『花檻の契り ──大奥百合絵巻──』

本能寺から始める常陸之介寛浩

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第五十四話『主の名を呼ばぬ者たち』

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 大奥は、沈黙に包まれていた。
 だがその沈黙は、かつてのような従順ではない。

 

 それは、不穏な気配を孕んだ「待機」の空気。
 女たちは口をつぐみ、視線を交わし、
 何も言わずに“何か”を始めていた。

 

 

 ***

 

 ある朝。

 

 香座での出来事から、まだ三日も経っていなかった。

 

 だが、大奥内の一部女中が突然「出仕」を拒んだのだ。
 それも、選りすぐりの者たち──

 

 水月局直属の古参女中、三名。

 

 いずれも、かつて紅梅局の時代から“主の香”を受け入れて生きてきた女たち。

 

 その彼女たちが、突如として「体調不良」と称し、日課を放棄した。

 

 だが、誰の目にもそれが“造られた病”であることは明らかだった。

 

「……あの方たちが?」

「水月様の香を、毎日受けていた人間が?」

「それが突然……」

 

 驚きと困惑、そして疑念。

 

 何が起こったのか。
 なぜ、いまになって。

 

 そして──

 その中にいた一人が、ぽつりとつぶやいたという。

 

「わたしは……誰のために仕えていたのだろう」

 

 

 ***

 

 廊下の陰。
 中臈・千歳は、香炉に火を入れる手を止めた。

 

 目の前にあるのは、水月局より賜った“私香”。

 

 薄紅の香粉、蓮華の香りに似た、女心を惑わす香。

 

(……これを焚けば、誰もが従う)

 

 千歳は、それをよく知っていた。

 

 彼女自身、そうして生きてきたのだ。

 

 かつて、下女の娘として蔑まれ、
 生き残る術として“香”にすがり、
 紅梅局の手で名を与えられ、“中臈・千歳”として形を与えられた。

 

 香は、千歳にとって「誇り」だった。
 それは同時に、「鎖」でもあった。

 

 だが──
 篝火の姿が、頭から離れなかった。

 

 水仕えに身を堕としながらも、
 誰よりも背筋を伸ばして生きる女。
 誰にも媚びず、笑わず、それでも“誰かを守るため”に動く女。

 

(……あんなの、ただの理想よ。理想なんか……)

 

 そう言い聞かせようとするたびに、
 心が、軋んだ。

 

 “主”とは何か。
 “忠義”とは誰のためのものか。

 

 千歳の中で、それは初めて“崩れかけていた”。

 

 

 ***

 

 女中たちの間で、誰ともなくこう言われるようになる。

 

「あなたの主は、誰?」

 

 かつては、即座に名が挙がった。
「水月様」「紅梅様」「あの御台様」

 

 だが今、女たちは答えに詰まり、
 言葉を飲み込む。

 

 ある者は、黙って“香炉”をしまった。

 

 ある者は、髪に挿した“水月局の印”を外した。

 

 ある者は、朝の着替えの前に、
 鏡に向かってこう呟いた。

 

「……わたしは、わたしのために立つ」

 

 主の名を呼ばぬ者たちが、増えはじめた。

 

 

 ***

 

 篝火は、それを静かに見ていた。

 

 彼女が何かを命じたわけではない。
 鼓舞したわけでも、煽ったわけでもない。

 

 ただ黙って、
 水桶を運び、
 火を焚き、
 香に惑わされぬ瞳で、女たちを見つめていただけだった。

 

 その背中に、誰もが「あるはずだった誇り」を思い出した。

 

「……人は、香では縛れない」

 

 そう小さく呟いたのは、あの最古参の“お高”。

 

「人は……想いで、動く」

 

 火が灯る音がした。
 それは香ではなく、“心”が焚かれる音だった。

 

 

 ***

 

 一方、朝霧は動いていた。

 

 水月局の“香座”の記録を手に、
 女中頭の書庫を訪ねる。

 

 そこに集まり始めたのは──
 主の名を呼ばぬ女たちだった。

 

 記録係。
 炊事係。
 針子。
 文書整理。
 雑巾係まで。

 

 名もなき者たちの手によって、
 密やかに“告発の織物”が編まれ始めた。

 

 それは血でも、香でもない。
 “真実”という名の布だった。

 

 

(続く)
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