『学校では誰にも知られずに卒業したい 〜うちのクラス、隠し事が多すぎる〜』

常陸之介寛浩📚️書籍・本能寺から始める

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第59話 少しだけ声を出しやすい教室は、たぶん居心地がいい

人が変わるとき、たいてい本人はあまり劇的な自覚を持たない。

 今日から別人です、みたいな朝は来ない。
 ある日突然、教室の真ん中で大声で笑えるようになるわけでもない。
 もっと小さい。
 もっと地味だ。

 昨日までなら言わなかったひとことを言う。
 借りるだけだったものを、返すついでにもう一言話す。
 座る時間が三十秒長くなる。
 そういう積み重ねの方が、ずっと本物に近い。

 真白は最近、その“地味な変化”を見るのが少しうまくなってきた気がしていた。

 そして今日、四時間目のあとに起きたことも、まさにそういう種類の変化だった。

     ◇

 チャイムが鳴って、教室が少しだけゆるむ。

 ひかりは机に突っ伏して「眠い」と言い、さやかは「次の移動教室、遅れないで」と現実を告げ、木乃葉はすでに伏しているので見た目があまり変わらない。
 絵麻はノートの端に、今度は誰かの手元らしきものを描いている。
 音々は静かだ。
 澪はペンを指で回していて、真白はその一連のいつもの空気をぼんやり見ていた。

 そのとき、A組のドアが少しだけ開いた。

 鳴海詩音だった。

 ここまではもう珍しくない。
 珍しくないのだが、今日は少し違った。

「長谷川さん、まだ――」
 と、鳴海はそこまで言いかけて、教室の中を見回し、
「……いないか」
 と自分で結論まで言ったのである。

「うわ」
 ひかりが言う。
「何その“うわ”」
 鳴海が少し笑う。
「いや、今日はちゃんと自分で最後まで言った」
「何それ」
 真白が言う。
「最近の鳴海さん、途中で止まらないときあるよね」
 絵麻がやわらかく言う。
「前は“長谷川さん、まだ……”で終わってた」
「……」
 鳴海は一瞬だけ黙り、それから少し照れたように言った。
「まあ、今日は言えるかなって」
「どこで」
 真白が聞く。
「A組で」
「……」

 その一言に、教室の空気が少しだけやわらかくなる。

 たぶん本人は、大したこととして言っていない。
 でも、真白にはそれがわかった。
 今のは、かなり大きい。

     ◇

「長谷川さんなら、購買」
 と絵麻。
「やっぱり」
 鳴海が言う。
「何その、“またか”みたいな顔」
 ひかりが笑う。
「だって最近、あの人の行方だいたい購買」
「学校っぽい」
 真白が言う。
「かなり」
 澪も頷いた。

 鳴海はドアのところで少し迷ったあと、またいつもの空席へ視線を向けた。

 そこへひかりがすぐ言う。

「座る?」
「……」
「何その、“もうそこまで言われる段階なんだ”みたいな顔」
 真白が言う。
「いや」
 鳴海は少しだけ苦笑した。
「最近、A組が私を座らせる気満々だなって」
「だって立たせとく理由ないし」
 さやかが真顔で言う。
「それは委員長として?」
 ひかりが聞く。
「教室の椅子が空いてるのに使わないのは非効率」
「急に設備管理みたいなこと言い出した」
 真白が言うと、教室に少し笑いが起きた。

 鳴海はその笑いの中で席に座る。

 もうその動きに、前みたいな“お邪魔します”のぎこちなさはあまりない。
 もちろん、完全に自分の席みたいな顔ではない。
 でも、“少し居る場所”としての自然さは、確実に増していた。

     ◇

「何待ち?」
 と真白。
「何その聞き方」
 鳴海が笑う。
「いや、最近だいたい何か待ってるじゃん」
「それはそう」
 絵麻が頷く。
「プリント、ホチキス、ノート、下書き、消しゴム」
 木乃葉が伏せたまま列挙した。
「全部覚えてるんだ」
 鳴海が言う。
「耳が暇だから」
「万能だな、それ」
 さやかが言う。

