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第1章「影姫、江戸に舞う」
第3話『密やかなる装束支度』
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夜の江戸城は、昼とはまるで別の顔を見せる。
闇に沈んだ長い廊下。灯りの消えた障子の奥には、静かに眠る者、あるいは目を開けたまま思案する者──それぞれが“何も起こらぬ夜”を装っている。
だが、その“虚ろな静けさ”を裂くように、一つの影が音もなく歩いていた。
千代姫。
身にまとうのは、紅の小袖ではなく、濃紺の襦袢と黒羽織。
薄布で髪を包み、足音が響かぬよう足袋の裏には布を重ねて縫ってある。
その姿は、もはや“姫”ではなかった。
──影姫。
民のため、闇に紛れ、悪を討つ。
名乗らず、語らず、ただ“義”を信じて動く者。
それが彼女の、もう一つの名。
「帯は、しっかり締めました。小太刀も、背に二本……。針は、帯の裏に隠してあります」
侍女・お里が低く声をかける。
彼女もまた、黒染めの装束に身を包み、影姫の支度役として常に寄り添っていた。
「お里。簪を取って。……今日は、髪を結い直すわ」
「はい」
音もなく、髪を解かれ、結び直す。
ひとつに束ねた長い黒髪が、凛とした緊張感をまとう。
「深川へ向かいますか?」
「ええ。昨夜の辻斬り──放っておけないわ」
「……危のうございます。あの者、ただの通り魔ではない。おそらくは、手練れ」
「だからこそ、行く意味がある」
千代姫の瞳は、迷いなく前を向いていた。
「“誰も行かぬなら、私が行く”──その覚悟を、私は選んだのよ。あの日から」
あの日。
幼い頃、城外で見かけた一人の町娘が、役人に踏みつけられていた。
その場にいた誰もが目を背け、ただ通り過ぎた。
政の器となる者ならば、それも“仕方ないこと”として忘れるのだろう。
だが、千代姫は忘れなかった。
民の声なき悲鳴は、香の奥よりも鮮烈に、心の中に残る。
あの時から、自分の中の何かが決まっていた。
「参りましょう。姫様──いえ、“影姫様”」
お里が手にするのは、ひときわ古びた燭台。
だがその台座を裏返し、畳の隙間に差し込むと──カチリ、と微かな音が響く。
床板の一枚が、音もなく持ち上がった。
そこにあるのは、誰も知らぬ地下の抜け道。
春日局が生前、何かあった時のためにと残した“影の通路”。
世に出てはならぬ将軍家の者が、秘密裏に城を抜けるための道。
「この道がある限り、私は“この城の中”だけの娘ではないわ」
千代姫は、懐から小さな灯籠を取り出し、足元を照らした。
土壁の中、かすかに湿った空気。苔と石の匂いが鼻をくすぐる。
お里と二人、肩をすぼめながら通るほどの細道を、ひたすら真っ直ぐに進んでいく。
途中、小さな井戸をくぐり、くの字に折れた石の階段を下りる。
やがて、頭上にかすかな明かりが差し込み始めた。
出口。
千代姫が押し上げると、重い蓋が開き、草むらの中に身を躍らせる。
そこは、城の外れ、樹木に囲まれた古い屋敷の裏庭だった。
「……風が冷たいわね」
千代姫は羽織の袖を正すと、空を見上げた。
星ひとつない夜空。
それでも、闇に目を凝らせば、確かに“江戸の光”が彼方に浮かんでいる。
「深川までは、裏道を使ってまいりましょう。町人も、今宵は早く戸を閉じているはずです」
「九兵衛が先に潜ってくれているはず。……あの男、口は悪いけれど仕事は確かよ」
「ええ。あれで“元盗賊”とは思えない忠義ぶりでございます」
千代姫は、小さく笑う。
「人は、変われるのよ。正しい場所さえあれば」
闇に溶けるように、姫は歩き出す。
