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第10話 うちのクラス、勘のいい女子が多すぎる
秘密というものは、単体で存在しているうちはまだ静かだ。
自分の中だけで完結している間は、隠し通すことも、平静を装うことも、そこまで難しくない。
問題は、その秘密に共有先ができたときである。
しかも共有先が、同じクラスにいる。
さらに、共有先もまた、同じ規模感の秘密を抱えている。
そうなると何が起きるか。
答えは簡単だ。
ちょっとしたことで、やたらと気まずい。
真白は朝の教室でノートを開きながら、そう痛感していた。
まだ一時間目も始まっていない。
なのに神経だけが無駄に疲れている。
理由は明白だった。
視界の右前方に、朝倉澪がいるからである。
たったそれだけ、と言えばたったそれだけだ。
同じクラスなのだから、そりゃいるだろう。
今さら何を言っているのかと自分でも思う。
でも仕方ない。
この数日で、朝倉澪という存在に対する認識が、真白の中であまりにも増えすぎた。
バスケ部主将。
学校ではまぶしい側の人。
でも同時にMIO。
本番に強い歌手。
顔の見えないステージの真ん中で、あの声だけで会場を持っていった人。
そんな情報を抱えたまま、同じ教室で普通のクラスメイトとして存在されると、思った以上に脳が処理に困る。
「一ノ瀬さん」
前の席から絵麻が振り返る。
「……何」
「消しゴム、逆」
「え」
「スリーブが上」
見れば、たしかに真白は消しゴムの紙ケースを上下逆に持ったまま、何となく机の上に置いていた。
どうでもいい。
どうでもいいのだが、たしかに少しだけ変ではある。
「……ありがとう」
「ううん」
絵麻はにこっとして前を向く。
真白は消しゴムをそっと正しい向きに直した。
朝から地味に恥ずかしい。
いや、誰も気にしていないだろうけれど、自分が気になる。
視線を感じて横を見ると、ひかりが面白そうに口元を押さえていた。
「今日も一ノ瀬さん、ちょっと面白いね」
「何が」
「なんかこう、静かに挙動が雑」
「日本語としてひどい」
「でも伝わるでしょ?」
「伝わるのが嫌」
「それはごめん」
ひかりは謝っているのかいないのかよくわからない顔で笑う。
この子は本当に、軽いノリのくせに人の状態をよく見ている。
だから苦手だし、少しだけすごいとも思う。
「冬休み明けだからじゃない?」
と別の女子が言う。
「みんなちょっと変だし」
「たしかにー」
「朝も眠かったし」
その言葉に、真白は内心でかなり助けられた。
そうだ。
冬休み明け。
その便利ワードはまだ生きている。
多少の違和感は、だいたいそこへ押し込める。
しかし、それで安心しきれないのが今の二年A組だった。
◇
一時間目の前、プリントを配るために風間が教室へ入ってくる。
「前から回してください」
その一言で、紙束が前列から順に流れ始める。
真白のところにも回ってきたので受け取り、後ろへ渡そうとした。
その瞬間、ほぼ同じタイミングで、斜め前から澪が別の列のプリントを後ろへ回そうとしていたらしい。
真白と澪、二人の腕の動きが、妙なタイミングでシンクロした。
ただそれだけならいい。
問題は、そのあとだった。
お互い一瞬だけ「あ」と思って動きを止め、
止めたことで逆に中途半端な位置に紙束が浮き、
結果として後ろの席の子に「え、どっち?」という顔をさせたのである。
「……ごめん」
「いや、大丈夫」
短い。
短すぎる。
だがそれしか言えない。
真白はプリントを後ろへ渡し、前を向いた。
隣の列では澪も前を向いている。
何もなかった顔をしている。
しかし、木乃葉は机に伏せたままぼそっと言った。
「今の、ちょっと面白かった」
「何が」
「シンクロして固まるの」
「……してない」
「してた」
木乃葉の声は眠そうなのに、認識だけはやたら正確である。
「何かあったの、二人」
とひかりが、悪気のない笑顔で聞いてくる。
「別に」
と真白。
「何も」
と澪。
綺麗に被った。
やめてくれ。
真白は心の中で机に頭を打ちつけた。
何でこういうときだけ、息が合うのだ。
