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3.ステラの喪失
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驚きで思わず身を引いたアルマを、ベスは真剣さと必死さがないまぜになった表情で見つめている。
「逃げるって、どこに……」
「どこでも良い。とにかく、アルフォンライン領から出て、領主の手が届かないところに行くんさね」
アルマは瞬間、すべてが腑に落ちて、すうっと心が冷えていった。
「今年の生贄は、わたしなのですね?」
「……噂ではそうなってる。エムイ村から出せるような娘は、あんたしかいないって」
ベスは心底アルマを気遣うような顔をした。
自分のことをここまで気にかけてくれる人が存在することに、アルマは驚き、そして神に感謝した。
「でも、わたしがいなくなったら別の女性が生贄になりますよね。わたしなら、いなくなっても誰も悲しみません」
アルマは努めて明るい声色で言った。自分で分かっているのだ。自分以上に、生贄の適任などいないことくらい、理解している。
ベスもアルマの身を案じてくれてはいるが、アルマの代わりに自分の娘を生贄に差し出すことはできないだろう。
「わたしは大丈夫です。母もいませんし、この村にはベスおばさん以外、わたしを心配してくれる人もいません」
アルマは再度重ねるように繰り返す。自分一人が犠牲になれば、解決する話だ。
アルマはベスが分けてくれた大麦の詰まった袋と、どっしりした燕麦パンを抱え直して、懐から黒く変色した銅貨を取り出す。
「竜に喰われて死んじまうなんて、あんまりじゃないか……! 親もいないで、汚れ仕事をやらされて、最期は生贄なんて……」
ベスのアルマを思う気持ちに、心が温かくなる。いなくなった母親を思い出す、そんな懐かしい気分になった。
アルマはベスの手に銅貨を握らせ、もう一度、大丈夫と繰り返す。
「それに、領主様だって、わたしの目の色を見たら逃げていくかもしれないじゃないですか」
ベスはますます顔を歪めてアルマを見た。なにか言いたそうにしているが、言うべき言葉が見つからないのか視線が空虚をさまよう。
やがてベスはそっとアルマの手を握った。アルマの痩せて冷え切った手が、やわらかく、包み込むような温かさで満たされる。
二人は言葉もなく、しばらくそうして手を握り合ったまま黙っていたが、アルマの方からそっとベスの手を離した。途端にぬくもりは消え、冬の気配が近づく寒風がアルマの手に吹きつける。
小窓から一歩、二歩と離れてベスに深々と頭を下げる。アルマはろくに顔も上げられず、背を向けた勢いで墓地まで走り通した。
◇ ◇ ◇
墓地へと続く道がいつもより騒がしい。普段はひっそりと静まり返っている墓地の方角から、子どもの笑い声や人々の喧騒が伝わってきて、アルマは背筋に冷たい汗をかいた。
自分が留守にしている間に、墓地でなにかが起こっている。まだ日の高い昼間に墓荒らしとは考えにくいし、なにより留守を預けていたステラが心配だった。
たっぷりと大麦の詰まった袋の重みが、アルマの歩調を鈍らせる。逃げるようにパン屋をあとにしてから、アルマはずっと走り続けていた。
腕からずり落ちてくる大麦の袋を抱え直し、ひたすらに墓地を目指す。
ようやく入口が見えてきたところで、アルマは地面に横たわる茶色の大きな物体を見た。
「ステラ!」
それがステラだと分かると、アルマは燕麦パンも大麦も放り出して一目散にステラへ駆け寄った。
白い毛で覆われていた腹の部分は、元の毛色が分からないほどに泥と血で汚れている。腹が微かに上下していることから息はあるようだが、何度呼びかけてもステラは固く目をつむったまま、アルマを仰ぎ見ることもしない。
アルマのぼろきれ同然の外套が、ステラの血に染まる。出血箇所を探そうにも、体毛はどこも泥と血に塗れていて、よく分からない。