黒い羽織が風に舞い、草履の音を立てずに、町の影へと消えていった。
──今宵もまた、江戸の闇に“影姫”が舞い降りる。
闇に沈んだ長い廊下。灯りの消えた障子の奥には、静かに眠る者、あるいは目を開けたまま思案する者──それぞれが“何も起こらぬ夜”を装っている。
だが、その“虚ろな静けさ”を裂くように、一つの影が音もなく歩いていた。
千代姫。
身にまとうのは、紅の小袖ではなく、濃紺の襦袢と黒羽織。
薄布で髪を包み、足音が響かぬよう足袋の裏には布を重ねて縫ってある。
その姿は、もはや“姫”ではなかった。
──影姫。
民のため、闇に紛れ、悪を討つ。
名乗らず、語らず、ただ“義”を信じて動く者。
それが彼女の、もう一つの名。
「帯は、しっかり締めました。小太刀も、背に二本……。針は、帯の裏に隠してあります」
侍女・お里が低く声をかける。
彼女もまた、黒染めの装束に身を包み、影姫の支度役として常に寄り添っていた。
「お里。簪を取って。……今日は、髪を結い直すわ」
「はい」
音もなく、髪を解かれ、結び直す。
ひとつに束ねた長い黒髪が、凛とした緊張感をまとう。
「深川へ向かいますか?」
「ええ。昨夜の辻斬り──放っておけないわ」
「……危のうございます。あの者、ただの通り魔ではない。おそらくは、手練れ」
「だからこそ、行く意味がある」
千代姫の瞳は、迷いなく前を向いていた。
「“誰も行かぬなら、私が行く”──その覚悟を、私は選んだのよ。あの日から」
あの日。
幼い頃、城外で見かけた一人の町娘が、役人に踏みつけられていた。
その場にいた誰もが目を背け、ただ通り過ぎた。
政の器となる者ならば、それも“仕方ないこと”として忘れるのだろう。
だが、千代姫は忘れなかった。
民の声なき悲鳴は、香の奥よりも鮮烈に、心の中に残る。
あの時から、自分の中の何かが決まっていた。
「参りましょう。姫様──いえ、“影姫様”」
お里が手にするのは、ひときわ古びた燭台。
だがその台座を裏返し、畳の隙間に差し込むと──カチリ、と微かな音が響く。
床板の一枚が、音もなく持ち上がった。
そこにあるのは、誰も知らぬ地下の抜け道。
春日局が生前、何かあった時のためにと残した“影の通路”。
世に出てはならぬ将軍家の者が、秘密裏に城を抜けるための道。
「この道がある限り、私は“この城の中”だけの娘ではないわ」
千代姫は、懐から小さな灯籠を取り出し、足元を照らした。
土壁の中、かすかに湿った空気。苔と石の匂いが鼻をくすぐる。
お里と二人、肩をすぼめながら通るほどの細道を、ひたすら真っ直ぐに進んでいく。
途中、小さな井戸をくぐり、くの字に折れた石の階段を下りる。
やがて、頭上にかすかな明かりが差し込み始めた。
出口。
千代姫が押し上げると、重い蓋が開き、草むらの中に身を躍らせる。
そこは、城の外れ、樹木に囲まれた古い屋敷の裏庭だった。
「……風が冷たいわね」
千代姫は羽織の袖を正すと、空を見上げた。
星ひとつない夜空。
それでも、闇に目を凝らせば、確かに“江戸の光”が彼方に浮かんでいる。
「深川までは、裏道を使ってまいりましょう。町人も、今宵は早く戸を閉じているはずです」
「九兵衛が先に潜ってくれているはず。……あの男、口は悪いけれど仕事は確かよ」
「ええ。あれで“元盗賊”とは思えない忠義ぶりでございます」
千代姫は、小さく笑う。
「人は、変われるのよ。正しい場所さえあれば」
闇に溶けるように、姫は歩き出す。
黒い羽織が風に舞い、草履の音を立てずに、町の影へと消えていった。
──今宵もまた、江戸の闇に“影姫”が舞い降りる。
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