音の上だけでよかっただろう。
教室で会話を被せるな。怪しいだろう。
「うわ、息ぴったり」
ひかりが目を丸くする。
「怪しい」
絵麻が、のんびりした口調でとんでもないことを言う。
「怪しくない」
と真白。
「怪しくないって」
と澪。
また被った。
最悪だった。
一拍置いて、教室の何人かが小さく笑う。
あくまで「何かよくわからないけど微妙に噛み合ってて面白い」程度の笑いだ。
深刻な疑いではない。
でも真白にとっては十分すぎるほど心臓に悪い。
「二人とも今日ほんとにタイミング変だね」
さやかが委員長らしい苦労人の顔で言う。
「冬休み明けだから?」
「便利だね、それ」
木乃葉がまたぼそっと言う。
その“便利だね”という一言がやたら刺さる。
便利だが、いつまでも便利ではない。
このまま不自然さを積み重ねれば、そのうち誤魔化しきれなくなる。
真白はノートを開きながら、改めて心に誓った。
もっと自然にしろ。
自分。
あと朝倉さん。
いや相手にまで要求している場合ではない。まず自分からどうにかしろ。
◇
一時間目の授業が始まっても、教室の空気はどこか微妙にゆるかった。
始業式翌日というのはそういうものだ。
教師側も生徒側も、完全な平常運転にはまだ入っていない。
そんな中で真白は、普段より少しだけノートを取る手に集中していた。
余計なことを考えるな。
澪のことも、紅白のことも、クラスメイトの観察眼の鋭さも、今は全部脇へ置け。
数学は数学。
学校は学校。
そうやって数式を書き写していたとき、後ろの席から、紙に何か細かく書き込む音が聞こえた。
ちらりと視線を流すと、木乃葉がノートの端に何かを走り書きしている。
授業内容とはあまり関係なさそうな速度と密度だった。
たまにこういうことがある。
眠そうにしているくせに、急にものすごい勢いで何かを書き始めるのだ。
小説のネタでも降りてきているのでは、と冗談半分で思うことがある。
いや、それはそれでだいぶ変だが。
前の方では絵麻が黒板の図よりも明らかに綺麗な線で何かを描いていた。
美術の授業でもないのに、ノートの余白の落書きが異様に上手い。
教師に見られたら注意されるレベルなのに、なぜかそこだけはいつもぎりぎりでバレない。
斜め横では、音々が片耳だけイヤホンを外して授業を聞いている。
片耳は聞き、片耳は何か別の音を拾っているみたいな生活を、あの子はよく平然とやっている。
しかも教師に当てられると普通に答えるので、注意しづらい。
ひかりはひかりで、授業中なのに配られたプリントのデザインやレイアウトを見ているときだけ妙に真剣な顔をする。
何を見ているのだろう、とたまに不思議になる。
真白はそこまで考えてから、ふと気づいた。
――このクラス、やっぱり何か変では?
いや、前から変だとは思っていた。
でも最近、その“変”が少しずつ輪郭を持ち始めている気がする。
自分だけが秘密を抱えた異物だと思っていた頃は、周囲はもっと普通に見えていた。
けれど澪のことを知ってしまってから、他のクラスメイトたちの違和感まで妙に鮮明になってきたのだ。
眠そうすぎる木乃葉。
絵がうますぎる絵麻。
観察眼が鋭すぎるひかり。
耳が良すぎる音々。
そして、全部どこか知っていそうな風間。
なんだこの教室。
静かなのに、情報量だけが多い。
◇
二時間目と三時間目の間の休み時間、事件は音もなく起きた。
真白が席で水を飲んでいると、音々がいつの間にか横に立っていたのである。
いつの間にか、という表現が一番正しい。
あの子は移動音が薄い。
気づくとそこにいる。
「……何」
真白が思わず聞く。
「別に」
音々は真顔で言った。
「じゃあ何でいるの」
「一ノ瀬さん、昨日の紅白見た?」
「……見たけど」
「やっぱり」
その“やっぱり”は何だ。
真白の警戒レベルが一気に上がる。
「何が」
「ピアノのタッチ、好きそうだなって」
「……」
「真昼ましろの弾き方」
「……有名だから」
「うん、有名」
音々は相変わらず表情が薄い。
薄いのに、言葉の置き方だけが妙に刺さる。
「私、あの人の左手の使い方、好き」
「そう」
「うん。押しすぎないのに支えが消えない感じ」
「……詳しいね」
