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第48話 王都書庫からの照会
銀狐商会が去った翌朝、町には妙な静けさが残っていた。
騒ぎが終わったあとの静けさではない。
何かが始まったあとに、人がそれぞれ自分の持ち場へ戻っていく時の静けさだった。
荷捌き場では、ヨハンが車輪の跡を確かめていた。
馬小屋跡では、ガレスが石の並びを直している。
中継小屋では、昨夜の火の残りを見て、鍛冶屋の見習いが薪の置き場を書き直していた。
外の商会と取引をした。
北の道の向こうに、王都の影があるかもしれないと知った。
それでも、井戸は回る。
荷は動く。
炊事場では昼の汁物の仕込みが始まる。
その当たり前が、レティシア・エーヴェルシュタインには、昨日より少しだけ頼もしく見えた。
「お嬢様」
帳場に戻ったところで、マルタが封書を持ってきた。
「王都からでございます」
その言葉に、部屋の空気が一瞬止まる。
王都からの書簡には、もう良い印象がない。
王太子府からの二度の書簡は、どちらも“足りないから寄越せ”という類のものだった。
レティシアは封蝋を見た。
「……王太子府ではないわね」
「はい。王立書庫の印でございます」
ルイスが顔を上げる。
「王立書庫、ですか?」
レティシアは頷き、封を切った。
文面は、王太子府の書簡とは明らかに違っていた。
高圧的ではない。
急がせる言葉もない。
ただ、慎重すぎるほど整った文章で、こう記されている。
――北方旧所領における過去五年分の鉱山収益記録について、王立書庫所蔵記録との照合を行うため、可能な範囲で写しの提出を願いたい。
――併せて、山越え交易商会との過去取引記録、鉱石搬出量、街道補修費に関する旧記録があれば参照したい。
――本照会は王立書庫の記録整理によるものであり、領地運営への干渉を意図するものではない。
最後の一文を読んだ時、レティシアは小さく息を吐いた。
「……ずいぶん丁寧ね」
ルイスが不安そうに問う。
「怪しい、ということでしょうか」
「怪しいわ」
レティシアは正直に言った。
「でも、王太子府の書簡とは怪しさの質が違う」
「質、ですか」
「ええ。こちらを使おうとしている文章ではない。こちらから情報を引き出したい文章よ」
ディルク・ヴァルゼンが、ちょうど帳場へ入ってきた。
「何か」
「王都書庫から照会が来たわ」
レティシアは書簡を渡す。
ディルクはざっと目を通し、眉を寄せた。
「鉱山収益、山越え商会、街道補修費……銀狐の件を嗅いでいるように見えます」
「ええ」
「誰が動かしているのでしょう」
「王立書庫の名だけではわからないわ。けれど、少なくとも王太子殿下ではないと思う」
「なぜです」
「王太子府なら、こんな聞き方をしないもの」
レティシアは机の上に書簡を置いた。
「“提出せよ”と書くわ。あるいは“王国のため”と大きく書く」
ルイスは思わず苦笑しかけ、すぐに口元を引き締めた。
笑う場面ではないと思ったのだろうが、言いたいことはよくわかったらしい。
ディルクが低く言う。
「では、応じますか」
「応じるわ」
即答だった。
ただし、と続ける前に、ディルクが先に言った。
「全部は出さない」
レティシアは少しだけ笑った。
「読まれているわね」
「最近、少しは」
「ええ。全部は出さない。けれど、無視もしない」
ルイスが筆を構える。
「どこまでお出ししますか」
「まず、すでにこちらで確認済みの表帳簿の写し。過去五年分のうち、欠落していない部分だけ」
「はい」
「次に、街道補修費の旧記録。これは不正の痕跡があるけれど、まだ断定できない。だから注記をつけて出す」
「注記は……“照合中”で?」
「そう。“現地記録と実地状況に齟齬あり、照合中”でいいわ」
ルイスがうなずく。
「山越え交易商会の記録は?」
その問いに、レティシアは少しだけ黙った。
そこが一番難しい。
銀狐商会との試験取引は、こちらの規則で行った。
だが過去の裏流通については、まだ全部の線が見えているわけではない。
中途半端な記録をそのまま出せば、王都の誰かに握り潰される可能性がある。
「銀狐商会との今回の試験取引記録は出す」
ディルクがわずかに眉を動かした。
「よろしいのですか」
「ええ。こちらの規則で行った、正規の取引だもの。見せて困るものではないわ」
