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第11話 彼女は泣く場所さえ知らなかった

 セレスティアが次に目を覚ましたとき、窓の外は夕方に近かった。

 昼の光はすでに傾き、部屋の壁に淡い橙色の影を落としている。
 王宮なら、この時間にはすでに午後の報告が届き始めるころだった。

 王妃の体調確認。
 救貧院支援金の処理状況。
 大使館への返答案。
 夕刻の茶会に出席する貴族の顔ぶれ。

 目覚めた瞬間、頭の中に予定が並ぶ。

 そして、数拍遅れて思い出す。

 自分はもう王宮にいない。

 セレスティアは寝台の上でしばらく動けなかった。

 昼間に眠ってしまった。
 それも、誰かに命じられた仕事もせず、ただ休むために。

 その事実が、妙に落ち着かなかった。

 体は少し軽い。
 頭の奥にあった鈍い痛みも薄れている。

 休めば楽になる。

 当たり前のことなのに、まるで初めて知ったことのようだった。

 扉の外から、控えめな声がした。

「セレスティア様。起きていらっしゃいますか?」

 朝の女中だった。

「はい」

「お茶をお持ちしました。入ってもよろしいですか?」

「どうぞ」

 扉が開き、女中が盆を持って入ってくる。

 彼女はセレスティアの顔を見るなり、満足そうに頷いた。

「少し顔色が戻りましたね」

「そうでしょうか」

「ええ。朝は、いまにも倒れそうな顔をしていましたから」

 率直な言葉に、セレスティアは苦笑した。

「ご心配をおかけしました」

「心配するのは仕事です。謝るのは違います」

 女中はきっぱり言い、机の上に茶を置いた。

 それから、空になっていた水差しを確認し、窓を少しだけ開ける。

「風が冷たかったら呼んでください。北方の夕方は急に冷えますから」

「ありがとうございます」

「それから、閣下が夕食前にお時間をいただきたいと」

「ノア閣下が?」

「はい。お嫌なら断ってよいそうです」

 お嫌なら断ってよい。

 その言葉が、また少し不思議だった。

 王宮では、断るという選択肢はほとんどなかった。
 王太子が呼べば行く。父が命じれば従う。王妃が望めば応える。

 もちろん、王妃の呼び出しだけは嫌だと思ったことがない。
 けれど、選べないことに変わりはなかった。

「お会いします」

「承知しました。では、無理のないころに庭の東屋へ。急がなくて大丈夫です」

 女中はにこりと笑って部屋を出ていった。

 セレスティアは茶を一口飲む。

 香りは強くない。
 少し苦く、あとにほのかな甘みが残る。

 その味に背中を押されるように、彼女は身支度を整えた。

 東屋へ向かう途中、屋敷の廊下を歩いた。

 中継屋敷とはいえ、人の気配はある。
 使用人たちが静かに働き、兵士が外庭を見回り、厨房からは夕食の支度の匂いが漂っていた。

 誰もセレスティアをじろじろ見ない。

 好奇心を隠した視線も、悪女を恐れるような態度もない。

 すれ違う者は普通に礼をし、普通に仕事へ戻る。

 その普通さが、かえって胸にしみた。

 東屋には、ノアが先にいた。

 机の上には数枚の紙と、小さな木箱が置かれている。

 セレスティアが近づくと、ノアは立ち上がった。

「眠れましたか」

「はい。おかげさまで」

「それならよかった」

 ノアは席を示す。

 セレスティアが腰を下ろすと、彼も向かいに座った。

 少し風が冷たい。
 だが、庭の薬草と土の匂いが混じった空気は、王宮の香炉よりずっと自然だった。