「音だから」
それはそうなのだが、説明としてはあまりにも簡潔すぎる。
音々はそれだけ言って、ふと教室の反対側を見た。
そこには澪がいて、クラスメイトと何か話している。
「朝倉さんも、なんか今日ちょっと変」
「……そう?」
「うん」
「みんなそれ言うね」
「だって変だもん」
さらっと言ってのけるあたり、音々は怖い。
「でも」
音々は少しだけ首を傾げた。
「二人とも、音は似てない」
「……は?」
「なんとなく」
「何の話」
「別に」
そう言って、音々は本当にそれ以上何も説明せず、すっと自分の席へ戻っていった。
残された真白は、しばらく動けなかった。
何だ今の。
音は似てない。
何の比較だ。
何を、どこまで、どう感じ取っている。
あの子の耳は時々本当に怖い。
「どうしたの?」
と絵麻が不思議そうに聞く。
「……何でもない」
「瀬川さん、たまに急に核心っぽいこと言うよね」
「やっぱりそう思う?」
「うん。私、ちょっとだけドキッとすることある」
「それは、わかる」
真白は珍しく本気で同意した。
◇
昼休み。
教室の空気はだいぶ普段通りになってきたが、真白の神経だけはまだ普段通りになれずにいた。
弁当を開きながらも、どこか落ち着かない。
澪の視線が気になるわけではない。
いや気になるが、それよりも周囲の観察の方が地味に怖い。
すると、向かい側の席にさやかが立った。
「ちょっといい?」
「何」
「今日の日誌、私と一ノ瀬さんだよね」
「あ」
「忘れてたでしょ」
「……少し」
「少しで済ませる顔じゃないんだけど」
さやかは呆れたようにため息をつく。
委員長気質の苦労人らしい顔だった。
「放課後、先に帰らないでね」
「わかった」
「あと」
「何」
「最近、うちのクラスちょっと変じゃない?」
「……どのへんが」
「静かなのに情報量が多い」
真白は、箸を持つ手を一瞬だけ止めた。
それ、自分もついさっき思ったやつだ。
「木乃葉さんは寝不足だし」
「うん」
「絵麻は妙に絵が上手すぎるし」
「うん」
「ひかりは人のこと見すぎだし」
「うん」
「瀬川さんは怖いし」
「それはわかる」
「朝倉は朝倉で最近ちょっと変だし」
「……」
「一ノ瀬さんも今日はだいぶ変」
「最後だけ直接的だね」
「委員長だから」
何の理屈だ。
だが、さやかの感覚はかなりまともだった。
このクラスは変だ。
たぶん本人たちも、全員どこかしら変だとわかっている。
それでも表面上は壊れない。
なぜならみんな、互いに踏み込みすぎないからだ。
もしかすると、それ自体がこのクラスの優しさなのかもしれない。
あるいは単に、全員が何かを抱えているから他人に突っ込みきれないだけかもしれないが。
「まあ、変でも回ってるならいいけど」
さやかは弁当袋を揺らしながら言った。
「変なまま平和って、一番扱いづらいんだよね」
「わかる」
「わかるんだ」
「……なんとなく」
真白がそう答えると、さやかは少しだけ目を細めた。
「一ノ瀬さん、最近ちょっと前より喋るね」
「そう?」
「うん。ほんの少しだけ」
「気のせい」
「それも便利ワードだね」
言われて、真白は少しだけ言葉に詰まる。
前より喋る。
それは自覚がなかった。
でも、もしかしたら本当にそうなのかもしれない。
澪と秘密を共有してしまったこと。
紅白という大きな非日常を経たこと。
そしてこのクラスが、思っていた以上に“何かを抱えた人間たちの集まり”かもしれないと感じ始めたこと。
そういう全部が、ほんの少しだけ、自分の中の硬さを変え始めているのだろうか。
◇
放課後、日誌を書くために真白は教室に少しだけ残った。
さやかが黒板を消し、真白が日誌の欄を埋める。
静かな教室には夕方の光が差し込んでいて、昼間のざわめきが嘘みたいに穏やかだった。
「ねえ」
さやかが黒板消しを持ったまま言う。
「何」
「朝倉と、なんかあった?」
「……なんで」
「いや、最近ちょっとだけ空気が変」
「気のせい」
「また便利ワード」
「便利だから」
「それ認めるんだ」
さやかは苦笑する。
「でも変な意味じゃなくてさ」
「……」
「前はもっと“お互い視界に入ってない”感じだったのに、今はちょっとだけ“視界に入りすぎてる”感じ」
