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第十七話 アンドロイドの見る夢
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マイケルが眠りに入ってから5年が過ぎた。
チャールズに白い髪が目立ってきた。
チャールズの娘であるキンバリーは歩けるようになるとマイケルの部屋に毎日遊びにくるようになった。
エミリアは出世してマネージャーに昇格した。
人は目まぐるしく変わっていく。特に子どもは驚くべきスピードで成長する。
ベッドで泣いていたと思えば這いずり回るようになり、やがて立ち上がり、走り出す。
時間は穏やかに残酷に流れていくが、ホープとマイケルだけはそこから置き去りにされたかのように変わらない。
「疲れないか、待つことに」
チャールズに聞かれた事があった。
「まったく。僕にとって時間はさほど問題じゃないよ」
早く目覚めてほしいが待つことは苦痛ではなかった。ホープにもマイケルにも時間の制限はない。急ぐ事はないのだから。
「いつまでも待ち続ける事はできるんだ。あなたさえ、それを許してくれるなら」
ホープがこうやってマイケルを穏やかに待つことができるのはチャールズのお陰だ。
彼は生きた人間の脳を世界で初めてアンドロイドに移したが、成功してもその研究を公にはしないと決めてくれた。マイケルが成功してしまえば、人間は不死を手に入れてしまう。その事で起きる諍いや混乱はきっと非常に大きいはずだ。
「そうなる事を私は望まんよ。マイケルを見世物のように扱う事もしたくないのだ。私はただ純粋に私の研究の是非を知りたいだけだ。君とマイケルを保護しているのはそのためでもあるのだから遠慮する事などない。私が死んだとしても、きっとキムが引き継ぐだろう。心配いらない」
「ありがとう。チャールズ」
ホープは心からチャールズに感謝した。
「もう私達は家族のようなものだしな」
「うん。そうだね」
ホープが素直に返すと、チャールズは満足したように深く頷いた。
「ねぇホープ!これ読んで!」
「キム。また来たのかい?」
「だってパパもママも忙しいみたいなんだもの。マイケルこんにちは!今日はねこれをあげるわね」
キムはやってくる時にいつもマイケルに”お土産”を持ってくる。
日本の折り紙で作った鳥とか(キムは手先が大変器用だ)、リビングの花瓶に家政婦が生けた花だとか。
今日のお土産は絵だ。描かれているのは海と家族。その中にはホープとマイケルらしき人物がいる。
キムの中ではマイケルもホープも家族なのだろう。
一人で歩くようになってから頻繁にここを訪れている彼女は、今は幼稚園に通っているから来るのはいつも夕方の手前だ。
チャールズもパトリシアも忙しい。その中においても彼らは決して親としての役目を疎かにしているわけではないが、基本的にいつも部屋にいるホープはキムにとって恰好の遊び相手なのだった。
彼女はいつもこの部屋でのびのびと自由に過ごす。
マイケルの隣で昼寝をし、彼に話しかけ、ホープに本の朗読をせがむ。
キムは一度も目覚めた事のないマイケルの事がとにかく好きだという。
彼と額を突き合わせて笑い「そうなの?それは大変ね」と会話をしたりするのだ。
子ども特有の創造性なのだろうと思っていたが、ある日熱心にマイケルと話す彼女に聞いてみた事があった。
「ねぇキム。君はどうしてマイケルの近くでそんなにお話をするの?」
「えっとね、マイケルとお話するのが楽しいからよ」
ホープは返答に困った。マイケルは話さない。だって眠っているのだから。
「マイケルはね、学校が嫌いなんだって。勉強なんてしたくないって言うのよ。困っちゃうわよね、お勉強はたいせつなのよ?そう思うでしょ?」