「過去の裏流通は」
「“調査中”とだけ記す。証拠の写しはまだ出さない」
ルイスは慎重に書き留めながら、少し不安そうに尋ねた。
「王都側に疑われませんか」
「疑うでしょうね」
「それでも?」
「ええ。疑われるくらいでちょうどいいわ。全部さらけ出す相手かどうか、まだわからないもの」
ディルクが頷いた。
「王都の中に、敵の手があるかもしれない」
「そう」
レティシアは封書の王立書庫印を見た。
「でも同時に、王都の中にも、こちらと同じ線を見ている人がいるかもしれない」
その言葉に、帳場は少し静かになった。
王都。
そこは、レティシアを切り捨てた場所だ。
けれど王都のすべてが敵だとは限らない。
問題は、味方かもしれない相手と、敵かもしれない相手が、同じ城の中にいることだった。
午後、帳場では写しの作成が始まった。
ルイスは緊張しながらも、いつもより丁寧に筆を進めている。
ハルトマンが古い帳簿を照合し、ディルクは街道補修記録と現地の状況を突き合わせていた。
途中でヨハンが顔を出した。
「閣下、馬小屋跡の石、北側から運んでいいか確認を……って、忙しそうですね」
「大丈夫。言って」
「いや、あとで」
「今でいいわ。記録に残すから」
ヨハンは少し戸惑い、それからいつもの調子で話し始めた。
「北側の古い石垣、崩れてるところがあります。使えそうな石があるんですが、勝手に持ってくるとまずいと思って」
レティシアはディルクを見る。
ディルクは短く頷いた。
「古い境界石でなければ使える。確認させる」
「じゃあ、兵に一人ついてもらえばいいですか」
「そうして」
ヨハンはほっとしたように息を吐いた。
「了解です」
彼が出ていったあと、ルイスが小さく笑った。
「今のも、少し前なら勝手に持ってきていたかもしれませんね」
「ええ」
レティシアはうなずく。
「でも今は、確認する」
「記録に残るから」
「そう」
レティシアは王都へ送る写しの束へ目を落とした。
「こういう小さなことの積み重ねが、領地を守るのよ」
王都へ送る記録も同じだ。
何を出し、何を出さず、何を“調査中”とするか。
それもまた、この領地を守るための線引きだった。
夕刻、返書は整った。
文面は簡潔にした。
――ご照会の件、現地にて確認できた範囲の写しを添付いたします。
――鉱山収益記録については一部欠落があり、現在照合中です。
――街道補修費記録については、実地状況との齟齬が認められるため、注記を付しました。
――山越え交易商会との過去取引については、現在調査を継続しております。
――なお、銀狐商会との直近の試験取引につきましては、帳場登録済みの正規記録を添付いたします。
最後に、レティシアは一文を加えた。
――本件に関する照会の目的と、照合対象となる王立書庫側記録の範囲をご教示いただければ、以後の回答精度を高められるものと存じます。
ルイスがその文を読んで、感心したように言った。
「こちらからも、尋ね返すのですね」
「ええ」
「王立書庫へ、少し失礼では」
「失礼ではないわ。協力するには、相手が何を見ているのか知る必要があるもの」
ディルクが低く言う。
「向こうの出方を見るわけですね」
「そう」
レティシアは封蝋を押した。
「王都の誰が、どこまで本気で調べているのか。こちらも知らなくては」
数日後、その返書は王都へ届いた。
王立書庫の奥で、第二王子ルシアンはそれを受け取った。
彼はまず添付記録を見た。
鉱山収益。
街道補修費。
銀狐商会との試験取引記録。
そして最後に、レティシアの一文を読んだ。
――照会の目的と、照合対象となる王立書庫側記録の範囲をご教示いただければ。
ルシアンは、ほんのわずかに笑った。
「……探られているな」
近習が不安そうに問う。
「警戒されている、ということでしょうか」
「当然だろう」
ルシアンは返書を丁寧に畳んだ。
「あの方が警戒しない相手など、今の王都にはいない」
「では、どうされますか」
「こちらも、正直に返す」
近習は目を見開いた。
「よろしいのですか」
「全部ではない。だが、隠しすぎれば次は返ってこない」
ルシアンは窓の外を見た。
王都の夕暮れは美しい。
だが、その美しさの中に、いくつもの影が伸びている。
「辺境は、こちらが思っていたより早く動いている」