 鳴海は少しだけ鞄の中を見て、答えた。

「今日は、確認」
「何の?」
 ひかりが聞く。
「移動教室の教室番号」
「うわ」
 真白が言う。
「何その“うわ”」
「今日はまた一段と学校」
「たしかに」
 澪が笑う。
「外の顔ゼロ」
「でも一番ある」
 と音々が静かに言う。
「何が?」
 鳴海が聞く。
「学校の顔」
「……」
「今の瀬川さん、かなり好き」
 絵麻が言う。
「褒めてる?」
「かなり」

 真白は少しだけ思う。

 移動教室の番号確認。
 こんなにどうでもいい入口があるだろうか。
 でも、たぶんこういう小ささがいいのだ。

 大きな肩書きは教室の外に置いてきて、学校ではまず“次どこだっけ”を確認する。
 その平熱のやりとりがあるから、同級生でいられる。

     ◇

「B組って」
 ひかりが聞く。
「うん」
「移動教室の教室番号、毎回あやふやなの?」
「長谷川さんが、たまに自信満々に間違う」
 鳴海が言った。
 一拍置いて、A組に笑いが広がる。

「うわ、それわかる」
 真白が言う。
「わかるの?」
 鳴海が見る。
「いるでしょ、そういう人」
「いる」
 さやかが真顔で頷く。
「自信ある声で違う番号を言う人」
「で、みんな一回信じる」
 澪。
「そして違う」
 絵麻。
「そこまでセット」
 ひかりが笑う。

 鳴海も少しだけ肩を揺らして笑った。

 今の笑い方は、前より少しだけ自然だ。
 抑えている。
 でも、“笑っていい場所かどうか”を測り続けていたころより、明らかに力が抜けている。

 真白はそれに気づき、なんとなくうれしくなる。

「……鳴海さん」
「何?」
「今日、ちょっとだけ声出しやすそう」
「……」
 今度は、鳴海の方が少し止まった。
「何その顔」
 とひかり。
「いや」
 鳴海は少しだけ視線を伏せて、それから言った。
「それ、自分でもちょっと思ってた」
「……」
「うわ」
 絵麻が言う。
「何その“うわ”」
 鳴海が少し笑う。
「今のは、だいぶいいやつ」
 絵麻が言う。
「褒めてる?」
「かなり」
 と真白が返した。

 今の一言は、本当にそうだった。

 少しだけ声を出しやすい。
 少しだけ笑いやすい。
 少しだけ間を埋めなくてもいい。
 そういう小さな変化が積み重なると、たぶん“居場所”になる。

     ◇

「A組って」
 鳴海がぽつりと言う。
「何」
 真白が聞く。
「静かだから、逆に自分の声の大きさわかりやすい」
「……」
「何その、“なるほど”って顔」
 ひかりが言う。
「いや」
 真白は少しだけ考えながら答える。
「それ、たぶん大事な感覚だなって」
「大事?」
 鳴海が聞く。
「うん。うるさい場所だと、合わせるために自分も少し上げるしかないときあるでしょ」
「ある」
「でも静かだと、自分のちょうどいい音量を選びやすい」
「……」
「何その、急に分析が始まったみたいな空気」
 真白が言うと、
「今のはだいぶ分析」
 澪が笑った。
「でもかなりわかる」
「一ノ瀬さん、最近そういうの上手い」
 絵麻も言う。
「褒めてる?」
「かなり」

 鳴海は少しだけ目を細めて、静かに頷いた。

「うん。たぶん、それ」
「……」
「何その顔」
「いや」
 真白は少しだけ照れたように言う。
「そこまでぴったりくると、逆にびっくりする」
「私も」
 鳴海が言う。
「学校でそういうの言葉にされたことなかったから」
「うわ」
 ひかりが言う。
「何その“うわ”」
 鳴海。
「今の、ちょっと良かった」
「褒めてる?」
「かなり」