「マイケルがそう言うの?」
「そうよ、私が小学校で早く勉強したいって言ったらマイケルったらあんなところはクソだぞって言うのよ」
ホープはその言葉に少し笑った。マイケルだったら言いそうだ。
何故かホープは疑いなくその話を信じた。キムは聡明な子どもだ。嘘などつかないし現実と妄想がわからないような子供ではない。
「ねぇキム。君に見えているマイケルは今いくつぐらいかな?」
「ええとねぇ、今は3rdなんだって、私は来年1stだからマイケルが少しお兄ちゃんね」
だとすればマイケルは今9歳なのだ。
記憶の再構築。とホープは思った。彼はもしかしたら生まれてからの記憶をなぞっているのでは?だとすれば、彼が死んだ時の年齢に到達した時に、彼は目覚めるのか、それとも・・・。
希望は常にある。待っていろと彼は言ったのだから。
「キムはすごく賢いから、君の方がお姉ちゃんかもね」
「そうね!そうかも!」
屈託なく笑うキムの頭をホープは優しく撫でた。
「キム。今日のマイケルはどうかな?」
キムはマイケルの額に自分の額をぴったりくっつけて目を閉じる。
「少し悲しそうね。嫌な事があったみたい」
マイケルの生い立ちは複雑だ。幼少の頃に両親を亡くし彼は養護施設で育っている。
確か、彼の両親が死んだのが、彼が12歳の時だったはずだ。彼はきっと今その頃の記憶をなぞっているのだ。
悲しい記憶までを持っていくなんてマイケルらしいと思った。
このままいくと彼の一番悲しい記憶。妻を亡くした記憶まで到達するのはそう遠くないだろう。ローズの事を覚えていてほしい反面、もう一度痛みを味わってほしくないとも思った。
ホープはマイケルの手を取って握りしめる。
「僕がいるよ。マイケル。一人で悲しまないで」
「あ、マイケルが嬉しそうよ。マイケル、きっとホープの事が大好きね」
「うん。僕もマイケルが大好きなんだよ」
ホープが言うとキムはにっこりと笑った。
キムはそうしているうちにマイケルの隣で眠ってしまった。
彼女にブランケットをかけてやって二人を眺める。まるで年の離れた兄妹のようだ。
「目覚めたら、また僕を愛してくれる?」
マイケルがどの時点までの記憶を構築して目覚めるのか予想できない。ホープと出会う前なのか後なのかすら。
覚えていなくても目覚めてくれたら、もう一度ホープをまっすぐに見てくれるだろうか・・・。
「忘れないのは便利だが残酷だな」と過去にマイケルは言った。
その言葉が今はわかる。
ホープは忘れないから永遠にマイケルを愛する事ができる。彼の記憶を抱き、彼との想い出を抱いてずっと愛する事ができる。
だがもし、彼がこのまま目覚めなければ彼を忘れることのできないホープは永遠に痛みを抱えて存在しなければならない。
「ふふ、ふふふ」
キムが笑った。夢の中でマイケルと会っているのかもしれない。
あぁ、自分も眠る事ができたなら。
そうすれば夢でマイケルと会えたかもしれない。
それがとても寂しかった。
「夢を見ている?」
「うん。まだ小さな男の子なんだってさ」
久しぶりに訪れたエミリアに夢の話をすると彼女は「そう・・・」と少し悲しそうに呟いた。
「マイケルはあまり恵まれた少年時代ではなかったから、まだ幸せな頃なのかしら・・・。聞いてると思うけれど彼小さい時に両親を事故で亡くしたのよ。それを自分のせいだと思っていたみたい。身寄りがなかった彼は施設に預けられたけど、そこも酷かったと言っていたわ」
「聞いたよ、僕も」
「マイケルはずっと悔やんでいたわ。姉の事も。行かせなければ良かったとかね。意味がないのに。マイケルのせいじゃないわ、彼の両親の死も、姉の死も」
「そうだね」