彼は静かに言った。
「なら、王都も少しは急がねばならない」
騒ぎが終わったあとの静けさではない。
何かが始まったあとに、人がそれぞれ自分の持ち場へ戻っていく時の静けさだった。
荷捌き場では、ヨハンが車輪の跡を確かめていた。
馬小屋跡では、ガレスが石の並びを直している。
中継小屋では、昨夜の火の残りを見て、鍛冶屋の見習いが薪の置き場を書き直していた。
外の商会と取引をした。
北の道の向こうに、王都の影があるかもしれないと知った。
それでも、井戸は回る。
荷は動く。
炊事場では昼の汁物の仕込みが始まる。
その当たり前が、レティシア・エーヴェルシュタインには、昨日より少しだけ頼もしく見えた。
「お嬢様」
帳場に戻ったところで、マルタが封書を持ってきた。
「王都からでございます」
その言葉に、部屋の空気が一瞬止まる。
王都からの書簡には、もう良い印象がない。
王太子府からの二度の書簡は、どちらも“足りないから寄越せ”という類のものだった。
レティシアは封蝋を見た。
「……王太子府ではないわね」
「はい。王立書庫の印でございます」
ルイスが顔を上げる。
「王立書庫、ですか?」
レティシアは頷き、封を切った。
文面は、王太子府の書簡とは明らかに違っていた。
高圧的ではない。
急がせる言葉もない。
ただ、慎重すぎるほど整った文章で、こう記されている。
――北方旧所領における過去五年分の鉱山収益記録について、王立書庫所蔵記録との照合を行うため、可能な範囲で写しの提出を願いたい。
――併せて、山越え交易商会との過去取引記録、鉱石搬出量、街道補修費に関する旧記録があれば参照したい。
――本照会は王立書庫の記録整理によるものであり、領地運営への干渉を意図するものではない。
最後の一文を読んだ時、レティシアは小さく息を吐いた。
「……ずいぶん丁寧ね」
ルイスが不安そうに問う。
「怪しい、ということでしょうか」
「怪しいわ」
レティシアは正直に言った。
「でも、王太子府の書簡とは怪しさの質が違う」
「質、ですか」
「ええ。こちらを使おうとしている文章ではない。こちらから情報を引き出したい文章よ」
ディルク・ヴァルゼンが、ちょうど帳場へ入ってきた。
「何か」
「王都書庫から照会が来たわ」
レティシアは書簡を渡す。
ディルクはざっと目を通し、眉を寄せた。
「鉱山収益、山越え商会、街道補修費……銀狐の件を嗅いでいるように見えます」
「ええ」
「誰が動かしているのでしょう」
「王立書庫の名だけではわからないわ。けれど、少なくとも王太子殿下ではないと思う」
「なぜです」
「王太子府なら、こんな聞き方をしないもの」
レティシアは机の上に書簡を置いた。
「“提出せよ”と書くわ。あるいは“王国のため”と大きく書く」
ルイスは思わず苦笑しかけ、すぐに口元を引き締めた。
笑う場面ではないと思ったのだろうが、言いたいことはよくわかったらしい。
ディルクが低く言う。
「では、応じますか」
「応じるわ」
即答だった。
ただし、と続ける前に、ディルクが先に言った。
「全部は出さない」
レティシアは少しだけ笑った。
「読まれているわね」
「最近、少しは」
「ええ。全部は出さない。けれど、無視もしない」
ルイスが筆を構える。
「どこまでお出ししますか」
「まず、すでにこちらで確認済みの表帳簿の写し。過去五年分のうち、欠落していない部分だけ」
「はい」
「次に、街道補修費の旧記録。これは不正の痕跡があるけれど、まだ断定できない。だから注記をつけて出す」
「注記は……“照合中”で?」
「そう。“現地記録と実地状況に齟齬あり、照合中”でいいわ」
ルイスがうなずく。
「山越え交易商会の記録は?」
その問いに、レティシアは少しだけ黙った。
そこが一番難しい。
銀狐商会との試験取引は、こちらの規則で行った。
だが過去の裏流通については、まだ全部の線が見えているわけではない。
中途半端な記録をそのまま出せば、王都の誰かに握り潰される可能性がある。
「銀狐商会との今回の試験取引記録は出す」
ディルクがわずかに眉を動かした。
「よろしいのですか」
「ええ。こちらの規則で行った、正規の取引だもの。見せて困るものではないわ」
「過去の裏流通は」
「“調査中”とだけ記す。証拠の写しはまだ出さない」