出血は止まっているようで、地面の血だまりは広がりを見せないが、油断を許さない状況に変わりはないだろう。
「ねぇ、ステラ、返事をして……なにがあったの?」
答えるわけもないのに、アルマは話しかけるのをやめられない。
ふと辺りを見回したとき、アルマは遠巻きに自分とステラを見つめる影がいくつもあることに気づいた。
影は墓地と雑木林の境目辺りに立ち、にやにやとこちらを見つめている。見知った顔はいないが、おそらく皆、村の子どもや男だろう。膝を折ってステラの横に座り込むアルマを、まるで見世物のように見物していた。
「あなたたちが、やったの……?」
震える声で、なんとか絞り出す。ひたひたと近寄ってくる人影が、鼻で笑ったのが聞こえた。
「異端者が犬なんか飼うなよ」
「魔物かと思いきや普通の犬だったよな」
「腹蹴っただけで、ころっと倒れやがった」
げらげらと不快な声で、アルマを見下ろす人々が笑う。そのうちの一人がアルマに手を伸ばしたところで、アルマは怒りに任せて、その手を強く振り払った。
手のひらが熱を持ち、じんじんと痛む。相手もアルマの行動を予想していなかったようで、呆気に取られた顔をしたが、すぐさま鬼のような形相に変わる。
「おい」
首に巻きつけた墓守の印である赤い紐を強く引かれる。
気づけばアルマは数人の男に囲まれ、遠巻きに子どもたちが、好奇心を隠さずに様子を窺っている。
アルマはこらえきれずに顔を下げようとすると、ぐっと紐が引かれ、息が詰まる。
せわしなく浅い呼吸を繰り返しながら、アルマは自分が涙を流していることに気づいた。頬を濡らす涙は冷たい風に吹かれ、たちまち冷えていく。寒さとは別の、恐怖からくる身震いが止まらない。
「ははっ、こうしてるとお前も犬みたいだな」
紐の先を持つ男が、笑ってアルマを無遠慮にじろじろと舐めるように見つめる。
後ろから伸びてきた手が、アルマの外套を無理やり剥ぎ取る。
「やめて……!」
何年も着続けて擦り切れた衣一枚になり、アルマはがたがたと震えた。周囲から伸びてくる手が、アルマの体を乱暴にまさぐる。
「さっさとやっちまおうぜ」
「逃げるって、どこに……」
「どこでも良い。とにかく、アルフォンライン領から出て、領主の手が届かないところに行くんさね」
アルマは瞬間、すべてが腑に落ちて、すうっと心が冷えていった。
「今年の生贄は、わたしなのですね?」
「……噂ではそうなってる。エムイ村から出せるような娘は、あんたしかいないって」
ベスは心底アルマを気遣うような顔をした。
自分のことをここまで気にかけてくれる人が存在することに、アルマは驚き、そして神に感謝した。
「でも、わたしがいなくなったら別の女性が生贄になりますよね。わたしなら、いなくなっても誰も悲しみません」
アルマは努めて明るい声色で言った。自分で分かっているのだ。自分以上に、生贄の適任などいないことくらい、理解している。
ベスもアルマの身を案じてくれてはいるが、アルマの代わりに自分の娘を生贄に差し出すことはできないだろう。
「わたしは大丈夫です。母もいませんし、この村にはベスおばさん以外、わたしを心配してくれる人もいません」
アルマは再度重ねるように繰り返す。自分一人が犠牲になれば、解決する話だ。
アルマはベスが分けてくれた大麦の詰まった袋と、どっしりした燕麦パンを抱え直して、懐から黒く変色した銅貨を取り出す。
「竜に喰われて死んじまうなんて、あんまりじゃないか……! 親もいないで、汚れ仕事をやらされて、最期は生贄なんて……」
ベスのアルマを思う気持ちに、心が温かくなる。いなくなった母親を思い出す、そんな懐かしい気分になった。
アルマはベスの手に銅貨を握らせ、もう一度、大丈夫と繰り返す。
「それに、領主様だって、わたしの目の色を見たら逃げていくかもしれないじゃないですか」
ベスはますます顔を歪めてアルマを見た。なにか言いたそうにしているが、言うべき言葉が見つからないのか視線が空虚をさまよう。