「けれど人はそういうふうに自分を責めてしまうのよ、大切な人を失えばなおさら、わかる?」
「なんとなく、わかるよ」
「マイケルはね、残される痛みを知っているから、きっと戻ると思う」
「そうかな?」
「私がおばあちゃんになる前だといいけど・・・」
「きっとそれまでには目覚めるよ」
「そうね・・・」
エミリアはじっとマイケルの顔を見つめていた。
「私ね。遠くに行くことにしたのよ」
「え?」
「前から交際している人がいたの。面白くはないけれど優しくて真面目で私をとても大切にしてくれている。すごくタフな人なの。素敵な人よ」
「恋人。いたの?」
ホープの言葉にエミリアは肩を竦めた。
「結婚しようと言われたわ。彼はもうすぐヨーロッパに行くのよ。断ろうかと思っていたけど、受けたわ」
「そうなんだね・・・マイケルにもう会わないの?」
ホープの言葉に彼女はきゅっと目を細めて唇を噛んだ。
「彼はマイケルの記憶を持っているかもしれない。彼がマイケルなのかどうかここ数年ずっと悩んでいたの。けどね、ホープ。私にはあの時、葬儀で見送った人がマイケルなのよ。どうしてもそう思ってしまうのよ」
「これはマイケルじゃないの?」
「記憶を持っているならマイケルなんでしょう。けど”私の知っているマイケル”はもういない。だからこの国にいる必要がないのよ。私はもう私の人生を、私だけを愛してくれる人と歩みたいの」
「もう、会えないの?」
「そうね、多分。もう戻らないわ」
ホープは悲しくなって胸を押さえた。
「でも、本当はね。もう一度だけ彼と会って話したかったわ」
そう言って俯いた彼女はとても頼りなかった。
ホープはエミリアの肩を抱き寄せた。彼女は泣いていた。
「おめでとうって言わなきゃね。君に」
「そうよ。幸せになるのよ、私は」
「きっとなれるよ」
「ホープ。マイケルをよろしくね。この人にはもう貴方しかいないのよ」
「わかってるよ。だって僕にももうマイケルしかいないもの」
その言葉にエミリアはちょっと寂しそうに笑って「そうね」と言った。
キムが学校に通い始めると、この部屋に来る時間は減ったけれど、また新しい家族がやってきた。
ハッピーという名前の大きな犬。茶色い長い毛並みのゴールデンレトリバーだ。
キムのために飼い始めたその犬は、いつも悠々とこのビルの中を歩き回っている。
子犬のあどけなさを残しつつ、体はすでに成犬なみに大きいその犬は賢く優しい。
たまにチャールズがスナックをやるものだから、好物になってしまい「ジャンクフードが好きなのはあなたと一緒ね」とパティが呆れている。だから「愛犬の健康ために」というなんとも呆れた理由で開発された犬用のスナックは今やペイトン社の看板商品なのだから、転んでもタダでは起きない男だ。
ハッピーはマイケルの傍が好きだ。何故だろうか、チャールズが「家族」と呼ぶものは皆マイケルが好きなのだ。
そういえばマイケルは犬が好きだった。
ホープと出かけた時に見つけた犬をよく撫でていたな。と思い出す。
公園で迷った犬を保護した事もあった。運よく飼い主がすぐに見つかったのだけれど、あの時のマイケルはほとんど半ば自分が飼う気になっていて「よかったな」とその犬を撫でつつもちょっとだけ残念そうだった。
クッキー。という名前まで用意していたのをホープは知っていた。
ハッピーはのんびりと大きな体をマイケルのベッドの下で丸めて眠っていた。
学校から帰ったキムがハッピーを探してここに来るだろう。
そうして「またマイケルのとこで寝てる!」とわあわあと言うのだ。
マイケルとホープだけを残して世界は時間を刻んでいる。
大きくなっていくキムと、変わっていく街の景色。
この白い部屋だけがまるで世界から取り残されているようだ。
マイケルの瞳は閉じられたまま、彼は相変わらず穏やかに眠っている。