「お呼びとのことでしたが」

「あなたに確認したいことがあります」

 セレスティアは無意識に背筋を伸ばした。

「はい」

 ノアはその反応を見て、少しだけ間を置いた。

「仕事の依頼ではありません」

「……はい」

「ただ、この屋敷の者たちが、あなたにどう接すればよいか迷っています」

 セレスティアは瞬いた。

「ご迷惑をおかけしております」

「迷惑ではありません。あなたを客人として扱うべきか、保護対象として扱うべきか、それとも滞在者として普通に接するべきか、判断が必要なだけです」

「私は……」

 言いかけて、止まる。

 何と答えればよいのか分からなかった。

 客人。
 保護対象。
 滞在者。

 どれもしっくりこない。

 王宮では、役割があった。

 王太子の婚約者。
 公爵令嬢。
 王妃の補佐。
 リリアナの姉。

 役割があれば、振る舞い方が分かる。

 だが今、セレスティアには役割がない。

「普通に、というものがよく分かりません」

 正直にそう言うと、ノアは頷いた。

「では、しばらくは客人として」

「ですが、それでは何もお返しできません」

「返す必要はありません」

「そういうわけには」

「あなたは昨日からそればかり言う」

 ノアの声は穏やかだった。

 だが、逃げ道を塞ぐような静けさがあった。

「迷惑をかけた。返さなければ。役に立たなければ。そうでなければ、ここにいてはいけないと思っている」

 セレスティアは、言葉を失った。

 ノアは机の上の紙を一枚差し出した。

「これは、先ほど家令から預かったものです」

 セレスティアは受け取る。

 そこには屋敷内の備品管理について、細かな改善案が書かれていた。

 食糧庫の棚の配置。
 薬草の乾燥場所。
 使用人の動線。
 冬用毛布の保管順。
 来客時の茶器準備。

 自分の字だった。

 昼寝をする前、部屋に戻る途中で見かけたことを、無意識に書き出していたのだ。

「あ……」

「有用です」

 ノアは言った。

「家令も感心していました。食糧庫の動線についてはすぐに直すそうです」

「それなら」

「しかし、問題はそこではありません」

 セレスティアは紙を握った。

 ノアは続ける。

「あなたは休むために部屋へ戻った。なのに、途中で見た改善点を書き、家令に渡している」

「それは、気づいてしまったので」

「気づいたものをすべて背負う必要はない」

 静かな言葉だった。

 セレスティアは視線を落とす。

「背負っているつもりは」

「ありませんか」

「……分かりません」

 それが本音だった。

 困っている人がいれば、助ける。
 不足があれば、埋める。
 乱れがあれば、整える。

 それを背負っているとは思っていなかった。

 ただ、そうするものだと教えられてきた。

「ノア閣下」

「はい」

「私は、何もしないでいると不安になります」

「なぜ」

「誰かに見限られる気がするからです」

 言った瞬間、自分でも驚いた。

 そんなことを言うつもりはなかった。

 だが言葉はすでに出ていた。

 ノアは黙っている。

 責めもしない。
 慰めもしない。

 ただ、続きを待っている。

「役に立てば、そこにいてよいのだと思っていました」

 セレスティアは、膝の上で手を重ねる。

「父は、私が公爵家のために働けば少しは認めてくれました。殿下は、必要な資料を出せば満足されました。王宮の方々は、問題を先に処理すれば私を頼ってくださいました。リリアナも……困ったときは、私のところへ来ました」