 もう最近、この教室はそういうやりとりでできている気がする。

     ◇

 そこへ、ようやく長谷川が戻ってきた。

「ごめん、また遅……」
 と言って、鳴海が普通に座っているのを見て止まる。
「さらに自然」
「その感想、毎回アップデート式なの」
 鳴海が呆れたように言う。
「だって本当にそう」
 長谷川が笑う。
「今日は何の用?」
 澪が聞く。
「移動教室の番号確認」
「うわ」
 と長谷川。
「何その“うわ”」
「今日はかなり学校」
「だからさっきからみんなそれ言う」
「でも実際そう」
 真白が言うと、
「かなり」
 絵麻も頷いた。

 長谷川は机に手をついて、鳴海へ言う。

「C棟三階」
「やっぱり」
「私の記憶、信用した?」
「半分くらい」
「便利だね」
「便利だから」
 鳴海が返すと、A組の数人がまた少し笑った。

 だめだ。
 もう鳴海の会話の中にも、この教室の曖昧な逃がし方が入り始めている。
 でも、それが嫌ではない。

「ねえ」
 絵麻が長谷川へ言う。
「何?」
「鳴海さん、前より喋るね」
「うん」
 長谷川があっさり頷く。
「A組だとね」
「……」
「何その、“それ知ってたんだ”みたいな顔」
 鳴海が言う。
「知ってたよ」
 長谷川が笑う。
「だってB組だと、もう少し音量低いし」
「……」
「何その身内の解像度」
 真白が言う。
「だいぶ友達なんだなって」
「友達だけど?」
 長谷川が言う。
「その言い方、ちょっと好き」
 絵麻が笑う。
「褒めてる?」
「かなり」

 真白はそこで、少しだけ思う。

 A組にはA組の守り方がある。
 でも、B組にはB組の近さがちゃんとある。
 長谷川と鳴海のあいだには、学校で積み上げた普通の友達の距離がある。

 そのうえで、今こうしてA組とも少しずつ行き来している。
 それはなんだか、思っていたよりずっと自然なことに見えた。

     ◇

 チャイムが鳴る直前、鳴海は立ち上がった。

「じゃあ、行く」
「うん」
 長谷川。
「次、間違えないでね」
 ひかりが笑う。
「C棟三階」
 鳴海。
「もう覚えた」
「えらい」
 さやか。
「褒めてる?」
「かなり」
「今日ほんと、かなりの流通量多いな」
 真白が言うと、
「いい日だから」
 絵麻が返した。

 鳴海はドアのところで少しだけ振り返る。

「一ノ瀬さん」
「何」
「さっきの」
「うん」
「“少しだけ声出しやすそう”ってやつ」
「……」
「わりと、うれしかった」
「……」
「何その顔」
「いや」
 真白は少しだけ息を吐いた。
「それは、よかった」
「褒めてる?」
「かなり」
 と真白が答えると、鳴海はほんの少しだけ笑って、今度こそB組へ戻っていった。

     ◇

 ドアが閉まったあと、教室にはまた少しだけやわらかい空気が残る。

「……」
「何その顔」
 澪が聞く。
「いや」
 真白は少しだけ窓の外を見てから言った。
「自分が少しずつ喋れるようになったときも、こんな感じだったのかなって」
「……」
「何その、“今のかなりいい”みたいな空気」
「今のはかなりいい」
 絵麻が言う。
「褒めてる?」
「かなり」
 澪も頷いた。
「わかる」

 そうなのかもしれない。
 小さいことから始まる。
 消しゴム。
 ノート。
 ホチキス。
 移動教室の番号。
 そのくらいの話題で、少しずつ声を出せるようになる。

 教室に馴染むって、たぶんそういうことなのだ。

「……少しずつって、いいね」
 真白がぽつりと言うと、
「うん」
 絵麻が笑う。
「その方がちゃんと自分のままでいられる」
「何その、急にいいこと」
 ひかりが言う。
「褒めてる?」
 絵麻。
「かなり」
 と、ひかり。

 また笑いが落ちる。

 A組とB組の距離は、たぶんこうして少しずつ縮まっていくのだろう。
 大きなきっかけではなく、移動教室の番号確認みたいな、どうでもいい学校の現実で。
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