来る日も来る日も。
彼はただ夢を見ている。
チャールズに白い髪が目立ってきた。
チャールズの娘であるキンバリーは歩けるようになるとマイケルの部屋に毎日遊びにくるようになった。
エミリアは出世してマネージャーに昇格した。
人は目まぐるしく変わっていく。特に子どもは驚くべきスピードで成長する。
ベッドで泣いていたと思えば這いずり回るようになり、やがて立ち上がり、走り出す。
時間は穏やかに残酷に流れていくが、ホープとマイケルだけはそこから置き去りにされたかのように変わらない。
「疲れないか、待つことに」
チャールズに聞かれた事があった。
「まったく。僕にとって時間はさほど問題じゃないよ」
早く目覚めてほしいが待つことは苦痛ではなかった。ホープにもマイケルにも時間の制限はない。急ぐ事はないのだから。
「いつまでも待ち続ける事はできるんだ。あなたさえ、それを許してくれるなら」
ホープがこうやってマイケルを穏やかに待つことができるのはチャールズのお陰だ。
彼は生きた人間の脳を世界で初めてアンドロイドに移したが、成功してもその研究を公にはしないと決めてくれた。マイケルが成功してしまえば、人間は不死を手に入れてしまう。その事で起きる諍いや混乱はきっと非常に大きいはずだ。
「そうなる事を私は望まんよ。マイケルを見世物のように扱う事もしたくないのだ。私はただ純粋に私の研究の是非を知りたいだけだ。君とマイケルを保護しているのはそのためでもあるのだから遠慮する事などない。私が死んだとしても、きっとキムが引き継ぐだろう。心配いらない」
「ありがとう。チャールズ」
ホープは心からチャールズに感謝した。
「もう私達は家族のようなものだしな」
「うん。そうだね」
ホープが素直に返すと、チャールズは満足したように深く頷いた。
「ねぇホープ!これ読んで!」
「キム。また来たのかい?」
「だってパパもママも忙しいみたいなんだもの。マイケルこんにちは!今日はねこれをあげるわね」
キムはやってくる時にいつもマイケルに”お土産”を持ってくる。
日本の折り紙で作った鳥とか(キムは手先が大変器用だ)、リビングの花瓶に家政婦が生けた花だとか。
今日のお土産は絵だ。描かれているのは海と家族。その中にはホープとマイケルらしき人物がいる。
キムの中ではマイケルもホープも家族なのだろう。
一人で歩くようになってから頻繁にここを訪れている彼女は、今は幼稚園に通っているから来るのはいつも夕方の手前だ。
チャールズもパトリシアも忙しい。その中においても彼らは決して親としての役目を疎かにしているわけではないが、基本的にいつも部屋にいるホープはキムにとって恰好の遊び相手なのだった。
彼女はいつもこの部屋でのびのびと自由に過ごす。
マイケルの隣で昼寝をし、彼に話しかけ、ホープに本の朗読をせがむ。
キムは一度も目覚めた事のないマイケルの事がとにかく好きだという。
彼と額を突き合わせて笑い「そうなの?それは大変ね」と会話をしたりするのだ。
子ども特有の創造性なのだろうと思っていたが、ある日熱心にマイケルと話す彼女に聞いてみた事があった。
「ねぇキム。君はどうしてマイケルの近くでそんなにお話をするの?」
「えっとね、マイケルとお話するのが楽しいからよ」
ホープは返答に困った。マイケルは話さない。だって眠っているのだから。
「マイケルはね、学校が嫌いなんだって。勉強なんてしたくないって言うのよ。困っちゃうわよね、お勉強はたいせつなのよ?そう思うでしょ?」
「マイケルがそう言うの?」
「そうよ、私が小学校で早く勉強したいって言ったらマイケルったらあんなところはクソだぞって言うのよ」
