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第22話 偽装荷を泳がせる

 辺境の朝は、嘘を隠すには少し明るすぎた。

 空は曇っていても、石壁の上に差す光は容赦なく、夜のうちに誰がどこを通ったか、泥の癖や荷車の轍まで浮かび上がらせる。だからこの地では、完全な隠し事は難しい。隠せるのはせいぜい、何を見せて、何を見せないかくらいだ。

 そして今、レティシア・エーヴェルシュタインがやろうとしているのは、まさにそこだった。

 客間の机の上には、粗い紙が三枚並べられている。
 どれも鉱山に関する伝達文の体裁を取っているが、本物ではない。

 ひとつは、青脈で高純度の鉱石が出たという報告。
 ひとつは、それをまだ正式帳簿へ載せていないという注意書き。
 そして最後は、数日中に仮のまま倉庫へ移すという、いかにも漏れれば困る“内輪の情報”。

 だが全部、偽りだった。

 昨日までに見つかった青脈の価値そのものは本物だ。
 けれど今日この時点で、あえてそんな不用意な移送計画を立てるはずがない。
 つまりこれは、餌だった。

「文字はもう少し雑な方がいいわ」

 レティシアはルイスの書いた紙を見て言った。

 若い書記官は肩を跳ねさせる。

「ざ、雑、でございますか」

「ええ。丁寧すぎると正式文書に見えるでしょう? これは“誰かが慌てて書き写した走り書き”に見えた方がいいの」

 ルイスは真剣な顔で頷き、少しだけ筆の運びを崩した。
 生真面目な彼にとって、わざと拙く書く方が難しいのだろう。

 壁際で腕を組んでいたディルク・ヴァルゼンが低く言う。

「本当に食いつくでしょうか」

「食いつくわ」

 レティシアは即答した。

「裏流通の側からすれば、青脈は命綱だもの。こちらがまだ価値に気づいていないうちに、もう一度抜きたいと思うはず」

「もし慎重な相手なら」

「慎重な相手でも、“慎重だからこそ確かめにくる”わ」

 ディルクは少し考え、それから頷いた。

「なるほど。取るためではなく、真偽を測りに」

「ええ。そこで出る人間が見たいの」

 今回の狙いは単純だった。

 流す情報は、「砦側はまだ青脈の価値を正しく把握しておらず、しかも数日中に不用意に動かすつもりらしい」というもの。
 これが町の裏に流れれば、外と繋がっている側は必ず反応する。
 荷を抜きにくるか。
 様子見に人を出すか。
 あるいは砦内の協力者へ何らかの連絡を取るか。

 どれでもいい。
 動けば、線が濃くなる。

「流す先は?」

 ディルクが問う。

 レティシアは机の端に置いた小さな木札を指で弾いた。

「兵站補佐のラーデ」

「やはり」

「ええ。あの人は今、いちばん揺れているでしょうから」

 砦内協力者コルネンはすでに押さえた。
 ただし、それは公にはしていない。
 周囲には“病で下がった”程度の曖昧な情報しか出していない。

 そのため、兵站補佐ラーデはまだ“自分の立場が露見しているかどうか確信が持てない状態”にある。
 こういう人間は、危険と欲の間で最も動きやすい。

「今日の午後、鉱山の仮報告を持っていく名目で、わざとラーデの前を通すわ」

 ディルクの口元がかすかに動く。

「随分と性格の悪い手ですね」

「今さら?」

「いえ。だいぶ板についてきたと思いまして」

 レティシアは少しだけ目を細めた。

「褒め言葉として受け取っておくわ」

 昼前、仕込みは静かに行われた。

 ルイスが書いた“雑な写し”を、今度はさらに砦内で使う控え紙らしく折り、端を少しだけ擦る。
 そこへ鉱山から出た粗い試料袋を添えて、いかにも「急ぎで確認中の仮資料」に見せる。

 それを持つ役は、ルイスではなくエルンが任された。

「俺が、ですか」

「ええ」

 レティシアは若い兵を見た。

「あなたは真面目で、でもまだ“こういうこと”に慣れていない顔をしてるでしょう?」

 エルンは困ったように瞬いた。

「それは……褒められておりますか」

「半分はね」

 ディルクが横で低く笑う。

「要は、お前が持っていれば本物っぽいということだ」

 エルンはますます複雑そうな顔になったが、すぐに姿勢を正した。

「承知しました」

 午後、砦の兵站区画はいつも通りの忙しさに見えた。

 荷受け場では町から上がってきた小口の荷が下ろされ、炊事場では明日の分の豆と塩が数えられ、倉庫番たちは帳簿を手に行き来している。
 その流れの中を、エルンは試料袋と紙束を抱え、やや急ぎ足で通った。