「……何その観察」
「委員長だから」
「その設定万能だね」
「便利だから」
返しまでうまい。
真白は日誌を書き終え、ペンを置いた。
「別に、何もないよ」
「そっか」
「うん」
「まあ、何かあっても言わなくていいけど」
「……」
「ただ、変な雰囲気になったらクラス運営に関わるから」
「クラス運営」
「委員長ってそういう仕事」
真顔で言われると、ちょっと面白い。
真白はわずかに口元を緩めた。
たぶんほんの少しだけ。
さやかはそれを見て、何か言いかけてやめた。
その引き際がありがたかった。
みんな、勘はいい。
かなりいい。
でもその勘を、今のところ無遠慮には使わない。
だからこの教室は、まだ平和なのだ。
変で、静かで、情報量が多くて、地味に怖いけれど。
それでも壊れてはいない。
真白は日誌を閉じながら、今日一日のことを思い返した。
隠そうとすると怪しくなる。
普通にしようとすると被る。
クラスメイトは思った以上によく見ている。
そしてこの教室には、自分と澪以外にも、何かを隠している気配のする人間がいる。
やっぱり、おかしい。
「……うちのクラス、勘のいい女子が多すぎる」
真白がぽつりと呟くと、
「それはほんとにそう」
と、さやかが即答した。
妙に力強いその同意に、真白は少しだけ笑ってしまった。
たぶん、これからもっと面倒になる。
秘密は増えないのに、知ってしまうことは増えていく。
そのたびに教室の空気は少しずつ変わるのだろう。
でも。
それを少しだけ面白いと思ってしまった自分も、もう前の自分とは少し違うのかもしれなかった。
自分の中だけで完結している間は、隠し通すことも、平静を装うことも、そこまで難しくない。
問題は、その秘密に共有先ができたときである。
しかも共有先が、同じクラスにいる。
さらに、共有先もまた、同じ規模感の秘密を抱えている。
そうなると何が起きるか。
答えは簡単だ。
ちょっとしたことで、やたらと気まずい。
真白は朝の教室でノートを開きながら、そう痛感していた。
まだ一時間目も始まっていない。
なのに神経だけが無駄に疲れている。
理由は明白だった。
視界の右前方に、朝倉澪がいるからである。
たったそれだけ、と言えばたったそれだけだ。
同じクラスなのだから、そりゃいるだろう。
今さら何を言っているのかと自分でも思う。
でも仕方ない。
この数日で、朝倉澪という存在に対する認識が、真白の中であまりにも増えすぎた。
バスケ部主将。
学校ではまぶしい側の人。
でも同時にMIO。
本番に強い歌手。
顔の見えないステージの真ん中で、あの声だけで会場を持っていった人。
そんな情報を抱えたまま、同じ教室で普通のクラスメイトとして存在されると、思った以上に脳が処理に困る。
「一ノ瀬さん」
前の席から絵麻が振り返る。
「……何」
「消しゴム、逆」
「え」
「スリーブが上」
見れば、たしかに真白は消しゴムの紙ケースを上下逆に持ったまま、何となく机の上に置いていた。
どうでもいい。
どうでもいいのだが、たしかに少しだけ変ではある。
「……ありがとう」
「ううん」
絵麻はにこっとして前を向く。
真白は消しゴムをそっと正しい向きに直した。
朝から地味に恥ずかしい。
いや、誰も気にしていないだろうけれど、自分が気になる。
視線を感じて横を見ると、ひかりが面白そうに口元を押さえていた。
「今日も一ノ瀬さん、ちょっと面白いね」
「何が」
「なんかこう、静かに挙動が雑」
「日本語としてひどい」
「でも伝わるでしょ?」
「伝わるのが嫌」
「それはごめん」
ひかりは謝っているのかいないのかよくわからない顔で笑う。
この子は本当に、軽いノリのくせに人の状態をよく見ている。
だから苦手だし、少しだけすごいとも思う。
「冬休み明けだからじゃない?」
と別の女子が言う。
「みんなちょっと変だし」
「たしかにー」
「朝も眠かったし」
その言葉に、真白は内心でかなり助けられた。
そうだ。
冬休み明け。
その便利ワードはまだ生きている。
多少の違和感は、だいたいそこへ押し込める。
しかし、それで安心しきれないのが今の二年A組だった。