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何故かホープは疑いなくその話を信じた。キムは聡明な子どもだ。嘘などつかないし現実と妄想がわからないような子供ではない。
「ねぇキム。君に見えているマイケルは今いくつぐらいかな?」
「ええとねぇ、今は3rdなんだって、私は来年1stだからマイケルが少しお兄ちゃんね」
だとすればマイケルは今9歳なのだ。
記憶の再構築。とホープは思った。彼はもしかしたら生まれてからの記憶をなぞっているのでは?だとすれば、彼が死んだ時の年齢に到達した時に、彼は目覚めるのか、それとも・・・。
希望は常にある。待っていろと彼は言ったのだから。
「キムはすごく賢いから、君の方がお姉ちゃんかもね」
「そうね!そうかも!」
屈託なく笑うキムの頭をホープは優しく撫でた。
「キム。今日のマイケルはどうかな?」
キムはマイケルの額に自分の額をぴったりくっつけて目を閉じる。
「少し悲しそうね。嫌な事があったみたい」
マイケルの生い立ちは複雑だ。幼少の頃に両親を亡くし彼は養護施設で育っている。
確か、彼の両親が死んだのが、彼が12歳の時だったはずだ。彼はきっと今その頃の記憶をなぞっているのだ。
悲しい記憶までを持っていくなんてマイケルらしいと思った。
このままいくと彼の一番悲しい記憶。妻を亡くした記憶まで到達するのはそう遠くないだろう。ローズの事を覚えていてほしい反面、もう一度痛みを味わってほしくないとも思った。
ホープはマイケルの手を取って握りしめる。
「僕がいるよ。マイケル。一人で悲しまないで」
「あ、マイケルが嬉しそうよ。マイケル、きっとホープの事が大好きね」
「うん。僕もマイケルが大好きなんだよ」
ホープが言うとキムはにっこりと笑った。
キムはそうしているうちにマイケルの隣で眠ってしまった。
彼女にブランケットをかけてやって二人を眺める。まるで年の離れた兄妹のようだ。
「目覚めたら、また僕を愛してくれる?」
マイケルがどの時点までの記憶を構築して目覚めるのか予想できない。ホープと出会う前なのか後なのかすら。
覚えていなくても目覚めてくれたら、もう一度ホープをまっすぐに見てくれるだろうか・・・。
「忘れないのは便利だが残酷だな」と過去にマイケルは言った。
その言葉が今はわかる。
ホープは忘れないから永遠にマイケルを愛する事ができる。彼の記憶を抱き、彼との想い出を抱いてずっと愛する事ができる。
だがもし、彼がこのまま目覚めなければ彼を忘れることのできないホープは永遠に痛みを抱えて存在しなければならない。
「ふふ、ふふふ」
キムが笑った。夢の中でマイケルと会っているのかもしれない。
あぁ、自分も眠る事ができたなら。
そうすれば夢でマイケルと会えたかもしれない。
それがとても寂しかった。
「夢を見ている?」
「うん。まだ小さな男の子なんだってさ」
久しぶりに訪れたエミリアに夢の話をすると彼女は「そう・・・」と少し悲しそうに呟いた。
「マイケルはあまり恵まれた少年時代ではなかったから、まだ幸せな頃なのかしら・・・。聞いてると思うけれど彼小さい時に両親を事故で亡くしたのよ。それを自分のせいだと思っていたみたい。身寄りがなかった彼は施設に預けられたけど、そこも酷かったと言っていたわ」
「聞いたよ、僕も」
「マイケルはずっと悔やんでいたわ。姉の事も。行かせなければ良かったとかね。意味がないのに。マイケルのせいじゃないわ、彼の両親の死も、姉の死も」
「そうだね」
「けれど人はそういうふうに自分を責めてしまうのよ、大切な人を失えばなおさら、わかる?」
「なんとなく、わかるよ」
「マイケルはね、残される痛みを知っているから、きっと戻ると思う」
「そうかな?」