やがてベスはそっとアルマの手を握った。アルマの痩せて冷え切った手が、やわらかく、包み込むような温かさで満たされる。
二人は言葉もなく、しばらくそうして手を握り合ったまま黙っていたが、アルマの方からそっとベスの手を離した。途端にぬくもりは消え、冬の気配が近づく寒風がアルマの手に吹きつける。
小窓から一歩、二歩と離れてベスに深々と頭を下げる。アルマはろくに顔も上げられず、背を向けた勢いで墓地まで走り通した。
◇ ◇ ◇
墓地へと続く道がいつもより騒がしい。普段はひっそりと静まり返っている墓地の方角から、子どもの笑い声や人々の喧騒が伝わってきて、アルマは背筋に冷たい汗をかいた。
自分が留守にしている間に、墓地でなにかが起こっている。まだ日の高い昼間に墓荒らしとは考えにくいし、なにより留守を預けていたステラが心配だった。
たっぷりと大麦の詰まった袋の重みが、アルマの歩調を鈍らせる。逃げるようにパン屋をあとにしてから、アルマはずっと走り続けていた。
腕からずり落ちてくる大麦の袋を抱え直し、ひたすらに墓地を目指す。
ようやく入口が見えてきたところで、アルマは地面に横たわる茶色の大きな物体を見た。
「ステラ!」
それがステラだと分かると、アルマは燕麦パンも大麦も放り出して一目散にステラへ駆け寄った。
白い毛で覆われていた腹の部分は、元の毛色が分からないほどに泥と血で汚れている。腹が微かに上下していることから息はあるようだが、何度呼びかけてもステラは固く目をつむったまま、アルマを仰ぎ見ることもしない。
アルマのぼろきれ同然の外套が、ステラの血に染まる。出血箇所を探そうにも、体毛はどこも泥と血に塗れていて、よく分からない。
出血は止まっているようで、地面の血だまりは広がりを見せないが、油断を許さない状況に変わりはないだろう。
「ねぇ、ステラ、返事をして……なにがあったの?」
答えるわけもないのに、アルマは話しかけるのをやめられない。
ふと辺りを見回したとき、アルマは遠巻きに自分とステラを見つめる影がいくつもあることに気づいた。
影は墓地と雑木林の境目辺りに立ち、にやにやとこちらを見つめている。見知った顔はいないが、おそらく皆、村の子どもや男だろう。膝を折ってステラの横に座り込むアルマを、まるで見世物のように見物していた。
「あなたたちが、やったの……?」
震える声で、なんとか絞り出す。ひたひたと近寄ってくる人影が、鼻で笑ったのが聞こえた。
「異端者が犬なんか飼うなよ」
「魔物かと思いきや普通の犬だったよな」
「腹蹴っただけで、ころっと倒れやがった」
げらげらと不快な声で、アルマを見下ろす人々が笑う。そのうちの一人がアルマに手を伸ばしたところで、アルマは怒りに任せて、その手を強く振り払った。
手のひらが熱を持ち、じんじんと痛む。相手もアルマの行動を予想していなかったようで、呆気に取られた顔をしたが、すぐさま鬼のような形相に変わる。
「おい」
首に巻きつけた墓守の印である赤い紐を強く引かれる。
気づけばアルマは数人の男に囲まれ、遠巻きに子どもたちが、好奇心を隠さずに様子を窺っている。
アルマはこらえきれずに顔を下げようとすると、ぐっと紐が引かれ、息が詰まる。
せわしなく浅い呼吸を繰り返しながら、アルマは自分が涙を流していることに気づいた。頬を濡らす涙は冷たい風に吹かれ、たちまち冷えていく。寒さとは別の、恐怖からくる身震いが止まらない。
「ははっ、こうしてるとお前も犬みたいだな」
紐の先を持つ男が、笑ってアルマを無遠慮にじろじろと舐めるように見つめる。
後ろから伸びてきた手が、アルマの外套を無理やり剥ぎ取る。
「やめて……!」
何年も着続けて擦り切れた衣一枚になり、アルマはがたがたと震えた。周囲から伸びてくる手が、アルマの体を乱暴にまさぐる。
「さっさとやっちまおうぜ」
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