 わざと、兵站補佐ラーデの視界を横切るように。

 ラーデは、最初は普通に見送るふりをした。
 だが二歩ほど歩いたところで、あまりに不自然ではない程度に声をかける。

「おい、それは何だ」

 エルンは足を止め、少し困ったように振り返った。

「鉱山の仮報告です」

「仮報告?」

「は、はい。まだ正式帳面に載せる前の……その、閣下から総司令殿へ」

 そこでわざと口ごもる。
 ルイスとレティシアが何度も練習させた通りだ。

 ラーデの目が紙束へ吸い寄せられる。

「見せろ」

「い、いえ、ですが」

「兵站の流れに関わるなら俺にも関係がある」

 その理屈は半分正しく、半分は越権だった。
 だがエルンは、抵抗しすぎず、しかし素直に渡しすぎない絶妙な顔で迷ってみせる。

 最終的に、紙束を引き抜かれるような形になった。

 ラーデはざっと目を走らせる。
 ほんの数息。
 だが、その間に彼の顔色が明らかに変わる。

 青脈。
 高純度。
 数日中に仮移送。
 正式未記載。

 それは裏流通に噛んでいる者なら、無視できるはずのない文言だった。

「……これは」

「だから、まだ内々の」

 エルンが慌てて取り返そうとすると、ラーデはようやく我に返ったように紙を戻した。

「いや、見ていない。今のは忘れろ」

「は、はい……」

 エルンは戸惑いを演じながら去る。

 角を曲がった瞬間、待っていたディルクの兵がそれを確認し、さらに遠くで見ていたルイスが小さく息を吐いた。

 かかった。

 その日の夕方まで、ラーデは普段通りに見えた。
 少なくとも、表面上は。

 だが、表面上が普段通りであること自体が、すでに不自然でもあった。
 あの内容を見て、本当に関係のない兵站補佐なら、まず総司令へ上げるか、帳場のどこへ回すかで迷うはずだ。
 見なかったことにしようとする方がむしろ怪しい。

 レティシアは夕暮れ前、中庭の回廊からそのラーデの動きを見ていた。

「出るわね」

 ぽつりと言う。

 隣に立つディルクが低く応じる。

「ええ。問題は、いつ、どこへ」

「今夜のうちでしょう。向こうも日を置けば価値が落ちると思うはず」

 実際、その予想は当たった。

 夜半近く。
 町の灯りがほとんど落ち、砦の見張り火だけが風に揺れている時刻。
 ラーデは兵站区画の裏手から、何食わぬ顔で出た。

 荷は持たない。
 ただ外套を深く被り、南門ではなく、倉庫裏の排水溝沿いに歩く。
 表の門を使わないのは、自分でも怪しい自覚があるからだ。

 見張っていた兵が、その背を見送る。

 誰も、すぐには捕まえない。

 ラーデは町へ入ると、表通りを避け、細い路地を二度折れた。
 向かった先は、南小路のさらに奥――先日、証拠隠滅を図られた旧倉庫ではない。
 その隣の、半ば空き家になっている古い布問屋跡だった。

「別の連絡口ね」

 レティシアが低く呟く。

 闇に紛れ、彼女とディルク、それに兵二名が距離を取りながら追っている。
 ここで初めて、外へ出た砦内協力者の足が別の穴へ繋がったのだ。

 布問屋跡の裏口から、中へ影が滑り込む。
 しばらくして、もう一つの影が現れた。

 細身。
 外套の合わせが王都風でも辺境風でもない。
 帽子を深く被っているが、夜の積み出し場で見た“外の連絡役”と同じ体つきに見える。

 ラーデはその影へ何かを差し出した。
 紙だ。
 偽装荷の情報が、釣り針として渡った。

 相手はそれを開き、月光の届かぬ闇の中でも、明らかに動きを変えた。
 一瞬だけ、肩の線が鋭くなる。
 食いついた。

 だがその次の瞬間、相手は紙を懐へ入れず、細く裂いた。

 レティシアの目が細まる。

「慎重ね」

「ええ」

 ディルクが囁く。

「その場で証拠を残さない」

「でも、捨てた」

「どこへ」

「排水溝の方」

 小さな紙片が、夜気に乗って石の隙間へ落ちる。
 その場ではどうでもよいような仕草。
 だが、回収する側にとっては十分な痕跡だった。

 ラーデと連絡役は短い言葉を交わし、それぞれ別の方向へ散った。

 レティシアは動かない。
 追えば捕れるかもしれない。
 だが、いま欲しいのは捕縛ではない。

 数を、癖を、接続を。
 もっと見る必要がある。

 連絡役が消えたあと、兵が静かに紙片を回収した。
 裂かれていても、文言の一部は残っている。
 それだけで十分だった。

 さらに布問屋跡の中を探ると、小さな木箱が見つかった。
 中には、北側交易圏の小銀貨が数枚と、見慣れぬ焼印の押された荷札が二つ。

 ディルクがそれを見て低く言う。

「町の顔だけではないな」

「ええ。連絡役は定期的にここを使ってる」

「ラーデは、その窓口」

「でも本命じゃない」

 レティシアは即座に答える。

「本命なら、もっと落ち着いているもの。あの人は、まだ“伝令役に使われる側”よ」

 その見立てに、ディルクは頷いた。

「なら、ここから先は」

「もう一段、上を引っ張るわ」

 風が布問屋跡の破れた戸を鳴らす。
 町は静かだ。
 だが静かな町の裏で、確かに何かが動いている。
 そして今夜、その動きは初めてこちらの手の中へ輪郭を落とした。

 砦へ戻ったのは夜更けだった。

 帳面を開いたレティシアは、疲れよりも冴えた顔で口述する。

「偽装情報、砦内兵站補佐ラーデを通じて外部連絡役へ到達。南小路とは別の接触口として旧布問屋跡を確認。連絡役、情報を即時破棄する慎重さを有す。町商人・砦内協力者は、依然として外部流通網の末端に位置すると判断」

 そして最後に、こう書かせた。

 魚は餌に食いついた。次は、それを引く手を見る。

 ルイスが震えるほど静かな手でその一文を書き留める。

 マルタはいつものように灯りを整えながら、ぽつりと言った。

「お嬢様、こうして拝見しておりますと……」

「なに?」

「まるで戦をしておられるようでございます」

 レティシアは少し考え、それから答えた。

「しているのよ」

 声は静かだった。

「剣を抜かないだけで」

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