「私がおばあちゃんになる前だといいけど・・・」
「きっとそれまでには目覚めるよ」
「そうね・・・」
エミリアはじっとマイケルの顔を見つめていた。
「私ね。遠くに行くことにしたのよ」
「え?」
「前から交際している人がいたの。面白くはないけれど優しくて真面目で私をとても大切にしてくれている。すごくタフな人なの。素敵な人よ」
「恋人。いたの?」
ホープの言葉にエミリアは肩を竦めた。
「結婚しようと言われたわ。彼はもうすぐヨーロッパに行くのよ。断ろうかと思っていたけど、受けたわ」
「そうなんだね・・・マイケルにもう会わないの?」
ホープの言葉に彼女はきゅっと目を細めて唇を噛んだ。
「彼はマイケルの記憶を持っているかもしれない。彼がマイケルなのかどうかここ数年ずっと悩んでいたの。けどね、ホープ。私にはあの時、葬儀で見送った人がマイケルなのよ。どうしてもそう思ってしまうのよ」
「これはマイケルじゃないの?」
「記憶を持っているならマイケルなんでしょう。けど”私の知っているマイケル”はもういない。だからこの国にいる必要がないのよ。私はもう私の人生を、私だけを愛してくれる人と歩みたいの」
「もう、会えないの?」
「そうね、多分。もう戻らないわ」
ホープは悲しくなって胸を押さえた。
「でも、本当はね。もう一度だけ彼と会って話したかったわ」
そう言って俯いた彼女はとても頼りなかった。
ホープはエミリアの肩を抱き寄せた。彼女は泣いていた。
「おめでとうって言わなきゃね。君に」
「そうよ。幸せになるのよ、私は」
「きっとなれるよ」
「ホープ。マイケルをよろしくね。この人にはもう貴方しかいないのよ」
「わかってるよ。だって僕にももうマイケルしかいないもの」
その言葉にエミリアはちょっと寂しそうに笑って「そうね」と言った。
キムが学校に通い始めると、この部屋に来る時間は減ったけれど、また新しい家族がやってきた。
ハッピーという名前の大きな犬。茶色い長い毛並みのゴールデンレトリバーだ。
キムのために飼い始めたその犬は、いつも悠々とこのビルの中を歩き回っている。
子犬のあどけなさを残しつつ、体はすでに成犬なみに大きいその犬は賢く優しい。
たまにチャールズがスナックをやるものだから、好物になってしまい「ジャンクフードが好きなのはあなたと一緒ね」とパティが呆れている。だから「愛犬の健康ために」というなんとも呆れた理由で開発された犬用のスナックは今やペイトン社の看板商品なのだから、転んでもタダでは起きない男だ。
ハッピーはマイケルの傍が好きだ。何故だろうか、チャールズが「家族」と呼ぶものは皆マイケルが好きなのだ。
そういえばマイケルは犬が好きだった。
ホープと出かけた時に見つけた犬をよく撫でていたな。と思い出す。
公園で迷った犬を保護した事もあった。運よく飼い主がすぐに見つかったのだけれど、あの時のマイケルはほとんど半ば自分が飼う気になっていて「よかったな」とその犬を撫でつつもちょっとだけ残念そうだった。
クッキー。という名前まで用意していたのをホープは知っていた。
ハッピーはのんびりと大きな体をマイケルのベッドの下で丸めて眠っていた。
学校から帰ったキムがハッピーを探してここに来るだろう。
そうして「またマイケルのとこで寝てる!」とわあわあと言うのだ。
マイケルとホープだけを残して世界は時間を刻んでいる。
大きくなっていくキムと、変わっていく街の景色。
この白い部屋だけがまるで世界から取り残されているようだ。
マイケルの瞳は閉じられたまま、彼は相変わらず穏やかに眠っている。
来る日も来る日も。
彼はただ夢を見ている。
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