◇
一時間目の前、プリントを配るために風間が教室へ入ってくる。
「前から回してください」
その一言で、紙束が前列から順に流れ始める。
真白のところにも回ってきたので受け取り、後ろへ渡そうとした。
その瞬間、ほぼ同じタイミングで、斜め前から澪が別の列のプリントを後ろへ回そうとしていたらしい。
真白と澪、二人の腕の動きが、妙なタイミングでシンクロした。
ただそれだけならいい。
問題は、そのあとだった。
お互い一瞬だけ「あ」と思って動きを止め、
止めたことで逆に中途半端な位置に紙束が浮き、
結果として後ろの席の子に「え、どっち?」という顔をさせたのである。
「……ごめん」
「いや、大丈夫」
短い。
短すぎる。
だがそれしか言えない。
真白はプリントを後ろへ渡し、前を向いた。
隣の列では澪も前を向いている。
何もなかった顔をしている。
しかし、木乃葉は机に伏せたままぼそっと言った。
「今の、ちょっと面白かった」
「何が」
「シンクロして固まるの」
「……してない」
「してた」
木乃葉の声は眠そうなのに、認識だけはやたら正確である。
「何かあったの、二人」
とひかりが、悪気のない笑顔で聞いてくる。
「別に」
と真白。
「何も」
と澪。
綺麗に被った。
やめてくれ。
真白は心の中で机に頭を打ちつけた。
何でこういうときだけ、息が合うのだ。
音の上だけでよかっただろう。
教室で会話を被せるな。怪しいだろう。
「うわ、息ぴったり」
ひかりが目を丸くする。
「怪しい」
絵麻が、のんびりした口調でとんでもないことを言う。
「怪しくない」
と真白。
「怪しくないって」
と澪。
また被った。
最悪だった。
一拍置いて、教室の何人かが小さく笑う。
あくまで「何かよくわからないけど微妙に噛み合ってて面白い」程度の笑いだ。
深刻な疑いではない。
でも真白にとっては十分すぎるほど心臓に悪い。
「二人とも今日ほんとにタイミング変だね」
さやかが委員長らしい苦労人の顔で言う。
「冬休み明けだから?」
「便利だね、それ」
木乃葉がまたぼそっと言う。
その“便利だね”という一言がやたら刺さる。
便利だが、いつまでも便利ではない。
このまま不自然さを積み重ねれば、そのうち誤魔化しきれなくなる。
真白はノートを開きながら、改めて心に誓った。
もっと自然にしろ。
自分。
あと朝倉さん。
いや相手にまで要求している場合ではない。まず自分からどうにかしろ。
◇
一時間目の授業が始まっても、教室の空気はどこか微妙にゆるかった。
始業式翌日というのはそういうものだ。
教師側も生徒側も、完全な平常運転にはまだ入っていない。
そんな中で真白は、普段より少しだけノートを取る手に集中していた。
余計なことを考えるな。
澪のことも、紅白のことも、クラスメイトの観察眼の鋭さも、今は全部脇へ置け。
数学は数学。
学校は学校。
そうやって数式を書き写していたとき、後ろの席から、紙に何か細かく書き込む音が聞こえた。
ちらりと視線を流すと、木乃葉がノートの端に何かを走り書きしている。
授業内容とはあまり関係なさそうな速度と密度だった。
たまにこういうことがある。
眠そうにしているくせに、急にものすごい勢いで何かを書き始めるのだ。
小説のネタでも降りてきているのでは、と冗談半分で思うことがある。
いや、それはそれでだいぶ変だが。
前の方では絵麻が黒板の図よりも明らかに綺麗な線で何かを描いていた。
美術の授業でもないのに、ノートの余白の落書きが異様に上手い。
教師に見られたら注意されるレベルなのに、なぜかそこだけはいつもぎりぎりでバレない。
斜め横では、音々が片耳だけイヤホンを外して授業を聞いている。
片耳は聞き、片耳は何か別の音を拾っているみたいな生活を、あの子はよく平然とやっている。
しかも教師に当てられると普通に答えるので、注意しづらい。
ひかりはひかりで、授業中なのに配られたプリントのデザインやレイアウトを見ているときだけ妙に真剣な顔をする。
何を見ているのだろう、とたまに不思議になる。
真白はそこまで考えてから、ふと気づいた。
――このクラス、やっぱり何か変では?