 声は静かだった。

 けれど、胸の奥が少しずつ苦しくなる。

「だから、役に立たなければ。誰かの役に立てなければ、私はそこにいてはいけないのだと」

「それは違います」

 ノアは即座に言った。

 強い声ではない。
 だが、迷いはなかった。

 セレスティアは顔を上げる。

「人は、役に立つから居場所を与えられるわけではない」

「でも、私は」

「少なくともこの屋敷では違います」

 ノアは、机の上の紙をゆっくりと畳んだ。

「あなたの指摘は有用です。だが、あなたが有用だから置いているのではありません」

「では、なぜ」

「あなたが行く場所を失っていたからです」

 あまりに単純な答えだった。

 セレスティアは困惑した。

「それだけ、ですか」

「十分です」

「閣下に何の利もありません」

「あります」

「何が」

「昨年、北方防衛費の件で助けられた借りが返せる」

「それは、借りでは」

「私が借りだと思っています」

 ノアは淡々としている。

「それに、雑な断罪を見過ごしたくなかった」

「雑な断罪」

「ええ」

 その言葉に、セレスティアは少しだけ笑った。

 しかし笑みはすぐに消えた。

「雑でも、皆が信じました」

「皆ではありません」

「ほとんどの方が」

「それでも、全員ではない」

 ノアの灰色の瞳が、まっすぐ彼女を見ている。

「少なくとも、私は信じなかった」

 セレスティアは息を呑んだ。

 信じるとは言わなかった男が、初めてはっきりそう言った。

 けれどそれは、彼女のすべてを盲目的に信じるという意味ではない。

 噂を信じなかった。

 昨夜の断罪を信じなかった。

 彼女の沈黙を、罪の証だとは信じなかった。

 その違いが、セレスティアには分かった。

 だから余計に、胸が震えた。

「……ありがとうございます」

 声が少し掠れた。

 ノアは頷く。

「礼は受け取ります」

 それから、少しだけ言葉を選ぶように間を置いた。

「ただ、もう一つ言わせてください」

「はい」

「仕事をするなとは言いません。あなたの力を否定するつもりもない。ですが、逃げるために仕事をするのはやめた方がいい」

 セレスティアの指が止まった。

「逃げるため」

「考えたくないことから逃げるために、誰かの問題を拾っているように見えます」

 静かすぎる指摘だった。

 だからこそ、避けられなかった。

 父からの手紙。
 王太子の断罪。
 リリアナへの複雑な思い。
 公爵家の指輪を外したこと。
 自分が捨てられたという事実。

 それらを見ないために、セレスティアは王宮の予定を書いた。
 屋敷の改善点を書いた。
 誰かの役に立とうとした。

 考えなくて済むから。

 自分の傷を見なくて済むから。

「私は……」

 言葉が続かない。

 ノアは立ち上がった。

「責めているのではありません」

「分かっています」

 分かっている。

 それでも苦しかった。

 責められる方が、まだ楽だったかもしれない。
 怒鳴られれば、耐える姿勢を取れる。
 冷たくされれば、心を閉じられる。

 けれど、静かに見抜かれると逃げ場がない。

「夕食まで時間があります。部屋で休んでもいい。庭を歩いてもいい。何かを書いてもいい。ただし、書くなら自分のためのことを書いてください」

「自分のため……」

「はい」

「何を書けばよいのか、分かりません」

「それも書けばいい」

 ノアはそう言って、東屋を出ていった。

 最後まで、彼は無理に慰めなかった。

 残されたセレスティアは、しばらく動けなかった。

 風が薬草畑を揺らす。
 遠くで兵士たちの声がする。
 王宮ではない音。

 セレスティアは机の上に置かれていた白紙を見つめた。

 自分のために書く。

 そんなことをした記憶が、すぐには思い出せない。

 幼いころ、日記を書いたことはあった。
 だが父に「感傷を記録して何になる」と言われ、やめた。

 王太子妃教育では、記録は常に誰かに見せるためのものだった。
 報告書。予定表。説明文。釈明書。

 自分だけのための言葉など、どこに置けばいいのか分からない。

 セレスティアはペンを取った。

 白紙の上で、しばらく止まる。

 そして、ようやく一行書いた。

『何を書けばよいのか分からない』

 それだけで手が止まった。

 けれどノアは、それも書けばいいと言った。

 だから、もう一行。

『私は、疲れているらしい』

 らしい、という言葉がひどく他人事に見えた。

 セレスティアは少しだけ眉を寄せる。

 そして、書き直さずに次の行へ進んだ。

『父の手紙には、謝罪がなかった』

 胸が痛んだ。

 ペン先が止まる。

 呼吸が浅くなる。

 それでも、紙は黙って待っていた。

『私は、それが悲しかった』

 書いた瞬間、目の奥が熱くなった。

 セレスティアは慌てて顔を上げる。

 東屋には誰もいない。

 庭の向こうを使用人が通り過ぎるが、こちらを見ていない。

 泣いてもいい場所。

 そんな言葉が頭をよぎった。

 だが、涙は出なかった。

 喉だけが苦しくなる。

 セレスティアはペンを握り直し、さらに書いた。

『私は、リリアナを憎みきれない』

 その一文は、さらに苦しかった。

 妹を憎めれば楽だった。

 すべてを奪った悪女だと思えれば、どれほど簡単だっただろう。

 だがリリアナは、幼いころに転んで泣いた妹でもある。
 セレスティアの後ろに隠れ、雷を怖がった妹でもある。
 姉の部屋へ来て、眠れないと毛布を抱えていた子でもある。