ルイスは慎重に書き留めながら、少し不安そうに尋ねた。
「王都側に疑われませんか」
「疑うでしょうね」
「それでも?」
「ええ。疑われるくらいでちょうどいいわ。全部さらけ出す相手かどうか、まだわからないもの」
ディルクが頷いた。
「王都の中に、敵の手があるかもしれない」
「そう」
レティシアは封書の王立書庫印を見た。
「でも同時に、王都の中にも、こちらと同じ線を見ている人がいるかもしれない」
その言葉に、帳場は少し静かになった。
王都。
そこは、レティシアを切り捨てた場所だ。
けれど王都のすべてが敵だとは限らない。
問題は、味方かもしれない相手と、敵かもしれない相手が、同じ城の中にいることだった。
午後、帳場では写しの作成が始まった。
ルイスは緊張しながらも、いつもより丁寧に筆を進めている。
ハルトマンが古い帳簿を照合し、ディルクは街道補修記録と現地の状況を突き合わせていた。
途中でヨハンが顔を出した。
「閣下、馬小屋跡の石、北側から運んでいいか確認を……って、忙しそうですね」
「大丈夫。言って」
「いや、あとで」
「今でいいわ。記録に残すから」
ヨハンは少し戸惑い、それからいつもの調子で話し始めた。
「北側の古い石垣、崩れてるところがあります。使えそうな石があるんですが、勝手に持ってくるとまずいと思って」
レティシアはディルクを見る。
ディルクは短く頷いた。
「古い境界石でなければ使える。確認させる」
「じゃあ、兵に一人ついてもらえばいいですか」
「そうして」
ヨハンはほっとしたように息を吐いた。
「了解です」
彼が出ていったあと、ルイスが小さく笑った。
「今のも、少し前なら勝手に持ってきていたかもしれませんね」
「ええ」
レティシアはうなずく。
「でも今は、確認する」
「記録に残るから」
「そう」
レティシアは王都へ送る写しの束へ目を落とした。
「こういう小さなことの積み重ねが、領地を守るのよ」
王都へ送る記録も同じだ。
何を出し、何を出さず、何を“調査中”とするか。
それもまた、この領地を守るための線引きだった。
夕刻、返書は整った。
文面は簡潔にした。
――ご照会の件、現地にて確認できた範囲の写しを添付いたします。
――鉱山収益記録については一部欠落があり、現在照合中です。
――街道補修費記録については、実地状況との齟齬が認められるため、注記を付しました。
――山越え交易商会との過去取引については、現在調査を継続しております。
――なお、銀狐商会との直近の試験取引につきましては、帳場登録済みの正規記録を添付いたします。
最後に、レティシアは一文を加えた。
――本件に関する照会の目的と、照合対象となる王立書庫側記録の範囲をご教示いただければ、以後の回答精度を高められるものと存じます。
ルイスがその文を読んで、感心したように言った。
「こちらからも、尋ね返すのですね」
「ええ」
「王立書庫へ、少し失礼では」
「失礼ではないわ。協力するには、相手が何を見ているのか知る必要があるもの」
ディルクが低く言う。
「向こうの出方を見るわけですね」
「そう」
レティシアは封蝋を押した。
「王都の誰が、どこまで本気で調べているのか。こちらも知らなくては」
数日後、その返書は王都へ届いた。
王立書庫の奥で、第二王子ルシアンはそれを受け取った。
彼はまず添付記録を見た。
鉱山収益。
街道補修費。
銀狐商会との試験取引記録。
そして最後に、レティシアの一文を読んだ。
――照会の目的と、照合対象となる王立書庫側記録の範囲をご教示いただければ。
ルシアンは、ほんのわずかに笑った。
「……探られているな」
近習が不安そうに問う。
「警戒されている、ということでしょうか」
「当然だろう」
ルシアンは返書を丁寧に畳んだ。
「あの方が警戒しない相手など、今の王都にはいない」
「では、どうされますか」
「こちらも、正直に返す」
近習は目を見開いた。
「よろしいのですか」
「全部ではない。だが、隠しすぎれば次は返ってこない」
ルシアンは窓の外を見た。
王都の夕暮れは美しい。
だが、その美しさの中に、いくつもの影が伸びている。
「辺境は、こちらが思っていたより早く動いている」
彼は静かに言った。
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