたらしい。故人から譲り受けたものをどうするかは人それぞれだ。体裁などを気にしなければ、なにをしたっていいはずだ。だからといって、一人でここまでする人間が他にいるだろうか。愛しの彼の肉を誤って取り込み、年を取らなくなったわたしが人間と言えるかどうかは別として。
元々、他人よりも多少特異な環境で生まれ育ったのだから、生物としての分類が変わったところでどうということはなかったのではないか。人間でなくなる前から、わたしは異物だった。人間たちの中での仲間外れ。わたしを人間たらしめていたのは、おばあちゃんの存在だった。彼女からもたらされていたものは、常識や知識だけではなかった。わたしの閉ざされていた世界を、外の……他の人たちの世界と接続してくれていた。へその緒のように。彼女に教わったすべてが血肉となり、徐々に普通の人間に近付いていけたのだ。ああ、本当にわたしを『育てて』くれたんだ、おばあちゃんは。
わたしはきっと、その繋がりを保つために、大好きなおばあちゃんの家を彼女の作品の展示場と……美術館としたのだと、いまになって気付く。わたしがかろうじて人間の生活をはみ出さずにいられたのは、あの屋敷で過ごす時間があったからだ。それを失っては、いよいよ孤独な怪物になってしまいそうで、身震いする。
あの家にいると、おばあちゃんが生きてそこにいる気がした。心のなかで絶えず話しかけていた。返ってくる声もないのに、にこにこと相槌を打ってくれ、時には諫めてくれて――――……。そう錯覚できるほどに、彼女の残り香を噴霧するようにして作り上げた空間が、ものの数時間でがらんどうになってしまったなんて事、一夜明けたいまも信じられない。
確かめに行こう。悪い夢でも、現実に起きた出来事でも、どちらかはっきりしないままでいるよりはよほどいい。こんなに沈んだ気持ちで坂を上った日はない。緩やかな傾斜も険しい登山道のよう。――――記憶はそこで途切れていた。おばあちゃんの家に着いてからの行動を、わたしはどうしても思い出せない。でも、それで十分だ。それこそが答えなのだから。もう一度、傷付きに行く事はない。
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