いや、前から変だとは思っていた。
でも最近、その“変”が少しずつ輪郭を持ち始めている気がする。
自分だけが秘密を抱えた異物だと思っていた頃は、周囲はもっと普通に見えていた。
けれど澪のことを知ってしまってから、他のクラスメイトたちの違和感まで妙に鮮明になってきたのだ。
眠そうすぎる木乃葉。
絵がうますぎる絵麻。
観察眼が鋭すぎるひかり。
耳が良すぎる音々。
そして、全部どこか知っていそうな風間。
なんだこの教室。
静かなのに、情報量だけが多い。
◇
二時間目と三時間目の間の休み時間、事件は音もなく起きた。
真白が席で水を飲んでいると、音々がいつの間にか横に立っていたのである。
いつの間にか、という表現が一番正しい。
あの子は移動音が薄い。
気づくとそこにいる。
「……何」
真白が思わず聞く。
「別に」
音々は真顔で言った。
「じゃあ何でいるの」
「一ノ瀬さん、昨日の紅白見た?」
「……見たけど」
「やっぱり」
その“やっぱり”は何だ。
真白の警戒レベルが一気に上がる。
「何が」
「ピアノのタッチ、好きそうだなって」
「……」
「真昼ましろの弾き方」
「……有名だから」
「うん、有名」
音々は相変わらず表情が薄い。
薄いのに、言葉の置き方だけが妙に刺さる。
「私、あの人の左手の使い方、好き」
「そう」
「うん。押しすぎないのに支えが消えない感じ」
「……詳しいね」
「音だから」
それはそうなのだが、説明としてはあまりにも簡潔すぎる。
音々はそれだけ言って、ふと教室の反対側を見た。
そこには澪がいて、クラスメイトと何か話している。
「朝倉さんも、なんか今日ちょっと変」
「……そう?」
「うん」
「みんなそれ言うね」
「だって変だもん」
さらっと言ってのけるあたり、音々は怖い。
「でも」
音々は少しだけ首を傾げた。
「二人とも、音は似てない」
「……は?」
「なんとなく」
「何の話」
「別に」
そう言って、音々は本当にそれ以上何も説明せず、すっと自分の席へ戻っていった。
残された真白は、しばらく動けなかった。
何だ今の。
音は似てない。
何の比較だ。
何を、どこまで、どう感じ取っている。
あの子の耳は時々本当に怖い。
「どうしたの?」
と絵麻が不思議そうに聞く。
「……何でもない」
「瀬川さん、たまに急に核心っぽいこと言うよね」
「やっぱりそう思う?」
「うん。私、ちょっとだけドキッとすることある」
「それは、わかる」
真白は珍しく本気で同意した。
◇
昼休み。
教室の空気はだいぶ普段通りになってきたが、真白の神経だけはまだ普段通りになれずにいた。
弁当を開きながらも、どこか落ち着かない。
澪の視線が気になるわけではない。
いや気になるが、それよりも周囲の観察の方が地味に怖い。
すると、向かい側の席にさやかが立った。
「ちょっといい?」
「何」
「今日の日誌、私と一ノ瀬さんだよね」
「あ」
「忘れてたでしょ」
「……少し」
「少しで済ませる顔じゃないんだけど」
さやかは呆れたようにため息をつく。
委員長気質の苦労人らしい顔だった。
「放課後、先に帰らないでね」
「わかった」
「あと」
「何」
「最近、うちのクラスちょっと変じゃない?」
「……どのへんが」
「静かなのに情報量が多い」
真白は、箸を持つ手を一瞬だけ止めた。
それ、自分もついさっき思ったやつだ。
「木乃葉さんは寝不足だし」
「うん」
「絵麻は妙に絵が上手すぎるし」
「うん」
「ひかりは人のこと見すぎだし」
「うん」
「瀬川さんは怖いし」
「それはわかる」
「朝倉は朝倉で最近ちょっと変だし」
「……」
「一ノ瀬さんも今日はだいぶ変」
「最後だけ直接的だね」
