『花檻の契り ──大奥百合絵巻──』

本能寺から始める常陸之介寛浩

文字の大きさ
69 / 81

第七十一話『暁の門を越えて』

しおりを挟む
 朝の大奥に、淡い光が差し込む。

 

 襖を開け放った回廊には、春の終わりの風が吹き抜けていた。
 鳥のさえずりもまだ浅く、世界が目覚めるより一瞬だけ早い“暁”の時間。

 

 その静けさの中で、ふたりの足音だけが重なる。

 

 篝火。
 そして、朝霧。

 

 身に纏うのは、どこにでもいる水仕え女中の浅縹(あさはなだ)の小袿。
 それでも、彼女たちの歩く姿には、
 誰よりも凛とした気配が宿っていた。

 

 

「……静かですね」

 

「ええ。まるで、何事もなかったように」

 

 朝霧の声に、篝火は目を細めて微笑む。

 

「何事もなかったように──それでいて、すべてが変わってしまったのです」

 

「わたしたちも、大奥も」

 

 それは敗北ではなく、“赦し”だった。

 

 権威を持たず、記録にも残らず、
 けれど心を灯し続ける生き方。

 

 この奥にいる誰もが、
 知らず知らずのうちに、その灯のぬくもりに触れていた。

 

 

 ***

 

 ふたりが辿り着いたのは、大奥の東門。

 

 かつては内々の者か、あるいは粛清の際にしか開かれることのなかった門。

 

 今、その扉がゆっくりと開かれる。

 

 外には、朝陽が昇り始めていた。

 

 橙とも金ともつかぬ、まだ薄紅のまじる色。
 それは、まるでふたりの歩んできた日々をやさしく包むような光だった。

 

「……篝火様」

 

「名前を呼ばないと、決めたでしょう?」

 

「いえ、今日は、呼ばせてください」

 

 朝霧は、ふと立ち止まり、篝火の手を取る。

 

「あなたが、“篝火”という名を選んだ日のこと。
 いまでも、わたしの心に焼きついています」

 

「名を持たず、記録に残らず、それでも誰より強く、誰より優しかったあなたを」

 

 篝火は、その手を握り返す。

 

「朝霧……わたしたちは、まだ旅の途中ですね」

 

「ええ。いつかこの場所が、“愛していい場所”になるまで」

 

「その灯を消さず、歩いていきましょう。ふたりで」

 

 ふたりはゆっくりと、門を越えた。

 

 まだ踏みならされていない土。
 だがそこに、道はあった。

 

 名もなき者たちが歩き、涙し、笑い合ったその記憶が、
 土を柔らかく踏みしめ、未来へと続いていく。

 

 

 ***

 

 後に、大奥の史書の一節に、こう記されたという。

 

「名を持たず、志を遺し、静かに去りしふたりの女あり」

 

「女中評定」のはじまりも、「毒香制度」の終焉も、誰の名にも帰されなかったが──

 

 “篝火”と“朝霧”という名は、密やかに語り継がれた。

 

 それは、声なき者たちの灯として、
 暁の大奥に息づいていたのである。

 

 

 ──終幕。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末

松風勇水(松 勇)
歴史・時代
旧題:剣客居酒屋 草間の陰 第9回歴史・時代小説大賞「読めばお腹がすく江戸グルメ賞」受賞作。 本作は『剣客居酒屋 草間の陰』から『剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末』と改題いたしました。 2025年11月28書籍刊行。 なお、レンタル部分は修正した書籍と同様のものとなっておりますが、一部の描写が割愛されたため、後続の話とは繋がりが悪くなっております。ご了承ください。 酒と肴と剣と闇 江戸情緒を添えて 江戸は本所にある居酒屋『草間』。 美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。 自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。 多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。 その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。 店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。

(完)百合短編集 

南條 綾
恋愛
ジャンルは沢山の百合小説の短編集を沢山入れました。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

【百合】Liebe

南條 綾
キャラ文芸
人と一線引いた少女のお話 あの時あなたを助けた時から気になった。 あなたにあって私の景色が色が付いた

義姉妹百合恋愛

沢谷 暖日
青春
姫川瑞樹はある日、母親を交通事故でなくした。 「再婚するから」 そう言った父親が1ヶ月後連れてきたのは、新しい母親と、美人で可愛らしい義理の妹、楓だった。 次の日から、唐突に楓が急に積極的になる。 それもそのはず、楓にとっての瑞樹は幼稚園の頃の初恋相手だったのだ。 ※他サイトにも掲載しております