 奪った。

 裏切った。

 傷つけた。

 それでも、幼い日の記憶までは消えない。

『殿下には、少しだけ期待していた』

 書いたあと、セレスティアは目を閉じた。

 愛していたのかと問われれば、答えられない。

 幼いころから隣に立つものだと決められていた人。
 支えるべき人。
 未来の王。

 恋というより、義務に近かった。

 それでも、いつか自分を見てくれるのではないかと、少しは期待していた。

 彼が資料を読んで「助かった」と言うたび、胸のどこかが温かくなった。
 それが愛ではなかったとしても、無意味ではなかった。

 だから、昨夜の言葉は痛かった。

 君には失望した。

 冷たい野心を持つ女。

 王太子妃にふさわしくない。

 セレスティアは、ペンを置いた。

 もう書けない。

 紙の上には、たった数行だけ。

 だが、その数行を書くのに、ひどく消耗した。

 夕食の鐘が遠くで鳴る。

 セレスティアは紙を折りたたもうとして、手を止めた。

 隠さなければ。

 そう思った。

 誰かに見られたら困る。
 感傷的だと笑われる。
 弱いと判断される。

 そう思った直後、ノアの言葉を思い出す。

 自分のために書いてください。

 これは報告書ではない。
 誰かに提出するものでもない。

 隠す必要はあるかもしれない。
 だが、恥じる必要はないのかもしれない。

 セレスティアは紙を丁寧に畳み、胸元ではなく、机の上に置いた。

 自分の言葉を、そこに置いた。

 それだけのことに、少し勇気がいった。

 夜。

 食事のあと、セレスティアは部屋へ戻った。

 昼間に眠ったせいか、すぐには眠れなかった。

 窓の外には星が出ている。
 王都より空が広い。

 王宮の窓から見える星は、いつも尖塔や屋根に切り取られていた。

 ここでは、空がそのまま見える。

 セレスティアは窓辺に立ち、しばらく星を眺めた。

 胸の奥に、昼間書いた言葉が残っている。

 私は悲しかった。

 その一文が、何度も戻ってくる。

 悲しかった。

 悔しかったではなく。
 腹立たしかったでもなく。

 悲しかった。

 認めた瞬間、何かが緩みそうになる。

 そのとき、目の奥がまた熱くなった。

 今度こそ涙が出るかもしれない。

 セレスティアは窓枠に手を置いた。

 だが、やはり涙は落ちなかった。

 喉だけが震える。

 泣きたいのに、泣けない。

 泣く場所が分からない。
 泣き方が分からない。
 泣いてよい自分が、どこにいるのか分からない。

 扉の外で足音が止まった。

 ノアのものだと、なぜか分かった。

 軽く扉が叩かれる。

「起きていますか」

「……はい」

「入っても?」

 セレスティアは少し迷った。

 今の顔を見られたくない。

 だが、断る言葉も出てこなかった。

「どうぞ」

 扉が開く。

 ノアは部屋の入口で立ち止まった。

 近づいてこない。

 セレスティアの様子を見て、何かを察したのだろう。

「灯りが見えたので」

「眠れなくて」

「そうですか」

 それだけ。

 ノアは慰めの言葉を並べない。

 セレスティアは窓の外を見たまま、ぽつりと言った。

「閣下」

「はい」

「泣こうとしたのですが」

 声が少し震えた。

「涙が、出ません」

 ノアは黙っていた。

「おかしいですね。悲しいと分かっているのに、泣けないのです」

「おかしくありません」

「そうでしょうか」

「ずっと泣かずに立っていた人が、急に泣けるとは限りません」

 その言葉で、セレスティアの指が窓枠を握った。

「私は」

「はい」

「どこで泣けばよかったのでしょう」

 問いは、子どものようだった。

 自分でも情けないと思う。

 けれど、止められなかった。

「王宮では泣けませんでした。公爵家でも泣けませんでした。リリアナの前では姉でいなければならなくて、殿下の前では婚約者でいなければならなくて、父の前では長女でいなければなりませんでした」

 ノアは動かなかった。

 セレスティアは続けた。

「では、私はどこで泣けばよかったのですか」

 部屋に沈黙が落ちる。

 長い沈黙だった。

 だが、責める沈黙ではない。

 ノアは静かに答えた。

「ここで泣いてもいい」

 たったそれだけだった。

 優しい言葉だった。

 けれど涙は出ない。

 セレスティアは小さく笑った。

 笑い損ねたような、苦しい息だった。

「泣いてもいいと言われても、泣けないものですね」

「なら、泣けるまで待てばいい」

「ご迷惑では」

「なりません」

「私はまた、迷惑をかけることを気にしていますね」

「はい」

 あまりに正直に頷かれて、セレスティアは今度こそ少しだけ笑った。

 ノアは扉のそばに立ったまま言う。

「入らずにいます」

「え?」

「一人でいたいなら、このまま出ていきます。誰かが近くにいた方がいいなら、扉の外にいます。部屋にいてほしいなら、椅子に座っています」

 セレスティアは驚いて振り返った。

 ノアは本気の顔だった。

 選ばせている。

 また。

「……扉の外に」

 セレスティアは小さく言った。

「いていただけますか」

「分かりました」

 ノアは頷き、扉を閉めた。

 足音は遠ざからない。

 本当に扉の外にいる。

 セレスティアは窓辺に戻った。

 部屋には一人。
 けれど、完全に一人ではない。

 その奇妙な安心感の中で、彼女はもう一度目を閉じた。

 涙は出なかった。

 けれど、今夜はそれでもいいのだと思えた。

 泣けない自分を責めなくてもいい。

 泣く場所を知らなかった自分に、少しずつ場所を教えていけばいい。

 扉の外には、何も聞かずに待つ人がいる。

 それだけで、胸の奥の硬いものが、ほんの少しだけ緩んだ。

 その夜、セレスティアは泣かなかった。

 だが初めて、自分が泣きたかったのだと知った。

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