「委員長だから」
何の理屈だ。
だが、さやかの感覚はかなりまともだった。
このクラスは変だ。
たぶん本人たちも、全員どこかしら変だとわかっている。
それでも表面上は壊れない。
なぜならみんな、互いに踏み込みすぎないからだ。
もしかすると、それ自体がこのクラスの優しさなのかもしれない。
あるいは単に、全員が何かを抱えているから他人に突っ込みきれないだけかもしれないが。
「まあ、変でも回ってるならいいけど」
さやかは弁当袋を揺らしながら言った。
「変なまま平和って、一番扱いづらいんだよね」
「わかる」
「わかるんだ」
「……なんとなく」
真白がそう答えると、さやかは少しだけ目を細めた。
「一ノ瀬さん、最近ちょっと前より喋るね」
「そう?」
「うん。ほんの少しだけ」
「気のせい」
「それも便利ワードだね」
言われて、真白は少しだけ言葉に詰まる。
前より喋る。
それは自覚がなかった。
でも、もしかしたら本当にそうなのかもしれない。
澪と秘密を共有してしまったこと。
紅白という大きな非日常を経たこと。
そしてこのクラスが、思っていた以上に“何かを抱えた人間たちの集まり”かもしれないと感じ始めたこと。
そういう全部が、ほんの少しだけ、自分の中の硬さを変え始めているのだろうか。
◇
放課後、日誌を書くために真白は教室に少しだけ残った。
さやかが黒板を消し、真白が日誌の欄を埋める。
静かな教室には夕方の光が差し込んでいて、昼間のざわめきが嘘みたいに穏やかだった。
「ねえ」
さやかが黒板消しを持ったまま言う。
「何」
「朝倉と、なんかあった?」
「……なんで」
「いや、最近ちょっとだけ空気が変」
「気のせい」
「また便利ワード」
「便利だから」
「それ認めるんだ」
さやかは苦笑する。
「でも変な意味じゃなくてさ」
「……」
「前はもっと“お互い視界に入ってない”感じだったのに、今はちょっとだけ“視界に入りすぎてる”感じ」
「……何その観察」
「委員長だから」
「その設定万能だね」
「便利だから」
返しまでうまい。
真白は日誌を書き終え、ペンを置いた。
「別に、何もないよ」
「そっか」
「うん」
「まあ、何かあっても言わなくていいけど」
「……」
「ただ、変な雰囲気になったらクラス運営に関わるから」
「クラス運営」
「委員長ってそういう仕事」
真顔で言われると、ちょっと面白い。
真白はわずかに口元を緩めた。
たぶんほんの少しだけ。
さやかはそれを見て、何か言いかけてやめた。
その引き際がありがたかった。
みんな、勘はいい。
かなりいい。
でもその勘を、今のところ無遠慮には使わない。
だからこの教室は、まだ平和なのだ。
変で、静かで、情報量が多くて、地味に怖いけれど。
それでも壊れてはいない。
真白は日誌を閉じながら、今日一日のことを思い返した。
隠そうとすると怪しくなる。
普通にしようとすると被る。
クラスメイトは思った以上によく見ている。
そしてこの教室には、自分と澪以外にも、何かを隠している気配のする人間がいる。
やっぱり、おかしい。
「……うちのクラス、勘のいい女子が多すぎる」
真白がぽつりと呟くと、
「それはほんとにそう」
と、さやかが即答した。
妙に力強いその同意に、真白は少しだけ笑ってしまった。
たぶん、これからもっと面倒になる。
秘密は増えないのに、知ってしまうことは増えていく。
そのたびに教室の空気は少しずつ変わるのだろう。
でも。
それを少しだけ面白いと思ってしまった自分も、もう前の自分とは少し違うのかもしれなかった。
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