【時代小説】 黄昏夫婦

蔵屋
歴史・時代
 江戸時代、東北地方の秋田藩は貧かった。  そんな中、真面目なひとりの武士がいた。同僚からは馬鹿にされていたが真面目な男であった。俸禄は低く貧しい。娘二人と実母との4人暮らし。  秋田藩での仕事は勘定方である。  仕事が終わると真っ直ぐ帰宅する。 ただひたすら日中は城中では勘定方の仕事をまじめにして、帰宅すれば論語を読んで知識を習得する。   そんな毎日であった。彼の名前は立花清左衛門。年齢は35歳。  娘は二人いて、一人はとめ15歳。もう一人は梅、8歳。  さて|黄昏《たそがれ》は、一日のうち日没直後、雲のない西の空に夕焼けの名残りの「赤さ」が残る時間帯のことを言う。「|黄昏時《たそがれどき)」。 「黄昏れる《たそがれる》」という動詞形もある。    「たそがれ」は、江戸時代になるまでは「たそかれ」といい、「たそかれどき」の略でよく知られていた。夕暮れの人の顔の識別がつかない暗さになると誰かれとなく、「そこにいるのは誰ですか」「誰そ彼(誰ですかあなたは)」とたずねる頃合いという意味で日常会話でよく使われた。  今回の私の小説のテーマはこの黄昏である。  この風習は広く日本で行われている。  「おはようさんです」「これからですか」「お晩でございます。いまお帰りですか」と尋ねられれば相手も答えざるを得ず、互いに誰であるかチェックすることでヨソ者を排除する意図があったとされている。  「たそかれ」という言葉は『万葉集』に 誰そ彼と われをな問ひそ 九月の 露に濡れつつ 君待つわれそ」 — 『万葉集』第10巻2240番 と登場するが、これは文字通り「誰ですかあなたは」という意味である。  「平安時代には『うつほ物語』に「たそかれどき」の用例が現れ、さらに『源氏物語』に 「寄りてこそ それかとも見め たそかれに ほのぼの見つる 夕顔の花」 — 『源氏物語』「夕顔」光源氏 と、現在のように「たそかれ」で時間帯を表す用例が現れる。  なおこの歌は、帖と登場人物の名「夕顔」の由来になった夕顔の歌への返歌である。  またこの言葉の比喩として、「最盛期は過ぎたが、多少は余力があり、滅亡するにはまだ早い状態」をという語句の用い方をする。 漢語「|黄昏《コウコン》」は日没後のまだ完全に暗くなっていない時刻を指す。「初昏」とも呼んでいた。十二時辰では「戌時」(午後7時から9時)に相当する。  「たそがれ」の動詞化の用法。日暮れの薄暗くなり始めるころを指して「空が黄昏れる」や、人生の盛りを過ぎ衰えるさまを表現して「黄昏た人」などのように使用されることがある。  この物語はフィクションです。登場人物、団体等実際に同じであっても一切関係ありません。  それでは、小説「黄昏夫婦」をお楽しみ下さい。  読者の皆様の何かにお役に立てれば幸いです。  作家 蔵屋日唱    

〈社会人百合〉アキとハル

みなはらつかさ
恋愛
 女の子拾いました――。  ある朝起きたら、隣にネイキッドな女の子が寝ていた!?  主人公・紅(くれない)アキは、どういったことかと問いただすと、酔っ払った勢いで、彼女・葵(あおい)ハルと一夜をともにしたらしい。  しかも、ハルは失踪中の大企業令嬢で……? 絵:Novel AI

せんせいとおばさん

悠生ゆう
恋愛
創作百合 樹梨は小学校の教師をしている。今年になりはじめてクラス担任を持つことになった。毎日張り詰めている中、クラスの児童の流里が怪我をした。母親に連絡をしたところ、引き取りに現れたのは流里の叔母のすみ枝だった。樹梨は、飄々としたすみ枝に惹かれていく。 ※学校の先生のお仕事の実情は知りませんので、間違っている部分がっあたらすみません。

処理中です...